2012年5月30日水曜日

宮尾城(広島県廿日市市宮島町)

宮尾城(みやおじょう)

●所在地 広島県廿日市市宮島町要害山
●別名 宮ノ尾城・要害山
●築城期 弘治元年(1555)
●築城者 毛利元就
●形態 水軍城
●遺構 郭・井戸・空堀
●高さ 標高30m
●登城日 2011年12月7日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 日本三景の一つ広島県の厳島神社がある宮島に築かれた水軍城(丘城)である。
厳島・宮尾城は毛利元就と陶晴賢が激闘を演じた「厳島合戦」の場所で、この戦いについては、今月取り上げた発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)でも少し紹介しているが、当該合戦に至るまで、広島湾岸域において、各所で前哨戦のような戦いが繰り広げられている。

 麓には、弘治元年の「厳島合戦」の概要を示した下記説明板がある。
【写真左】宮尾城遠望
 宮島フェリーターミナル(桟橋)を降りると、すぐに正面に見える丘が宮尾城である。
 当時はてまえの広場はなく、宮尾城の麓までが海岸だったようだ。



説明板より

“毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡


 1551年(天文20年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、1553年(天文22年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。
【写真上】宮島案内図
 同図中央下付近に「要害山」とあるのが宮尾城。




 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め、1555年(弘治元年)5月、島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。

 同年9月30日、元就は3,500の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え、大鳥居側の海から元就の三男・小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅した。


 晴賢はわずかな兵と共に島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世にいう厳島合戦である。
 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に努め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。”
【写真左】合戦図
 元就・隆元・元春らは包ヶ浦に上陸すると、船は廿日市に戻したという。イチかバチかの懸けで、文字通り「背水の陣」をとった。
 隆景らは正面の大鳥居側から向かったが、巧妙に「陶晴賢軍の援軍を装った船団」である。


 次に宮尾城の頂部に上がると、もう一つの説明板がある。

“毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡
宮尾城跡(要害山)


 1555年(弘治元年)5月、毛利元就は陶晴賢を討つために、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点とし、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えた。
 この城は、数個の(空白)分かれた山城であるが、海上に突出し、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も併せ持っていた。
【写真左】宮尾城・その1
 城跡には現在「今伊勢神社」という小規模な社が祀られている。








 同年9月、晴賢は2万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、300余の城兵はよく守り持ちこたえた。元就は主力の軍を率い、包ヶ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させた。”
【写真左】宮尾城・その2
 郭跡
 主だった遺構は、5段の郭と、堀切を超えた北東部に6段の郭があるが、大分公園化されているようだ。





吉見氏の援軍要請


 大内義隆の家臣・陶晴賢の謀反は説明板の通りであるが、この事件を機に大内義隆の娘婿であった石見の津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主・吉見正頼が、弔い合戦として挙兵、毛利元就に援軍を要請した。

 これと相前後して、晴賢は旗色を鮮明にしていなかった元就に対し、吉見氏討伐の出陣を要請した。こうなると、元就もどちらに与するか判断を否応なしに決定せざるを得ない。
 天文23年(1554)5月12日、元就は己斐・草津・桜尾及び厳島など大内氏の拠点としていた諸城を攻略、これによって陶氏との対決姿勢を鮮明にした。
【写真左】宮尾城・その3
 主郭付近
 宮尾城は北東部と南西部の郭群に分かれている。この写真はそのうち北東部側の最高所のもので、この場所が主郭部分と考えられる。



 元就が厳島を戦場と考えたのは、戦力的には陶氏の方があきらかに優位に立っていたため、まともな陸上戦では勝ち目がないと考え、あえて狭隘で動きが制約される場所として選んだといわれている。

 また、この戦に当たって、元就は晴賢側に嘘の情報や、怪文書などあらゆる手を使い、おとり作戦をたてたとされる。
【写真左】宮尾城・その4
 南西側付近で、小さなトンネルがある。









村上水軍の行動

 この戦いによる陶晴賢の敗因は、毛利氏の用意周到な作戦が功を奏したことはもちろんだが、見逃せないのは、陶晴賢が厳島における瀬戸内海水運・商取引を保障すべく「警固料」や「駄別料」といった通行税を徴収していた村上水軍の動きを停止させたことである。

 もちろん陶晴賢としては、これから戦が始まるということから、その安全を確保するためという理由もあったかもしれないが、この停止措置は、その後、村上水軍が陶軍に対し敵対する、あるいは非協力的態度をとるに至った最大の理由ともなった。
【写真左】フェリーから宮島を望む
 右下に大鳥居が見える。









 そして記録上、村上水軍が毛利氏側についたというものでは、来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)程度で、晴賢の対応次第では、他の村上水軍が陶軍に与した可能性も大きかったと思われ、陶軍の総崩れもなかったのではないだろうか。

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