2015年3月12日木曜日

讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)

讃岐・雨滝城(さぬき・あまたきじょう)

●所在地 香川県さぬき市大川町富田中
●高さ 253m(比高230m)
●築城期 長禄年間(1457~60)ごろ
●築城者 安富盛長
●城主 安富氏
●指定 さぬき市指定史跡
●遺構 郭・石垣・堀切等
●登城日 2014年11月18日

◆解説(参考文献 サイト「城郭放浪記」等)
 讃岐・雨滝城(以下「雨滝城」とする)については、天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の稿で、細川四天王の一人として城主であった安富盛長と併せ紹介している。
 所在地は、細川四天王の中ではもっとも讃岐の東方部にあたる個所で、本丸からは北東に津田湾(瀬戸内海)を望む位置に所在する。
【写真左】雨滝城遠望・その1
 北西麓から見たもの。












現地の説明板より

“雨滝城跡

 所在地 大川町富田中216番地の1 他
 所有者 大川町 他

概要
 雨滝山は大川・寒川・津田三町に跨り、海抜253m、この頂上に長禄年間(1458頃)安富山城守盛長が城を構え、以来筑後守盛正、筑前守盛方、肥前守盛定と相つぎ、天正11年(1583)長宗我部元親勢の侵攻に遭って降伏落城した。
【写真左】雨滝城遠望・その2
 上記とは反対の北東側・道の駅付近から遠望したもの。








 本遺構は、瀬戸の海を扼する要衝にあり、天然の要害地形を巧みに取り入れて普請された典型的連郭式山城である。山頂本丸跡を中心に、東方2段・西方5段・北方5段、三方尾根上に削平地が形成されている。
【写真左】雨滝城の位置
 地元さぬき市の道の駅「津田の松原」に設置されている観光マップで、この図には「雨滝城」とは図示されていないが、雨滝山と記された箇所である。
 雨滝山城の北側は高松自動車道が走る。


 昭和57年本丸を含め7郭、昭和45年に西第5郭部、計8郭の発掘調査が行われた。南第2郭を除き、すべての郭に礎石が検出され、建物遺構の存在が裏付けされている。

 各部をつなぐ犬走り・堀切・土塁等の遺構も明らかとなった。
 出土した遺物としては、土師質土器・備前焼甕(かめ)・中国製陶磁器・古瓦(いずれも破片)・坩堝(るつぼ)・鉄滓(てっさい)・小柄(こづか)・短刀・透かし彫り鍍金(ときん)金具・輸入銭(唐・北宋銭)・貝・王石・焼けた壁土等で、注目すべき山城解明に貴重な資料を得ている。
【写真左】津田石清水神社
 この日は雨滝城に向かう前に、道の駅「津田の松原」で讃岐うどんを食べたあと、附近を散策していたらご覧の社が見えた。

 この付近は津田浦というところだが、仁和年間(885~888)に京都の石清水八幡宮の分霊を勧請し、最初に鎮座した場所は雨滝山城の麓で、津田八幡宮として祀ったという。

 その後、雨滝城主・安富氏の崇敬も篤く保護されたきた。しかし、天正11年(1583)長宗我部軍の兵火により焼失衰退した。その後文禄元年(1592)再興され、慶長5年(1600)現在地に遷座された。明治5年、現在の石清水神社と改称している。

 安富氏は応仁の乱に武将として出陣、乱後は西讃の細川氏とともに細川氏の目代として、讃岐を二分して東讃を管轄した。平素の居館は雨滝山麓の城山、その他石田、津田側などにあったと推定されている。
   平成4年3月
     さぬき市教育委員会”
【写真左】登城口
 雨滝城の登城口は2か所あるようだが、今回は北西側中腹にある登り口から向かった。
 南麓に「さぬき市雨滝自然科学館」や「さぬき斎場」といった施設があり、先ずこの建物を目指す。件の施設脇を抜けると幅員が狭くなるが、そのまま進むとご覧の場所にたどり着く。
 ここに車2,3台程度の駐車スペースがある。
階段下に「雨滝城跡 約300m」と表示された案内板がある。
【写真左】登城口付近
 登り方向と反対側に当たる所で、正面に休憩小屋のようなものがあるが、この先の尾根筋には二つのピークがあり、おそらく出城的な遺構があったものと思われる。


讃岐・安富氏

 讃岐・安富氏(以下「安富氏」とする)が雨滝城を築城したのは長禄年間(1458)頃とされている。

 安富氏の主君であった細川氏が、讃岐国の守護職としてもっとも絶大な力を誇示していた時期は、当時幕府管領となっていた頼之のころだが(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)、白峰合戦(正平17年・1362)の戦いで、頼之が従兄弟の細川清氏を討ったのち、讃岐国は頼之の子孫が代々世襲していくことになる。
【写真左】堀切
 登り始めるとすぐに右側に堀切跡が現れる。もっとも登山道として相当踏まれたため、かなり埋まっている。





 安富氏は香川氏らと同じように、後に細川氏の下に仕えていった一族で、雨滝城築城者である安富盛長のおそらく父であろう盛衡は、細川頼元(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)に随兵として香川氏らと行動を共にしている。

 その後、享徳3年(1454)に至ると、息子・盛長が香川元明らと伊勢に出陣している。この伊勢の出陣はおそらく畠山持国の継嗣問題に絡む内紛を鎮圧する目的のものだったのだろう。
【写真左】竪堀
 これも登り方向から見て右側に見えたもの。 当城は登城道周囲は藪化し、雑木が多いため、遺構の確認は容易でない。




 雨滝城の築城はこの伊勢出陣を終えた後で、築城して間もなく応仁の乱が勃発する。
 応仁の乱は細川勝元(東軍)と、山名宗全(西軍)の戦いであるが、このころ、安富盛長、香川元明、香西元資、奈良元安の4人は「細川勝元四天王」と呼ばれた。

 雨滝城はその後、盛長から安富氏が継嗣し、戦国期に至ると、天正11年(1583)長宗我部元親勢の侵攻に遭って降伏落城した。
【写真左】小郭
 登城道は全体に直登が多いが、この箇所で少し屈曲している。
 この下にも竪堀らしき遺構が見えた。
【写真左】登城道
 雨滝城の登城道は概ね直登が多く、速足では進めない。
 この写真は事実上の犬走りで、殆ど尾根の右(南)に設けられている。なお、このあたりから左側に郭段があるはずなのだが、笹竹に覆われていて見えない。
【写真左】郭段
 途中から段差がはっきりとした郭境が見えだす。
 今回の登城道である西方向の尾根には、5段の郭が連続しているので、下段のものだろう。
【写真左】石積
 上記の箇所付近に見えたもので、比高差がある個所にはこのような石積が設けられている。
【写真左】長い郭
 尾根中段の郭だと思われるが、この郭は奥行が長く、30m前後はあるだろうか。また、道は郭天端とさほど段差がなく、傾斜も少ない。
【写真左】前方が開けてきた。
 先ほどの箇所から再び坂となるが、次第に視界が広がり、いよいよ本丸が見えてきた。
【写真左】本丸・その1
 長径25m×短径20m程度の規模で、この箇所だけきれいに刈り取られている。
【写真左】本丸・その2
 祠が祀られている。なお、祠の後ろは北東に伸びる尾根始点で、ご覧の通り藪化している。
【写真左】虎口か
 一見虎口のようにも見えるが、自然崩落でできた陥没箇所にも見える。周囲に石積のようなものが見えなかったので、虎口ではないかもしれない。
【写真左】祠架台跡か
 一見すると礎石建物跡のように見えるが、鉄筋がのぞいていたので、近代のもの。
上記の祠が最初に祀られていた箇所なのだろう。
【写真左】本丸から瀬戸内を俯瞰する。
 本丸からの眺めは限られているが、それでも北東方向に瀬戸内が俯瞰できる。

 本丸を中心に尾根が三方に伸びているが、先ず南東の尾根に向かってみる。
【写真左】石垣
 南尾根はあまり利用されていないせいか、草丈が大分伸びている。
 本丸から20m程下った所の郭段に見えた石垣で、高さは4m弱だろうか。
 さらに下に降りてみる。
【写真左】2番目の石垣
 この説明板では東尾根とされているが、実際は南もしくは南東方向に伸びる尾根で、ここには2段の郭があると記されているので、この石垣は最下段のものだろう。
 高さ3m余で横は5m前後の規模。

 ここで再び本丸までもどり、北(東)の尾根に向かう。
【写真左】尾根始点
 茅や笹竹がいきなり立ちはだかる。残念ながら時間もあまりないため、この尾根はパスする。
 この尾根下には社が祀られているようだ。


◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)

0 件のコメント:

コメントを投稿