2012年6月16日土曜日

風呂の嶧砦(島根県浜田市三隅町西河内 八曽)

風呂の嶧砦(ふろのえきとりで)

●所在地 島根県浜田市三隅町西河内 八曽
●別名 風呂ノ木砦(ふろのきとりで)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 当木四郎左衛門
●形態 丘城
●高さ 47m
●遺構 郭・空堀
●登城日 2012年2月28日

◆解説(参考文献『三隅町誌』等)
 風呂の嶧砦は、以前取り上げた石見三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)の数ある支城・砦の一つで、同じく支城の一つとしてすでに紹介した日本海側に築かれた針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)に近く、三隅川下流の北岸に築かれている。
【写真左】風呂の嶧砦本丸
 手前の台地が本丸付近で、奥に見える川が三隅川となり、さらに奥に見えるのが三隅氏本拠の三隅高城



現地の説明板より

“風呂の嶧(木)砦(ふろのえき(き)とりで)
 風呂の嶧(木)砦は三隅氏の居城であった高城山の北側に位置し、数ある支城・砦のひとつとして築かれ三隅川に沿う街道の守りを固める役割を持っていたものと考えられる。

 元亀元年9月(1570)毛利氏の進攻による三隅城の落城のおり、眼下の細田河原、納田郷(なったごう)の一帯は合戦場となり三隅氏の家老であった砦の城主当木(あてのき)四郎左衛門並びに八の木八郎右衛門とその配下は毛利軍に討たれ、この地に戦死したと伝えられている。
【写真左】三隅城(高城)本丸から北方に「風呂の嶧砦」及び「八の木砦」を見る。
 手前の三隅川河口には針藻城がある。



 今なお、砦の南側の濠の跡には、戦いに使用したとみられる石の堆積が残され、往時の合戦の様子が偲ばれる。

 風呂の嶧には、砦に松の樹を植えて塚松として守り、三隅氏の菩提寺である正法寺に両勇士の供養を行ってきた。

 砦の跡には、近年まで昔日を語るばかりに聳えたつ老松の姿を遠くから見ることもできた。
 三隅の郷を守るために命を賭して勇敢に戦い、戦死した主従の功を後世に伝え、公園とする。

  八曽自治会
   平成17年3月”
【写真左】三隅高城の支城・砦群配置図
 当城の本丸に設置された説明板に付図されているもので、詳細は下段に転載している。








三隅高城の支城・砦群

 三隅城(高城)の稿の際にも少し触れているが、三隅氏の本拠城の守りを固めるため、四周に多くの支城・砦が配置されている。風呂の嶧砦のある現地には、それを図示したものがあり、添付写真を参照していただきたいが、この図によると、
  1. 周辺囲繞城
  2. 境界囲繞城
の2種類に分類され、このうち風呂の嶧城は境界囲繞城の一つとして図示されている。
 写真では文字が小さいため、改めてそれぞれの支城名(砦名)を列記しておく。

(1)境界囲繞城
  1. 風呂ノ嶧砦      (今稿)
  2. 八の木砦
  3. 水来城
  4. 芦谷城(茶臼城)
  5. 井村城(井野城)   (2010年9月2日投稿)
  6. 陣場ヶ嶽砦
  7. 草井城
  8. 河内城         (2010年8月30日投稿)
  9. 茶臼山城       (2010年9月5日投稿)
  10. 普現田砦
  11. 針藻山鐘尾城     (2010年8月31日投稿)
【写真左】登城口付近
 高さが40m余と低いことや、砦形式のものであることから規模は小さい。


 しかし、現在整備されている箇所からさらに西に延びる丘陵上にも遺構が残ることから、東西総延長は300m前後あるものと思われる。



(2)周辺囲繞城
  1. 折居城
  2. 鳥屋尾城
  3. 猪股城
  4. 鷹の泊城
  5. 木束城
  6. 板井川端城
  7. 宇津川要害
  8. 古和城・その1
  9. 古和城・その2
  10. 屋原城
  11. 碇石城
  12. 大多和外城
【写真左】途中の郭段
 現地には植林された樹木があり、運搬用の道路が敷設されたこともあり、遺構の残存度は不明だが、主郭付近はあまり改変されていないようだ。


戦国期の三隅氏

 三隅氏については、三隅城でも紹介しているが、周防の陶晴賢が大内義隆に反旗を翻したとき、石見石西の主だった一族・益田氏及び三隅氏は、他の同国石見国人が毛利氏に従ったのに対し、両氏は陶氏に与同していた。

 というのも、吉見氏と長年対立していた益田氏は、毛利氏と与同していた吉見氏が居る限り、毛利氏に服属することはできなかった。
【写真左】本丸付近
 下の登城口からは歩いて5分程度ですぐにたどり着ける。


 本丸付近は緩やかな傾斜はあるものの、約20m四方の平坦地となっている。
 写真にみえる看板が冒頭で記した案内板。


 さらに三隅氏自身は、以前にも述べたように惣領家益田氏とも長らく敵対していたことから、本来は益田氏に与することも不本意なことでもあった。しかし、すでにころのころから三隅氏第14代・隆兼の力は衰え、益田藤兼が事実上三隅本城を支配し、毛利氏の攻撃を藤兼が七尾城と併せて受けることになった。ただ、この時点で三隅氏一族が完全に藤兼に降ったわけではない。

 ところで、益田藤兼が頑なに毛利氏に与しなかったもう一つの理由は、大内氏に対する恩義・忠節があったからである。しかし、弘治3年(1557)4月3日、養子とはいえ大内氏の後継者・義長が自害したことにより、大内氏に対する義理はなくなった。藤兼は三隅城を責めていた福屋隆兼を通じ、毛利氏への降伏を伝えた。

 さて、その後の三隅氏の動きだが、前述したように同氏14代隆兼は、このころ老齢となっており、事実上同氏一族の棟梁としての力はなく、同氏の家臣であった各支城の城主が、毛利氏及びその後同氏に与した益田氏との抗戦を続けていくようになったようである。

 今稿でも取り上げた「風呂の嶧砦」など三隅本城(高城)を囲繞していた支城・砦群は、三隅町誌によれば27か所以上を数えたという。当然、各城砦の城主がいたわけで、彼らが徹底して益田氏や毛利氏との抗戦を続けていくことなった。
【写真左】本丸から三隅本城を見る。
 冒頭で紹介した写真とほぼ同じだが、手前の焚火跡のようなものは、狼煙の跡だと思われる。
 
 近年、三隅本城を中心に当城も含め、主だった支城と一斉に「狼煙」を挙げる行事が行われ、近接の学校の子供たちが参加しているという。
 戦国期の地元の歴史を学ぶには、こうした実際の場に足を運び、実践することが一番いい思い出となるだろう。

 なお、この写真の三隅川の岸辺から少し上がった所に、この砦で討死した当木四郎左衛門らの墓があったらしいが、昭和58年の山陰豪雨災害によって跡形もなく流出してしまい無くなったとこのこと。

 たまたま当砦の麓にお住まいのO氏に逢い、三隅氏及びこの砦について貴重な情報を御教示いただいた。さらに三隅氏については自らまとめられた資料まで頂いた。この場を借りてお礼申し上げたい。


 天文21年(1552)、三隅隆兼は益田氏の軍門に降り、城下の誓いをしたという。しかし、実際には籠城していた家臣はそのまま城内に踏みとどまり、執拗な抗戦を続けている。

 以後の戦いについては、かならずしも史実に基づいていたかはっきりしない軍記物なども出て、混乱しているきらいがあるが、元亀元年(1570)に勃発した「三隅之役攻防」(三隅地方史研究会)の中に、当時の状況が記されている。
【写真左】空堀か
 本丸から北西に向かったところに見えたもので、この付近は整備されず竹などが生えているが、本丸の北側を囲むように東西に長く見えた。


 南側は三隅川という天然の濠を利用できるが、比高がさほどないため北側にはかなりの防御を施していたと思われる。


 これによると、攻囲した毛利軍は、児玉水軍を中心とした水軍15艘と、益田勢などが加わり、対する三隅方守備軍については、それぞれの支城において、陣が整えられた。
主だった三隅方の支城・砦は次の通り。
  1. 湊口城(針藻砦)
  2. 古市城
  3. 大多和外城
  4. 普源田城
  5. 鉢ノ木砦(八ノ木砦)
  6. 石田城
  7. 西山城(芦谷城)
  8. 三本松砦
  9. 今城鐘尾砦
  10. 宇山砦
  11. 龍門城(河内城)
  12. 茶臼山城
  13. その他
この中には今稿で取り上げている「風呂の嶧砦」は記録されていないが、当然含まれていたものと思われる。
【写真左】本丸から三隅本城(高城)を遠望する。
 当城が三隅川沿いに築かれたことを考えると、毛利方の戦力のうち、児玉水軍など船戦に長けた兵力が来ることをだいぶ前から察知していたのではないかと思われる。


 最初の防御は三隅川河口の「針藻城」で、ここが堕ちたら、第2弾としてこの「風呂の嶧砦」が防戦するという計画だったと考えられる。


 そして、結果としてこれら支城が悉く堕ち、児玉水軍などは三隅本城の麓まで船団を率いて攻略していったと思われる。そして、併せてさらに上流部の「河内城」まで舟で上って行ったと考えられる。


 なお、毛利軍の中に、元就はじめ吉川元春・小早川隆景などの名が見えないが、元就はすでにこのころ病が重くなり、戦場に赴くことが困難になっていた(途中から出雲を離れ安芸に帰っている)。元春・隆景は出雲において、山中鹿助らの尼子再興軍と激戦を交わしていたため、当地には赴いていない。
【写真左】本丸から東方に「八の木砦」を遠望する。
 八の木砦は登城していないが、風呂の嶧砦から東方へ約500m弱の距離にある。




 また、この攻防戦の大勢がいつごろ決したかを知る手がかりとしては、児玉水軍の動きがある。

 出雲国における尼子再興軍との戦いは、既述したように「三隅之役攻防」とほぼ同じ時期に繰り広げられ、同年(元亀元年)10月6日になると、「元就の名」によって、児玉就英に対し、「船を準備し早々に神西湊(出雲市湖陵町)へ赴くよう命じた」(「萩閥100」)とある。
 このことから、三隅表における戦いが概ねこの時期に雌雄が決していたことが想像される。

2012年6月11日月曜日

天道山城山・赤雁土居跡(島根県益田市赤雁)

天道山城山・赤雁土居跡(てんどうさんしろやま・あかがりどいあと)

●所在地 島根県益田市赤雁
●築城期 永享年間(1430年)ごろ
●築城者 益田弾正忠忠勝
●城主 赤雁益田氏
●高さ 30m
●遺構 郭・土塁・石垣
●登城日 2012年2月28日

◆解説(参考文献『益田市誌』等)
天道山城山・赤雁土居跡は、益田市の中心市街地から北東へ約8キロばかり、三隅町側へ向かった地にあり、麓を沖田川が流れ木部の港から日本海に注いでいる。
【写真左】天道山城山遠望
 現在の遺構は、山城というより丘城といった小規模な城砦である。


 手前麓の平地は(有)赤雁の里の農地。


 この史跡については、以前当ブログの読者登録をしていただいているmitsuzakuraさんから教えていただいていた。

また、現在この場所には、「農業・農村体験ができるふれあい楽校」というユニークな活動をしている(有)赤雁の里がある。

さて、現地の天道山城山には当城に関する説明板はないが、当城から南方200m地点の丘陵地に祀られた中山八幡宮由緒に赤雁益田氏の内容が示されている。
【写真左】中山八幡宮
 沖田川が大きく蛇行した内側に独立した丘陵地があり、この場所に祀られている。


 5代兼豊が建立しているが、その前は赤雁氏の城塞もしくは屋敷跡があったのではないかと思われるような位置にある。


“中山八幡宮由緒
  益田七尾城主代15代益田兼堯公の実弟益田弾正忠忠勝の実子兼治が、赤雁に館を占めてより赤雁益田氏の繁栄は、2代兼治、3代兼綱、4代兼順(かねよし)、5代兼豊へと続き、それぞれの当主は、伊豆守を名乗り七尾城の要職を勤めてきた。
 中山八幡宮は、5代兼豊の勧請により天正13年11月15日(西暦1585年)に創設されたものである。


 祭神
 本殿  誉田別尊
      気長足姫尊
      市杵島姫尊
 末社  大元神社
       圀常立神
      稲荷神社
       宇迦御魂神”
【写真左】中山八幡宮から天道山城山城を見る。
 中山八幡宮から北へ約200mほど向かった丘陵上に見える。







赤雁氏

赤雁氏は益田兼理の次子・忠勝の子・兼治に始まる。兼治は沖田川を挟んで、北岸に居館を設け、代々弾正左衛門尉、又は伊豆守を称した。兼治の長子・兼綱は跡を継ぎ、兼綱の弟宗秀は黒谷氏の祖となった。

参考までに同氏系図を下段に示す。
  1. 初代・弾正忠   忠勝
  2. 2代・伊豆守   兼治(赤雁氏祖)
  3. 3代・弾正忠   兼綱
  4. 4代・伊豆守   兼順(かねそう)
  5. 5代・中大輔   兼豊    ※兼豊の姉妹(女)は高津二郎左衛門の妻
  6. 6代・又右衛門  兼康
  7. 7代・与右衛門  政祥
  8. (以下略)
【写真左】天道山城山城
 東麓部から見たもので、手前左側は畑(「赤雁の里」)で、右側に田圃がある。


 当城の西麓部を沖田川が流れ、その向こうには西から伸びた尾根が川の手前で切断されている。


さて、上掲した中山神社とは別に、『益田市誌』によれば、明応年間に焼失し、兼綱の代に再建されたという「治野尾神社」が紹介されているが、所在地は分からない。

また、沖田川を下った国道9号線沿いにある東伝寺は、天文17年(1548)、4代・兼順が益田の妙義寺の末寺とし、寺領三石を寄進したといわれている。
【写真左】主郭付近
 頂部は小規模な郭群で構成され、北・西・南面は切崖状となっているため、ご覧の通り柵が設置されている。
 幅5m×長さ15m程度の規模。





赤雁兼豊の朝鮮出兵

説明板にもあるように、赤雁氏は代々益田氏の要職を務めていたとあり、藤兼の代には執権職を5代兼豊が任じている。

この兼豊は、秀吉の朝鮮出兵の際、益田元祥に従い従軍している。父・兼順の家督を継いだころ、所領は、地元赤雁村300石、吉田地頭職・領家職、飯田郡の内金地、遠田郷の内山崎、津毛郷の平太夫垣内、岡見郷の半分300石、飯田郷の内小浜浦の知行を得ている。
【写真左】主郭西端部
 既述したように小規模な城砦となっているが、ご覧の通り、西端部はもともと向こう側の尾根と続いていたものと思われ、後にこの尾根を切断し、川違いを行ったものと思われる。


 従って、向こう側の尾根にも城砦遺構があったものと思われる。
 おそらくこの川違いの場所には、堀切のような鞍部があったのではないかと思われる(下の写真参照)。

朝鮮征伐の文禄元年(1592)3月5日、一番渡りとして軍功を挙げ、当地在陣中には黒田長政の陣をしばしば訪れ、囲碁を楽しんだとも言われる。2回目の慶長2年(1597)にも渡海し、翌3年、竹山善棹から薬法の伝授を受け、朝鮮薬の製法についても造詣が深い。
【写真左】沖田川
 上記した箇所で、左側が天道山城山城で、中央に沖田川、右側が尾根


ちなみに、2回目の出兵(朝鮮の役)で、このほか石見から参加した者では、毛利輝元の家臣として従軍した江津の都野三左衛門家頼(「亀山城」2010年7月25日投稿)がいるが、彼はこの年(慶長2年)12月22日、蔚山城の戦いで戦死している。


赤雁土居跡

当城からさらに田圃をこえた丘陵地には、赤雁土居跡がある。現地では「赤雁益田氏屋形跡」と表示された説明板がある。

説明板より

“赤雁益田氏屋形跡
 永享年間の頃(1430年頃、室町時代中期)益田七尾城主第15代兼堯の弟、益田弾正忠忠勝を祖先とする赤雁益田氏が、日向山南麓に土居屋形を構築してから後、毛利氏と共に、萩・須佐に移住するまでの約170年間赤雁益田氏の繁栄は5代にわたって続いた。


 その勢力は東の美都町、北は三隅町岡見、西は益田市飯田町にまで及んだといわれている。
 その墓は「伊豆殿の墓」として称えられ、現在も大事に供養されている。”
【写真左】赤雁土居跡
 奥の山が日向山で、矢印の土居屋形には赤雁益田氏と関係の深い斉藤氏の家が建つ。


 斉藤氏の邸宅の周囲には、「鍛冶屋跡」「土居」「庵寺床」「益田家墓地」「門の下」といった史跡が点在している。 

2012年6月9日土曜日

雄鹿原の殿塚・郎塚(広島県山県郡北広島町宮地)

雄鹿原の殿塚・郎塚(おがはらのとのづか・ろうづか)

●所在地 広島県山県郡北広島町宮地
●建立期 永享年間
●形態 宝篋印塔・五輪塔形式
●探訪日 2012年5月23日

◆解説(参考文献『石見町誌・上巻』等)
前稿「大利城」のある雲月小学校から南西方向に向かう114号線(今福芸備線)を進むと、島根県浜田市から加計に向かう国道186号線と交差する地区に出る。この場所に雄鹿原小学校があるが、この付近には中世から近世にかけて少なくない史跡が点在している。
【写真左】説明板と郎塚
 所在地は、雄鹿原小学校の南方にある丘の上にあり、公園(グランドゴルフ場か)の一角に建立されている。


 なお、写真は郎塚で、殿塚はこの場所から数10メートル林の中に入った所にある(後段参照)。

今稿で取り上げる「殿塚」「郎塚」は、前稿「大利城」で紹介した「雄鹿原合戦」の時、敗退した栗栖氏のものといわれている。

現在当地雄鹿原には国道186号線沿いに、「雄鹿原 歴史の散歩道」と題した案内図が数か所設置され、今稿の「殿塚」「郎塚」のある場所にも設置されている。
【写真上】「雄鹿原 歴史の散歩道」案内板
 合併前に設置されたため、右下には「芸北町」となっている。


参考までに案内図に記されている史跡箇所は9か所で、以下の通りとなっている。
  1. 馬頭観音  牛馬の守り本尊として、今も人々に信仰されている。
  2. 地久院のしだれ桜  目通周囲3.2m、高さ10m、春の遅いこの地方にあって、田ごしらえのめやすとして人々に大切にされてきた。
  3. 亀山八幡神社  室町時代の創建で厳島神社より分詞勧進された。秋の大祭では五穀豊穣を祈願し、神幸渡御の神事が今に伝えられている。
  4. 金剛庵  江戸時代中期のお堂が今に残る。ホタルの群生地でもあり、独特の風情がある。
  5. 義農安左衛門の碑  江戸時代中期に起きた百姓一揆で、首謀者として捕えられ処刑された農民の徳を偲び建立された。
  6. 城岩  城岩山の頂上にある御影石。別名八畳岩という。ここから雄鹿原集落のほぼ全域を眺望できる。
  7. 固完杉  戦国時代、戦に破れ伊予の国を追われた河野固完が毛利輝元をたより、ここに知行を与えられた。屋敷跡に残る杉の大木。

【写真左】郎塚
 複数の墓石があったようだが、大分欠損したものが多い。
 中央には宝篋印塔形式のものがあり、その周囲には五輪塔形式のものが配されている。

そして、今稿の「殿塚」「郎塚」については、以下の説明がある。

“殿塚・郎塚

 殿塚は栗栖権頭の墳墓で、郎塚は従者7人の合葬塚である。この丘の麓の金剛庵で主従8人が自刃し、この地に埋葬されたのは永享年間(1429~1440)の中ごろといわれる。

 また、権頭を埋葬して幾年か後のある朝、狼峠の東の空を白馬に乗った権頭が城岩に向かったのを見たという噂が広まった。この頃凶作が続き、正しく権頭の祟りだと信じられ、亀山八幡神社境内に殿宮神社を建立したともいわれている。”
【写真左】殿塚
 郎塚から歩いてすぐ近くにあるが、木立の中に祀られている。
 墓石としてはこちらの方が欠損・劣化が進んでいる。




栗栖氏のその後 

 ところで、前稿「大利城」でも述べたように、栗栖権頭とは発坂城主・栗栖喜太郎親忠のことで、永享元年の雄鹿原合戦で自害し、同氏のほとんどが後を追ったとされる。

 しかし、親忠には朝丸という一児があり、合戦敗退の最中、末弟の栗栖芳親及び、家老の羽川豊前守の二人が彼を守り、福屋氏からの追手を逃れた。
 それから140年余の安土・桃山時代に至り、栗栖氏の後裔は吉川氏の配下に属し、再び戸河内を回復したといわれる。
【写真左】亀山八幡神社・その1
 説明板の№3で取り上げた神社で、厳島神社から分詞勧進された。

 もともと当地方の開拓者七郎右衛門が、西八幡原の山麓で神鏡を得て、この地に奉祀したことに始まるとされている。

 また、慶長12年(1597)、新庄日野山城主・吉川広家が社殿を再建し、その後今日まで幾度か再建整備され今日に至る。毎年9月29日に行われる「乙九日祭り」は名高い。
【写真左】亀山八幡神社・その2
 上記した「殿塚」「郎塚」の説明板にあった「権頭の祟り」だとされ、後に建立された「殿宮神社」。
 同社境内の右側に祀られている。

2012年6月8日金曜日

大利城(広島県北広島町大利原雲月小学校裏)

大利城(おおとしじょう)

●所在地 広島県北広島町大利原雲月小学校裏
●築城期 南北朝後期か
●築城者 福屋杢丞隆次
●高さ 標高H682m(比高100m前後)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年5月23日

◆解説(参考文献「石見町誌」等)
島根県の西部石見の国は大まかに区分けすると、東から石東、石央そして石西の三つに分かれる。このうち中央に位置するのが石央で、現在の浜田市を中心としたエリアである。
【写真左】北側から大利城を見る。
 この日(2012年5月23日)は、石見から向かったが、以前通った雲月山側の114号線(今福芸北線)ではなく、旭町都川の113号線(都川中野線)から入った。

 この写真は113号線と114号線が交差する雲月山分かれ側から見たもので、左麓には雲月小学校がある。



今稿の「大利城」は、石見国の石央に所在する今市城主福屋杢丞隆次が、南方の安芸国発坂城主であった栗栖氏を攻める際、当地(北広島町大利原)に築いた城といわれている。

現地の説明板より

天文21年、奥山庄の所領をめぐって起こった栗福合戦の際、石見国毛原庄今市城主 福屋木工丞隆次が、安芸国発坂城主 栗栖権頭親忠を攻める際、その本陣を築いた地であり、大利城と称していた。
 展望台からは、周囲の田園を望むことができる。”
【写真左】東麓に設置された案内板
 雲月小学校の東方に設置されている。









栗栖氏

安芸・栗栖氏についての確実な史料は見当たらないが、貞治5年(1366)すなわち室町幕府2代将軍・足利義詮晩年の頃、当地に「与一野年貢帳」という史料が残り、同氏の戸河内在住がこの頃といわれ、栗栖親忠の父親命(ちかのぶ)が、おそらく南北朝後期に下野国から当地に移住してきたものとされる。
【写真左】登城道
 登城口は上記の案内板から道路を挟んだ位置に階段があり、そこから歩いて登るが、速足だと5分程度でたどり着く。







大利城のある現在の北広島町大利原からほぼ南に下って、国道191号線に入りそのまま大田川の支流板ヶ川を下ると、戸河内の土居という地区に出る。この地区に築かれた発坂城(未登城)は、栗栖氏の本拠城といわれた。

親忠の代になると、戸河内・筒賀・加計など13カ村の大田庄、そして現在の島根県益田市・浜田市と接する北広島町の八幡原を中心とする24カ村の奥山庄まで君臨する一大勢力となっていた。
【写真左】本丸付近
 この日はご覧の通り雑草が伸び、遺構の確認が困難だったが、定期的に清掃はされているようだ。

 縄張り図などはないため、詳細は不明だが、中央部に本丸(長径15m、短径10m程度)を置き、南側に堀切を介して長い尾根上の郭段があるようだ。



福屋氏

 石見の福屋氏についてはこれまで、江津市の本明城(もとあけじょう)(島根県江津市有福温泉)福田城(島根県江津市有福温泉町本明福田)松山城(島根県江津市)、及び浜田市の家古屋城(かこやじょう)(島根県浜田市旭町)小石見城(島根県浜田市原井町)、邑南町の桜尾城跡・その1(島根県邑智郡邑南町市木)などで紹介してきているが、改めて整理しておきたい。
【写真左】展望台(本丸)
 本丸跡には展望台が設置されている。











 福屋氏は元々益田氏の支族である。益田氏の基礎を築いた兼高の三男・兼広が建治2年(1202)那賀郡跡市郷福屋を領し、福屋氏始祖となった。

 兼広はその後邑智郡の日和城を本拠とし、天福元年(1233)には同じ跡市の本明城に移り住むことになる。なお、福屋の姓を名乗ったのはこの本明城に入ってからとされている。そして、以後、横道・井田・堀等庶家を輩出していく。
 南北朝期には同族の三隅・周布氏と同じく主に南朝方として活躍し、北朝方であった惣領家・益田氏とは対立した。
【写真左】堀切
 この写真ではとても堀切遺構であることは分からないが、この位置から約5m前後の段差を持たせ、再び盛り上がって尾根が南にのびている。

 少し降りてみようとしたが、結構な傾斜のため途中で断念した。



雄鹿原合戦

 最初に指摘しておきたいことは、上掲した現地の説明板の下線部分で「天文21年」すなわち戦国時代に「栗福合戦」(雄鹿原合戦)があったと記されているが、この戦いはこの時期ではなく、応永年間から永享元年、すなわち1421~1429年のころである。

 石見の福屋氏と、安芸山県郡の栗栖氏との領有争いは相当前から行われていたようで、興国4年(1341)の雲月作戦における八幡高原での合戦などはその前哨戦とも考えられる。

 このころ、石見守護であった大内氏の支配力の低下があり、石見(石央)の安芸国との国境線付近はもっとも監視の届かない地域となった。このため当該地に所領を持つ地頭(国人領主)などは、各々が独自の道を歩み始めたため、こうした争いが生じたと考えられる。
【写真左】芸北町雲月地区案内板
 文字が小さいため判読が困難だが、この図には当城(大利城)での合戦のほか、雲月山に向かう114号線沿いに3か所の合戦跡が記されている。






  1. 鹿廻合戦
  2. 塔ノ峠合戦
  3. 宇津々木多和合戦


 当該合戦の引き金となったのは、雄鹿原の農民が栗栖氏の年貢の取り立てが厳しいため、石見の福屋氏の支配下に入りたいとの動機からであった。

 このため当初、両氏の領有境界変更の交渉が行われたが、これが成立せずついには交戦となった。戦いは応永28年(1421)ごろから始まり、以後8年間にわたって繰り広げられ、永享元年(1429)8月、雄鹿原合戦において栗栖氏が敗退し決着がついた。
【写真左】本丸から北東を見る。
 中央に見える道は、11号線(旭戸河内線)で、この道を進むと浜田来尾(きたお)に繋がる。






福屋杢丞隆次

 ところで、石見国毛原庄今市城主 福屋木工丞隆次という部将については、福屋氏系図では記載されておらず、不明である。ただ、時期を考えると、同氏第8代の氏兼のころで、当時福屋氏は、江津市有福温泉の「本明城」を本拠とし、支城の一つであった毛原庄今市城に福屋隆次がいたものと思われる。
ところで、現地では「木工丞」と記されているが、「杢丞」が正式な名称だろう。
【写真左】本丸から北を見る。
 当日当城に向かった道で、旭町都川に繋がる。








 なお、この毛原庄今市城の比定地については確実なことは分からないが、おそらく現在の浜田市旭町今市に「城山城」(H380m)という城砦が記録され、安芸の国に近いことからこの場所とも考えられる。

2012年6月1日金曜日

宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)

宮島・勝山城塔の岡
           (みやじま・かつやまじょうととうのおか)

●所在地 広島県廿日市市宮島町
●別名 厳島城・陶全姜陣所
●築城期 大永年間(1524年ごろ)
●築城者 大内義興
●形態 丘城
●高さ 標高15m
●登城日 2011年12月7日

◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』、池了著「毛利元就」等)

勝山城

 勝山城は、前稿「宮尾城」で述べた「厳島合戦」の際、陶晴賢軍が陣を構えた(居所)とされる丘城である。
【写真左】勝山城跡遠望
 手前が厳島神社で、その奥の丘陵部に現在多宝塔が建っている箇所である。


 現地には石碑が建立されているようだが、管理人は当地まで向かっていない。



 勝山城の比定地は、現在多宝塔が建つ場所とされているが、管理人は勝山城の比定地を厳島神社を挟んだ反対側の五重塔が建つ場所と思い込んでいたため、当城跡は踏査していない。

 築城者は大内義興とされ、大永4年(1524)ごろ安芸侵攻を目指した際築かれたという。この年の5月20日、義興は嫡男義隆と共に安芸国へ侵入、その頃尼子経久が支配していた当地の属城を攻撃していった。

これに対し、同年7~8月にかけて、経久は義興に対抗すべく、毛利元就と連合し、当時大内氏の安芸国支配の拠点であった銀山城(広島市安佐南区祇園町)を攻撃している。
【写真左】勝山城と塔の岡配置図
 現地案内板をもとに作図したものだが、勝山城と塔の岡を挟むように厳島神社が位置している。





尼子・新宮党の族滅

 下って弘治元年(1555)、厳島合戦において大内氏の家臣・陶晴賢を毛利元就は破り、中国地方の覇者の第一歩を歩むことになるが、元就が厳島合戦に集中できたのも、その前年の尼子氏謀略が功を奏していたからでもあった。
【写真左】新宮党屋敷跡
 所在地 島根県安来市広瀬町
 新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)、富田城の北東側宮谷にあったところで、経久の二男国久が党首となって尼子氏を支えた。




 その前年(天文23年・1554)11月、元就は尼子氏の内紛に絡んで謀略を計り、結果尼子氏の最強軍団であった新宮党の党首・国久及び誠久(さねひさ)は、当主晴久の手によって誅殺された。これによって、尼子氏は一気に勢力が衰えたため、元就は厳島に集中できたわけである。


塔の岡

 塔の岡は、現在五重塔や秀吉が増築したといわれる豊国神社が建っている場所で、陶晴賢軍は後に勝山城からこの場所に移動している。
【写真左】塔の岡・その1
 手前の低い場所が厳島神社側で、その向こう側に石垣を組んだ塔の岡がある。






  前稿でも述べたように、厳島合戦の前に行った元就の諜報合戦の中で、特に有名なのは「彼我の水軍に差があり、宮尾城を攻撃されても救援は無理だ。宮尾城を築城したのは自分(元就)の大失策だった。今は晴賢が宮尾城を攻撃して来ないことを祈るばかりだ…」というような内容を故意に晴賢側に漏らすようなことをしているというものである。
【写真左】塔の岡・その2
 東麓部から見たもので、麓には塔の岡茶屋という店もある。








 この話を晴賢が実際に耳にしたかどうかは別にして、ともかく晴賢は厳島を落とすことを決断した。

 もちろん晴賢側の全員がその情報を信じていたわけではなく、重臣の弘中隆包(たかかね)などは、元就の「おとり作戦」ではないか、それよりも元就の本拠安芸吉田を目指して、属城を攻めていった方がいいのではないかと進言したが、晴賢は「臆病風に吹かれたか」と、聞く耳を持たず決行したという。

 晴賢らは9月21日、厳島に上陸し、最初に勝山城を晴賢の居所とし、その後宮尾城を見下ろす「塔の岡」に本陣を置いた。
【写真左】塔の岡・その3
 五重塔


 現地の説明板より
“五重塔
一、重要文化財
一、応永14年(1407)建立
一、総高 29.3m


 建物の形式は禅宗様に和様を加え、特徴として屋根軒先の反りが大きい(禅宗様)入口の板扉(和様)などにみられる。”


 元就が動き出したのはこの晴賢厳島上陸の報を聞いてからであった。草津城についた時は、わずか4千余騎で、このあと元就は援軍を召集すべく、現地から催促を行うことになるが、準備不足の感は否めなかった。

 特に水軍力においては晴賢方と大きな開きがあり、この合戦で、村上水軍はほとんど参戦しなかったといわれるが、唯一動いた来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の支援をうけるため、宍戸隆家の娘を小早川隆景の養女とした女を通康に嫁がせた。今まさに戦端が開くという直前の縁談である。
また、直近の水軍領主・乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)にも要請したが、遅々として動きはなかった。
【写真左】塔の岡・その4
 豊国神社(千畳閣)
 天正15年(1587)豊臣秀吉が戦没者慰霊のため建立したといわれ、857畳分の巨大な広間があったことから「千畳閣」と呼ばれた。秀吉が没したため建物としては竣工しておらず、未完成のまま今日に至っている。
 秀吉と加藤清正が祭神とされる。



 こうした状況下であったため、宮尾城は次第に孤立化し、このまま手をこまねいていると当城の陥落は目に見えていた。

 9月27日、元就はわずかばかりの水軍で厳島上陸を決行、隆景には小早川水軍を正面側から回航させることを命じた。

 村上水軍の動きについては、前稿でも少し紹介しているが、厳島合戦で明確に記録に残っているものが少ない。村上水軍が毛利氏に支援をしたという説によれば、あくる28日に来島通康が水軍200~300艘を引き連れて来援したとされ、しかも彼らに支援を要請したのは、元就はもとより、陶軍も誘っていたため、厳島側にあった両者は、どちらに与するか固唾を飲んで見守っていたという。そして来島水軍が廿日市沖に停泊したのを見た毛利方は、どっと喜んだという。
【写真左】塔の岡から勝山城方面を見る。
 写真のほぼ中央部に多宝塔が見えるが、この位置に勝山城があった。






 これに対し、村上水軍は来援しなかったという説は、もし毛利方に与し功を挙げたのなら、当然毛利氏からの感状など残っているはずだが、今のところ村上水軍側にそうしたものはなく、従って来援しなかったというものである。


陶晴賢の自害

 塔の岡に陣を構えていた陶軍は、結局10月1日の卯の上刻(午前5時ごろ)になって初めて毛利方に取り囲まれていることを知った。博奕尾(ばくちのお)の尾根上に本隊2500が塔の岡を見下ろし、海上では厳島神社大鳥居の先に、小早川隆景ら別働隊1500の船団が朝もやの中から姿を現した。元就の合図と共に鬨の声が上がり、ホラ貝が吹かれると、どっと塔の岡めがけて押し寄せた。文字通り「挟み撃ち」である。

 兵力の大きさとは別に、陣を見下ろす尾根から逆落としの軍が迫り、浜に出れば海からの攻撃を受け、ほとんど退路を断たれる状況に陥ると、心理的にパニック状態を引き起こす。陶軍の慌てふためいた様子が想像される。
【写真左】厳島神社・その1
 干潮時の様子で、奥に大鳥居が見える。







 晴賢が声高に「踏みとどまれ!」と叱咤するも、軍勢は抗戦の気概もなく、逃げまどい先を争って船を奪い合い、あげくは同士討ちが始まり、辛うじて乗った船は沈没もするなど、陶軍の惨敗は目を覆うほどだったという。

 敗軍の将となった晴賢は、勝敗がほぼ決まった時点で一旦自害を決意したが、側近の三浦房清に制止され、とりあえず殿(しんがり)の弘中隆包が防いでいる間に、厳島神社西南の大元浦から大江浦へと移動した。

 しかし、その後青海苔浦に差し掛かったところで、毛利勢に見つかり房清は戦死、それを聞いた晴賢は、ついにこれまで、と覚悟を決め自害して果てた。享年35歳だった。
【写真左】厳島神社側から塔の岡を見る。
 豊国神社及び五重塔が見える。











 晴賢が自害する際残した辞世の句がある。直情型であったいわれる晴賢は、この時に及んで、まさに諦観の心境であったと思われる。

辞世の句

 「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
            この有様に 定まれる身に」

 毛利方の奇襲作戦によるこの厳島合戦では、陶方があげられた首級は4700余に及んだという。
【写真左】大鳥居
 大野瀬戸を挟んで対岸に宮島口が見える。