2011年9月30日金曜日

益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)

益田藤兼(ますだふじかねのはか)

●所在地 島根県益田市七尾町桜谷
●探訪日 2011年2月1日


◆解説(参考文献『益田市誌上巻』等)
【写真左】妙義寺(妙義禅寺)
 創建は弘安5年(1282:又は文永年間)といわれている。文字通り禅宗曹洞宗の古刹である。一時廃れていたが、天文・弘治年間に藤兼が七尾城の大修理に併せ再建したといわれている。




 戦前の昭和18年1月、藤兼の勤王実績が知られるようになり、地元の益田仏教奉仕団・石見文化会という団体によって、同年2月「藤兼勤皇実績顕彰法会」が開催され、矢富熊一郎氏の講演を行い、その後藤兼の碑に墓参したという。
 藤兼は晩年仏教に熱心に信仰したことが知られている。

 なお、矢富熊一郎氏は当ブログ投稿において、もっとも参考史料として活用している『益田市誌(上巻)』(昭和50年発行)の執筆者の一人で、既に他界された方だが、石見における中世史学の碩学で、管理人が山城を含む中世史に興味を持ったのも、同氏の膨大な著作史料によるところが大きい。
【写真左】本堂屋根の益田氏の家紋
 益田惣領家の家紋は、下り藤に久文字が入ったもので、庶流となった三隅氏・福屋氏・周布氏などの家紋にも必ず「久」の文字が入った。





 益田市の七尾城の西麓にある妙義禅寺境内奥に益田藤兼の墓が安置されている。

現地の説明板より

“益田市指定文化財

 益田藤兼の墓
    指定 昭和46年6月21日

 益田氏19代当主の藤兼(1529~96)は、11歳で将軍足利義藤(後に義輝)から、藤の字を授けられて藤兼と称し、15歳で家督を継承しました。
 天文20年(1551)に姻戚関係のあった陶隆房(後に晴賢)が挙兵して、大内義隆を討つと、石見の国人を統率してこの挙兵に協力した藤兼は、毛利元就と対立することとなり、三宅御土居を離れ、改修した七尾城に居住しました。
【写真左】三宅御土居
【写真左】七尾城

 厳島合戦で陶氏を破った毛利氏は、石見へ侵攻を始めましたが、吉川元春の仲介によって、藤兼は元就と和睦し、子の元祥(もとよし)とともに下城して、再び三宅御土居を本拠としました。

 藤兼は三隅大寺において68歳で没し、妙義寺に葬られました。藤兼の墓と伝えられるこの石塔は、高さ2.11mの市内で最大の五輪塔です。近年の研究では、鎌倉時代後期に遡るもので、石材は六甲山御影石製であるとの見解が有力になっています。

 平成20年3月
  益田市教育委員会”
【写真左】益田藤兼の墓・その1
 妙義禅寺と七尾城の間にある桜谷という所にある。


謚(おくりな)は、大蘊全鼎(たいうんぜんてい)という。
【写真左】益田藤兼の墓・その2
 藤兼の墓と並んでもう一つの墓があったが、御覧の通り今はない。


 これは、妙義禅寺の保護者であった13代・秀兼のものといわれているが、この墓の破却については様々な風説があるというが、管理人は耳目に触れていないため分からない。



益田藤兼

 石見益田氏第19代(別説では18代)藤兼については、これまで下記の投稿
で、断片的な動きを紹介してきたが、ここで改めて彼の略歴を整理しておきたい。

 藤兼は、享禄2年(1529)に生まれ、又次郎と称し、天文13年(1544)の15歳のとき家督を継いだ。これより先立つ天文8年正月、時の将軍足利義輝(義藤)より偏諱を受け、藤兼を名乗った。彼が偏諱を受けた理由は、永正8年(1511)、京都船岡山の役(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)で父・尹兼及び祖父・宗兼が活躍したことによるものである。

 なお、この船岡山の役では、益田氏を初め、周布興兼・久利清兵衛・小笠原長隆・高橋治部少輔、そして尼子経久らが大内義興に従って戦っている。この戦いでは、義興が細川高国と連合し、細川政賢の軍を破った。

 藤兼の妻は、杉宗長(興重)の女である。杉宗長は大内義興・義隆の奉行人を務めていた。そして次室(側室)を石津経頼の女としている。ただこの側室は元亀元年に逝去したため、その後内藤隆春の女を側室とした。

益田氏と陶氏

 説明板にあるように、益田藤兼が陶晴賢に協力した理由は次のようなことからである。
藤兼の曽々祖父である兼堯の女は、晴賢の祖父・弘護(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)に嫁ぎ、曽祖父・貞兼の母は陶氏の女であり、また祖父・宗兼の室即ち彼の母梅林智惷は、陶氏の出である。

 天文15年(1546)11月、陶晴賢は居城・周防・若山城(山口県周防市福川)に留まり、密かに豊後の大友宗麟へ密書を送った。こうした動きは大内義隆の耳に入ったが、義隆はすぐに行動を起こさなかった。その後、晴賢は自らの計画を益田藤兼に伝えた。晴賢にとって、石見国では藤兼がもっとも信頼のおける強力な味方だったからである。
【写真左】若山城(山口県周防市福川)
 陶氏は正平5年(1350)から弘治3年(1557)までこの地方を治め、晴賢が元就との厳島合戦で敗れ事実上滅亡する。若山城は、1470年に築城された。





 この動きと対峙するのが、津和野の吉見氏であった。吉見正頼は大内義隆に好意を寄せていた。正頼の妻は義興の女・大宮姫を娶っていた。

益田藤兼の吉見氏攻撃

 陶晴賢が大内義隆を討つのは、天文20年9月だが、これに先立つ3月16日、益田藤兼はいち早く晴賢の支援を得て、吉見討伐を開始した。その前哨戦となったのが、脇本加賀守の拠る鹿足郡日原町の下瀬山城(未登城)攻撃である。

 脇本氏は一名下瀬氏と称し、吉見三河守頼行の嫡子・大蔵大輔頼直が初めて石州へ下向した際、吉賀に来住し、同族の下瀬頼石が横山に住み、下瀬姓を名乗ったのが始まりとされている。

 藤兼は攻撃する前に下瀬城の脇本加賀守に打渡し(降参)の意志があれば、攻め入らないとの書状を送っている(「萩閥下瀬七兵衛文書」)。脇本加賀守の本名は、脇本弥六左衛門頼郷といった。

 彼は「勇力諸人に越え、常に太刀を帯ぶ」(「萩閥下瀬文書」)という武将であったから、藤兼の書状に対し、これを拒否した。このため、藤兼は下瀬山城の攻略にかかったが、逆に撃退されてしまった。これと相前後して、藤兼は吉見氏本城の三本松城をも攻撃したが、要害堅固な山城であったこともあり、ここでも撃退されてしまった。

 しかし、同年(天文20年)10月、再び陶晴賢が藤兼に檄を飛ばし、藤兼は吉見領である吉賀郡津和野村下領の野戸呂山に陣を構え、吉見氏と戦端を交えることになる。藤兼による二度目の攻撃も下瀬氏などの働きにより失敗に終わった。

 ところで、こうした益田氏と吉見氏との戦いは、藤兼の代に限らず永い間の両氏の争いの一端であるが、陶晴賢の謀叛(大内義隆誅殺)に絡んで特に顕著なものとなった。

 天文22年11月13日、それまで益田氏(藤兼)が主体となっていた吉見氏攻撃は、陶晴賢・大内義長の軍が主体となった。藤兼らは吉見氏の支城を主に担当することとなり、陶氏・益田氏の陣構えが整ったわけである。
【写真左】三本松城(津和野城)












 吉見氏側の本城・三本松城とは別に同氏の支城としては、長州の嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)、津和野の中入茶磨山、坪尾城などがあったが、次々と益田氏らの攻撃によって陥落、大内義長らは同じく吉見氏の支城である吉賀城・隅城・下風呂谷砦などを攻略、陶晴賢は三本松城を眼下に見下ろすことができる当城西南の栃ヶ嶽(別名陶ヶ嶽:H420m)に陣を敷いた。

 当初三本松城にいた吉見正頼は、孤立した三本松城から密かに脱出し下瀬山城へ逃げ込んだ。しかし、戦況は吉見氏側にとってますます不利となり、8月、正頼は13歳になる嫡男亀王丸(後の広頼)を人質として差出し、和睦を願い出た。

 こうして津和野三本松城の吉見氏攻略は終わったが、すでに吉見氏は陶・益田氏に降る前に、毛利氏に対して援軍を求めていたので、これが後に同氏の陶氏攻略のきっかけともなった。

その後の経緯については説明板の通りである。
【写真左】番外編:50歳の豚さん
 藤兼の墓に向かう途中の畜舎に養豚場のようなものがある。


 この日墓に向かっていたところ、二人の年配の方がこの豚の前でしきりに感心しておられる。

 聞くと「この豚は年齢が50歳だ」という。よく見ると左右から牙がのぞいている。われわれの存在を全く無視して、もくもくと餌を食べている。


 管理人も今まで見た豚の中では最大級のもので、純粋な豚というより、いわゆる「イノブタ」系のものではないかと思われるが、この日の印象は益田藤兼の墓とセットで、この豚さんも管理人の脳裏に焼きついた次第である。

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