2017年1月11日水曜日

吉良城(高知県高知市春野町大谷)

吉良城(きらじょう)

●所在地 高知県高知市春野町大谷
●指定 高知市指定史跡
●別名 弘岡城
●高さ 116m(比高110m)
●築城期 不明
●築城者 不明(吉良氏か)
●城主 吉良氏、本山氏、吉良(長宗我部)親貞
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●登城日 2015年5月6日

◆解説(参考文献 『吉良城跡発掘調査 概要報告』昭和59年度 春野町教育委員会編、『春野 歴史の百景』宅間一之著等)
 土佐・吉良城は、土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)でも述べたように、高知市の春野町にあって、朝倉城から南西方向におよそ4.5kmの位置に当たる。
【写真左】吉良城遠望
 吉良城の西側にある大谷という地区から撮ったもので、吉良城からさらに尾根伝いに北に進むと、東西に伸びる吉良ヶ峰(最高所H:249.5m)に繋がる。



現地の説明板より

“春野町史跡 吉良城跡

 土佐戦国の世、吉良氏は三千貫を領した「土佐の七守護」の一人でした。しかし、1500年頃から吾南をめぐる戦国の風雲は激しくなり、1540(天文9)年頃にはすでに北からの本山氏に滅ぼされています。しかし、その本山氏も1563(永禄6)年には長宗我部元親の軍勢に追われます。城の支配は、吉良、本山、そして長宗我部氏と変わっていきます。
【写真左】登り口付近
 大谷集落の東側に進むと、柿の木畑のようなところがあり、そこに案内板が設置されているので、ここから入っていく。




 城跡は、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心とする北曲輪群と、111.5mの南ノ段(南嶺)を中心とする南曲輪群にわかれます。厳しい切崖に囲まれた詰からは、掘立柱建物跡や、周縁部に柵列も発掘されています。南北両曲輪の周辺には多くの曲輪群や、何条もの雄大な堀切群、それに畝状竪堀や竪堀群の遺構がそのままに中世城郭の姿を伝えています。
 山下にはニノ構や三ノ構などの地名を残す土居跡や、家臣団の邸跡、寺院跡もある数少ない貴重な中世の史跡です。
      春野町教育委員会”
【写真左】ここから尾根に取り付く
 途中まで谷間を進み、右手に近道の案内標識もあるが、かなり急峻なので、少し谷間をあがったところに「吉良城↗」の標識がある地点から登る。




春野

 吉良城が所在する春野町は、2008年に現在の高知市と合併する前までは、吾川郡内の弘岡上ノ村・弘岡中ノ村・弘岡下ノ村・仁西村・森山村・西分村・平和村が合併してできた同郡春野村が前身である。

 天平勝宝7年(755)、土佐国吾川郡桑原郷野夜恵が調として絁(あしぎぬ:古代日本にあった絹織物の一種)を献上したとき、国史上初めて吾川郡の名が記録されている。
 当時、吾川郡の大野郷が東大寺の封戸(ふこ)で、この地が出す租の半分と調(ちょう)、庸(よう)の全部を東大寺に支給する義務を負っていた。東大寺の大仏造立開始が天平19年(747)といわれ、大仏鋳造終了後、大仏殿の建設が竣工したのはそれから11年後の天平宝字2年(758)であるので、まさに東大寺建設中に貢がれた記録である。
【写真左】「チリいれ」と書かれたドラム缶
 尾根にたどり着くと、いきなり青いドラム缶が目に入った。

“すみよい町づくりは あなたの手から  チリいれ  寄贈 歴史公園建設期成同盟会 1977、2,13”

 と記されている。凡そ40年前の昭和52年に設置されたということになる。このドラム缶を見ると、当時の地元住民の思いが伝わってくる。


吉良氏

 吉良氏については、以前紹介した源希義墓所(高知県高知市介良)でも述べたように、源頼朝の実弟希義の末裔といわれ、希義の子・希望が父亡き後、介良から西へ15キロほど向かった仁淀川東岸の春野弘岡の地で基盤を固めたとされる。なお、希義が拠った介良(けら)は、元々「気良(きら)」といい、これが転じて吉良氏を称したのに始まる。
【写真左】尾根を直登
 「チリ入れ ドラム缶」から上を見上げると、ほぼ直線の尾根が見える。ここを直登する。






 ところで、以前紹介した大津・天竺城(高知県高知市大津)の中で、
 「土佐の天竺・吉良(介良)、三河の天竹(天竺)・吉良とほぼ同じ地名が隣接して所在していることになる。これは単なる偶然ではないだろう。明らかに両国当該地との密接な関連があったものと考えられるが、残念ながら詳細は分からない。」 と記していた。

 その後調べてみると、凡そつぎのような経緯であったことが分かった。
 すなわち、建久5年(1194)、希義の遺児・希望が、希義の旧友夜須行宗(七郎)に伴われて、鎌倉幕府将軍頼朝に拝謁した。これにより、頼朝は最終的に希望が甥(希義の子)であることを認め、土佐国吾川郡に数千貫を与え、さらに三河国吉良荘(現:愛知県西尾市)に馬の飼場三百余貫を下賜したという。このことから、土佐と三河両国に同名の地名「吉良」が残ったものと思われる。
【写真左】小郭段
 単調な尾根を登っていくと、やがて小郭で構成された段が出てくる。
 下段でも述べているように、この位置が南郭群の最初の箇所で、この位置に3段の郭が構成されている。



 さて、戦国期における吉良氏の動向は、土佐・朝倉城の稿でも述べているが、土佐・七雄の一人に数えられ、特に吉良宣経は文武両道の善政を施す名君と讃えられた。

 しかし、その子宣直の代となる天正9年(1581)、北から進出してきた本山氏(本山城(高知県長岡郡本山町本山)参照)の攻略によって滅ぶことになる。吉良氏を滅ぼした本山氏ではあったが、そのあとすぐに長宗我部氏の軍門に降り、本山氏も倒された。長宗我部元親はその後、実弟の親貞を養子として吉良城に入れ、宣直の女を妻として、吉良親貞と名乗らせた。
【写真左】尾根分岐点
 登城口から登ってきた道は西側に伸びる尾根だが、この位置で、東へ50m程伸びる尾根と、北曲輪群へ向かう尾根とに分かれる。
【写真左】犬走り
 登ってきた尾根の分岐点北側斜面を見ると、犬走りが確認できる。どのあたりから始まっているのか分からないが、おそらく下段の小郭が設置された箇所あたりだろう。

 このあと、先ず南東に伸びる郭群に向かう。



遺構

 吉良城の発掘調査は、昭和35年に当時の春野町時代に町の史跡として指定され、その後昭和59年から5カ年計画で国・県の補助を受けて学術調査などが行われている。しかし、その後復元整備等も含めた保存整備構想も設定されたが、具体化に至らないまま今日に及んでいるという。
【写真左】東の尾根
 南郭群の東に伸びる箇所で、尾根幅は大分狭まり、写真の左側斜面は絶壁に近い切崖である。






 残念ながら昭和59年度に春野町教育委員会によって作成された『吉良城跡発掘調査 概要報告』書でも、縄張図が作成されていないため、詳細な遺構は詳らかでないが、説明板にもあるように、概要として、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心とする北曲輪群と、111.5mの南ノ段(南嶺)を中心とする南曲輪群に分けられる。

 南曲輪群に向かう西方斜面には5条の竪堀があり、そのうちの一つが現在の登城道となっている。そこから更に上に向かって3段ほどの曲輪が続き、南曲輪群の南端部から城下となる春野の集落が俯瞰できる。
【写真左】巨大な穴
 少し進むと突然巨大な穴に遭遇。一瞬井戸跡かと思ったが、この場所では山の構造上水脈はないと思われるので、狼煙台か、又は近年掘られた塵溜め用のものかもしれない。




 北曲輪群へ向かう尾根の途中には、当城の最大の見どころである大堀切が仕切られ、南郭群からの侵入を断ち切る。

 詰の曲輪は北曲輪群の方に設定され、東西20m×南北40m規模の楕円形のものとなっている。

 また特筆されることは、この北曲輪群の主郭付近までは、標高が111m(又は116m)という低い山城でありながら、尾根上に構築された郭群の縁周囲は、極めて急峻な切崖で構成されていることである。そして、吉良城の北方に聳える吉良ヶ峰から伸びてきた尾根筋上にもかなり大きな竪堀や堀切があり、北からの攻めにも対応している。
【写真左】南東端部
 先端部に小さな祠が祀られている。この辺りになると尾根幅は大分狭く、3~4m程度となっている。
【写真左】春野の田園と仁淀川を見る
 この東端部から南方を俯瞰すると、春野の田園が広がり、その奥には蛇行した仁淀川が見て取れる。

 因みに仁淀川対岸は土佐市になるが、以前取り上げた土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)は、吉良城から徒歩で6キロ余りと予想以上に近い位置になる。
【写真左】井戸跡か
 先ほどの位置から再び戻り、北曲輪群に向かう。軸線が北に変わる地点で尾根は人為的に削られたように4~5m位低くなり、その始点ではご覧の様な大きな窪みがある。先述した「巨大な穴」とは違い、井戸跡らしき遺構である。
【写真左】堀切・その1
 吉良城の見どころの一つ、巨大な堀切である。

 この写真でも分かるように、尾根幅も丁度狭まった位置で設置されている。
【写真左】堀切・その2
 下から見たもので、高さは7m以上あるだろう。竹を使った橋が設置されているが、大分年数が経っていたため、渡るのを躊躇したが、なんとか未だ使えた。
【写真左】本丸の東側
 堀切を抜けさらに北の尾根を進むと、やがて東面に石垣が見える。本丸である。

 吉良城に残る石垣や石積遺構は主としてこの本丸を囲繞する箇所に多く残っており、このほかにも小規模ながら点在しているが、この石垣はその中でも特に顕著なもの。
【写真左】本丸の土壇
 前述したように、本丸(北曲輪群・詰曲輪)は東西20m×南北40m規模の楕円形をなし、南側にはこの土壇が設置されている。長さは尾根幅の制約もあって短いが、土塁の機能を有している。
【写真左】土壇から本丸を見る
  発掘調査された跡のためか、予想以上に整理されている。

 参考までに、本丸付近で以前行われた調査で出土した遺物としては概ね次のようなものが報告されている。

土師質土器  402
青磁        9
白磁          31
染付          40
備前          6
瀬戸天目         1
  計     489(量・片)
【写真左】北側から本丸を見る
 平滑に仕上がっている。
 このあと、右(東)側に犬走りが見えたので、そこに向かう。
【写真左】本丸北の郭
 犬走りを降りて北に向かうと、本丸を取り囲むように郭がある。
 大分竹が繁茂しているため奥の方までは向かっていないが、規模はかなりあるようだ。
【写真左】西側から本丸を見上げる。
 このあと、この西側付近から更に西を見ると、別の箇所に3条の堀切が見えたので、そちらに向かう。
【写真左】一条目の堀切
 下山してから分かったのだが、この尾根が北の吉良ヶ峰から伸びてきたもので、この箇所に3条の堀切を設けている。
【写真左】二条目の堀切
【写真左】三条目の堀切
 3か所の堀切とも良好に残っている。

 このあと下山し、登城口まで戻り、屋敷跡・菩提寺跡といわれるところに向かう。
【写真左】屋敷跡付近
 吉良城の西麓全体に屋敷や菩提寺など吉良氏関係の建物があったとされているが、現在は畑や民家などが点在し、当時の面影は消えている。



その他の城砦

 春野町には吉良城以外に残る城砦としては次のものがある。

  1. 芳原城 … 虎口をはじめ掘立柱跡。出土品として、銅碗・硯・土師質土器・備前瀬戸物・白磁・赤絵の碗・下駄・ヒシャク並びに明応2年(1493)記銘の札(護符)等。
  2. 木塚城 … 城主木塚左衛門(伝承)、堀切・竪堀など、南北朝期の山城
  3. 西の城 … 吉良城の西方谷を挟んだ位置にあり、弘岡上城八幡を祀る。標高50m
  4. 森山城と森山南城 … JAはるの森山支所の裏山が森山城。土豪森山氏居城、のちに吉良氏となり、その後一条氏、弘治3年に本山氏、永禄3年には長宗我部氏の居城となる。森山南城は別名「シロトコ」と呼ばれ、直径20mの詰を持ち、二ノ段及び大規模な堀切あり。
  5. その他

1 件のコメント:

  1. 土佐芳原城主と徳之島芳原姓縁御存知でしょうか?

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