2014年1月31日金曜日

甘崎城(愛媛県今治市上浦町甘崎)

甘崎城(あまさきじょう)

●所在地 愛媛県今治市上浦町甘崎
●別名 古城山甘崎城
●築城期 天智天皇10年(671)
●築城者 越智氏
●城主 今岡民部(三島村上氏)、村上吉継、藤堂大学頭(大輔)等
●廃城年 慶長13年(1608)
●形態 水軍城
●遺構 郭・井戸跡・石垣・桟橋逆茂木用ピット・海門跡・祭祀跡・石湯跡等
●指定 県指定史跡
●規模 300m×80m
●探訪日 2013年7月1日(甘崎城)、2014年1月27日(向雲寺)

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 甘崎城は、しまなみ海道を横断する島の一つ大三島(現今治市)の東方上浦甘崎の東岸に浮かぶ島に築城された日本最古といわれた水軍城である。
【写真左】甘崎城遠望
 対岸の岸壁から見たもの。
【写真左】甘崎城概要図
 伯方島にある「ふるさと歴史公園居館」に掲示されていたもので、愛媛大学考古学教室調査資料による。



現地の説明板より

“古城島甘崎城跡
   (愛媛県指定史跡)

 古城島甘崎城跡は古名を天崎城と記され、守護神を祭る甘崎荒神社(現地)の伝えによると天智天皇10年(671)8月7日、唐軍の侵攻に備えて、勅命によりて築城すと云。

 その初名を上門島海防城といいし由、以て日本最古の水軍城とすべく、以来瀬戸内水軍史上にその名を記し、重ねることはなはだ多く、元禄4年(1691)この沖を航したドイツ人ケンペルも帰国後、「日本誌」その雄姿を記して「海中よりそびゆる堡壘あり」と述べた。

 今日の姿になったのは幕末のころらしく、海底にはなお築城礎石の巨石の列20余条延べ約1000メートルを存し、その技法の一部は古代に属するものと見られている。”
【写真左】甘崎城遠望
 大三島の東方に浮かぶ生口島の瀬戸田パーキングエリア(しまなみ海道)側から見たもの。

 





上門島海防城

 当城の築城期が天智天皇10年(671)とされているのは、当地にある甘崎荒神社の御由緒調査書から紹介された『伊予越智誌』によるもので、水軍城としては最も古いものとされている。ただ、詳しく見れば、以前紹介した讃岐の引田城跡(香川県東かがわ市 引田)などは、これより4年ほど遡った天智6年(667)に築城されている。
【写真左】南側
 干潮時には歩いて渡ることができるようだが、この日訪れた時はその状況ではなく、遠望のみとなった。





 どちらにしても、天智2年(663)8月27日、朝鮮半島白村江において日本と百済の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗したことによって、日本が帰国するや否や、対馬・壱岐などに防人・烽火を設置し、筑紫に水城を築いたのを起点として、西国地域もそれにあわせて築かれたもので、築城年はそれぞれ多少の違いはあるものの、同じ目的のもとに築かれたものと思われる。
【写真左】北側
 この写真では分かりずらいが、満潮時には、北側の淵からさらに間を開けて小さな島が見える。
 この島も当城の一部だったと思われる。



 ちなみに、唐や新羅の侵攻という危機を受けつつあった西国に対し、時の中央・大和朝廷では、大織冠と大臣の位を受け、藤原の氏を賜った中臣鎌足が、興福寺を創建しているが、3年後の天智11年には、壬申の乱が始まるという内外ともに不穏な時を迎えている。

 甘崎城が築城された当時、防衛のため当然ながら甘崎城以外の芸予諸島の要衝にも同じような城砦が築かれた。因みに、この当時甘崎城付近を上門島海(大三島・伯方島・生口島)といっていたことから、甘崎城を上門島海防城といい、南の大島~波方(四国)の来島海峡(中門島海)に築城されたものを、中門島海防城、さらに下がった風早鹿島を下門島海防城と呼んだ。
【写真左】北東部に生口島を見る。
 甘崎城と対岸の生口島(尾道市瀬戸田町)の間が愛媛県と広島県の境になる。





 天慶の乱

 甘崎という名称の語源になったのは、上記した三城の「海防」から来たものといわれている。「海」は「あま」で、「防」は「さき」で、従って元は「海防城(あまのさきじょう)」であろう。

 また、これまで海に面した城砦を「水軍城」として、度々紹介しているが、そもそも「水軍」という名称が使用されたのは昭和に入ってからで、一般的には「海城」を根城として、そのもとに軍船や兵員を常備する戦闘集団であった海賊衆を示す。
【写真左】説明板
 岸壁に設置されている。


 さて、往古に築かれた甘崎城が具体的にその機能を果たしたのが、時代がやや下った天慶の乱のときである。
 乱の詳細については省くが、瀬戸内でもっともその名が知られるのは、藤原純友である。

 藤原純友については、以前取り上げた筑前の大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)でも紹介しているように、元はその名が示すように平安期の朝廷にあった貴族だが、運悪く都を追われるように西下し、当時伊予守であった父の従兄弟藤原元名を頼り、当初は瀬戸内の海賊を鎮圧する役人となっていた。

 しかし、時をほぼ同じくして関東にあった坂東武士平将門が兵を挙げると、呼応するように純友も瀬戸内海賊衆を率いて挙げた。中央政権に対する不満は、将門と同じく純友にも共通するものがあったのだろう。
【写真左】大宰府政庁跡




 純友は瀬戸内を中心に、東は畿内・播磨方面から、西は鎮西大宰府をも襲撃、略奪を図った。
 純友が本拠としていたのは、瀬戸内からは遠く離れた宇和島市の西方、豊後水道に浮かぶ日振島である。最盛期には純友は約1,000艘以上の軍船を従えていたというから、前記した三城方面を含め、瀬戸内海をほぼ手中にしていたと考えられる。

 その後、朝廷は大軍を率いて純友鎮圧のために西下し、天慶4年(941)5月20日、追捕凶賊使(追捕使)小野好古らが、博多湾にて鎮圧、伊予に逃れた純友は、同国警固使橘遠保により討たれたといわれるが定かでない。

大山祇神社

 ところで、甘崎城は大三島と指呼の間だが、大三島は古来より大山積神を祀る大山祇神社がある。現在総本社は同島西岸にあるが、元は南東部(後段の向雲寺方面)にあったといわれ、甘崎城も他の水軍城と同じく深く関わりがあったという。
【写真左】大山祇神社・本殿



 平家・源氏とも深く崇拝し、武運長久を祈り、その流れは戦国期の瀬戸内争乱の際も絶えることがなかったという。このため、多くの刀・武具等が奉納されている。

【写真左】向雲寺
 甘崎城を望む岸壁から南に約2キロほど向かった丘陵地の中腹に創建された寺院。
 戦国期末になると、藤堂高虎の支配地となり、藤堂大輔(従弟・良勝)が城主となった。

 当院には彼の墓碑があると記録されており、この日参拝し、墓地・境内を散策したが残念ながら見つからなかった。

遺構

 江戸時代末期より明治にかけて、大三島では水田開発が行われ、その護岸工事として甘崎城に残っていた石垣が使われたという。このため、現地にはすでにそれらはほとんどないものの、干潮時になると、北岸と南岸にその基底部に設置された石列が露出する。また、石垣以前に設置されたとされる桟橋や防御用の逆茂木設置のための穴が幾何学的に配置されている。
【写真左】向雲寺にある「いも地蔵」前の拝殿
 現地には「甘藷地蔵」の説明板が設置されている。

 甘藷(かんしょ)と読むが、通称サツマイモと呼称されているもので、江戸時代全国的に飢餓に苦しんだとき、同島出身の下見(あさみ)吉十郎(1673~1755)が、薩摩国伊集院村から国禁を犯しながらも甘藷を持ち帰り、島の農民に栽培方法を教え、それが芸予諸島一帯に広まり、飢餓を救ったといわれる。
【写真左】甘藷地蔵
 吉十郎が亡くなった後、島民らが彼の業績を讃え、甘藷(いも)地蔵が建立されたという。

 なお、吉十郎の先祖は伊予河野氏の出で、河野通直が没落したとき帰農したという。



廃城

 冒頭にも記したように、当城の廃城年は慶長年間である。天智天皇の白鳳時代から江戸初期までの約900年余にわたってこの水軍城は活用されたことになる。それだけ瀬戸内における水軍城(海城)が果たす役割は、時の支配者や、関わった水運経済などに大きなものをもたらしてきたという証左でもある。
【写真左】向雲寺墓地から甘崎城を遠望する。
 奥に見える橋は、瀬戸内しまなみ海道の多々羅大橋

2014年1月23日木曜日

源希義墓所(高知県高知市介良)

源希義 墓所(みなもとまれよし ぼしょ)

●所在地 高知県高知市介良
●遺構 源希義神社・西養寺跡・横山城・朝峯神社その他
●探訪日 2013年12月25日


◆解説
 源希義については、以前土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)でも述べたように、父義朝や兄頼朝らが蜂起した平治の乱の際、平清盛によって鎮圧され、土佐の国に配流された武将である。
 そして、その後治承4年における平家追討の兵を挙げた伊豆の頼朝とともに、配流先である土佐において蜂起したが、平家方の近藤(蓮池)家綱らによって殺害された不運の武将でもある。
【写真左】源希義の墓
 一般的な五輪塔あるいは宝篋印塔形式のものでなく、後段で示すように「無縫塔」と呼ばれる石塔である。

 希義の墓としているのは、この場所が西養寺跡であったことから希義の墓として祀り伝えているという。





現地の説明板より

“悲運の若武者 源 希義

 平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源氏の棟梁、源義朝は尾張国内海の長田荘司忠致に入浴中だまし討ちにあい、源氏一族の命運は尽きたかに見えましたが、平清盛の継母・池禅尼の計らいで助命され、頼朝(当時13歳)は、伊豆国、蛭ヶ小島へ配流され、牛若(後の義経、当時1歳)は、京の鞍馬へ押しこめられます。

 兄頼朝と同じ父(源義朝)、母(熱田神宮藤原季範三女)、由良午前)の元に生まれた実弟、当時3歳の希義も源氏の本拠、東国を目指し乳人に連れられ、落ち行く途上香貫(かぬき)(沼津市内)にて、平家方追補の手にかかり、ここ介良に配流されます。
【写真左】介良の史跡・自然めぐりコース案内図
 介良は高知市の東方にあって南国市と境を接するが、この図にもあるように、中央の希義の墓のほか、近くには横山城、朝峯神社、介良城などがある。

 なお、今回の探訪は希義の墓が目的であったため、上記2城は訪れていない。


 介良における希義は、厳しい平家方監視の中、仇と思う平清盛への憎しみ、命の恩人とも思う池禅尼への感謝の心の葛藤を胸に秘め、隠忍の日々を強いられます。
 土佐における平家方有力武将、平田太郎俊遠の妹とも、また俊遠の娘ともいわれていますが、平家方有力武将ゆかりの娘を嫁に貰います。希義は、仇と思う平家また愛したであろう妻は、平家方武将の娘、その心中たるや察するに余りあります。
【写真左】朝峯神社
 付近には駐車できる場所がほとんどなく、東に数百メートルむかった駐車場のある当社に先ず向かった。

 この辺りの旧地名は、長岡郡介良村雷電という場所だったという。
 主神は佐久耶姫という絶世の美女神不二の山にちなんでいる。富士山の本宮浅間神社(静岡)より勧請され、戦国時代長宗我部氏も尊信厚く、神領田50余か所寄進し、江戸期藩主山内家祈願所8所の一つとされた。


 栄耀栄華を極めたさすがの平家も人心離反し、落日の如き平家の威光の下、土佐における数少ない源氏方武将夜須七郎行家と、打倒平家の夢を描いたであろう希義は、平家方の知るところとなり、先手を打った平家軍の前、敗走したのでしょう。

 東の夜須氏をひいてはまだ見ぬ兄、頼朝の居わす鎌倉目指し、東走するも夜須氏率いる救援軍は間に合わず、現南国市鳶ヶ池中学校正門付近で首討たれます。時は寿永元年(1182)9月25日のことでした。
【写真左】介良城
 朝峯神社の向背の標高170m前後の山は、介良城という。
 後段で示す横山城(花熊城)の詰城といわれているが、詳細は不明。
 この写真左に見える川は、介良川で、この川沿いを西に進む。


   時に希義には陸盛、希望という二子、また「希望」一子という説があります。
 平家の威光を恐れず放置されたままの希義の遺骸から遺髪をとり、荼毘に伏し手厚く葬った僧琳猷は、頼朝が天下を治めた後、希義が一子希望を鎌倉へ引きつれ遺髪を献上すると、頼朝は「亡魂再来」と涙したといわれます。

 征夷大将軍・源頼朝の庇護を受けた希義が一子源希望は、現春野弘岡の地で基盤を固め、後の戦国時代の七守護の一人「吉良氏(ここ介良は元々気良(きら)」へと続くも、吉良宣直は天文9年(1540)平家八木氏の末裔といわれる本山梅渓に、仁淀川で鵜飼のおり、攻撃を受け自刃に追いやられます。
【写真左】介良川と横山城
 左にみえるこんもりとした藪のようなところが横山城の一角で、登城道を探してみたが、案内標識も見えなかったので、このまま先を進んだ。


 しかし、吉良宣直の父吉良伊予守宣経は、天文年間(1532~55)周防の大内氏の元から流浪の南村梅軒を招き、儒学の一派「南学」(海南朱子学)の発祥、普及しその行動的な教えは幕末勤皇志士の思想基盤を形成しました。
 源希義の威光は、今日まで我が国の隅々まで照らしたもうているのである。

  平成7年(1995)9月25日 没後813年
源希義公を顕彰する会”
【写真左】案内板
 源希義公墓所・西養寺跡、左手花熊城跡、小笠原和平墓・◇◇瑞山姉美多墓、とある。

 この道は幅1m足らずの路地で、先に行くと農道のような狭い道となっている。



介良(けら)

 希義の墓などがある高知市介良という地区には、中世史跡はもとより古代遺跡も多数あり、往古より当地において人の営みがあったところである。
 また、その特異な地名である「介良(けら)」も、上掲の説明板にもあるように、元は「気良(きら)」とあり、のちに希義後裔の吉良宣直へと繋がる。
【写真左】「小松石の由来」及び「土佐藩主山内氏と源氏のかかわり」と書かれた掲示板









 “小松石の由来

 打倒平家に立ちあがった源頼朝は正室政子の父北条時政の支援を得て、伊豆国目代山本判官兼隆を討ち、初戦を飾るが石橋山の戦いでは、再起不能と思われるほどの大敗を喫した。

 頼朝は千葉氏を頼り、千葉県鋸南町竜島目指して神奈川県足柄下郡真鶴町から船で退いている小松石は、この頼朝船出の地真鶴町の産する西日本のアジ石に相当する名石である。
 源希義公を顕彰する会”

“土佐藩主山内氏と源氏とのかかわり

 初代土佐藩主山内一豊の祖は、藤原鎌足に出、平将門征伐の藤原秀郷に続きその6代後の首藤助通は、源頼義の郎党7騎の1人に数えられます。

 さらにその3代後の俊通は4代目俊綱と共に北鎌倉の山内庄を領し、初めて山内氏を称します。
 この俊綱の妻は、源頼朝の乳母摩摩局である。”
【写真左】周辺部
 希義の墓があるのはこの写真の右側の丘陵地だが、前段で紹介した横山城は、左側の小丘陵地で写真には写っていない。

 おそらく当時は右側の丘陵地が左側(住宅が見えるところ)の方まで伸び、横山城は北側に突出した位置にあったものと思われる。

 なお、冒頭で紹介した「介良城」も含め、希義の墓や横山城があったこの地域は、鎌倉時代には南方の鉢伏山(H213m)を頂点とする島嶼であったと考えられる。

 そして、その西隣には五台山(H:139m)の孤島が、そして南側には現在の下田川が西から東にむかって瀬戸を造り、その南岸には大畑山(H:143m)を西の起点として東の国政付近まで長く伸びた島嶼の南麓が、太平洋の荒波を防波していたものと思われる。
 
 従って、横山城などは海城であり、この海域には多くの船が航行していたものと考えられる。


【写真左】西養寺跡と源希義墓地
 耕作放棄地となった畑を進み、数か所の墓が点在している所から、右(東)に折れると、やがて西養寺跡並びに、希義の墓地とされる箇所に突き当たる。

 墓(無縫塔)の箇所の上の段には祠が祀られているが、この墓所のさらに下には神社も鎮座していた。


説明板より

“西養寺跡無縫塔

 無縫塔は無辺際の宇宙を表しており、禅宗に発する。西養寺跡無縫塔は花崗岩製の単制無縫塔で、台石の上に請花、さらにその上面に八葉の蓮弁を刻する。塔身正面には種子を刻した月輪の痕跡が見られる。
【写真左】源希義の墓(無縫塔)













  この型の無縫塔は京都市大徳寺開山塔(建武4年:1337)を古例とし、14世紀半ばから15世紀にかけて成立した。以後時代とともに形状を変えていくが、本無縫塔は形状から、県内における数少ない室町時代の無縫塔のひとつと思われる。

 石塔は本来、供養塔としての意味を持つが、この無縫塔が誰のために建てられたのかは明らかでない。『吾妻鏡』には、西養寺が源頼朝の弟・希義の菩提を弔うために建てられたとある。この地が『西養寺文書』に記されている西養寺跡に当たることから、地元ではこの無縫塔を源希義の墓として祀り伝えている。
  1994年12月 高知市教育委員会”
【写真左】点在する五輪塔
 近くにはご覧のような五輪塔が10数基並んでいる。
 希義の随臣者たちのものだろうか。
【写真左】介良を中心に東西に点在する史跡を紹介した配置図















◎参考投稿

大津・天竺城(高知県高知市大津)
吉良城(高知県高知市春野町大谷)

2014年1月21日火曜日

久礼田城(高知県南国市久礼田字中山田)

久礼田城(くれだじょう)

●所在地 高知県南国市久礼田字中山田
●築城期 不明
●城主 久礼田定祐
●高さ 168m(比高130m)
●指定 南国市指定史跡
●遺構 空堀、土塁、郭その他
●登城日 2013年12月25日

◆解説(参考サイト『城郭放浪記』等)
 高松方面から高知自動車道を南下していくと、南国ICの手前で、谷を隔てた左手に段差の多い丘陵地を使って造られたゴルフ場(パシフィックゴルフクラブ)が見えてくる。
【写真左】久礼田城の空堀と土塁
 当城の見どころの一つである。












 南北に伸びた高知自動車道は、距離は短いものの、上下とも40本前後というトンネルだらけの道で、後半の土佐山田町(香美市)にある曽我部トンネルを抜けると、やっと解放された気分になる。

 この辺りから道は南進から西進へと少し向きを変え、このゴルフ場を含めた丘陵地はいわば間口となって、次第に大きな開口部を見せ始め、東西に広く伸びた高知平野と、天気のいい日には土佐湾を介した太平洋の大海原(おおうなばら)が迎えてくれる。

【写真左】久礼田城南麓から広がる高知平野
 南南西の方向を俯瞰した景観で、おそらくこの中に長宗我部氏居城の岡豊城が入っていると思われる。
 その奥に見える地平線の先は土佐湾。

 
 さて、件のゴルフ場に山城・久礼田城があることは知っていたが、当城に登城するためにはゴルフ関係者でないと入場できないだろうと半ばあきらめていた。その後、しばしば参考にさせていただいている桁外れの登城記録を持つサイト・「城郭放浪記」氏の投稿によって、部外者でも立ち入ることができることが分かった。いつもながらの感謝である。
【写真左】ゴルフ場から見た久礼田城
 ゴルフ場の駐車場に停めて、すぐに向かうことができる。
 登城口はこの写真の左側にある。




現地の説明板より

“久礼田城跡

 久礼田氏の先祖は、長宗我部氏と同じ秦氏であるといわれ、長宗我部三代忠俊の弟忠孝が分かれて久礼田に住み、久礼田氏を名乗ったのが始まりとされているが、定かでない。築城年代も不明である。しかし、城跡は往時のままに残され、中世の山城の原型を今によく伝えている。

 元親の時代になって久礼田城の城主として久礼田定祐が登場してくる。久礼田定祐は、元親とは一族の間柄でもあり、元親の信頼も厚く重臣として活躍したことがうかがえる。
【写真左】縄張図
 下方が北を示す。
およそ長径100m×短径50m程度と小規模な城砦であるが、周辺部がほとんどゴルフ場のため改変されているので、当時はこの周りにも多数の郭などがあったものと思われる。



 長宗我部検地帳によると、久礼田氏は、455筆、39町6反20代4、5分の土地を給され、久礼田村の検地地積70町のうち過半数を領し、近隣にもかなりの土地を所有している。また定祐は「土佐物語」や、「元親記」の中に連歌の上手、和歌の達人とも記述されている。

 長宗我部元親は、天正2年(1574)土佐一条家4代兼定を豊後に追放したのち、その子内政を大津城に迎え、自分の娘を内政の妻にした。そして、大津城で政親が生まれた。のち天正8年(1580)の波川玄蕃による謀叛に加担した疑いにより、元親は内政を伊予に追放した。
【写真左】登城口付近
 北端部にあり、左側にある説明板の横から登っていくが、すぐに城域に入る。







 元親は一条家の家督を継いだ幼い政親を久礼田定祐の一族に養育させた。母と共に久礼田に移り住んだ政親は「久礼田御所」と呼ばれた。館は現久礼田小学校の敷地、中の土居と呼ばれるあたりだったと伝えられている。政親は慶長5年(1600)長宗我部氏の滅亡によって、20年を過ごした久礼田から京か大和に退去したといわれているが、消息は不明である。久礼田城の歴史と共に土佐一条家もここに消え去った。
【写真左】土塁と空堀・その1
 登るとすぐに土塁と空堀が控えている。北側面はこうした空堀と土塁を駆使して次第に登り勾配となっている。

 このまま時計方向(左方面)へ進み、先ず二ノ段に向かう。


 久礼田城は標高168mの山頂に、卵型の相当広い詰めの段があり、その西と南に狭長な腰曲輪がある。さらにその東から北にかけて、空堀や堀切が確認される。
 詰の段の下には二の段が築かれ、共に塁跡が囲んでいたとおもわれる。久礼田城は、詰めを中心に部分郭が隣接する連立式山城で、中規模クラスの相当堅固な構えであり、戦国動乱期には本山氏の南進を拒む重要な役割を担っていた。
【写真左】土塁と空堀・その2
 一般的な山城の空堀はかなり埋まっているものが多いが、久礼田城は当時の状況に近いものを残している。

 深さは高いところでは5m位あるだろうか、見ごたえがある。
 写真の右側には二ノ段が控えている。


 久礼田寺山の在天寺跡の近くに久礼田定祐夫妻の祠が残されて、位牌が安置されている。定祐の位牌には、天正6年戌寅2月13日卒去 戒名 法号『在天定祐禅定門』と記されている。

 久礼田城跡は、久礼田部落とパシフィックゴルフ場の援助によって保存されています。なお今回の整備は「高知NPO地域社会づくりファンド」の助成によるものです。

  平成23年1月”
【写真左】二の段に向かう。
 土塁の天端を進んでいくと、このエリアの空堀は終わり、少し下がってから再び上に登っていくと二ノ段に向かう。

 なお、この位置は東の角に当たるところで、左側に二条の竪堀遺構があるということだったが、木立に囲まれて明瞭でない。

土佐秦氏

 説明板にもあるように、久礼田城の城主久礼田氏の祖は、長宗我部氏と同じく土佐秦氏の流れを組むという。

 土佐秦氏は、その名が示す通り中国始皇帝秦王朝という古代支族が源流となり、大和飛鳥時代に至って秦河勝が聖徳太子の任を受け、蘇我馬子が物部守屋を倒した際、その武勲によって信濃国に領地を宛がわれた。これが信濃秦氏の始まりで、その後信濃更級にあった秦能俊が土佐国に入り、長宗我部能俊と名乗り長宗我部の始祖となったといわれる。
【写真左】二ノ段
 左側の主郭との間には浅い堀が巡らされている。5,6m四方の規模で北側を扼する位置になる。

 なお、二ノ段の北西端からは、土塁が主郭北側まで約40m伸びている(下の写真)。
【写真左】二の段から主郭北側に伸びる土塁
 この辺りの堀は浅いものとなっているが、当時はもう少し深かったものと思われる。





 長宗我部の姓は、当時あった土佐国岡郡宗我部の地名から来たものといわれているが、確証はない。

 また土佐国に入った時期についても諸説紛々である。
 古いものでは、延久年間(1069~73)ごろ、さらには保元の乱において敗れて讃岐に配流された崇徳天皇(崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)参照)に属した者の一部が土佐国に入ったという説や、さらに下った鎌倉期の承久の乱において、後鳥羽上皇に与した仁科氏を当地(信濃国)で降した際、その功によって土佐国地頭として下向したという説などが挙げられている。
【写真左】詰ノ段・その1
 いわゆる主郭となる箇所で、中央部平坦地の規模はさほどないものの、周囲を取り巻くなだらかな土塁部も含めると、長径25m×短径20m程度は確保されている。




一条内政(ただまさ)

 土佐一条氏についてはこれまで度々取り上げてきているが、前稿波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)でも触れたように、長宗我部元親が一条氏の領地であった土佐西部である幡多郡・高岡郡を凌駕しつつあったころ、一条兼定は長宗我部氏と最後まで一戦を交えようとしたが、利あらずとみて、和睦を勧めていた家臣らによって隠居させられ、代りにその子・内政が家督を継いだ。その処置の裏では当然ながら長宗我部氏の意向が働いている。
【写真左】詰ノ段・その2
 虎口付近の箇所で、西側の土塁は特に高く構成されている。







 隠居を余儀なくされた兼定ではあったが、その後復権をめざし舅であった豊後の大友宗麟(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)を頼るべく豊後水道を渡った。

 宗麟は婿である兼定を後押しすべく、地元豊後の水軍(浦辺水軍など)に命じて渡海させ、さらには南予で兼定に味方する法華津氏・御庄氏らを糾合、天正3年(1575)7月、当時渡川と呼ばれていた四万十川において兼定軍と、長宗我部軍が激突することになる。
【写真左】詰ノ段・その3
 当該郭の片隅には「久礼田城」の石碑が設置されている。








 戦いは渡川を挟んで、西岸に一条氏側が3,500、東岸には長宗我部軍が7,300余騎の陣を構えた。戦力に勝る長宗我部軍は、寄集めで指揮系統も乱れがちな一条氏軍をわずかの期間で打ち破ったという。

 こうして兼定まで続いた土佐の公家大名・一条氏は、事実上の没落を余儀なくされた。その後、元親は説明板にもあるように、娘を内政に嫁がせ、長宗我部氏の居城・岡豊城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)から南に約4キロ下った大津御所(大津・天竺城(高知県高知市大津)参照)に入れ置き、代わりに実弟吉良親貞を一条氏の居城であった中村城に入城させた。
【写真左】詰ノ段から南方を俯瞰する。
 久礼田城は標高170m弱の比較的低い山城だが、眺望は頗るよく、展望エリアが広い。

 このことから東方の安芸氏などと戦っていたころは、岡豊城の物見櫓的役目があったものと思われる。


 これらの処置がほぼ完遂したことにより、元親は土佐国を平定し、その後阿讃方面への侵攻が始まることになる。

 ところで、大津御所に入った内政であったが、前稿波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)で紹介した波川玄蕃が長宗我部氏に対し謀叛を企てた際、この内政も加担したと嫌疑をかけられ、伊予に追放された。

 元親は、敵対する一族には徹底的に誅滅する手法をとっている。他の戦国領主は硬軟織り交ぜ、武力・調略・和睦などといった手法をとっている場合が多く、敗れた者でも能力のある武将は被官として召し抱え、戦力として使っていった。しかし、元親には長宗我部氏一族のみが信頼たるものと見ていた節がある。
【写真左】パシフィックゴルフ場
 久礼田城の位置はゴルフ場の入口付近にあり、主郭(詰ノ段)からは、東方に向かってゴルフ場が伸びている。

 おそらく場内の頂部にも物見櫓的な遺構があったかもしれない。


久礼田城の位置

 冒頭でも紹介した通り、当城の位置は南国土佐の平坦部に差し掛かる入口付近にあたるが、添付写真にもあるように、長宗我部氏の居城・岡豊城の北方に位置している。

 元親が後に阿讃攻めを行う際、阿波の白地大西城(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)に在陣することになるが、その往来として現在の徳島北街道(R32 )が使われたと思われ、久礼田城はおそらく岡豊城の補助的な役割を担ったものと考えられる。
【写真左】帯郭
 詰ノ段の南端部隅から急傾斜の道を降りていくと、東側から回り込んでいる帯郭に至る。

 この郭はこのままぐるっと詰ノ段を囲繞しながら、最初の登城口まで伸びる。
【写真左】空堀と土塁
 当該遺構部で最大の規模を誇る個所で、空堀底部から詰ノ段までの比高は20m以上あるものと思われる。

 この写真では右側が詰ノ段切崖、左側は巨大な土塁となった箇所。

 なお、この箇所手前にはさらに低くなった箇所に小規模な郭が堀を介して残っているようだが、木立に囲まれ明瞭でない。

2014年1月18日土曜日

波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)

波川玄蕃城(はかわげんばじょう)

●所在地 高知県吾川郡いの町波川
●築城期 天正初年(1573年)頃
●築城者 波川玄蕃頭清宗
●高さ 171m
●遺構 土塁、郭、虎口等
●指定 いの町保護文化財 記念物(史跡)
●備考 波川本願寺
●登城日 2013年12月25日

◆解説(参考サイト『城郭放浪記』等)
 波川玄蕃城は、現在の吾川郡いの町の南西端にあって、北東麓には仁淀川が流れ、その対岸から東へ約8キロほどのところには、朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)が位置する。
【写真左】波川玄蕃城遠望
 狭く、ガードレールもない急坂・急カーブになった道を車で登ると、南側に立派な駐車場がある。

 運転に自信のない人や、大きな車の場合は麓の本願寺辺りに駐車して歩いてきた方がいいかもしれない。

 写真はその駐車場から見たもの。
 


現地の説明板より

“伊野町保護文化財 第17号 昭和46年2月25日指定
記念物(史跡)
波川玄蕃城跡   所有者 伊野町

波川玄蕃城は、天正初年(1573年頃)波川玄蕃頭清宗が築城したものである。
 清宗は、長宗我部元親の妹婿であったが、元親に謀叛を企てたといわれ天正8年に阿州海部(徳島県海部町)で切腹を切らされたと伝えられる。
城は清宗の死後一族が元親に亡ぼされて消滅したものと推定せられている。

 この城は、山城であって海抜171mにあり、周囲にめぐらした土塁が現存している。
 西北隅、及び西南に出入口の跡があり、本丸の下段に二の丸がある。
       伊野町教育委員会”
【写真左】主郭の下段附近
 旧二の丸といわれていたところで、駐車場から尾根伝いに伸びる道を登っていくと、そのままこの位置にたどり着く。

 歩道整備されたせいか、遺構がどの程度まで残っているのか不明。
 主郭はこの写真の右側の切崖を登っていく。
【写真左】虎口付近
 少し傾斜のある階段を登ると、すぐに主郭入口の虎口が待っている。








波川清宗

 波川清宗は、説明板にもあるように長宗我部元親の妹を妻として迎えている。これは、元親の父国親の時代から側近として仕えていたことからである。国親の時代、一条兼定を下した功績によって国親の娘を迎え長宗我部一族の家臣となった。

  ところで、毛利氏が伊予国に進出し始めたのは、永禄10年(1567)頃である。これは長年の敵であった山陰の雄・尼子氏居城月山富田城が、その前年の永禄9年11月ついに落城し、一応の目途が立ったことから動き出したものである。
【写真左】石碑と説明板
 主郭の脇に設置されている。このあたりが丁度三角点になる。







 毛利氏の四国における動きが始まる前、四国では南予地域を巡って、伊予の河野通宣と、土佐の一乗兼定が激しく争い、これに地元宇和郡の西園寺氏や、喜多郡の宇都宮氏らが絡んでいった。

 一条氏はもともと長門・周防の大内氏と強いつながりを持っていたが、大内氏が滅ぶと、九州豊後の大友氏と結ぶようになった。
 そうした情況の中、河野氏や一条氏のどちらにも積極的に与していなかった西園寺氏や、宇都宮氏らは両者から盛んに牽制をうけることになり、永禄10年頃から伊予河野氏の重臣来島通康(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)や、平岡房実(荏原城(愛媛県松山市恵原町)参照)らが南下してきた。
【写真左】土塁で囲繞された主郭
 主郭はご覧のような高さ3m前後の土塁で囲まれている。
 横10m×縦15m程度のもので、比較的小規模な主郭である。
 中央には現在電波塔のような施設が建っている。


 ところで、河野氏の重臣来島通康の妻は小早川隆景の養女(宍戸隆家の娘)で、毛利氏が弘治元年の厳島合戦において陶晴賢を破った際、通康の水軍に負うところが大であった。

 そして、通康らが南予支配(対一条氏の前線基地)の拠点として宇和・喜多両郡の境目の城・鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)を築いて間もない頃、通康は急病に罹り、その後道後に帰陣するも死去してしまった。
【写真左】北端部の郭
 主郭から再び降りて、北側の郭に向かう。帯郭状の遺構で、二の丸の一部とも思える。






 河野氏の中心人物でもあった通康の急死は同氏一族にとって大きな痛手となり、果たせるかな、この虚をついて土佐一条氏の一雄津野定勝が幡多衆を率いて伊予に攻め込んだ。
 
 このころ、出雲の尼子氏を降して間もなかった毛利氏だが、一方では北九州において大友方との抗戦も続き、同氏にとっては伊予にもまとまった援軍を直ぐに送ることができない状態であり、これに対処する毛利方の方針もすぐにはまとまらなかった。
【写真左】波川玄蕃城から東方を望む。
 当城の北側から東にかけては、四国三大河川の一つ仁淀川が大きく迂回している。

 手前の谷には後段で紹介している波川氏菩提寺の本願寺があり、前方には、清宗亡き後、残った一族が、長宗我部元親と戦い討死した鎌田城が見える(未登城)。


毛利氏の伊予出兵

 このため、小早川隆景は先ずは重臣の乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)を先発隊として伊予に送り込んだ。そのころ最大の窮地に陥っていた来島一族の村上吉継が守備する鳥坂城では、津野定勝や菅田(大野)直之ら一条氏軍の猛攻を受けていた。
【写真左】北方を見る。
 玄蕃城の北方約1キロの位置には、麓城という小規模な城塞が見える。当城については詳細は不明だが、玄蕃城の支城と思われる。

 波川氏の出自については諸説あるが、蘇我氏の後裔・蘇我国光が建久年間に当地に下向し、その後当地名である波川氏を名乗ったといわれている。このため、近くには蘇我神社が祀られている。




 宗勝が支援に入るや、忽ち形勢は逆転、その後吉川元春・小早川隆景らが伊予に南下していくと、瞬く間に宇都宮氏の本拠(地蔵嶽城・後の大洲城)を含め、主だった一条氏の西予方面における支配地が毛利方に奪取された。永禄11年(1568)4月のことである。

 この戦いのあと、毛利軍はしばらく伊予に留まり、一条氏の動きを監視するべく、また一方では、九州・豊後大友氏の戦況を睨むため、松山市の西方に浮かぶ興居島(ごごしま)に在陣した。そして毛利氏が本拠地安芸に帰ったのは5月上旬といわれている。
【写真左】波川玄蕃菩提寺・本願寺
 玄蕃城の東麓に建立されている寺院で、同氏の菩提寺といわれる。
 現在は無住のようだ。





伊予の梟雄・菅田(大野)直之

 さて、この毛利氏による伊予国支援の動きに際し、鳥坂城攻めで一条氏に属していた菅田(大野)直之については、戦国時代の伊予国における梟雄(きょうゆう)の代表格といえるだろう。

 元々大洲に本拠を持つ宇都宮氏の家臣であったが、後に主君(舅)を暗殺(別説あり)し、宇都宮氏の居城地蔵ヶ嶽城(後の大洲城)を手中にした。その後、河野氏の猛攻に遭うと早々と降伏し、当時河野氏の筆頭家老であった直之の実兄・直昌(なおしげ)を頼り、河野氏の配下となることを条件に自刃を免れた。しかし、もともと一条氏(後に長宗我部氏)に属していたこともあって、その後再び長宗我部氏に寝返った。
【写真左】墓石
 波川家一族が滅んだものの、地元の方によって供物や花などが手向けられている。







清宗に対する元親の処置

 このとき、波川清宗は長宗我部氏に帰順しようとした直之を無視したらしく、さらに毛利方が伊予国境を越え、土佐国へ進攻しないことを条件とした和睦を小早川隆景と結んだという。しかし、清宗がとったこの行為は、元親の逆鱗に触れ蟄居させられた。

 梟雄・直之の度重なる寝返りや、それまでの行動は清宗の耳目に当然入っており、許容できる範囲を超えていたのだろう。そのため、救いの手を差し出すことを憚ったと推測される。

 しかし、毛利方と結んだ和睦は独断であったため、元親にとっては看過できないものとなり、厳しい処置を取らざるを得なかった。
【写真左】五輪塔群
 石積みと五輪塔が混在したような光景だが、どちらにしても夥しい数である。
 鎌田城で討死した波川一族のものと思われる。


 この処置に不満を抱いた清宗は、その後の天正7年(1579)、謀反を企てたるも露見し、逃れて当時阿波国海部にあった元親の実弟香宗我部親泰を頼ったが、望み叶わず自害を遂げた。

 なお、清宗亡き後、残った一族は鎌田城(いの町波川フルオチ・写真参照)において籠城し、長宗我部軍と交戦したが衆寡敵せず、ほとんどが討死したという。

◎関連投稿
三滝城(愛媛県西予市城川町窪野)