2010年3月21日日曜日

大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)

大内義長・墓地(おおうちよしなが・ぼち)
功山寺(こうさんじ)

●所在地 山口県下関市長府川端1-2-3
●探訪日 2009年10月25日
●山号 金山
●宗派 曹洞宗
●創建年 嘉暦2年(1327)
●開基 虚庵玄寂
●旧称 長福寺
●文化財 仏殿(国宝)他

◆解説
 功山寺は旧名・長福寺といわれた寺院で、前稿で取り上げた高嶺城(山口県山口市上宇野令)主・大内義長が同境内(仏殿)で自刃したところである。

【写真左】功山寺の国宝仏殿
桁行三間、梁間三間、一重もこし入母屋造、檜皮葺
指定年月日 昭和28年11月14日




 所在地である長府は、「長門国府」と呼ばれたことから、この中の二字をとって、長府となった。

 地名からも想像できるように、総社跡もあり、この地域の中心的な場所でもあった。
 また鎌倉期になると、長門探題がおかれ、室町時代には同地守護として厚東氏が在任している。

【写真左】境内の配置図
 大内義長の墓は同図左上にある。右側には毛利家の墓所がある。










 前記したように、功山寺は、元は長福寺といわれ、創建時の嘉暦2年(1327)から慶安3年(1650)までこの名称が使われた。

 現在功山寺付近には多くの史跡があり、観光客が訪れる。主な史跡としては、功山寺を始め、長府毛利邸、長府博物館、忌宮神社、覚苑寺、菅家長屋門、長府藩侍屋敷長屋、笑山寺などがある。

 ただ、幹線道路の幅員は旧山陽道のまま残っているため、車ではかなり狭い道を通ることになる。
 大内義長の墓は、功山寺境内にある国宝仏殿の裏にある墓所にたたずんでいる。
【写真左】大内義長の墓その1











同地にある説明板より

大内義長の墓

 大内義長は、その重臣陶晴賢の叛にあい深川大寧寺に自刃した。晴賢は義隆の甥・義長を豊後の大友氏から迎えて大内氏を継がせた。

 弘治元年(1555)毛利元就は晴賢を厳島に敗り、同3年後義長の山口城を陥れた。

 義長は山口を逃れて下関の勝山城に拠って、九州一族の援軍を待った。しかし、毛利勢の急襲で長福寺(功山寺)の仏殿に入って自刃した。山口に200年も栄えた大内氏は、これで全く断絶した。”
【写真左】その2











 弘治3年4月2日、義長は当山に逃げ込み、3日には福原貞俊ら毛利方が寺を囲み、義長に自刃を迫った。   

 当初、勝山城主・内藤隆世のみの自刃で、義長の命は保証するとの福原貞俊の言を信用していたため、義長は貞俊に欺かれたと怒ったが、ここにきてもはやどうすることもできず、切腹した。

 介錯は、杉民部大夫によって行われ、義長の後、民部大夫、陶鶴寿丸らがこれに殉じた。
 墓は三基あり、左から小・大・中と並んでいる。おそらく大が大内義長、中が杉民部大夫、小が陶鶴寿丸のものと思われる。なお、陶鶴寿丸は、陶晴賢の末子ともいわれている。僅か6歳であった。
【写真左】大内義長の墓より左側あった「伊秩(いじち)家累代の墓」
 伊秩氏については、いずれ出雲・伊秩城も含めとりあげたいが、同氏の墓がこの地にあったことに驚いた。

関連投稿
伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1

【写真左】長府毛利家墓所
 長府藩は、毛利元就の四男・穂井田元清の子で、輝元の養子となった秀元から、第14代・元敏まで続いた。

【写真左】功山寺前を走る旧山陽道
 別名「野久留米街道」と呼ばれている旧道で、当時の幅員のままと思われる。
狭い道であるにも関わらず、交通量は多い。 
【写真左】長府毛利邸
 現地の説明板によると、長府毛利家14代・元敏が東京から帰住するため、この地を選んで建てたという。
明治31年起工し、同36年完成し、大正8年まで長府毛利家の本邸として使用された。

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