2016年11月28日月曜日

此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)・その1

此隅山城(このすみやまじょう)・その1

●所在地 兵庫県豊岡市出石町宮内
●指定 国指定史跡
●別名 子盗城、子守城
●高さ 140m(比高120m)
●築城期 不明(文中年間か)
●築城者 不明(山名時義か)
●城主 山名到豊・誠豊・祐豊
●遺構 郭・堀切・土塁等
●登城日 2015年3月28日

◆解説
 此隅山城は、以前紹介した但馬の有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)から北に4キロほど向かった位置に所在している。
 築城期及び築城者は確定していないが、伝承では南北朝動乱期の文中年間(1372~75)ごろとされ、山名氏が築いたといわれている。
【写真左】此隅山城遠望
 西側から見たもので、右側(南側)尾根に主郭が築かれている。
 なお、写真手前の集落付近が当時の御屋敷(守護所)といわれた場所に当たる。


現地説明板より

“山名氏此隅山城跡

 此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372~75)山名時義が築城したと言われていますが定かではありません。しかし、戦国期の到豊(おきとよ)・誠豊(のぶとよ)・祐豊(すけとよ)三代の居城であったことは確かである。
【写真左】縄張図
 上方が北を示す。
 中央に主郭を設け、3本の主尾根上に多数の郭や堀切・土塁などを配し、南西側の尾根先端部には宗鏡寺砦などを設けている。

 なお、此隅山城の北麓には袴狭川、南麓には入佐川という川が東から西に向かって流れ、出石川と合流している。

 なお、この合流する両川に挟まれた小丘(最高所78m)は、東の谷を介して此隅山城の西に伸びる尾根と繋がっていたものと思われ、記録にはないが、出丸のような役割があったものと推測される。


 文献的初見は、永正元年(1504)夏のことで、守護山名到豊と垣屋続成(つぐなり)(日高町・楽々前(さきのくま)城主)との抗争が再燃し、続成が到豊・田結庄豊朝(たいのしょうとよとも)の立て籠もる此隅山城を攻めている。このとき出石神社にも軍勢が乱入し、社壇・堂舎・経巻・末社諸神が焼失している。
【写真左】登城口
 登城口は上記縄張図にもあるように、北と南の2か所あるようだが、駐車場が確保されている北側の豊岡市いずし古代学習館の方から向かった。


 永禄12年(1569)8月には、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(後の秀吉)らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。その後、山名祐豊は天正2年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として有子山に有子山城を築城した。

 此隅山城は守護大名の城らしく、城域は但馬最大規模で南北750m・東西1,200mあると考えられ、山裾の「御屋敷(守護所)」を両翼から山城がつつみこむような陣形である。
【写真左】古墳状の地形
 登城コースであるこの北側の尾根には古墳跡があるらしく、円墳と思われる地形が連続している。
 試掘したところ、小型の甕の破片が出てきたという。


 城は主郭を中心に、そこから派生するすべての尾根に階段状に曲輪が構築されている。縄張は大別して、低い段差をもつ小曲輪や、浅い堀切などが構築されている古い部分と、高い段差をもつ広い曲輪、深い堀切、折れをもつ土塁や竪堀などが構築されている新しい部分に分かれると考えられる。

 前者は、南北朝期から室町期にかけて造られたものと考えられ、後者は主郭周辺・竪堀・折れを持つ土塁・千畳敷・宗鏡寺砦(すきょうじとりで)などで、戦国期末期の有子山城築城期に改修されたものと考えられる。

 此隅山城は、守護大名山名氏の居城というだけでなく、南北朝期から戦国期の城郭遺構を良好に残している遺跡として、平成8年11月13日国指定文化財の史跡に指定された。

    平成20年3月  豊岡市教育委員会”
【写真左】最初の郭段
 北尾根から向かうコースは尾根筋を直登するようになっている。しばらくすると、緩やかな段となり、この付近で最初の小規模な郭が確認できる。
 このあと、この尾根は北西に伸びる尾根と合流するため西に折れていく。


山名時義・師義

 此隅山城に近接する鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べているが、当城の所在する但馬と山名氏が関わりだしたのは、時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)のころからである。時氏は最盛期には、丹波・美作・因幡・伯耆の国を押さえている。

 さて、此隅山城の築城者は上掲した説明板では、伝承によると時義とされている。ただこの日登城した北側の説明板とは別に、南側にも登城口があるが、そこの説明板では師義と記されてる。
【写真左】堀切
 この尾根はまだ北西に延びる尾根附近ではないが、その手前に堀切が設置されている。
 この先から主要な遺構があることから、ここで一旦断ち切る必要があったのだろう。



 時義、師義の二人は時氏の子である。師義が長子で、時義は5男とされている。

 師義は応安5年(1372)、すなわち父時氏が亡くなった翌年になるが、この年但馬守護職に補任されている。従って、当地に下向したその年から此隅山城の築城に取り掛かったと思われる。
 なお、時義の名が残るのは、師義が築城後間もない永和2年(1376)に亡くなっているので、おそらくその跡を時義が引継ぎ順次整備していったためと思われる。
【写真左】堀切と竪堀
 先ほどの堀切を超えると更に尾根の傾斜は険しくなり、登りきったところで大きな堀切が構えている。この堀切の東斜面には二条の竪堀が配されている。


戦国期

 この時期の城主としては、山名到豊(おきとよ)・誠豊(のぶとよ)・祐豊(すけとよ)の三代の名が残るとされている。このうち到豊と誠豊は兄弟で、祐豊は到豊の実子で誠豊に養子となっている。到豊・誠豊の父は、政豊(瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)参照)といわれている。

 到豊が生まれたのは、応仁2年(1468)すなわち丁度応仁の乱が勃発した翌年となるので、争乱の最中に誕生したことになる。
【写真左】西に伸びる郭
 西に伸びる尾根には上下併せて、総延長100mほどの郭段がある。写真は上段の郭で、高さ50cm程度の土塁が囲繞している。




 此隅山城における主だった争いの一つが、永正元年〈1504)の楽々前城主・垣屋続成との抗争とされている。楽々前城(さきのくま)とは、此隅山城から西に13キロ余り向かった円山川支流の稲葉川南岸(同市日高町佐田)に築かれた山城である。

 垣屋氏については、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べたように、山名氏を支えた「山名四天王」の一人であるが、このころは下剋上の時代で、主君である山名氏に反旗を翻している。垣屋氏は山名氏の筆頭家老であるが、同氏領有地と隣接する田結庄氏と度々軋轢を生み対立していた。

 ことのことから、此隅山城に山名氏と田結庄氏が籠城し、垣屋氏がこれを攻めている永正年間の戦いも、もとは垣屋氏と田結庄氏との争いから生じたものだろう。
【写真左】下の段に向かう
 上段の先端部まで行くと、そこから5,6m程度下がった切崖がある。これを降って下の段に向かう。





尼子再興軍祐豊

 出雲の月山富田城が落城したのは永禄9年(1566)11月のことである。富田城を追われた山中鹿助らはその後尼子氏再興を図るべく、四散した旧臣らを集め、さらには元就に敵対する領主たちにも協力を求めていった。その一人が但馬の山名祐豊である。
【写真左】再び登る。
 上段の郭から降りたものの、再び登り勾配となっている。結局この間の鞍部は堀切の役目をしているかもしれない。




 尼子経久・晴久の代には、山名氏の領国であった伯耆・因幡を奪われ、敵対してきた両氏であったが、その後尼子氏に代わって両国を手中に収めようとしてきた毛利氏は、山名氏総帥であった祐豊にとって看過できないものとなっていった。このため、祐豊としては鹿助を始めとする尼子再興軍と手を結ぶことは、むしろ時宜を得たことだったのかもしれない。
【写真左】下の段先端部が見えてきた。
 下の段としては、この位置までに2か所の郭が尾根上に構成され、さらにその先で一旦低くなり、この尾根先端部で途切れる。



 これに対し、元就は織田信長に対し、但馬の山名氏を背後から突くよう依頼した。信長はこれを受けて秀吉に大軍2万を付けさせ、但馬へ侵攻した。永禄12年(1569)8月のことである。

 このとき、山名氏の居城・此隅山城及びその支城を併せた18城が、わずか10日間で落城したという。因みに、この段階では尼子再興軍(鹿助・勝久ら)は未だ信長と接触していない。
【写真左】先端部から西方を見る。
 先端部には説明板が設置され、麓には出石川が左から右に流れ日本海にそそいでいる。
【写真左】有子山城
 この位置から南に目を向けると、後に山名氏が築くことになる有子山城の上部が確認できる。

 このあと本丸に向かう。




 さて、秀吉らによる但馬侵攻が始まる前の6月(永禄12年)、鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国から出雲の忠山城(島根県松江市美保関町森山)に上陸することになるが、隠岐に入る前にいたのが但馬である。

 但馬の海岸から隠岐島に向けて、鹿助らを渡海させたのが以前にも紹介したように、地元の海賊・奈佐日本助(なさやまとのすけ)(津居山城(兵庫県豊岡市津居山)参照)である。おそらく日本助らの協力は山名祐豊の全面的な支援によるものだろう。
【写真左】途中の段
 先ほどの位置から再び戻り、本丸に繋がる北西方向の尾根を登っていくが、途中で長さ50m程度の郭が配置されている。
 また、この辺りから大きな岩が目立ってくる。(下の写真参照)
【写真左】この岩塊をよじ登る
 距離は短いものの、この岩塊だけでも要害性を担保するだろう。







 ところで、鹿助らが隠岐にむけて渡海する前、但馬には尼子再興を宿願とする面々とは別の一族が居たのではないかと推測される節がある。それが正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)で紹介した藤井皓玄を始めとする一族である。
 藤井皓玄の主君は神辺城主であった備後山名氏で、此隅山城主であった時義の代から備後山名氏と深いつながりを持っていた。

 鹿助が隠岐の島から島根半島に上陸し、忠山城に陣を構えたのは6月23日である。これに対し、皓玄らが備後神辺城神辺城に攻め入ったのが、5日前の6月18日である。
【写真左】本丸が見えてきた。
 岩塊を登りきると、ご覧のように本丸が見えてくる。手前の段は北西側から続く郭で、本丸の西側の郭とは、北側の犬走りが連絡している。



 藤井皓玄が備後で旗を挙げると、北九州で交戦中の毛利氏(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)はその対応に追われた。そして、その5日後、今度は出雲で鹿助らが瞬く前に旧臣らを糾合した。

 当然、毛利氏はそちらにも救援を送らざるを得なくなった。この5日間という時間は、まさに絶妙のタイミングである。備後(神辺城)救援に向けて行軍(航海)した矢先である。このいわば時間差攻撃ともいうべき陽動作戦は、毛利氏の動揺を誘い、大いに混乱したことだろう。
【写真左】本丸・その1
 北側から見たもので、南北を軸線とする尾根上に築かれた最高所で、長径50m×短径15m規模のもの。





 毛利氏にとって、北九州(筑前等)、出雲、備後の3か所で同時に抗戦することはさすがに不可能である。このため、毛利氏が一旦九州から兵を引き挙げたことは周知の通りである。

 こうした綿密な計画が遂行されるためには、三者(鹿助・藤井皓玄)が直近まで帯同していなければできないことである。こうしたことからこの但馬において、山名祐豊・鹿助・藤井皓玄の三者が密議を交わしていたのではないかと推測されるのである。
【写真左】本丸・その2
 本丸の西端部から見たもので、説明板のある西側淵も少し高くなっている雰囲気があり、土塁があったかもしれない。
 写真奥に見えるのが、登ってきた時の途中の郭。
【写真左】本丸から西方に「コウノトリ但馬空港」を遠望する。
 但馬空港は此隅山城から豊岡盆地を介し西へ約8キロ余り隔てた標高170m余りの山に造られている。

 このあと、さらに本丸の南側にある次の郭に向かう。



此隅山城から有子山城を築く

 さて、秀吉により落城した此隅山城であったが、その後祐豊は回復を図るべくより堅固な有子山城を築くことになる。此隅山城が落城してから5年後の天正2年(1574)のことである。その後の経緯については、有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)をご覧いただきたい。
【写真左】本丸から南に隣接する郭
 この郭も当城の中では規模の大きい部類に入る。
 このあと、この先の尾根は傾斜を持ちながら下がっていき、最下段では上述した宗鏡寺砦が配備されている。




《次稿に続く》
 本稿はここまでとし、次稿では紹介しきれなかった遺構や、当城南麓部に鎮座する出石神社付近も併せてアップしたいと思う。

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