2013年12月2日月曜日

白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)

白地・大西城(はくち・おおにしじょう)その1

●所在地 徳島県三好市池田町白地
●築城期 平安末期~鎌倉時代初期
●築城者 近藤京帝(大西氏)
●城主 近藤(大西氏)、長宗我部氏
●高さ 標高100~150m
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 今稿の白地・大西城については前稿でも述べたように、池田・大西城を居城としていた小笠原氏が吉野川下流部の方へ移住していくと、白地・大西城(以下「白地城」とする)の城主大西氏が池田・大西城を支配していったといわれている。
【写真左】白地城跡
 旧「かんぽの宿」があったところで、現在「あわの抄」という温泉施設に代わっている。

 この付近が白地城の主郭など主要な場所があった所といわれているが、ご覧の通り全く改変され、遺構らしきものも見いだせない。
 南側から見たもので、建物奥に見える山は吉野川対岸の讃岐山脈。



 現地の説明板・その1

“白地大西城址

 白地大西城は田井庄(四国中央部)の庄司近藤氏が建武2年(1335)この地に城を構え、郷名をとって大西と改姓し、政を取って以来8代(250年)にわたる居城である。大西とは阿波の最西地を意味し、往時この地は土佐、讃岐、伊予の各地に通ずる兵事交通の要路であり、大西氏は外に出ては大剛、内にあっては民治に意を用いた領主であった。

 天正3年(1575)長宗我部元親は阿波侵略を開始し、南方の海部氏が最初に領土を奪れ、天正5年(1577)には大西氏も防戦かいなくその所領を侵され、城主大西覚養は身を以て讃岐麻城に難を避けた。
 元親は白地城に入りこれを改修して根拠地とし四国統一の志をなしとげた。その後元親は天正13年(1585)豊臣秀吉の四国遠征軍との戦いに破れ、土佐に退いた。

 以来、大西城は廃城となったが、最近に至るまで旧城の最高地の削平地から堀、武者ばしり等が残存し、往時を偲ぶことができた。”
【写真左】説明板・その1
 あわの抄敷地内に建っている。










 上掲した説明板は、白地城の主郭付近といわれた跡に建っている旧かんぽの宿(現あわの抄)の敷地に設置されたものだが、これとは別に白地公民館脇に設置された当地の歴史を概説した説明板もあったので、紹介しておきたい。
【写真左】白地公民館付近
 「あわの抄」(主郭付近)から少し下がった北東部にあって、この付近から標高が高くなっている。
 この辺りは二の丸的な役目を持った郭群だったと思われる。



現地の説明板・その2

“白地の沿革
 
 中世に白地は西園寺の荘園田井之庄の館として荘官近藤京帝(1150年頃)がこの地に居を構え城を築いたのが白地城のはじまりである。近藤氏は大西氏に改姓、白地落城までの約400余年郡内はおろか、西讃東予に力をのばし善政をしき禄高2~5万石の城主として住民の信頼を得てきた。

 長宗我部元親の侵攻(1577)後彼も白地城を修築しここを根城として8年間四国全土に号令した。
 近世に入り蜂須賀入国と同時に白地渡船番所を置き、国境警備に当たった。この番所についたのは池田士で月番勤務した。

 一方白地の磯は川船の港として一応の終点として繁栄し、川岸に巨大な常夜屋が建設されていた。近代に入り平田船が総計35、六艘就業し80戸の生計を養い、陸路は馬路川沿いに荷車が讃岐へ伊予へ、また川沿いには川口へと物資を運んだ。
【写真左】説明板・その2
 白地公民館の隅の方に掲示されている。







 また明治時代吉野川上流から伐りだされた木材を白地渡しの上で筏に組み込まれ、これを徳島方面へ運搬した。大正から昭和初期にかけて白地木材労働組合が結成されて、白地は木材輸送の根拠地でもあった。また大正3年岡田式渡船が導入されて往来は隆盛を極め、渡し沿いの下道には54、5軒の旅館が軒を並べて繁栄した。それが三好橋開通(昭和2年)川池バス開通(昭和9年)土讃線開通(昭和10年)と共に往時の活況は夢とついえさり、戦後昭和50年池田ダムの完成により白地渡しは湖底に沈んだ。

 しかし、昭和42年阿波池田簡易保険保養センター建設、昭和47年池田第一中学校校舎建設、昭和51年池田大橋の完成により活気を呈しつつある。
   (昭和59年・3)”
【写真左】白地公民館・小学校付近
 写真の右側の高くなった辺りが「あわの抄」(主郭)付近になる。







 ご覧の通り、上掲した二つの説明板を比較すると、白地城の築城期については合致していない。
 
 結論から言えば、下段の説明板・その2が示すように、また、麻口城(香川県三豊市高瀬町下麻)田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも述べたように、近藤氏が築城、若しくは館を構えたのは平安末期すなわち、久安年間末期(1150年頃)と思われる。ちょうど保元の乱(崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)参照)が始まる頃である。、

九条家と西園寺家

 白地地域は鎌倉前期には、田井之庄の荘園があったところとされ、その領有者は西園寺氏とされている。当地が同氏の所領として確立したのはおそらく、西園寺氏中興の祖といわれた公経(きんつね)の時と考えられる。そして、同氏とさらに深い関係を持っていたのが、摂関の九条家である。
 
 九条家は、平家滅亡後も積極的に鎌倉幕府と関係を持ち、朝廷との橋渡し役を行っている。このことは朝廷内でもっとも発言力を高めていった。しかし、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)でも述べたように、承久の乱が起こる前、後鳥羽上皇は当時もっとも幕府寄りといわれた九条兼実を建久7年(1196)関白・氏長者の地位をはく奪、九条家一族を排斥した。そして九条家の代わりにライバルであった近衛家の基通が関白となり、源通親が朝廷の実権を握ることになる(建久7年の政変)。

 こうした動きの後、承久の乱がおこるが、乱後一時的ではあるが摂関政治が復活する。この中心人物が、建久7年の政変で失脚した兼実の孫・道家である。道家は承久の乱において倒幕方には与していなかったが、摂政を罷免されるものの、北条政子が亡くなった後、岳父であった西園寺公経の援助もあって、関白に任命される。しかし、四条天皇の急逝によって、幕府側が推す後嵯峨天皇が決まると、道家は外戚の力を失うことになる。これに代わって力を強めたのが岳父西園寺公経である。
【写真左】「あわの抄」から西側を見る。
 整地されているため、判断がつかないが、西側の山までの東西幅は想像以上に長い。





 公経は乱後の貞応元年(1222)に太政大臣、翌2年には従一位に昇進、関東申次に着任するなど、幕府と朝廷の橋渡しを行った。さらに、孫娘を後嵯峨天皇の中宮へ入れ、これがのちに持明院統が幕府と深い関係を持つきっかけとなる。

 そしてさらには朝廷人事を意のままに操り、次第に周囲から怨嗟の声が上がるようになる。貴族から武者の支配となりつつあった時代である。公卿として生き残るための保身術は、公経にとって徹底した打算と我欲がなければならなかったのであろう。同時代を生きた公卿・平経高は、彼を評して「世の奸臣」と記した(「平戸記」)。
【写真左】歌碑
 この歌碑は中世の史跡とは直接関係ないが、先の大戦中に作曲されたもののようだ。
「梅と兵隊」というタイトルが刻まれている。





大西(近藤)氏と小笠原氏

 前置きが大分長くなったが、今稿の白地は、こうした流れを持った西園寺氏の荘園である。田井之庄の荘官・近藤氏も当然ながら西園寺氏から派遣された人物だったのだろう。

 ところで、この近藤氏がその後、姓を大西氏と改姓しているが、大西という名称は、南北朝時代に至って、阿波国三好郡の西部を総称して呼ばれたという。このことから、姓を大西氏と改姓したのは南北朝期と思われる。
【写真左】白地城北端部から東方を見る。
 次稿で紹介する予定の八幡神社・八幡寺附近から見たもので、R32 号線とR192号線を結ぶ池田大橋や、左奥には徳島自動車道の「へそっ湖大橋」が見える。



 ここで再び話は遡って恐縮だが、承久の乱以前に当地の守護職として任命されていたのは佐々木経高である。

 経高の兄・定綱が、近江・石見・長門の守護職並びに隠岐国地頭職を得たのは建久4年(1193)の暮れであるから、おそらく経高が阿波国守護職を得たのもこの頃だろう。

 承久の乱においては、宇多源氏佐々木氏流でありながら、幕府側につかず、後鳥羽上皇側に属した。このため、上皇側の敗北によって、自害の道を選んだ。
 佐々木氏が阿波国の守護職としてあったとき、近藤氏がどのような状況になっていたかわからないが、おそらく一時的には佐々木氏の元に属していたのだろう。

 乱後、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波国守護職として任命することになる。ただ、前記したように、阿波国の中でも白地地域は既に承久の乱において西園寺氏は幕府方についていたため、当地を預かっていた近藤氏は、そのまま当地支配を維持し、吉野川の対岸池田大西を守護所(池田・大西城)として本拠を持つことになった新守護職・小笠原氏の傘下となったと思われる。

 当然ながら小笠原氏が入部するさい、近藤氏の協力が働いたことは想像に難くない。両氏はその後縁戚関係も度々重ね、100年後の南北朝動乱期においても四国南朝方の主力として活躍していくことになる。

 今稿はここまでとし、次稿では戦国期に至るまでの様子を概観したい。

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