2009年2月6日金曜日

松山城(島根県江津市)

松山城(まつやまじょう)  別名:川上城

◆登城日 2008,1,15
◆所在地 島根県江津市市村松平
◆築城期 嘉元元年(1303)
◆築城主 川上孫二郎
【写真左】川上孫二郎房隆が創建した萬安山清泰寺を前にした松山城遠景

 
解説(現地の松山城案内説明板より)

 “松山城は、別名川上城ともいう山城で、鎌倉時代の終わりごろから南北朝・室町・戦国時代と三百余年の永い間、戦場となったところで、中原、佐々木その後に、福屋、小笠原、毛利と多くの城主を迎えた市内でも珍しい古城の跡である。

 城山の南壁は、大河・江の川が洗い、東はその支流の上津井川が深く切り込み、また西は都治川で隔てられた稀に見る天然の要害である。
 城址は、丘陵の南端に出丸の桜丸があり、その北およそ300メートルに本丸、本丸と桜丸の間に、二段の平地があり、古井戸もあったという。

 この松山城は、嘉元元年(1303)川上孫二郎(※)が創築した。弘安の役ののち、近江国(滋賀)より、川上荘の地頭として着任した中原房隆は、藤原氏の後裔で川上孫二郎房隆と名を改め、城山の西北麓の粉野に館を建て移り住んだ。これが川上の舘(別名粉野の舘)である。

 房隆は、山田の地に氏神の春日神社を勧請し、城山山麓に萬安山清泰寺を創建した。南北朝の争乱期には、南朝に味方し、石見宮方の一角をこの地で形成したため、しばしば具家方の攻撃を受けた。

 正平5年、武家方・高師㤗(こうのもろやす)の石見宮方討伐軍の進撃の前に落城する。初代川上氏の後に、二代目の川上氏となる佐々木祐直が足利尊氏の命をうけ、信州(長野)から来任し、鹿児島神社を市村に移し、八幡宮とした。権現宮を南川上に移し、八重山神社とし、春日神社を諏訪神社とする。

 宮方の城から武家方の城に変わった松山城は、三代目の福屋氏を迎える。天文13年、福屋隆兼(本明城主)は、佐々木氏を討ち、隆任、兼秀、隆助を配した。

 毛利氏に反した福屋氏は、永禄5年、毛利軍の攻撃を受け落城する。毛利氏は天正12年、三原丸山城主・小笠原氏にこの地を加増し、天正20年、小笠原氏が毛利氏によって出雲へ国替えされるのに及んで、松山城は毛利氏の所有となり、江戸時代には銀山領となる。
 この城山には、首塚、胴塚、血谷の地名を伝えている。また、櫃城(ひつしろ)、堂ケ鼻城の出城や支城もある。 ”

【写真上】江の川土手下の道にある案内板
  
登城の状況
●年が明けた2008年の1月15日、天気予報が冷え込むものの、石見地方はさほど悪くならないということだったので向かった。
 この城の情報は、この段階ではいつも参考にさせていただいている「城郭放浪記」氏には、当時、登城記録がなく(2008年の10月に登城済み)、別の人のものから得たものだったが、場所的に想像もしない所にあったことと、このあと登城した同じ江津・有福温泉南下の「本明城」と興味深い関わりがあることを知ったので、是非とも行きたいという衝動に駆られ、向かった次第。

●江の川の河口に近い松川町という場所は、今まで2,3回は通ったが、この場所に山城があるということは当時、全く想像していなかった。川土手下の道に上記の写真に示した詳細な案内板と説明のついたものがあり、最初は牧場方面の道から入り、坂の途中に「城山入口」 という看板があったのだが、笹が伸びていて入れず、そのあと「首塚入口」というのもあたったが、ほとんどジャングル状態でここも入れず、ぐるっと回って、もう一度松平小学校付近の方に出、再度清泰寺というところに駐車。

●この寺の裏から登っていくようになっていて、50メートルほど行ったのだが、登山道が崩落していたため取りやめた。

◆本明城の稿にも書いたように、永禄5年、福屋氏の出城であった当城が毛利氏によって落とされ、城主・隆任(たかやす)はここで討死。本明城主・隆兼は当城から本城である本明城へ戻るものの、戦意喪失で、最終的には四国へ
逃げたとのこと。

●上段の案内図に見える「宝篋印塔」は討死した隆任のものかもしれない。

【写真左】松山城遠望と「古戦場跡」
 前記したように「城郭放浪記」氏は当城本丸跡まで探訪しておられ、非常に多くの現地写真を掲載されている。
 機会があれば、再度足元の方はハードなものに履き替えて登城したい。

●写真は松山城を北西側(江の川)から見たもので、奥の白いものは松平小学校。その奥に前記の清泰寺がある。

●また画面手前に見える田圃や畑は古戦場跡である。当時は現在のような江の川の土手がなく、河原の景観を呈していたものと思われる。特に戦国期は毛利氏が石見・出雲に向かう際、江の川を船で往来したということから、この地での戦(いくさ)は半分は、「舟いくさ」だったと思われる。
なお上段の嘉元元年(1303)「川上孫二郎房隆」が川上荘に地頭としてやってきた際、その弟・中原三左衛門正隆は、この場所からさらに西にある都農郷(つのごう)に入って、「都野氏」を称している。

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