2014年2月6日木曜日

来島城(愛媛県今治市波止浜来島)

来島城(くるしまじょう)

●所在地 愛媛県今治市波止浜来島
●築城期 応永26年(1419)
●築城者 村上吉房
●城主 来島村上氏
●形態 水軍城
●遺構 郭・館跡・桟橋跡ピット・石垣
●規模 200m×300m
●高さ 海抜42.1m
●登城日 2014年1月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 四国伊予方面に向かう際、瀬戸内しまなみ海道を利用するが、来島海峡第三大橋を通るたびに、カーブにさしかかると北西方向に瞬間だがこの来島が見えていた。
【写真左】来島城遠望
 西方の対岸波方町大浦付近から見たもの。

 手前の道路からは直線距離で約300m程度しか離れていないが、間の瀬戸の潮の流れは常に早い。


 管理人にとって、孤島にある海城登城は山城登城とはまた違った趣がある。船を使って島を訪れるという経験は、以前小豆島の星ヶ城などがあったが、こうした小規模な島に渡るという経験はなく、今回言い知れぬちょっとした興奮と不安が脳裏をよぎる。連れ合いは小豆島のときもそうだったが、乗る前から「船酔い」を気にしながら、しぶしぶ付き合った。
【写真左】渡船乗り場
 奥には4,5万トン級の船が数艘浮かんでいた。










燈明台(とうみょうだい)

 波止浜(はしはま)というこのあたりは、下段の説明板にもあるように、深く入り込んだ湾となっており、東西両岸には大型の船舶を製造する造船所のドックが並び、そこに設置されたクレーン機械などが賑やかな音を立てている。

 来島に向かうには、波止浜港の西岸「新来島どっく波止浜工場」の南にあるバス停前の発着場から運行している渡船を使う。
 丁度、この一角には「燈明台」という灯篭風の石塔が建っており、波止浜港の中央部に当たる。

“燈明台

 奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾(はこがたわん)と呼ばれ、古くから帆船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港で、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして重要視され、天和3年(1683)以降の塩田開発による町家の増加、塩買船、塩田資材を供給する船の出入りが多くなり、港町として発展し、伊予の小長崎といわれるほどに成長した。

【写真左】燈明台
 左の白い壁の建物が渡船切符売り場(自動販売機)を兼ねた待合室。









 元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する船番所が置かれ、船舶と他国者の出入りを厳しく取り締まり、船税の徴収にもあたった。今もその付近を御番所前(ごばんしょまえ)という。(現在地より北の方、ドックの中あたり)

 この大燈明台は、嘉永2年(1849)に御番所前に建てられたもので、高さ約6メートルあり、海上の安全を祈願したもので、当時の波止浜の人々の意気を示している。明治35年(1902)に現在地に移された。
 南面に嘉永二己酉十月吉日、海上安全と彫られ、東面には金比羅大権現と彫られている。
 この前から来島、児島、馬島への渡船が発着している。”
【写真左】対岸(東方)小浦町側の造船所
 写真にみえる小山には、展望台など公園施設があるが、こちらにも糸山城という城砦が築かれていた。
 おそらく来島城の支城のような役割を持っていたものと思われるが、詳細は不明である。


 平日だったこともあり、波止場付近の駐車場に車をとめ、近くの待合室にある自動販売機で往復の切符を買う。そこから、少し歩くと桟橋があり渡船が止まっていた。出航前まで少し時間があったので渡船の船長さんと立ち話をした。

 「お客さんは殆ど釣り客が多いが、最近は来島城を訪れる人も少し増えてきたようだよ。村上水軍のことをよく聞かれるが、一口に村上水軍といっても色々あって、来島水軍も歴史が長いことは知っているが、それ以上詳しいことはわしらも分からんよ…」

 と少し申し訳なさそうな顔をしながら答えてくれた。立ち話をしている間に、4,5人の釣り客が船に乗り込んでくる。平日でもこうして途切れることなく、来島など三島へ釣りを目的に客が乗り込んでくるようだ。
【写真左】来島城遠望
 渡船の先端部(ランプウェイ)から望む。









来島城

 波止浜から出た船は来島までわずか5分という短い船旅だ。出航するとすぐに来島に向かって真っ直ぐに船が進む。舟は全長7,8m位か、乗車定員は20名程度で、屋根のついた客室があるが、乗船時間が短いせいか、だれも中に入らず、外のデッキにある椅子に座る。

 先端部のランプウェイから来島城の姿が目に入った。渡船する前、西岸部からは細長い島に見えたが、南側から見ると島の幅はさらに小さく見える。
 
 連合いが心配していた「船酔い」をする間もなく、来島に着いた。船着場に降りてスロープ状のタラップを進むと、奥に八千矛神社と御先神社が出迎えてくれる。その脇に当城由来の説明板が設置してあった。
【写真左】八千矛神社
 隣接して東側には御先神社、岩戸神社などが祀られている。
 奥の方は来島城本丸が遠望できる。






“来島城跡

 伊予水軍一千年の歴史の中で、特に南北朝時代には村上水軍と称して、来島、能島、因島に分かれ、強大な勢力を誇った。来島氏はこの島を本城とし、島々に城砦を築き、海上を支配していた。戦国時代には八幡大菩薩の旗印を押し立て、朝鮮、支那沿岸にまで押しかけ和寇として恐れられ勇名をあげた。
 徳川時代に九州豊後の山奥に移され、伊予水軍の歴史は終わった。この絵図は来島氏の城砦絵図で山上は幾段にも仕切られた跡があり、磯には館の柱穴が多く残り、島内には矢竹なども生えている。
    水軍観光ルート協議会”
【写真左】来島城要図
 島の待合室のような建物の壁に設置されているもので、配置などがよく分かる。

 北側から南にかけて細い尾根を使って、本丸・二の丸・三の丸を構え、二の丸の東方に館跡があったとされている。











来島村上氏

 来島城が築かれたのは応永26年(1419)のこととされている。室町幕府第4代将軍、足利義持のころである。

 来島村上氏は、伊予海賊の頭領村上義顕の三男吉房が分家独立し、来島に入島し来島村上氏を名乗ったのに始まるという。

 ちなみに、吉房の父、村上義顕については詳細は分からないが、以前甘崎城でも少しふれたように、この村上氏も後期村上氏、すなわち南北朝期、南朝方の命によって下向したとされる北畠親房(田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)参照)の孫(自称)といわれた師清以後の村上氏の流れとされる。
【写真左】登城口付近
「来島村上水軍」と書かれた幟が建っているが、ここから左方向が城域で、右方向に行くと柱穴に辿りつく。




 親房の子で、悲運の公家武将といわれた顕家(あきいえ)(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の嫡男に顕成(あきなり)がおり、伝承では『太平記』の作者の1人ともいわれ、また一方では村上水軍の祖ともいわれてる。

 師清が自ら親房の孫と名乗っているようだが、もしそれが事実とすれば、師清は北畠顕成自身ということになるが、真偽のほどは解らない。ただ、村上義顕という名に「顕」が使われていることを考慮すると、北畠氏(顕家)と何らかのかかわりのあった武将だろう。
【写真左】村上神社
 高さはさほどないものの、急な階段を上がると村上神社が祀られている。

 すでにこのあたりから城域となっており、ここから東に進むと、心月庵という旧館跡がある。


 室町期には河野氏の被官として活躍しているが、その後伊予本土の野間郡・風早郡・越智郡などへ勢力を伸ばし、四代出雲守通康の頃になると、もっとも隆盛を誇った。当時、主家の河野通直は通康の能力を高く評価し、嫡女を通康に嫁がせ、さらに天文12年(1543)には嫡男が居なかったため、自分の後継者として指名した。しかし、河野氏家臣団は彼通康が海賊衆であることを理由に異を唱え、来島城を襲った。これを第一次来島合戦という。
【写真左】心月庵
 来島氏の館跡とされているところで、現在写真のような建物が建つ。

 なお、この建物の後は高さ3m程度の高さで郭が控え、東側(右)には土塁が残る。


 その後、通直は分家の河野通政に譲るということで一応の和睦となった。時は移った26年後の永禄12年(1569)、元来島家の家臣であった池原牛福丸が河野家を継いでから同氏の統制は乱れ、能島村上氏などとも衝突するようになった。

 天正10年(1582)、秀吉(信長)ら西国制覇を進めた時、他の村上氏と袂を分けた来島村上氏は毛利・河野氏からも離反し、織田方に走った。このため、能島・因島両村上水軍は、来島城をはじめとする来島村上氏の拠点を次々と襲い、当時の城主来島(村上)通総は遂に来島城を捨て、秀吉の下に敗走した。
【写真左】二の丸付近
 東側にある心月庵(館跡)から再び尾根側の二の丸に戻る。

 三の丸は平坦な郭だが、二の丸は北の本丸に向かって登り勾配がついている。


 その後、秀吉が四国征伐を開始した天正13年の際は、通総が先陣として伊予に攻め入り、その功によって風早郡に14,000石の領地を与えられた。この段階で来島城は廃城とされ、旧領にあった城砦も悉く破却されたという。
【写真左】二の丸から東側の郭段を見る。
 南北に連続する本丸・二の丸・三の丸とは別に、東側にはこうした幅の広い郭が構築されている。
【写真左】本丸・その1
 凡そ長径30m×短径6,7mの規模を持つもので、東・北・西端は天険の要害となっている。
【写真左】本丸・その2
 ほとんどフラットな仕上げなっているが、北側の一角には30cm程度の窪みが認められる。
 何らかの施設があったものだろうか。
【写真左】本丸・その3
 北側から南を見る。少し弓なりの形状となっている。
【写真左】本丸から来島瀬戸を見る。
 この位置からでも潮の流れが急であることが分かる。
【写真左】本丸からしまなみ海道来島海峡第三大橋を見る。
【写真左】埠頭から遠見山城を見る。
 この位置からはかすかに以前取り上げた遠見山城(愛媛県今治市波方町郷)が見える。

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