2016年12月25日日曜日

山科本願寺跡(京都府京都市山科区西野阿芸沢町)

山科本願寺跡(やましな ほんがんじあと)

●所在地 京都府京都市山科区西野阿芸沢町
●指定 国指定史跡
●形態 寺院城郭・寺内町
●築城期 文明10年(1478)
●築城者 蓮如上人
●高さ 標高46m(比高0m)
●遺構 土塁、濠
●登城日 2016年8月23日

◆解説(参考文献 「入門 親鸞と浄土真宗」洋泉社発行、「畿内・近国の戦国合戦」福島克彦著、「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」仁木宏・福島克彦編等)

 浄土真宗中興の祖・蓮如が築城した寺院城郭山科本願寺は、京都の西方山科に建てられた。山科は古代から交通の要所として栄えた場所で、西へは洛東といわれた東山へ繋がり、東へは逢坂関をこえて大津宿へ繋がっていた。
【写真左】内寺内に残る土塁
 現在の山科中央公園にある通称「御土居の森」といわれているところで、東西75m、南北600mの規模を持つ。




現地説明板より

“山科本願寺・寺内町

 山科本願寺は、文明10年(1478)に浄土真宗中興の祖である蓮如上人により造営が開始された寺内町です。寺域は南北約1km、東西約0.8kmにおよび、周囲には防御施設として土塁や濠が巡っており、寺域内は主要な堂舎がある「御本寺(ごほんじ)」、家臣や僧侶が生活する「内寺内」、寺に関わる職人・商人などが生活する「外寺内」の3つの郭で構成されていました。

 「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国のごとし」と言われるほど、繁栄していたことが想像できます。しかし天文元年(1532)に細川晴元が率いる法華宗徒と延暦寺、近江守護六角氏の連合軍により、焼き討ちにあいます。
【写真左】山科本願寺推定復元図
 現地に設置されているもので、斜めから撮ったため見ずらいが、上から外寺内、内寺内、御本寺のエリアが図示されている。
 このうち、残存土塁は冒頭のものとは別に、中小6ヶ所残っている。

 当時の土塁として推定されているのが、黄土色の区画線に当たり、中央の御本寺を囲み、さらにその外側の内寺内も同じく土塁で囲んでいるが、外寺内の囲みは土塁は設置されていないようだ。ただ東西を流れる川を利用して部分的に濠が巡らされている。





 この地は山科本願寺の北東部に位置します。昭和48年に団地の建設に伴い、山科本願寺における最初の本格的な調査が行われた場所です。

 「御本寺」と「内寺内」を限る南北方向の土塁と平行する濠や「御本寺」と「内寺内」をつなぐ道路や、石垣、鍛冶場、石組みの井戸が見つかりました。またこれら上面に堆積していた焼土や灰は、山科本願寺が焼き討ちにあったことを裏付ける証拠となりました。

 これまでの調査成果で、土塁の造成の様子や中枢部である「御本寺」西側に庭園や石風呂などの施設のほか、全国的にも珍しい工芸品なども出土し、その重要性がより一層明らかになってきました。
【写真左】山科本願寺復元イメージ図
 中央の青い屋根などが示されている箇所が御本寺で、この境内には御影堂をはじめ、阿弥陀堂、宗主居館等が設置されていた。



 また寺域を巡る土塁は一部現存しており、その姿を今も目にすることができます。

 中でも現在地のすぐ北にある山科中央公園に残る土塁は、「内寺内」の北東角にあたり、東西75m、南北60mにわたって残っており、当時の状況をよく留めています。

 平成14年には蓮如の隠居所としてつくられた南殿とともに、国史跡に指定されています。
  平成26年3月 京都市”
【写真左】安祥寺川
 探訪したこの日は北側の四丁野町(しちょうのちょう)側にある駐車場に停め、そこから安祥寺川に沿いの道を南に歩いて向かった。

 安祥寺川は北側の外寺内と内寺内の境を流れ、南北に続いていた土塁と並行に流れていたと思われるが、現在のように内寺内区域内を縦走せず、外寺内側を流れていのかもしれない。

 中央奥に見える森のような箇所が下段で紹介する大型の土塁跡で、写真の左側には東本願寺山科別院が建っている。



浄土真宗中興祖・蓮如

 寛正6年(1465)、同宗開祖親鸞の本来の教えに戻るべく大胆な改革を行った蓮如は、比叡山衆徒や高田専修寺から激しく非難され、大谷本願寺を破却された。それから近江を転々とし、越前に辿りつき、吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)を建てた。

 その後、蓮如が吉崎御坊をあとにしたのは、文明7年(1475)の8月21日といわれている。越前を去った後、再び教線拡大に努めるべく摂津、河内、和泉と足を延ばした。丁度世はあの大義なき争乱、応仁・文明の乱が終わる頃である。10年余りの長い間戦禍にまみれ、その結果洛中洛外は勿論のこと、畿内の至るところに飢餓や疫病による死骸が横たわり、さらには窃盗、略奪、放火、ならず者の横行が頻発した。長らく続いてきた公家・寺社の荘園支配は、この乱後ほとんどが崩壊し、多くの公家も京都を離れた。
【写真左】外寺内側から見た土塁
 上掲の道を南に進んで行くと、途中で右手に安祥寺中学校があり、さらに進むとご覧の公園が現れる。正面奥のこんもりとした森のようなものが山科本願寺跡の中で最大の規模のもの土塁である。
 この土塁を超えると内寺内に入る。


 疲弊しきった人々が求めたものは、飢えからの解放と、平穏な日常の渇望である。民衆は、その方途として精神のよりどころを信仰に求めた。蓮如の行くところはどこでも多くの参詣者が集まった。まさに時代が求めていたということだろう。
【写真左】山科中央公園内案内図
 現地の案内図に管理人よって土塁の位置を加筆したもの。
 土塁の南西側には多目的広場として運動場があるが、野球場でいえば、センター側の外野スタンドのような配置になっている。



本願寺再建

 大谷本願寺が破却されてから18年後の文明10年(1478)、蓮如は山科に本願寺を再建すべく造営を開始した。
 再建する際に、いわば仮住まいとしたのが「柴ノ庵」である。その後、「馬屋」、翌年には寺務所の「綱所(向所)(こうしょ)」を、4月には堺にあった古坊を移築し「寝殿」が建てられた。この区域が「御本寺」といわれる箇所で、造営開始から3年後の文明13年春には竣工している。

 その後、内寺内、外寺内などが順次建てられた。このうち、内寺内は蓮如の第23子・実悟が残した記録『山科御坊事並其時代事』によれば、永正初年頃(1504~)に内寺内(第2郭)を、同10年頃に外寺内(第3郭)を建てたとされる。
【写真左】土塁に登る。
 北側の遊園地側に設置された階段を使って土塁天端に登る。
 遊園地側から目測で見ると、凡そ7,8mの高さはあると思われる。



 ところで、永正元年(1504)閏3月15日、将軍足利義澄(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)が本願寺を訪れ(『後法興院記』)、同3年7月14~16日にかけては、管領細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)が当寺を訪れている(『後法成寺関白記』『宣胤卿記』)。

 この二人(義澄と政元)の間には微妙な関係があり、対立しながらも幕府を支えた。しかし、政元は山科本願寺を訪れた翌々年(永正5年)、暗殺されてしまう。
【写真左】土塁天端
 中央部にはご覧の様な歩道が設置され、西端から南端まで歩けるようになっている。
 場所によっては郭ほどの幅を持つ箇所もある。



 また、再興された山科本願寺が再び隆盛を誇りだした永正3年、加賀・能登・越中の一向一揆宗徒は、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)によって撃退され、蓮如が創建した吉崎御坊は破壊された。

 山科本願寺再建を終えた蓮如は、延徳元年(1489)法灯を五男・実如に譲った。形式上は隠居だが、蓮如の教化に対する熱意は衰えることなく、その後明応6年(1497)には大阪に入って御坊を建立した。これがのちの石山本願寺となる。その2年後、波瀾万丈の85年の生涯を山科本願寺にて終え遷化した。
【写真左】石碑
 L字状となった土塁で、南に降りた箇所には「山科本願寺土塁跡」と刻銘された石碑が建つ。





 
寺院城郭

 山科本願寺に残る御本寺付近の土塁などは蓮如の生存中に設置されたものだが、内寺内・外寺内を含めたいわゆる惣構えの形態を完成させたのは、実如や証如の時代とされる。特に、明応8年(1499)から落城する天文元年(1532)の30年余の間に、本格的な寺院城郭が整えられたといわれている。
【写真左】西端部
 右側はグランドになっており、この位置が西端部になる。
 このあと左側に向かう。
【写真左】濠跡か
 案内図では「自由広場」といわれているところで、手前のグランド面より2~3mほど低くなっている。
 写真の右側が土塁になるが、低くなった分だけ土塁天端との比高はさらに高くなりおよそ10m程度になる。
【写真左】南側から土塁を遠望する。
 土塁の南側にはかなりおおきなグランドがある。この付近が内寺内の北側に当たる。
 このあと、東に進んで蓮如上人御廟所に向かう。
【写真左】安祥寺川を挟んで土塁と蓮如上人御廟所
 グランドの南側にある道を東に進むと、安祥寺川に掛かる橋がある。おそらく左側の土塁は安祥寺川に沿って南まで延びていたものと思われる。
 この橋を右に進むと、右に見える蓮如上人の御廟所が祀られている。
【写真左】蓮如上人御廟所・その1
 唐門風の門があり、この扉を開けて中に入る。
【写真左】蓮如上人御廟所・その2
 五輪塔もしくは宝篋印塔型式の墓石があると思ったが、柵の中は盛土した塚のようなものとなっている。
【写真左】蓮如上人像
 安祥寺川を挟んで東側にある東本願寺山科別院境内に建立されている。
【写真左】南殿の石碑
 上記まで紹介した箇所とは別に、蓮如上人御廟所から東へ凡そ600mほど行った音羽伊勢宿町には、「南殿跡」がある。この日は時間もなかったため、こちらには探訪していない。

2016年12月21日水曜日

船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)

船岡山城(ふなおかやまじょう)

●所在地 京都府京都市北区紫野北舟岡町
●指定 国指定史跡
●高さ 112m
●形態 丘城
●築城期 応仁元年(1467)
●築城者 山名宗全
●遺構 空堀
●備考 船岡山公園
●登城日 2015年4月18日

◆解説
 船岡山城は、京都市北区紫野にある独立小丘で、南東から北西に凡そ450mの長軸をとり、北西側の最大幅は220m余りの規模を持つ。因みに、船岡山城の北西端の延長線上1.3キロの位置には京都五山送り火の一つ、左大文字(衣笠大北山)が控える。
【写真左】「史跡 船岡山」の石碑
 現在の船岡山は、南東部が後段で紹介する建勲神社の敷地で、北西部が船岡山公園の領域となっている。
 写真は、建勲神社の南麓部に設置された石碑。



現地説明板・その1

“史跡 船岡山(昭和43年2月15日 文部省指定)

 舟岡山は標高112m、面積25,000坪の優美な小山である。今より千二百年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿だいごくでん、朱雀大路すじゃくおおじとなった。これは、陰陽五行いんようごぎょう思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る玄武の小山であるとされたためである。
 平安期の昔には、清少納言が枕草子で「丘は船岡……」と讃え、又、清原元輔・藤原俊成等、多くの和歌が残されている。船岡山は平安京の人々が若菜摘み、わらび採りに興じるまさに、清遊の地であった。
【写真左】建勲神社参道付近
 なお、柵が設けられている中のエリアは神域のため、禁足地となっている。







 戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、西陣の名で呼ばれている。この戦国の世を統一して、太平の世を開いた織田信長が、本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得て、主君信長公の御魂(みたま)を、この船岡山に祀ろうとした。

 以来船岡山は、信長公の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建された。文部省は、日本の歴史の重要な舞台に、しばしば登場した船岡山の全体を指定基準に基づいて、「国の史跡」に指定し、地形や現状の変更をしない様、保護を計っている。
 又、京都府は平成7年3月27日、新たに制定した「京都の自然二百選」歴史環境部門第1号に選定した。なお、京都市は、昭和6年7月14日付にて、制定直後の「風致地区」に船岡山を指定した。
           建勲神社”
【写真左】宝篋印塔
 参道の階段脇に建立されているもので、おそらく応仁・文明の乱か、または永正の船岡山合戦の際討死した名のある武将のものだろう。




現地説明板・その2

“船岡山は標高112mの優美な小山です。平安京の造営時、玄武の山とされ、都の中心となる朱雀大路はこの舟岡山の真南に造られました。

 1467年からの応仁の乱においては、西軍の陣地が置かれ、戦いが行われた古戦場であることから、昭和43年に国の史跡に指定されました。また、この付近が「西陣」の名で呼ばれることの由来ともなっています。
 この周辺の岩が露出する一帯は、公園東側の林中の横堀跡や削平面(展望広場部分)と共に、古戦場の雰囲気を色濃く伝える景観を形成しています。

 園路を通行するにあたっては、張り出した岩肌に注意して頂きますよう、お願いいたします。
     北部みどり管理事務所”
【写真左】建勲神社境内
 桜の木などが多くみられたので、春には多くの人が訪れるのだろう。








応仁・文明

 船岡山が絡む大きな戦いで最初に起ったのが、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べたように、応仁・文明の乱である。応仁元年(1467)1月7日、将軍足利義政から管領職を罷免された畠山政長は自邸に火をかけ、京都の上御霊神社に陣を構えた。
 同月18日、畠山義就(よしひろ)、政長を上御霊神社に攻めこれを破った。このクーデータをきっかけに応仁の乱が始まることになる。
【写真左】船岡山公園
 建勲神社から南側にある小道を北西方向に進むと、公園が設置されている。おそらく、この辺りも郭としての遺構があったものだろう。




 同年5月26日、細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が激突。洛中における戦火はあっという間に全国に飛散した。

 管理人の地元山陰では、出雲・隠岐守護職であった京極持清は東軍方細川勝元へ、石見守護職であった山名政清は西軍山名宗全へ味方することとなった。翌応仁2年、足利義視は西軍へ投じ、義政は東軍へと分かれ、幕府内も両派に分かれた。

 この乱で西軍方として山名宗全が陣を張ったのが、船岡山である。これに対し、勝元は自邸近くの花の御所を陣として構え、将軍義政、義視、義尚を押さえた。

 因みに同乱が始まった応仁元年の対立構図は次のようになる。

《東軍》 
 足利義政、義視、義尚(幕府)
 細川勝元、畠山政長、斯波義敏

《西軍》
 山名持豊(宗全)、畠山義就、斯波義廉
 大内政弘

 ところが、翌年になると義視は西軍に走った。この後混迷の極みに達し、大義なき戦いとなっていく。その後、文明5年(1473)に東西それぞれのリーダーであった持豊と勝元が亡くなり、あとを受けた山名政豊と細川政元が講和し、文明9年(1477)漸く終結した。
【写真左】船岡山の三等三角点
 船岡山の最高所で、正確には標高111.89m、北緯35度2分8秒756、東経135度44分40秒417の地点となる。

 応仁・文明の乱の際、山名氏の本丸として使われた箇所と思われる。

 


永正船岡山合戦

 永正8年(1511)8月23~24日、細川高国・大内義興ら、室町幕府将軍足利義稙を擁立する軍と、前将軍足利義澄を擁立する細川澄元・政賢(まさかた)の軍が船岡山で激突、高国・義興らが勝利し、澄元は摂津に逃れた。これを永正の船岡山合戦という。

 益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも紹介しているが、この戦いで、出雲・石見から大内義興を援護すべく参陣した主な面々は次の通りである。
  • 出雲国 尼子経久、尼子国久他
  • 石見国 益田宗兼、尹兼父子・高橋治部少輔・周布興兼・久利清兵衛・小笠原長隆他
【写真左】岩塊が露出する箇所・その1
 上掲の三角点から少し南に降りていくと、ご覧のような岩塊が顔をのぞかせる。
 この辺りも郭としての利用があったものと思われる。
【写真左】岩塊が露出する箇所・その2
 先ほどの箇所から南側に降りたところで、どの程度までが当時の遺構なのか分からないが、この付近の傾斜は予想以上に角度があるので、切崖の機能も有していたのだろう。
 このあと、北西端に向かう。
【写真左】横堀・その1
 当城の中でもっとも遺構として良好に残っているもので、本丸から少し下がった北西側にある。
【写真左】横堀・その2
 奥に見える歩道とさほど比高差はないが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】横堀・その3
【写真左】横堀・その4
 北西側の斜面はなだらかになって、外周部は歩道や公園などが設置されたため、当時の遺構状況は不明だが、これらの横堀などは単条ではなく、防御性から考えて、外周部に同心円状に何条もの横堀が巡らされていたように思われる。
【写真左】船岡山から比叡山を遠望する。
 船岡山から東方に比叡山の山々が見える。
【写真左】大徳寺を遠望する。
 船岡山の北側を通る北大路通を挟んで、北東には大徳寺が見える。当寺も応仁・文明の乱において、一時焼土と化し荒廃したが、一休和尚が復興、桃山時代には秀吉が信長の菩提を弔うため総見院を建立するなど、再興に尽くした。



◎関連投稿

2016年12月18日日曜日

勝龍寺城(京都府長岡京市勝竜寺)

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)

●所在地 京都府長岡京市勝竜寺
●別名 青龍寺城、小龍寺城
●形態 平城
●築城期 延元4年・暦応2年(1339)
●築城者 細川頼春か
●城主 今村慶満、石成友通、細川藤孝等
●遺構 土塁、濠等
●登城日 2015年4月18日

◆解説(参考文献「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」編者 二木宏・福島克彦、等)
 勝龍寺城は京都府長岡京市の南東部に築かれた平城で、桂川の支流小畑川の西岸に築かれた。
【写真左】勝龍寺城
 南側の濠附近。4月に訪れたこともあって、色鮮やかなツツジが咲いていた。







現地説明板

“勝龍寺城跡
    所在地 勝竜寺・東神足二丁目地内
    時代  南北朝時代~安土桃山時代

 勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応2年(1339)に築いたといわれる。

 城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
 応仁・文明の乱(1467~77)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。

 戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が、元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
【写真左】北側の濠
 南側に比べてこちらの濠の幅が少し大きい。
 なお、この写真の北(左)側には、松井屋敷及び米山屋敷があり、手前の西側には沼田屋敷があったとされる。



 ところで、この城は明智光秀の娘玉(たま)(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。

 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社(こうたりじんじゃ)付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。

 この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど、数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。
   平成4年3月    長岡京市”
【写真左】南側の入口付近
 左側には「明智光秀公三女玉お輿入れの城」と刻まれた石碑が建つ。







築城期・築城者

 上掲した説明板では、下線で引いたように、細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)が暦応2年(1339)に築城したとあるが、近年の研究ではこの説は覆されつつある。
 さらに、これとは別に『細川家文書』に基づき、明応6年(1479)に和泉守護家の細川元有が築いていたと考えられていたが、結論からいってこれも創作であるとしている。
【写真左】北門跡・その1
 北側から見たもの。左右に土塁が囲む。









 現地説明板より

“北門跡
 本丸の北西隅から北の出入口が見つかった。この出入口を囲む土塁は高さ2m以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。
 城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当りを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。
 この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。
    平成4年3月 長岡京市”


 では、誰が築いたかということになるが、「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(二木宏・福島克彦編)によれば、本格的な城郭として成立したのは、天文15年(1546)細川国慶の家臣であった今村慶満が居城としていたころではないかとしている。また、永禄8年(1565)6月17日に起った永禄の変に絡み、耶蘇会宣教師ガスパル・ビレラとルイス・フロイスが京都から追放されるが、このとき今村慶満はこの二人を居城であった勝龍寺城に留まるよう勧めたりしている。
【写真左】北門跡・その2
 東側から見たもので、奥が第一の門跡で、L字に曲がったあと、説明板があった辺りに第二の門があったと思われる。




細川藤孝(幽斎)

 細川藤孝というより、細川幽斎という名の方がよく知られた人物である。丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)でも少し紹介しているが、はじめ室町幕府第13代将軍足利義輝の近臣として仕えたが、上述した永禄の変により義輝が自害すると、その後義輝の弟で第15代将軍となった義昭に仕えることになる。

 その後、明智光秀らと共に織田信長の支援を受けて、義昭は入京することになるが、そのころ三好三人衆らが反信長方として蟠踞して居たため、京都の西南部を押さえるため、藤孝はこの勝龍寺城に入り、信長よりこの城の強化を命じられ本格的な普請に努めたという。現在残る主だった遺構はこのときのものといわれている。
【写真左】墓石・地蔵群
 北門の東側にまとめられていたもので、五輪塔や宝篋印塔及び、地蔵などが陳列してある。おそらく発掘調査の時出土してきたものだろう。
【写真左】多聞櫓と階段
 両隅に狭い幅の階段が設置されている。










現地説明板より

“多聞櫓への階段
 本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ4mの土塁が見つかった。この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が7段造られている。
 土塁の上は一辺が10m四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。この建物は東辺の土塁上にのびる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。”
【写真左】東辺土塁と多聞櫓













 現地説明板

“東辺土塁と多聞櫓
 本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、二列の石垣が見つかった。この幅4mの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。
 このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。
 また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。”
【写真左】多聞櫓から中央部を見る。
 南側には模擬天守風の管理棟が建っている。
【写真左】細川忠興とガラシャ夫人の像
 二人が結ばれたのは、永禄6年(1563)で信長の勧めとされる。
【写真左】井戸跡
 直径90cm、深さ2m、で発掘調査中でも水が涌いていたという。なお井戸に積み上げた石には石仏や五輪塔などが含まれていたという。
【写真左】沼田丸跡
 本丸の西にある郭












現地説明板

“沼田丸跡
 本丸の南西に接する沼田丸は、東西50m、南北65mの長方形で、周囲に土塁が築かれていた。さらに堀が外側をとりまいていた。
 堀は、昭和30年代まで水を湛えていた西南部のものに加えて、発掘調査によって北辺と東辺にも堀があることが明らかにされた。新たに確認された堀は、いずれも幅約5mのもので、石垣のない素堀りのものだった。北辺の堀内からは大きな石が2か所でまとまって発見された。これらはこの堀の北側にあったと想定される沼田屋敷などに通じる橋などの施設に使われていたと思われる。

 本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた幅約5mの南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。これは本丸を守るための施設であろう。
 また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。ところで、「沼田丸」の名は、細川藤孝の妻麝香(じゃこう)の旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えた屋敷があったところといわれる。
   平成4年3月”

2016年12月14日水曜日

宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)

宵田城(よいだじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市日高町岩中字城山
●高さ H:155m(比高:130m)
●築城期 永享2年(1430)
●築城者 垣屋隆国
●城主 垣屋国重等
●遺構 郭、土塁、竪堀等
●登城日 2015年3月28日

◆解説(参考資料 「出雲古志氏の歴史とその性格  古志の歴史Ⅱ」長谷川博史執筆、古志史探会編 1999年発行、「西国の戦国合戦」山本浩樹著等)

 宵田城は此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)から西におよそ12キロほど向かった日高町岩中にあって、円山川に合流する手前の稲葉川が北東麓を流れる。
【写真左】宵田城遠望
 東側から見たもので、ほぼ本丸直下を国道312号線がトンネルで南北に走る。








垣屋氏

 宵田城の城主及び、築城者は垣屋氏といわれている。同氏についてはこれまで、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)などで触れているが、宵田城が築かれたのは永享2年(1430)とされる。

 築城したのは、宵田城の北麓を流れる稲葉川を凡そ3キロほど西方へ逆ぼったところに築かれた楽々前城(ささのくまじょう)の城主であった垣屋隆国である。楽々前城は未登城であるが、元々垣屋氏が山名氏に従って最初に下向したのが、そこからさらに北西に上った現在の神鍋高原付近といわれている。
 その後次第に稲葉川を下って、鶴ヶ峰城(同市日高町観音寺)を築き、さらに楽々前城から、日高町中心部へと扶植を拡大していった。
【写真左】縄張図
 現地に設置されたもので、大分周辺部は劣化が激しいが、中心部の遺構は確認できる。
 最高所(155m)に本丸を置き、その東側に二の丸、一段下がった北に三の丸を配置している。

 北側から東側にかけて稲葉川が当城を囲むように流れているが、特に東側の川筋は人為的に濠として新たに造られたように思われる。

 というのも、宵田城の東隣には本流となる円山川が走り、北方(上)の日本海に流れているので、本来なら北麓を流れている稲葉川はそのまま東に進んで円山川に合流していたはずであるが、わざわざ宵田城の東麓を流れ、南側で大きく蛇行させて円山川と合流しているからである。


 隆国が築いた宵田城には、彼の次男国重を城主とさせたといわれているが、口伝の域を出ないようだ。国重の子・遠忠は、文明18年(1486)播磨国、英賀において、赤松政則(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)と戦い討死した。これは、嘉吉の乱によって、垣屋氏の主君であった山名氏が一時、播磨を支配することになるが、その後赤松氏を再興すべく政則が、播磨を奪還する戦いで行われたものと思われる。
【写真左】登城口付近
 登城口は南麓側にあって、稲葉川を渡ると、麓に山王大権現という社が祀られている。







古志重信垣屋豊続

 ところで、戦国期出雲の尼子氏に属し、同国神門郡古志郷を領した一族、古志(こし)氏がいた(栗栖城(島根県出雲市上島町)参照)。
 古志氏も尼子氏と同じく近江佐々木源氏の流れだが、泰清の次男・義信が祖とされるから、出雲尼子氏の祖といわれる持久よりかなり早い段階で出雲に下向している。

 天正年間、但馬国における毛利、織田の争奪戦の中で、キーパーソンとなったのが古志重信である。重信は同氏嫡流ではないが、永禄5年(1562)に毛利氏によって当地・古志郷を奪われた後、京に上り、永禄12年(1569)1月5日に起った「本圀寺の変」には、室町幕府将軍足利義昭の配下となって、明智光秀・荒木村重などと共に三好三人衆と戦っている。
【写真左】旧道
 最近周辺部の樹木が伐採されたせいか、この東側斜面は見通しがいい。また、そのとき作業のために林道のような幅の広い道が設けられていたので、この日は「旧道」と表示された道を使わず、大回りだが険しくないコースを選んだ。


 ところで、永禄9年(1566)、出雲月山富田城が落城すると、山中鹿助はその後畿内を中心に潜伏するが、しばらくしてから、京で鹿助らは重信と再会した。そして重信は一旦義昭の元を離れ、同年(永禄12年)6月の尼子勝久を擁した出雲国における尼子再興軍の蜂起の段階から行動を共にすることになる。そして重信は元の所領地の一つであった戸倉城(出雲市稗原町)を奪還した。

 しかし、翌元亀元年(1570)になると、再興軍は毛利氏の前に劣勢を強いられ、主だった部隊は当地を離れた。この年(元亀元年)の11月、在国していた古志重信はそれまで拠っていた戸倉城を明け渡し、吉川元春と起請文を交わし、毛利氏へ帰順することになる。
【写真左】竪堀
 しばらく登っていくと、道路脇に「竪堀」の標柱が立っている。ただ、竪堀がいつしか小谷状態となって大分崩落したようで、遺構としての状態は良くない。


 この後、重信は毛利氏の配下となって、備中・伯耆・但馬などへ出陣、特に但馬国においては、天正8年前半まで長期滞陣し、調略活動をしながら、度々吉川元春に対し、戦況報告を行っている。このとき、地元但馬国において、重信と行動を共にしていたのが、垣屋豊続である。

 垣屋豊続の出自については不明な点も多いが、父は宗時の子とされ、永禄年間には轟城(豊岡市竹野町轟字城山)の城主であった。但馬においては、もともと山名氏の重鎮であった垣屋氏などがいたが、同氏一族をはじめ、山名氏の衰頽によって、中小の国人領主たちは毛利氏と、織田氏の間で揺れ動き、不安定な状況を生み出していた。
【写真左】二の丸直下の位置。
 ご覧のように四輪軽トラック程度なら通れる道を進んで行くと、ここが行き止まり。

 ここから左の手すりがついている階段を登ると二の丸及び三の丸に繋がる。


 天正6年(1578)6月2日付で、吉川元春はこの古志重信に以下の書状を送っている(「出雲古志氏の歴史とその性格  古志の歴史Ⅱ」長谷川博史執筆、古志史探会編 1999年発行)。
 
※訓読 (抜粋)      

“一、出石の御事、今に敵とも味方とも相澄まず、む◇と候哉、さるころ、宵田表豊続相戦われ候時も、出石より少人数なりとも差し出され候はば、いよいよ勝利たるべく候処に、その儀なきの由に候、世上を見合わさる趣に候哉、何もその表の様体時々見聞き及ばれ候て、示しに預かるべきこと本望たるべく候、それにつき、豊続より案書申し請われ、かの三人へ相届けらるの由に候、その手札候はば差し越されるべく候、

一、その表敵境に一城取り出され、当所務等申し付くべきの由承り候、何篇豊続と内談申され候て、様体しかるべき儀に候はば、その御歎息専一に候〱、何共こなたよりはその表の儀方角無案内に候間、見はからい申す儀もならず候、当城普請悉く相調えられ、警固の者上着候はば、在番仰せ付られ、御方・宇山両人の御事、このたび相付れられ候する城にお越しあるべきの由、これまた余儀なく候、何と成とも然るべき様御気遣い肝要に候〱、…(以下略)”
※下線(管理人による)
【写真左】二の丸・その1
 登りきると二の丸の南側に至る。左には本丸の表示。








 吉川元春が古志重信に送った書状の天正6年の6月2日前後といえば、山中鹿助・尼子勝久ら尼子再興軍が播磨上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)に籠城し、毛利軍が包囲したころである。そして、その1ヶ月後の7月5日、上月城は落城、勝久が自害することになる。元春の書状はまさにこの上月城包囲中に陣地から認められたものである。

 上掲した書状のうち、上段のものは、
 ―――宵田城で垣屋豊続が戦った際、垣屋氏の元主君であった山名祐豊(「出石の事」・有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)参照)が、全く動かず、少しでも援兵を送ってくれたなら、この戦い(宵田表の戦い)で勝利しただろう。―――

 と元春が記している。因みに、祐豊はこの戦いの前の永禄12年(1569)、山中鹿助らの出雲国入国に積極的に支援しているので、元春もある程度は予想していたことだったと思われる。
【写真左】二の丸・その2
 本丸の東側に設置された郭だが、先端部で北に伸びたL字状のもの。その下段には三の丸が控える。
 郭の大きさとしては、後述する本丸より広い印象が残っている。


 下段のものは、
 ―――宵田城との境に向城(「一城」)をつけたいとの考え、承知した。その都度垣屋豊続と相談し、最良の方法を取ってもらいたい。こちらは但馬の様子については無案内なので、見計ることもできない。件の城普請が竣工し守備兵が到着したなら、重信殿と宇山殿が入城すること、これも異存はない。―――

 というような内容である。なお、重信と一緒に行動していた人物として宇山氏の名が見えるが、彼もまた旧尼子氏の家臣で、山本浩樹著「西国の戦国合戦」では、宇山久信とある。宇山城(島根県雲南市木次町寺領宇山)でも紹介したように、尼子氏の中でも筆頭家老であったが、義久の代になると、鹿助ら若手組と意見が合わなくなり、讒言によって自害したともいわれているが、伝承の域を出ないので、本人(飛騨守久信・おそらくこのころ70代)とも思われる。
【写真左】二の丸から進美寺山城を遠望する。
 東南方向には稲葉川が合流する円山川が流れ、その奥の東岸には進美寺山城が見える。
 南北朝時代には、但馬の南朝方の拠点となった天台宗の古刹・進美寺(しんめいじ)が建立されている。
 また、当城付近には、白山城・掻上城の二城が隣接している。


荒木村重の謀反

 吉川元春が重信に送ったこの書状には、このほか6項目にもわたる細かい内容が書きつづられているが、元々この書状は、重信に対する返信の形をとっており、当時上月城攻めで動きが取れなかった吉川元春に対し、逐次重信は但馬をはじめ、丹波、丹後の情勢を詳しく報告している。

 更に注目されるのは、播磨三木合戦(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)で秀吉軍に加わっていた有岡城主・荒木村重が、天正6年(1578)、10月突如反旗を翻すことになるが、その4カ月前に、件の書状で元春から重信に対して、調略せしめるよう伝えていることである。
【写真左】二の丸から本丸を見る。
 二の丸先端部から振り返ると、本丸が見える。
 二の丸から本丸までの比高差は10m前後あるだろう。本丸は後ほど踏査することにして、、下に降りて三の丸に向かう。
【写真左】三の丸
 二の丸の先端部が北に曲り、その尾根筋状に設置されたもので、長径40m×短径15m前後の規模を持つ。
【写真左】三の丸から振り返って二の丸を見る。
【写真左】三の丸の下の段
 三の丸からさらに下にも郭段が続くが、これは最初の段で、縄張図にもあるように、この下にも段を設け、そこからさらに北東方向に伸びる尾根に沿って下がると、東麓を流れる稲葉川沿い(標高70m辺り)にも4,5段の小郭群が構築されている。おそらくこの郭群は船溜まりとして設けられたものだろう。
 このあと、西側に回り込む。
【写真左】三の丸から西側を見る。
 左側斜面の上が本丸に当たるが、この付近には6条の竪堀や、4,5段の小郭が連続し、中段部には虎口などの遺構が記されている。
 ただ、現状は最近伐採されたらしい立木などが整理されないまま放置されているため、全ての遺構の確認は困難。
【写真左】竪堀
 大分崩れている。このあと、伐採された木々を跨ぎながら、西に向かう。
【写真左】鉄塔のある郭
 中腹部を周回しているつもりだったが、段々と下がっていき、この場所に出た。
【写真左】北西麓を俯瞰する。
 この写真の左側(西)をさらに遡ると、垣屋氏が初期に領地していた鶴ヶ峰城に至り、そこから北西にR432号線を進むと、神鍋高原に繋がる。
【写真左】鉄塔のある郭段から南に本丸を見上げる。
 ここから上を見ると、もう一つの鉄塔が建っている箇所が本丸である。
 先ほどの三の丸下から回り込んできたが、大分下がった位置にきていたようだ。
【写真左】虎口
 保存状態は良好だ。
【写真左】竪堀
 伐採された木が放置されているが、規模としては大きい方だ。
【写真左】帯郭
 本丸直下で北側から巻き込み、二の丸へ連絡している。
【写真左】本丸に向かう階段
 いよいよここから本丸に向かう。
【写真左】石垣
 雑草やコケなどに覆われて視ずらいが、この箇所にはまとまった石積跡が残る。
【写真左】本丸・その1
 東西を長軸として凡そ30m前後の長さを持つ。
 西側の一角は少し下がっている。
【写真左】本丸・その2
 本丸の一角には土塁が残る。
【写真左】本丸・その3
 虎口。
 さきほどの二の丸から登ってきた道に繋がるもので、左右には土塁が配置されている。
【写真左】本丸・その4
 中心部附近で、北東方向を見たもの。
【写真左】本丸から水生城及び、三開山城を遠望する。
 中央には円山川が流れ、手前には日高の町並みが広がる。奥に連なる山々を超えると、丹後国(京都府京丹後市)に入る。

 左側には水生城(みずのおじょう)別名水生古城があり、織田方城督が守備していた宵田城を垣屋豊続・古志重信らが攻めようとしたら、織田勢が出撃し、最終的には水生城で合戦となった。当城については未登城だが、機会があれば登城したい。

 円山川を挟んで対岸には前稿の三開山城が対峙している。なお、三開山城より右側には此隅山城があるが、この写真では入っていないようだ。