2011年11月26日土曜日

土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)

土佐・朝倉城(とさ・あさくらじょう)

●所在地 高知県高知市朝倉字城山
●指定 高知県指定史跡
●別名 重松城
●形態 平山城
●高さ 102m(比高80m)
●築城期、築城者 不明
●城主 本山清茂
●遺構 郭・堀切・竪堀その他
●登城日 2010年3月18日

◆解説(参考文献「春野 歴史の風景」宅間一之著等)
 高知市西方を流れる鏡川の西、朝倉に築かれた標高100m余りの平山城である。
【写真左】朝倉城遠望
 朝倉城に向かうコースはやや分かりにくいが、国道33号線から高知大学方面に向かう県道38号線(高知土佐線)に入り、途中から坂道の多い団地の道路に入る。

 このコース以外にも道はあるかもしれないが、どちらにしても麓の道路は大変に狭くカーブの箇所が多い。

現地の説明板より

“県指定史跡
 朝倉城跡
 古くは重松城ともいう。長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的・地理的に重要なこの地に築城して、天文9年(1540)ここに移った。

 永禄3年(1560)に始まった長宗我部氏との激突は、数度に及んだが、勝敗は決せず、梅慶の後を継いだ子の茂辰(しげとき)は、不利な形勢と朝倉城死守の困難さを悟り、永禄6年(1563)1月、城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。

 詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っている。県内随一の規模を誇る中世城跡である。

平成元年3月   高知市教育委員会”
【写真左】朝倉城平面図
 標高は102mであるから平山城だが、その割に城域面積は約13haと規模が大きい。

 登城口は北東部・南部・西部の3か所があり、この日登城したルートは、右側の詰ノ段といわれる主郭側の西部から入った。
 主だった遺構は、堀切・土塁・竪堀・空堀などが残る。



 説明板にある本山城(高知県長岡郡本山町本山)、高知県のほぼ中央部の長岡郡本山町に所在する。

 本山町は、東隣に大豊町、西隣には土佐・和田城(高知県土佐町和田)や、土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)が所在する土佐町が隣接し、南北に長く北部は愛媛県の四国中央市と接する。このため町域全体が山林で覆われ、東西に吉野川が流れ、四国の山間部特有の深い谷間に街部を形成している。
【写真左】西側の登り口
 西側とあるが、ほとんど南側といった方がよさそうな位置になる。





 本山氏については、以前取り上げた長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)でも紹介しているように、戦国期前半の永正5~6年(1508~09)、当時周辺の有力国人として、山田・吉良氏と合力し、当時の岡豊城主・長宗我部兼序(かねつぐ)を攻め、兼序は自刃し、嫡男・千雄丸は、幡多の一条氏のもとに逃れたとされている。

 同氏の出自については諸説あり確定していない。主だった説を挙げると、「清和源氏吉良氏の庶流」というものや、平家の末裔などといわれている。
【写真左】棚田
 登城道はしばらく木立の中を歩いていくが、途中で、忽然と明るい景色が現れる。谷を隔てて棚田が見えた。





土佐七雄と一条氏


 ところで、土佐の国(高知県)を探訪する際、高知自動車道を車で走らせると、切り立った四国山脈を南北に縦断する40本前後のトンネルと、100箇所前後の橋梁を通過しなくてはならない。初めて通った時、あまりの数の多さに驚いたものである。

 時が移った現代の乗り物に変えても、中世、この国・土佐が陸の孤島とも呼ばれた理由を解することができる。このため、昔から罪人や戦に敗れた者の配流先ともなった。
【写真左】空堀と土塁
 朝倉城の特徴は写真のような空堀と土塁を駆使し、詰ノ段(主郭)をほぼ円周上に囲繞している遺構である。
 特に東側を中心に施工が残る。



 南北朝時代になると、四国東部を治めた細川氏が守護代となって土佐国を支配下に置くが、応仁の乱ごろより細川氏の衰退によって、在地豪族が独自の発展を遂げていく。そしてのちに彼らは、「土佐七雄」と呼ばれるようになった。
【写真左】広大な空堀
 図面上は空堀となっているが、事実上、郭としての役目を持ったものだろう。

 この日訪れた朝倉城は、詰ノ段の箇所以外は写真に見えるように、竹林が繁茂し視界は今一つだが、伐採すれば見事な山城の姿を現すだろう。


 土佐七雄の一族名称と当時の本貫地
  • 名称         支配地
  • 本山氏      長岡郡
  • 長宗我部氏   長岡郡
  • 大平氏      高岡郡
  • 津野氏      高岡郡
  • 香宗我部氏   香美郡
  • 吉良氏      吾川郡
  • 安芸氏      安芸郡
なお、この七雄とは別に、以前にも取り上げた土佐一条氏が幡多郡(現在の四万十市)に最大の所領を持ち、七雄を超える土佐の盟主となっていた。
【写真左】詰ノ段(主郭)・その1
 詰ノ段は整備され、見通しがいい。
 規模は長径30m、短径20m程度か。





本山氏と吉良氏

 さて、朝倉城だが、説明板にもあるように、当城は本山氏の居城とされている。

 最初に居城としたのは、本山茂宗とされ、それまでの本拠城であった本山城(本山町本山)は、息子の茂辰に譲っている。
 茂宗はその後、長宗我部兼序を攻めた際の協力者であった南方の吉良氏の支配する土佐・吾川両郡を攻略しようとする。
【写真左】詰ノ段(主郭)・その2
 主郭跡には写真にみえる樹木が植えてあるが、おそらく桜の木だろう。
 残念ながら、主郭の周囲は木立が遮り、眺望はあまり芳しくない。



 このため、吉良氏は前記した土佐の盟主・一条氏に援軍を求めた。
伝承では、吉良駿河守は一条氏の支援を得ることを確約され、大いに悦に入り、仁淀川で「鵜飼いの宴」を計画した。

このことを知った本山氏は、密かに700余騎を二手に分け、一つは吉良氏の本城・吉良城(高知県高知市春野町大谷)へ、もう一つは宴の場所である仁淀川の「如来堂」に差し向けた。
【写真左】土塁
 詰ノ段に残るもので、位置的には北東部にあったものと記憶している。

 高さは約1m程度で、部分的に低くなったところもあるが、経年劣化だろう。



 「如来堂」が宴たけなわになったころ、吉良氏の老臣・中島近江守が大盃をとり舞を舞おうとしたところ、突如本山氏の300余騎がどっと押し寄せ、駿河守をはじめ吉良氏の主だった面々や、本城・吉良城もあえなく落城したという。
【写真左】城八幡宮
 詰の城の隅に祀られている。









朝倉城

 本山氏が吉良氏を攻略し、土佐の南方の平坦地に進出したころ、本城としては朝倉城を置き、主だった支城としては、長浜城、浦戸城を重要な拠点とした。

 これは、永禄3年(1560)ごろにはすでに、北東部にある岡豊城の長宗我部氏が、本山氏の領地を度々攻撃してきていたからである。
 同年(永禄3年)5月、長浜表の戦いでは、本山茂辰は浦戸城を死守できず、朝倉城へ退却した。
それから本山氏と長宗我部氏の戦いは、約3年にわたって繰り広げられることになる。
【写真左】詰ノ段から下段の郭を見る
 杉と竹林の混在した状態で、今一つの光景だが、規模はかなり大きなものだ。



 永禄5年(1562)9月、家督を相続したばかりの長宗我部元親は約3000の兵を率いて、朝倉城に攻め入った。

 その後戦いは長引き、最後は長宗我部氏による本山氏家臣への懐柔策が功を奏し、翌永禄6年(1563)1月、茂辰は城に火を放ち、朝倉城は落城、茂辰らは本山氏の本拠城長岡郡の本山城へ奔った。
【写真左】井戸跡
 詰ノ段の下にあったもので、現地の説明板を転載しておく。







“朝倉城の井戸について

 この井戸は、詰ノ段から北西へ一段下がった所に残存している。南国市の長宗我部氏の居城である岡豊城でも、詰ノ段と二ノ段との接続部に井戸が設けられており、同じような配置である。

山城では、水は食糧とともに籠城のときの生命線であるので、水源の確保のために井戸を掘り、その井戸に上屋をかけてきびしく管理していた。
 地元の古老の言い伝えによれば、井戸は渇水期でも枯れることはなかったという。井戸水は、朝倉城が廃城となった後には、農業用水として重宝がられていた。

 現在の井戸は、昭和21年(1946)の南海大地震で周りの石積みが崩れたために、地元の人々が積みなおしたものである。
 平成13年3月 高知市教育委員会”
【写真左】詰ノ段から西方の茶臼ヶ森方面に向かう。
 詰の丸から200m程度西方に向かうと、「茶臼ヶ森」という出城形式の城砦がある。


この写真はそこに向かう途中の写真だが、このエリアは、図面以上に変化にとんだ遺構が残る。

 写真ではわかりにくいが、途中で極端に尾根を細めた「土橋」と切崖を巧みに配置し、窪みのような空堀を数か所設け、「茶臼ヶ森」と「詰ノ段」の往来を困難にさせている。
【写真左】茶臼ヶ森付近
 茶臼ヶ森跡は全く整備されていないので、紹介しないが、その奥に伸びる平坦地にこのような畑地が見えた。

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