2013年12月23日月曜日

土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)

土佐・蓮池城(とさ・はすいけじょう)

●所在地 高知県土佐市蓮池字土居
●築城期 嘉応2年(1170)
●築城者 近藤家綱
●城主 近藤(蓮池)家綱、藤原国信、大平氏、一条氏、本山氏、吉良親実等
●形態 平山城
●高さ 30m(比高20m)
●指定 土佐市指定史跡
●備考 城山公園
●登城日 2013年7月2日

◆解説
  土佐・蓮池城は、仁淀川の西岸土佐市の城山公園にあって、平安後期に築城された平山城である。当城から約10キロ余り北東へ向かった仁淀川対岸の位置には、以前取り上げた土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)があり、当然ながら朝倉城とも深いかかわりがあった。
【写真左】蓮池城
 北側を走る土佐市バイパス56号線から南に枝分かれする細い道を入ると、消防署の前を通る。すぐその反対側に2,3台駐車する場所がある。

 この日は、雨のため足元が泥濘あまりいいコンディションではなかったが、城山公園とされた蓮池城の要所には、アジサイが雨に打たれて色鮮やかに咲いていた。


 現地の説明板より・その1

“蓮池城の興亡

 ここに城が定められたのは、嘉応2年(1170)平氏の家人近藤家綱(蓮池権頭)が、平氏荘園の守護として居城したのに始まり、その後源頼朝の討手に滅ぼされた。

 建久3年(1192)藤原国信が居城して大平氏を名乗り、広大な勢力圏を形成し、文化面でもすぐれた活躍をした。

 天文15年(1546)、幡多一条氏が東進し、大平氏を滅ぼし、一条氏の番城となったが、弘治3年(1557)には本山氏が一条氏を撃退して城を奪った。

 永禄3年(1560)、長宗我部氏と本山氏の争いが起こり、これを機に一条氏が城を奪回した。永禄12年(1569)弘岡城主吉良親貞が一条氏を追い、その子親実が城主となったが、長宗我部盛親の継嗣問題で元親の逆鱗に触れ、親実は自刃し、こうして400年余、戦国武将が興亡を繰り返してきた蓮池城の歴史は、幕を閉じた。”
【写真左】案内図
 現地は城山公園として整備されたため、当時の状況をどの程度まで保存したものか分からないが、本丸跡と思われる箇所が、左側中央の展望広場で、そのから下(南東方向)に延びる中央広場・自由広場などが二の丸と思われる。

 また、さらに下がった削平地は三の丸や、大小の帯郭形式の形態をもった城砦であったと考えられる。


現地の説明板より・その2

蓮池神社

“この神社は、蓮池権頭家綱公を祀る。嘉応2年(1170)平氏の家臣近藤家綱が平氏荘園の守護として蓮池城を創建し蓮池姓を名乗った。
 善政により権頭に任せられた後、越知町柴折に刺客の手に倒れ遊行寺に葬られた。以来八百数年目に御霊を故山に迎えたものである。

  昭和52年4月24日
    土佐市郷土誌研究会…(以下略)”
【写真左】東側に伸びた削平地
 おそらく二の丸の一部と思われる郭跡と思われる。








近藤家綱(蓮池権頭)

 蓮池城の築城者は平家家臣・近藤家綱といわれる。これは後段で詳述するように、平安時代末期、公卿・大炊御門家の藤原経実の四男・経宗が承安元年(1171)から文治5年(1189)まで土佐国を知行していたことからによる。

 平治元年(1159)12月、源義朝・藤原信頼らは院御所を襲い、上皇を内裏に移し天皇ともども幽閉した。これに対し、平清盛は官軍となって鎮圧、翌2年義朝の子・頼朝は伊豆へ配流、その弟希義(まれよし)は土佐国介良(けら)荘へ流罪となった。
【写真左】南側に伸びた箇所・その1
 上掲の削平地よりも規模は大きく長い。この辺りで約1m程高くなる。






 嘉応2年(1170)、権大納言に復帰していた平重盛は、七男・宗実を当時左大臣であった土佐国知行の藤原経宗の猶子とした。

 おそらくこのころ、近藤家綱は土佐に赴いたと思われる。なお、この近藤氏も、以前取り上げた阿波の白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)の近藤氏(大西氏)と同族の可能性が高いと思われる。
【写真左】南側に伸びた箇所・その2
 途中に馬渕重馬先生頌徳碑というのがあり、そこから少し西側に向きを変えて、20mほど伸び先端部に出る。
 郭の長さではこの箇所が最も長いようだ。


 治承4年(1180)8月、源頼朝は平家追討の決意を固め伊豆に挙兵した。このころ土佐に流罪となっていた希義は、地元の土豪・夜須七郎行宗(ゆきむね)の庇護を受けていた。そして、頼朝挙兵の報は土佐の希義らの耳目にも触れ、彼らも源氏再興の狼煙を挙げようとした。

 ところが、この動きを事前に察知していた近藤(蓮池)家綱らは、これを阻止するため、希義を殺害した。時に寿永元年(1182)といわれ、希義が殺害された場所については、現在の南国市にある年越山附近といわれているが確定していない。
【写真左】帯郭
 先ほどの先端部から見えたもので、比高7,8mはあるだろうか。整備されているので何とも言えないが、この箇所は険峻な切崖と思える。


 希義を殺害した家綱ではあったが、説明板・その2にもあるように、その後越知町柴折において、伊豆右衛門有綱と夜須行宗に討取られた。

 ところで、家綱が討取られた越知町柴折という場所だが、管理人が調べるところでは、現在当地には折という地名はなく、また遊行寺という寺院は現存していないようだ。ただ、地名として(小字名か)「遊行寺」というのがあり、その麓を流れ、仁淀川に合流する「坂折川」という支流があるので、「柴折」ではなく、「折」ではないかと考えられる。
【写真左】本丸に向かう。
 手前の広場が「さくら広場」といわれた箇所で、おそらくこの付近に虎口などがあったのだろう。

 この位置から本丸まではご覧の階段が設置されている。高さは10m弱か。


大平氏

 土佐・大平氏については、以前朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)でも取り上げたように、室町後期に至って、土佐七雄の1人といわれた。

 頼朝が征夷大将軍となった建久3年(1192)、蓮池城の城主は藤原国信となった。国信はその後、姓を藤原から大平氏と名乗る。この大平の姓名はどこから来たものだろうか。

 大平姓については、出典元は不明ながら、近藤氏の始祖が駿河国廬原郡(庵原郡)(現静岡市清水区大平)大平郷にあったことから、大平姓を名乗ったとされている。
 しかし、この説には確定したものがなく、むしろ後段に示すように、上掲した越知町に関係した土地から名乗ったのではないかと考える。
【写真左】本丸跡
 長径30m×短径20m程度の楕円形の郭で、その奥には蓮池家綱を祀る神社が鎮座している。






 国信は藤原秀郷の系譜に繋がるという。そして、実兄は同国高岡郡尾川郷に入部した近藤元国だとされる。

 尾川郷というのは、現在の越知町の東隣町佐川町の本郷耕(ほんごうこう)となっているところで、前記した越知町五味の遊行寺の南方の山を越え3キロを隔てたところである。そして、この五味遊行寺の西隣の地名が、「中大平」と「大平」である。このことから、国信は元々この越知町大平の出ではないかと考えられるのである。
【写真左】蓮池城の石碑
 「土佐市史跡 蓮池城址」と刻銘された石碑で、本丸の片隅に建立されている。








鞠ケ奈呂陵墓(天皇陵参考地:横倉神社)

 ところで、遊行寺のある五味の横倉山(H:774m)には平知盛一族が安徳天皇を奉じて潜伏したといわれる鞠ケ奈呂陵墓(天皇陵参考地:横倉神社)が所在している。(安徳天皇陵墓参考地・横倉山(高知県高岡郡越知町五味・越知)参照)

 平家の落人が四国の山間地に逃れたという伝承は数多く残っているが、その中でもこの越知町の横倉山を中心とした区域には「越知町平家会」という団体も作られている。
【写真左】蓮池(近藤)家綱権頭を祀る祠
 これとは別に左側にも祠がある(下段写真参照)
【写真左】別の社殿
 雨のため近くによって撮った写真ではないが、確か「八幡宮」と書かれていたように記憶する。
 八幡宮であれば、鎌倉期以降城主となった大平(藤原)氏を祀ったものだろう。

 なお、この日は時間がなく、訪れていないが、これとは別に当城(城山公園)の東尾根筋に、「吉良神社」が建立されている。



 こうしてみると、平家落人が居た場所に、鎌倉幕府が開かれて間もなく、藤原氏近藤流の大平氏がいたと仮定すれば非常に興味深い話となる。もしそうであれば、当然ながら大平氏は、平家落人を誅滅する義務があったのだろう。しかし、その処置は行われず、当地で落人達は生き延びた。

 こうしたいきさつを考慮すると、そのときの大平氏の務めは、ほとんど戦意が消失した平家を監視する役目があったと想像される。
【写真左】蓮池城から土佐市街地を見る。
 この日は密度の濃い霧雨が朝から降り出し、土佐の町並みは霞んで見えた。





 そして、当地・大平に入った近藤氏は、平家落人の再興の動きがないことを確認したうえで、蓮池城へ入り、改めて最初の赴任地である大平の地から大平姓を名乗ったのではないだろうか。

 従って時系列的にこの間の動きを見るならば、文治元年(1185)に壇ノ浦で平家が滅び、越知町に落ち延びた平家を追うように、近藤氏が横倉山麓の大平に入り、それから約7年ほど落人の監視を行った上で、建久3年(1192)、地頭職と思われる役職をもって蓮池城に入城したのではないだろうか。
【写真左】本丸最頂部
 神社・祠の背後はさらに5,6m程度高くなった基壇状の高まりがあり、当時は物見段のような役割があったものと思われる。
 現在は電波塔のような施設が建っている。


室町期・戦国期

 ところで、後に土佐国の盟主となる土佐一条家は、応仁・文明の乱の最中、和泉堺からもともと所領していた荘園幡多荘へ下向することなる。

 このとき、一条家(前関白一条教房)を船で紀伊水道から土佐湾を経て幡多荘へ向かわせたのが、この大平氏である。

 こうして、鎌倉期に大平氏が当城を居城してから、約350年余り同氏の支配が続くことになるが、戦国期に至ると、説明板・その1にもあるように、当城を含むこの地域も度々支配者が替わることになる。

 前述したように、このころの土佐国は、土佐七雄が文字通り群雄割拠し、その頂点には、先ほどの幡多郡を本拠地とした土佐一条氏が盟主となっていった。
【写真左】南側を見る。
 当城は形態として「平山城」と記しているが、麓の土佐市街地は全体に低地にあり、鎌倉期ごろは南方を流れている波介川が当城の麓を流れていたのではないかと思われる。

 そして、城下には船溜まりとしての施設があり、本流仁淀川に一旦入り、そのまま土佐湾・太平洋へと航行する船影もあったのではないかと思われる。



  この頃の状況については、いずれ近隣の城砦を投稿する機会があれば、改めて述べたいが、説明板その1の中で書かれている弘岡城(吉良城)主であった吉良氏については、「吉良物語」の中で、同氏の遠祖が近藤(蓮池)家綱に殺害された希義、すなわち頼朝の弟であると伝えられている。

3 件のコメント:

  1. 大西覚養が白地城を追われた時に麻城=讃岐大平氏に身を寄せてますが、これは同じ近藤氏だからということですか。つまり、そもそも蓮池氏は平氏もしくは中央貴族の藤原氏(大炊御門家)の家人か何か(現地で荘官かなにかを請負い、武士団を構成できるほどの有力一族)であった近藤氏で、大炊御門家が平家とつるんだことで蓮池城主となった。大西氏も近藤氏で、荘官近藤京帝が白地に拠点を築いたのは1150年と保元の乱の六年前。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、希義の土佐配流(1160)、経宗の土佐知行(1171-1189)、蓮池氏誕生、希義殺害(1182)、土佐大平氏の蓮池城獲得(1192)。それで土佐大平氏は蓮池から10kmほどの越知町で名字を取った可能性が高い、と。何か、元々近藤氏族が四国中央部に繁衍していて、平家について栄えた惣領家をパッとしない土地にいた支族が源氏のクーデタに乗っかって追いやり惣領の座を乗っ取ったようにも見えますが・・・
    「貞観3年(861年)より土佐国高岡郡高岡郷の清瀧寺に入山した折、今村、田原、大平の三族が近習しこの地に土着したという伝承」とありますが、本山氏が(本姓八木氏)が紀貫之の土佐日記に既に名が出ているように、大平氏も古代からの氏族なのでは。大平=近藤=大西氏の広がり方を見るに、基盤となる一族は古代から四国中央部に繁衍していて、それが近藤を仮冒したか、中央との繋がりと持つために貴顕として近藤氏を受け入れたんじゃないですかね。

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    1. 拝復 砂人様へ

      拙ブログご覧いただきありがとうございます。

      砂人様より蓮池城及び近藤氏等に関わる御見解、並びに貴重なご意見をいただきありがとうございます。
      さて、投稿については3年前にアップしていることもあり、当方の記憶も大分あやふやな点があり、砂人様にご満足のいく返事になるのかわかりませんが、記憶を辿りながら述べたいと思います。
      なお、砂人様の文面から「質問事項」なのか、「ご本人の考察内容」なのか判断がつかない点もあり、すべての事項に対応した回答でないことをあらかじめお断りしておきます。

      本稿では出典を明記しておりませんでしたが、傍証の一つとしてウィキペディアを参考にしております。その中で、蓮池城を本拠とした大平氏については、「見聞諸家家紋」という史料をもとに、
       大平氏は「土佐之藤之大平 近藤国平末」とあるため、藤原秀郷より5代孫に当たる近藤太・脩行の5代孫・近藤国平の系統と考えられ、その国平は治承・寿永の乱に功があり讃岐守護に任ぜられる。そのため、讃岐国にも同族の国人領主が存在したと書かれています。

       詳細については、件の蓮池城・大平氏を検索していただくと、大要がご確認できると思います。

       もっとも、この「見聞諸家家紋」が成立したのが室町期足利義政時代ですので、作成に関わったとされる各国の守護大名でも、地元の歴史上の記録がすべて事実であったかどうかは担保されない点もあるでしょう。従って、砂人様も御指摘されているように、「仮冒」という偽称行為の一族もあったかもしれません。

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    2. その場で思いついたことを綴ったもので、雑談程度と受け取ってもらえば十分です。私が現地の国人に興味を持って讃岐・高知を城巡りをしたのは十年以上前で、蓮池城もその途次寄ったものです。讃岐では城とともに大平氏のご子孫の寺を訪れて話などもさせてもらいましたが、当時はネット上の資料も少なく、論文入手なども困難で、今になってこういう話を見ると、ああそういうことが色々あったのだなと思う次第です。

      私が調べた所では、仮冒とされるものは、古代~中世にかけて地場で有力になった一族が、武士(新興軍事貴族)の世になった際、地方貴族として生き延びるために婚姻・養子などで軍事貴族を受け入れて親戚化した結果が、貴顕を騙ったかのように見えることが多いと思っています。織豊時代以降の成り上がりなどは僭称も多いでしょうが・・・

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