2013年3月1日金曜日

置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1

置塩城(おきしおじょう)その1

●所在地 兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田
●別名 藤丸城・小塩城
●築城期 文明元年(1469)
●築城者 赤松政則
●城主 赤松氏
●形態 連郭式山城
●高さ 標高370m
●遺構 郭(本丸・二の丸・三の丸・その他多数の郭群)・石垣・茶室・台所等
●指定 国指定史跡
●備考 支城(小屋谷城・鞍掛山城・番城山城)
●登城日 2012年12月16日

◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』等)
 置塩城についてはこれまで多くのサイトでも紹介されているように、西日本でも有数の巨大山城で、白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)及び、感状山城(兵庫県相生市矢野町)と併せ赤松氏の城跡として1996年に国の史跡に指定されている。
【写真左】置塩城遠望
 北西部から見たもので、西麓を南北に流れるのは夢前川で、南下し播磨灘に注ぐ。







 現地の説明板より

“赤松氏城跡 置塩城跡

 国指定史跡。室町時代に播磨守守護職であった赤松氏の居城。標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の山城跡である。
 遺構は東側の城内最高所にあたる伝本丸跡と、そこから鞍部を隔てた西側の伝二の丸跡を中心に広がり、曲輪・通路・石垣・土塁などが残っている。
【写真左】置塩城略図
 登城口は南側に設置されている(下の写真参照)。
詳細なものは下段に改めて示す。


 平成13~17年度に夢前町教育委員会が発掘調査を行った結果、伝二の丸跡で庭園とそれに面する大型の礎石建物、伝二の丸跡の北側で、曲輪群を貫く通路の遺構等が確認された。
 これらは格式を意識して構築されたものであるが、この意識は置塩城跡のプランを特徴づけるものとなっている。

 また、伝本丸跡には最終段階で天守的な性格をもつと考えられる塼裂建物を構築しており、城郭使用の末期段階において、伝本丸跡を中心とした曲輪は、この城全体の「詰城」的な機能を持っていたと考えられる。

 なお、発掘調査を通して出土した生活遺物は、土師器皿、中国製磁器碗・皿・備前焼甕・擂鉢、瓦質土器鉢など1万点に及ぶ。

 一般的に置塩城は、文明元年(1469)に赤松政則が築城したと伝わるが、この城が居城化し大規模に改修されるのは、16世紀中葉遺構で、赤松政村(晴政)・義祐・則房が城主であった時期に相当する。
 天正8年(1580)羽柴秀吉による城破令が出され廃城となった。
     平成20年8月
     姫路市教育委員会”
【写真左】登城口
 手前の道路脇には車3台程度の駐車スペースがあり、この他にも北側の神社脇に広い空地が設けられている。





赤松氏

 築城者は赤松政則といわれている。赤松氏は南北朝期、播磨に基盤をつくった則村(円心)をはじめとし、以後室町期将軍・足利義持の代に、有力守護として四職の一人(他は、山名・京極・一色の各氏)となり、幕政を運営していた。
 そして自らは播磨・備前・美作を支配していたが、嘉吉の変(1441)によって惣領家は没落。ほとんどの所領を山名氏に奪われるが、その後政則の代になると、彼は一族を再興していくことになる。
【写真左】登城道・5丁目付近
 登城道にはこうした距離を示す道標が設置されている。

 城域到達地点まで18箇所(18丁)設置されているので、換算すると、
18×109m=1,962m、およそ2キロの行程となる。



 ここで、改めて同氏の系譜について、諸説あるものの、示しておきたい。

  1. 初代  家範
  2. 2代   久範
  3. 3代  茂則
  4. 4代  則村 法名円心(1277~1350)  弟(円光)
  5. 5代  範資       (?~1351)   兄弟(貞範、則祐、氏範、氏康)
  6. 6代  則祐 5代範資の弟(1314~1372)
  7. 7代  義則 則祐の子  (1358~1427)
  8. 8代  満祐 義則の子  (1381~1441) 兄弟(祐尚、則友、義雅、則繁、竜門寺直操)
  9. 9代  政則 満祐の弟・義雅の孫(時勝の子) (1455~1496)
  10. 10代 義村 七条政資の子(政則の養子) (?~1521)
  11. 11代 晴政 義村の子 (1513~1565)
  12. 12代 義祐 晴政の子 (1537~1576)
  13. 13代 則房 義祐の子 (1559~1598)
  14. 14代 則英 則房の子 (?~1600) 赤松氏最後の当主。
【写真左】置塩城案内図
 城域の入口付近(茶室跡と二の丸の間)に設置されているもので、中央部の二の丸を基点に、南に茶室跡・南郭群、南西方向に南西曲輪群・大石垣、北北西に三の丸・北曲輪群があり、北側には台所・二の丸北曲輪群が近接している。

 そして、二の丸北曲輪群から東に約200m余り向かうと、独立した峰に本丸及び本丸南曲輪群が配置されている。


 嘉吉元年(1441)6月4日、赤松氏第8代満祐が足利義教を謀殺したいわゆる「嘉吉の変」については、以前鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも紹介しているが、首謀者だった満祐は、その3か月後の9月10日、山名持豊(宗全)によって、播磨木山城攻めにおいて自刃を遂げることになる。
 赤松一族はその後、弟義雅の子時勝と、その子政則はしばらく京都の建仁寺で隠遁生活をしている。
【写真左】京都・建仁寺
 京都五山の一つで、以前取り上げた、出雲国の伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)でも紹介しているように、室町期には伊志見郷とは関わりが深い寺院(祥雲院領)でもある。
【写真左】南曲輪群へ向かう。
 登城道を登っていくと、最初の分岐点に出くわす箇所で、先ず右の道に進み南端部の南曲輪群に向かう。

 なお、この写真の左側の上の道は、二の丸東麓を進んで直接本丸へ向かう道となっている。


 こうしてしばらく当主がいなくなったものの、満祐の弟義雅の子ら遺臣は、17年後の長禄2年(1458)8月30日、吉野より神璽を奪回献上した功によって、幕府から同氏再興を許され、政則には加賀半国と備前・伊勢が与えられた。政則3歳のときであるから、おそらく遺臣の中心人物は時勝だったのだろう。
【写真左】南曲輪群・その1 1段目の郭
 南曲輪群は中小の郭が3段の構成となっている。
【写真左】南曲輪群・その2 2段目の郭
 幅は1段目よりせまいものの、奥行はこちらの方が長い。

 なお、この下にも1m程度の帯郭が取り巻いている。



歴代城主

 置塩城の歴代城主は、従って同氏9代政則から始まり、上述の系譜の流れと同じであるが、最後の城主となったのは、13代則房までである。

 このうち、同氏第11代、すなわち当城城主としては3代目となった晴政のとき、置塩城はもっとも激しい動乱の時を迎えた。晴政の父、すなわち赤松氏第10代の義村は系譜でも明らかなように、同氏直系ではなく、七条政資の子で、政村に養嗣子として入っている。

 このころ備前の浦上村宗三石城(岡山県備前市三石)参照)は、赤松氏の後見人として守護代の地位を得ていた。その村宗は後に赤松氏から実権を奪い取ろうとし、義村を幽閉・殺害した。大永元年(1521)9月17日のことである。
【写真左】茶室跡・その1
 南曲輪群から再び元のコースに戻り、登り坂を行くと、右側に茶室跡が見える。






 当然ながら赤松氏側からは村宗に対する反駁が起こった。赤松氏はその後、義村の子・晴政を極秘に3代目城主に据えた。浦上村宗はその頃、細川家の内紛にも荷担、細川高国側に属して各地で転戦をしていた。


その後の動きについては、次稿でとりあげることにしたい。
 
【写真左】茶室跡・その2
 茶室という名称から小規模なものというイメージがあるが、予想以上に広い。

 この下にも2段の郭が連続しているので、単純に東屋風の小ぶりな建物ではなく、相当大きな建築物があったのかもしれない。


【写真左】南西曲輪群へ向かう。
 茶室跡からすぐに真北に二の丸などが控えているが、その前に西側に繋がる「南西曲輪群」の方へ向かう。
 写真の右側の道は二の丸方面に向かう道で、二の丸側から直接南西曲輪群に向かうことも可能だが、切崖のため、素直にこの通を選んだ。
【写真左】南西曲輪群・その1 1段目の郭
 この箇所の曲輪群は、規模は小さいものの3段で構成され、施工精度も高い。
【写真左】南西曲輪群・その2 大石垣
 各段の比高差も平均して4m以上あり、見ごたえもある。
 この石垣は3段目に残るもので、当城の中でも特に優れた施工である。

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