2010年12月17日金曜日

嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)

嘉年城(かねじょう)

●所在地 山口県山口市(阿東町)嘉年下
●別名 賀年城、勝山城
●築城期 不明(鎌倉後期~南北朝期)
●城主 虫追政国(石見国美濃郡長野庄惣政所)、波多野彦六郎、波多野滋信その他
●標高 516m
●比高 100m
●遺構 堀切、郭
●登城日 2010年9月18日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
 前々稿で取り上げた吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)から、南西方向である山口県側へ抜けると、途中に嘉年坂(かねさか)峠がある。これを越えると山口県に入るが、そこから少し下った嘉年下という地区に嘉年城がある。
【写真左】嘉年城遠望
 麓を走る道路は315号線











 当城は、津和野城の支城として主に使用された。築城期は不明だが南北朝期にはすでに存在していたといわれるので、本城である津和野城の築城期(正中元年:1325)とほぼ同時期と考えられる。

 最初に記録に出てくるのは、やはり石見南北朝のころである。以前にも石見南北朝の流れを三隅城などの稿で紹介してきたが、今稿の嘉年城もこのとき、重要な城となった。
【写真上】麓に設置された「嘉年故郷案内図」
 当地阿東町の支所のような施設に設置されたもので、嘉年城はこの図のほぼ中央に図示されている。

 この案内図はかなり詳しく地元の史跡関係が紹介がされているが、個別リストの項の文字が大分薄くなり、判読が困難になっている。

 戦国期関係で読み取れる事項としては、嘉年城(勝山の城址)の向背に「陶寄せ陣」というものが描かれているが、これは陶晴賢の軍のことである。
 また、315号線を挟んで東に小丘があるが、これを和田山城といい、陶方の三浦氏がここに陣をはったという(後段写真参照)。
 このほか、戦国関係の史跡としては、以下のものが記されている。
  • 大神宮 勝山城主波多野氏が1534年に伊勢から勧請した。
  • 波多野本家 勝山城主の館跡。堀があったが今は用水池となっている。
  • 若宮様 勝山城主波多野滋信公の御墓。1554年の合戦で戦死。
  • 龍昌寺 勝山城主波多野氏の菩提寺
  • 嘉年八幡宮 平安時代初期に宇佐から勧請。津和野より援軍に来た吉賀氏は、高佐で戦い、帰路追われてここで自害したという。
  • 茶臼山 合戦の時、陶方の弘中氏が陣を張り、津和野から勝山城への援軍を阻止した。
  • 物見ヶ岳 ここに狼煙場があり、勝山城と津和野三本松城との通信に使われた。
  • 姥ヶ迫 落城の時、若者を連れた乳母がここに逃れたが、味方を呼ぶために吹いたホラ貝を、敵に嗅ぎつけられたという伝説の地。


 建武4年(1337)4月、安芸の武田兵庫助信武は、吉川五郎次郎経盛、長門の厚東修理亮武実、そして石見の小笠原長氏らと連合し、三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)に迫った。また、上野頼兼は、吉川実経代小林左衛門三郎を同じく三隅に向かわせた。

 これは北軍(尊氏)派の動きであるが、以前にも紹介したように、これに対する三隅兼連をはじめとする宮方軍は、逆に勢威を強め、5月になると、七尾城(島根県益田市七尾)を落とし、高津城(島根県益田市高津町上市)から黒谷横山城(島根県益田市柏原)(宮方軍居城)を進み、さらに北側から回って弥富・福田・生賀の諸城を焼き払い、ついに嘉年の西からこの嘉年城を攻め立てたという。

 嘉年城に拠った北軍の城主は、美濃郡(石見)長野庄惣政所の虫追(むそう)政国である。彼は、左膝に射傷を受け負傷したものの、そのまま大手門から打って出て、波多野六郎、難波中務入道の旗二旗を奪い取ったという(萩閥益田家文書)。

 このときの勝敗は宮方軍の勝利となったが、その後北軍は陣を立て直し、7月宮方軍の占拠する北方の黒谷横山城(島根県益田市柏原)に迫った。ここで数日間にわたる激戦が繰り広げられ、北軍として参戦した周防国仁保庄一分地頭・平子孫太郎親重は、上野頼兼から軍忠状を受けている(萩閥三浦家文書)。
【写真左】登城口
 登り始めたのが夕方近くだったが、ちょうどこのあたりで地元の方に登城路を確認し、向かった。
 なお、写真に見える位置は、市場という地区で、315号線の脇に車一台分のスペースがありそこに停めた。




 明けて暦応元年(延元3年:1338)3月、三星の城(益田市神田町:標高110m)の城主領家恒仲は、福屋・桜井氏と合力し、嘉年城攻めの宮方軍・三隅兼連・高津長幸らと呼応、石見に進出してきた安芸の北軍・武田氏を攻め、山県郡(広島県)の大朝・本庄に迫り、吉川辰熊丸を押し込み、14日には守護・武田信武を退けるなど、宮方軍の優位が続いた(那賀郡史など)。

 このころ中央では、5月22日、北畠顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)が堺浦石津で高師直と戦い戦死。また閏7月2日には、新田義貞が斯波高経と戦って越前国藤島で敗死している。
 そして、翌月の11日、足利尊氏は征夷大将軍に任じられる。西国では今だ戦禍の絶えない状況下であるにもかかわらず、事実上室町幕府が始まることになる。その明くる年(暦応2年・延元4年:1339)8月16日、後醍醐天皇が没した。

【写真左】登り坂手前に設置された「勝山城(嘉年城)登山口」の標識
 最初の登山口から谷間を進み、ため池の手前から右に折れ、しばらく周回していくと、この場所に差し掛かる。

 ここからは、直坂登でほとんどつづら折りでないため、要所にはロープが設置されている。
 勝山城の特徴は、全周囲が急峻な山のため、「無類の天険」といわれている。

 地元の方によって、特にロープ等の整備がなされいるからなんとか登れるが、こうしたものがないと、登山に習熟した人でないと登れないだろう。設置整備された地元の方々に感謝したい。


 文明3年(1471)12月7日、陶弘護は、以下の報告を京都にあった大内氏に報告している(益田家文書)。
  • 吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲
  • 益田貞兼の杉峠通路城・カケノ城・高津小城攻略
  • 自らの軍(弘護)による嘉年城を攻略
これは、応仁元年(1467)から始まった応仁の乱による石西・長門での戦いの記録である。
【写真左】急峻な登山道
 雨天時や積雪のあるときは、避けた方がいいだろう。ロープがあっても足元がすくわれる。先ず、無理である。
 また、複数で登るときは、上からの落石に注意した方がいい。
 
 先に登って行った連れ合いの真下から、何度も落石があり、「千早城の楠木正成ばりの攻撃?」を身内から受ける羽目になった。
 二人以上の場合は、十分に距離を保つことが必要だ。


 戦国期に入って当城での戦いがもっとも激しかったのは、天文22年(1553)から弘治3年(1557)ごろである。

 以前紹介した大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で、義隆が自害すると、大内派だった吉見正頼は、天文22年10月、津和野城(三本松城)と、この嘉年城に拠って義兵を挙げた。

 同月12日、吉見正頼下瀬頼定(下瀬山城主)は、石見国池田において陶晴賢の兵を破る(下瀬文書)。緒戦は吉見氏が優勢だったが、次第に陶氏が大内義長を戴いて攻勢を強めた。

【写真左】登り切った場所の三の丸と二の丸の中間点
 右に三の丸が控え、左に行くと武者走りが斜面に構成され、二ノ丸・本丸方面に繋がる。






 嘉年城は、城将・波多野滋信が守城し、粘り強く防戦したが、11月13日になると、晴賢・義長が一斉に攻めよせ、翌年3月3日、城中にあった田中某の一党が敵方に内応したことにより、落城、滋信は討死した。

 その後、吉見氏側は嘉年城から本城・三本松城へ敗走するも、12月追走した大内義長・陶晴賢によって再び破られた。しかし、翌弘治元年(1555)10月、吉見氏を破った陶晴賢は、厳島の戦い宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)で、毛利元就に敗れ自害した。
 残った大内義長は、大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)で紹介したように、弘治3年(1557)4月2日、長福寺(功山寺)において自害する。

吉見正頼は、おそらく義長自刃後と思われるが、毛利元就の家臣となり、厚い信頼を受け元就死去後は、輝元の補佐役を務めていく。
【写真左】三の丸
 きぼはさほど大きくはないが、高低差は予想以上にある。
【写真左】二ノ丸
 二ノ丸と本丸は同じ頂部稜線上に造られている。
 二ノ丸の幅は6~7m、長さは40m程度と細長い。
 また両端部は険しい切崖を構成している。





【写真左】二ノ丸から本丸を見る。
 本丸に行くに従ってやや細くなる。写真の一番奥にみえるところが本丸になる。








【写真左】井戸跡か
 地形的にはこの場所で井戸を掘削しても水はでないような感じもするが、井戸跡であるとするなら、数十メートルは掘らないと水は出てこないだろう。






【写真左】三角点(本丸付近)
 標高516mとなる。
 本丸そのものは、4、5m四方の小規模なものである。









【写真左】本丸とその北に設置された郭
 写真の右側が本丸で、その左側に段差を持たせた郭が構成されている。規模は本丸より多少大きい。







【写真左】和田山城遠望
 前段で紹介した和田山城で、陶方の三浦氏が拠った。
 現在公園となって忠魂碑が建立されている。

 なお、和田山城はこの日登城していないが、サイト「城格放浪記」氏が紹介しているのでご覧いただきたい。


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1 件のコメント:

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