2010年8月3日火曜日

三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)その1

三隅城(みすみじょう)・その1

●所在地 島根県浜田市三隅町三隅
●登城日 2010年2月7日
●築城期 寛喜元年(1229)ごろ
●築城者 三隅兼信
●標高 362m
●別名 高城
●遺構 本塁、砦跡、郭、帯郭、石垣、堀切、竪堀、櫓台等

◆解説(参考文献「三隅町誌」「島根県遺跡データベース」等)

 石見国(島根県)にある山城で、益田の七尾城と並んで同国の代表的な山城のひとつである。
 旧三隅町に所在し、地元では別名「高城」と呼んでいるが、古文書ではほとんど「三隅城」と記されている。「高城」と呼ぶのは、築城された山の名が「高城山」と呼ばれているからである。
【写真左】三隅城遠望
 三隅城西麓を流れる三隅川が日本海に注ぐ田の浦海岸付近から撮ったもので、三隅高城山の北西丘陵(搦手側)をほとんど見ることができる。

 なお、この川の西には針藻城(七櫓)がある。いずれ当城についても取り上げたい。


 三隅城の築城期については、寛喜元年(1229)と伝えられているが、定かでない。廃城となったのは元亀元年(1570)といわれ、約300年以上にわたって、三隅氏の居城となった。

 三隅城の東西南北周囲には、一族が囲繞する「11の支城」を持ち、その地取り設計には綿密な計画性がうかがわれる。

 三隅城の規模は、標高362mの高城山頂上部を中心に、「中丸」「東丸」「西丸」のまとまった本塁(郭)を構成し、西麓方面の大字三隅と、東南麓の井野地区までを城域としている。

 大手口は井野側(東南)となり、当時、山腹部に大手門・番所・軍用井戸・殿釣井・御殿場・武家邸跡があり、この位置から東丸に繋がる登城路が残る。

 西丸の西方台上は的場となっていた。現在、車で登ることができる道は、南側中段にある龍雲寺側から高城山頂部に向かって、西側斜面に造られているが、この登城路の上段部分からは搦手方向となり、現在の三隅神社方面までを結ぶラインが七曲状の搦手道だったという。

11の支城

 先述した「11の支城」とは、三隅本城の外郭防御の前線城砦としたもので、下記のものとしている。

名称               所在地      役割

(1)河内城           河内       本城の南門警護線
(2)草井城           芦谷        同上
(3)井村城(井野城)     井野殿河内   本城の北東部守備
(4)鳥屋尾城          井野上今朝   本城北方境界線前線基地
(5)矢原城           矢原       本城の南方境界線基地
(6)黒沢城           黒沢        美濃郡に通ずる東方要路を扼守
(7)木束城           弥栄町木都賀      杵束田屋山の兼春本城
(8)大多和外城        岡見青浦     西方益田境を守る
(9)碇石城           岡見        同上  
(10)水来城           芦谷       本城用の水源確保
(11)11番目の支城については、三隅町誌では明らかにされていない。

 このうち(7)の木束城は、2009年12月2日に投稿した「田屋城」のことで、三隅城から東方へ約8キロの弥栄町木都賀にある。

主だった遺構

 先述したように、三隅城の東方丘陵部が大手口であるが、当日登城したコースは車道となっている搦手側だったため、大手方向のコースを踏査していない。
【写真左】三隅城址及びその付近略図(「三隅町誌」より)
 三隅城に関するまとまった史料としては、地元郷土史である「三隅町誌」が詳しい。ただ昭和46年発行のものであるから、その後新しい記録が発表されているかもしれない。

 以下、付図資料はすべて三隅町誌から転載させていただいている。



 記録によれば天明5年(1785)に、この斜面全体に大規模な地滑りがあり、当時の面影を残すものが大半消滅したという。

 おそらく龍雲寺から右に分岐した登山道(自然歩道)を登れば、大手方面の遺構が確認できるかもしれない。ただ、このコースは東麓部の周回コースを設定しているので、その上部に道があるのかは分からない。記録に残るものとしては、4段構成の石垣が残っているという。

水の手普請

 上図に示されているが、大手門から上に向かうと、御殿場がある。歴代城主の館跡といわれ、その下の丘腹の区画地が家臣の住居跡といわれている。この付近には、番所や御用釣井、殿釣井が周辺に配置され、「二ノ木戸」を含む的場の北方には最も重要な施設である「貯水池」があった。

 水源は、高城山そのものからはまとまった水量が確保できなかったらしく、当地から東北へ1500mにある水来城(水来山)の南側から竹樋の水道を引き、駒頭(接続器)などを使って布設したという。
【写真左】三隅本城址平面図(本丸跡)
 印刷の関係で全体に線が細く、文字も小さいため読みずらいが、この図は本丸付近の図である。

 現在登城道として使用できる道は、同図の左側からで、最初に「五段郭」が弓型状に構成され、そのあと、「三の平」が繋がり、さらに東に向かって「二の平」がある。

 この中に本丸跡といわれる少し高い櫓台が奥に配置されている。本丸の奥で一旦切崖状の高低差を持たせたあと、「三の平」という中規模の郭がある。
 三の平をさらに下っていくと、下段の東丸に繋がる。(下段参照)



 普通は同じ稜線上から引いて行くのが一般的と思われるが、高城山と水来山(412m)の間には深い谷があり、最高所である浄蓮寺垰(たお)の辺りでは、高架式の竹樋、もしくは石垣を高く積んだ古代ヨーロッパに見られるような水路が横断していたことになる。

 つまり、水道管施設の設計としては、現在と変わらない手法が当時からあったことになる。
【写真左】三隅本城址平面図(東丸跡)
 三の平から下方にあるといわれる「東丸跡」は、当日実際に、三の丸の奥隅の小路のようなところを下って向かったものの、途中から全く道が雑木や笹で覆われ進むことができなかった。

 おそらく龍雲寺脇にあった歩道を登っていけば、大手道に繋がり、近接の遺構である「一の砦」や「石落とし濠」と併せ見ることができたかもしれないが、どちらにしてもブッシュを覚悟した方がいいだろう。



 三隅城がたび重なる籠城戦で持ちこたえた理由は、険峻な山であったことが一番であろうが、長丁場で持ちこたえるもう一つの条件は、食糧と水の確保である。

 ところで、中世山城とは大分話題がそれるが、「水力学」でかならずお目にかかる数式がある。それは「ベルヌーイの定理」というもので、流体関係を扱う者ならだれでも知っているものだが、この定理は水道施設を設計する際にも基礎となる理論である。発表されたのは、日本の鎌倉時代から500年も経った1738年である。
【写真左】三隅本城址平面図(西丸跡)
 現在の登城口付近には、車が2,3台駐車できるスペースがあるが、よく見ると、この位置からも「西の丸」を確認することができる。

 整備の点では本丸付近が丁寧だが、この西の丸も杉の植林以外は特に改変の跡はなく、遺構の確認も容易だ。

 ただ、本丸直下から接続された4・3・2段郭跡は、傾斜こう配があったためか、崩落がかなりあり、郭段の区切りが消滅している。

 しかし、最先端の西の丸は良好に残り、三隅城のすべての郭群の中でも最大級の規模に見えた。



 三隅城が築城されたこの鎌倉時代に、「ベルヌーイの定理」並の「水力学」の素養も持ち合わせ、水来山の保水力の測量調査や、水来山から三隅高城間の水の手普請、すなわち最適な管路勾配を維持しつつ、まとまった水量を導水する技術を持っていたことは、注目される。

 なお、次稿では、現地写真を添付の上、紹介したいと思う。

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