2016年3月31日木曜日

滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)

滝谷城(たきたにじょう)しらげか城

(1)滝谷城
●所在地 岡山県高梁市宇治町本郷
●築城期 承久又は貞応年間(1221~23)か
●築城者 滝谷城:赤木太郎忠長
●城主 赤木忠長~忠国
●高さ 480m(比高130m)
●遺構 郭

(2)しらげが城
●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●備考 白毛ヶ城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 宇治左衛門尉
●高さ 477m(比高120m)
●遺構 郭

◆解説
 滝谷城及びしらげか城は、前稿笹尾城(岡山県高梁市宇治町宇治)から南に凡そ800m程隔てた位置に所在している。両城の間を流れるのが島木川で、西側に滝谷城、東側にしらげが城がそれぞれ向い合うように配されている。
【写真左】滝谷城遠望・その1
 南麓を流れる島木川の支流対岸から見たもの。
 下段の説明板にもあるように、南側は溪谷の様相をなした絶壁で、遠望できる箇所はこの川を挟んだ道路のカーブする地点のみである。

 地元の御年輩の御婦人に伺ったところ、昔は東側から登る道もあったが、今はだれも登らず手入れもしていないので、登城は控えた方がいいといわれ、登城は断念した。


赤木氏・滝谷城

 赤木氏については、笹尾城や、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも述べているが、詳細は当城の麓に設置された説明板があり、次のように記されている。
【写真左】配置図
  北部にある黄金山城から滝谷城までは、4.5キロほど離れている。









“滝谷城 彩りの山里の城跡

 滝谷城は標高480mで、麓との標高差は約130m、島木川の西岸にあって、対岸の「しらげが城」との山がいに吹屋往来が通り、そののど首を押さえている位置にある。



【写真左】滝谷城略図
 図から判断すると、2,3段の郭で構成された単純な縄張りのようだ。








 西側は背後の中野村上長田からは、馬の背程の尾根で連なっているが、東西に長い楕円形でほぼ独立しており、頂上に残る城跡に立てば、南側にほとんど垂直の絶壁で滝谷川の急流が足元を洗って島木川に流れ込んでいる。北も急斜面で深い谷をなし、ただ東斜面のみがやや緩やかでここのみが頂上に登り得る唯一の場所である。

 滝谷城を築いたのは、赤木太郎忠長である。松山城主秋庭重信と同じく、承久の乱に鎌倉幕府につき、その功によって信濃国吉田郷田肆段(たしだん)の田肆小池郷の在家二宇(にう)の津から、ここ備中国川上郡穴田郷の地頭として赴任してきた。

【写真左】滝谷城遠望・その2
 手前の雑木や葛は南側道路の斜面に生えているもので見えにくいが、川を隔てた対岸に滝谷城の岸壁が見える。


 中野村本郷(現・宇治町本郷)に屋敷を構え、この滝谷城を築いて本拠としたのである。当時の支配地ははっきりしないが、およそ次の村々ではなかったであろうか。

 すなわち、中野本郷・宇治・丸山・中野大野呂・同小野呂・塩田の旧6カ村に、飯部村の遠原を加えた地域で、時代はずっと下がるが、文久3年(1863)の「備中村鑑」によれば、約3,320石の高になる地域である。
【写真左】滝谷城遠望・その3
【写真左】滝谷城の南麓を走る町道と県道の合流点
 中央の道が県道85号線で、この道を奥に向かうと笹尾城に繋がる。

 分岐点にある看板は映画「八つ墓村」のロケで使われた「広兼邸」や、「吹屋ふるさと村」への案内板で、左側の道。遠望できるのはこの道になる。


  その後忠長より忠国にいたる約300年間には赤木家にも幾度かの省長があったが、忠国の代になるとにわかに戦史に名が見えるようになった。

 忠国は初め尼子経久に属していたが、天文9年周防の守護職大内義隆の命を受け、元就の居城郡山城を包囲した尼子晴久の後方陣地を脅かし、その糧道を断って尼子勢を撤退に追い込んだ功労により義隆から感状と太刀を与えられている。
 以後、毛利氏の陣営に加わり、備中兵乱には、同じ宇治郷の笹尾城を攻めているし、その後も子忠房とともに輝元の幕下にあって、各地に転戦して武名をとどろかせている。

・宇治地域まちづくり推進委員会” (※赤字:管理人による)



しらげか城
 
 しらげか城は、白毛ヶ城ともいわれ、滝谷城の東方を流れる島木川を挟さんで対岸の位置に所在する標高477mの山に築かれた城砦である。
【写真左】しらげか城遠望
 西側(滝谷城側)から見たもので、説明板にもあるように遺構としては、めぼしいものはないようだ。



【写真左】しらげか城略図
 主郭とみられる段と、北側に延びた段の2個所が郭のようだが、ほとんど自然地形のもので、当城は臨時的な役割を持った城砦だったと考えられる。








説明板より

“しらげか城 彩りの山里の城跡 

 この城は敵の大軍に攻められたが、1年にわたって籠城を続けた。
 既に糧食も底を突き落城寸前に追い込まれた。このとき城主宇治左衛門尉は、敵の兵糧攻めに対する苦肉の策として、残っている食糧庫の米を全部出させ半分を谷川に流し、残る半分を握り飯にして城壁の上で城兵一同に食べさせた。

 これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、囲みを解いて兵を引き上げた。それよりこの城を「しらげか城」と呼ぶようになったという伝説がある。つまり「しらげ」を精白した米という意味でこう名付けたのであろう。 
【写真左】説明板と後方のしらげか城








 築城年代は不詳で、籠城主の宇治左衛門尉についても異説があるが、宇治町赤木家文書によると、頼宣と名乗り、室は滝谷城主赤木忠国の娘とある。

 この忠国が活躍したのは、天文9年頃からで、当時山陰の戦国大名尼子経久は、出雲の月山富田城を本拠とし、山陰のほぼ全域を手中に治め、更に美作から備中に進攻し、松山城主庄為資、矢掛猿掛城主穂井田元祐らもその勢力下にあった。 
【写真左】しらげか城遠望
 南方の宇治町穴田付近からみたもの。
中央の建物は高梁市立宇治高校の校舎





 永正9年(1512)、これまで経久についていた毛利元就は、尼子氏を離れて大内義隆についた。これを怒った経久は、子の晴久を総帥として毛利氏の本拠安芸吉田郡山城を攻めた。このとき大内義隆の呼びかけで備中南部の豪族の石川・清水・上田・秋葉らの将兵が猿掛城を包囲し、中北部の三村家親・野山宮内少輔・赤木忠国らの軍は、元就救援のために備後と出雲境まで進撃し、尼子氏の糧道を断ってその撤退を余儀なくさせた。

 この戦いを口火にして尼子と毛利の死闘は25年間続き、永禄9年(1566)籠城1年半の末に月山富田城が落城し、尼子方の決定的な敗北に終わった。この間宇治地方も尼子氏につくか、毛利氏につくかで紛争が絶えることなく、隣接の吹屋村小金山城主吉田六郎兼久は、尼子方で勇気絶倫の勇将であった。


 一方忠国は毛利方であったから、この籠城話の内容はさておき、籠城があったのは事実であろうし、時代をこの頃と考えておかしくない。しかも城跡は標高差約120m、宇治盆地の北東寄りで、ほぼ円形の独立した形の険しい山上にあって、山麓を島木川が湾曲して流れ、対岸の滝谷城とともに、吹屋往来ののど首を押さえている絶好の位置にある。山上はそれほど広くなく、人工を加えたらしい跡も見当たらないが、臨時の籠城には地の利を得ているから、大兵を動かさない局地的な戦いには十分これで足りたのであろう。

・宇治地域まちづくり推進委員会”



広兼邸

 ところで、上述したように滝谷城から西へ2キロ余り向かったところに、吹屋ふるさと村保存建造物の一つである広兼邸(ひろかねてい)がある。建築されたのは江戸後期の文化10年(1813)で、小泉銅山とベンガラの原料となるローハを製造し、そこから生まれた莫大な富をもって城郭のような建物を残した。
【写真左】広兼邸遠望・その1
 住所:岡山県高梁市成羽町中野2710
 探訪日 2016年3月12日







 この建物を建てたのは大野呂の庄屋であった2代目広兼元治だが、広兼家の先祖も以前取り上げた備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)の西江家と同じく、地元の地侍であったかもしれない。

 昭和52年と、平成8年の二度にわたって、映画「八つ墓村」のロケでこの豪邸が使用された。
【写真左】桜門
 入口となる門だが、まるで城門のようだ。
【写真左】石垣
 石垣だけ見ると、近世城郭となんら遜色ない豪壮な姿を見せている。

2016年3月27日日曜日

笹尾城(岡山県高梁市宇治町宇治)

笹尾城(ささおじょう)

●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤掃部介
●高さ 382m(比高15m)
●遺構 郭
●備考 五輪塔群
●登城日 2016年3月19日

◆解説
 前稿の黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)から県道85号線を南に下っていくと、開けた谷間が見えてくる。高梁市宇治町という地区である。笹尾城はその宇治町の北方の入口にあたる箇所に築かれている。
【写真左】笹尾城遠望・その1
 南側から見たもので、矢印で示した箇所が主郭に当たる。








現地の説明板

“笹尾城 彩りの山里の城跡

 近藤掃部介の居城で、備中兵乱のとき三村方であったため、滝谷城主赤木忠直に攻められ、松山城に撤退したと「川上郡誌」にあるだけである。 

【写真左】笹尾城の説明板
 西側を走る県道85号線の脇に設置されている。









 居城といっても当時は、その屋敷が戦いになれば、若干の防備をして城と呼ばれていたから笹尾城もその跡から見れば、そんなに大きくもないから、平素の居館であったと思って間違いないだろう。なお、一遇に鎌倉中期から室町頃と思われる五輪塔や、宝篋印塔が20基ばかりあり、中には高さ1.5mくらいの比較的大きく美しいものもある。

宇治地域まちづくり推進委員会”

【写真左】笹尾城遠望・その2
 西側から見たもので、北側から伸びた低丘陵の先端部に設置されている。

 説明板にもあるように、居館(屋敷跡)であった可能性が高い。



近藤氏赤木氏

 笹尾城の城主とされる近藤掃部介については資料がないため、その出自等は分からない。説明板に書かれているように備中兵乱の際、三村方についていたといわれる。

 備中兵乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の稿で紹介しているので、そちらをご覧いただきたいが、笹尾城の麓を流れる支流は、島木川となって南下し、成羽川に合流した位置に鶴首城があったことから、同兵乱が笹尾城を含めたこの宇治地区でもかなり激しく、また複雑な状況を呈していたものと思われる。


【写真左】笹尾城と周辺の城配置図
 現地にある地図を元に、笹尾城の他、赤木氏の滝谷城・しらげか城などを図示したもの。
 北方の吹屋には前稿で紹介した黄金山城が所在する。

 このほか、この地図の枠外となる南方には丸山城も配置されている。


 特に、笹尾城の近藤氏を攻めたとされる滝谷城主赤木氏については、次稿で紹介する予定だが、赤木氏が領有した地区は、この笹尾地区の南隣の本郷地区周辺部に当たり、その支配規模は、笹尾氏のそれにくらべてかなり大きなものであったこと、また後段でも紹介するように、滝谷城と笹尾城の距離がわずか800m足らずであったことなどから、同兵乱前まで近藤氏は赤木氏の被官であったのではないかとも考えられる。
【写真左】笹尾橋
 説明板のある個所に駐車スペースがあり、そこに車を置いて、一旦北側に進むと、吹屋側から流れてきた川の橋がある。

 これが笹尾橋で、橋を渡り、写真に見える右側の農道を進むと笹尾城にたどり着く。
【写真左】登城口
 笹尾城の西麓から南側まで回り込んで行くと、2,3軒の民家があるが、その家と家の間に、笹尾城方面に向かう小道がある。

 写真の左角に小さな標識があり、そこに「吹屋往来」という案内板が建っている。往時はこの道が街道だったようだ。
【写真左】笹尾城方面と「吹屋往来」の分岐点
 左の道が旧道「吹屋往来」で、ここから右に分岐したのが笹尾城ルート。といってもすぐ目の前に既に笹尾城が見える。

【写真左】要図
 南北長径37m×東西幅22mの規模で、堀切などはないが、西側の川と、東側にも小川が流れているので、これらが濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】主郭へ向かう。
 周辺部は笹などが繁茂しているが、このルートだけは刈り取られている。

 なお、要図にもあるように周囲はなだらかな斜面で、南側の段は畑になっている。
【写真左】主郭の小堂
 主郭にたどり着くと、ご覧の小堂が建てられている。

 以前はもう少し北側にあったようだが、現在は南側に建てられている。
 棚には地蔵が祀られている。
【写真左】「城主 近藤掃部頭」と書かれた標柱
 小堂の中にはご覧のようなものが残っている。おそらく以前は郭段の一画に立ててあったものだろう。
【写真左】主郭の北側
 長軸37mの規模で、全体に平滑に仕上がった郭である。
【写真左】瓦片
 北側には瓦片が残る。周りをよく見ると石積段の痕跡があるので、最初に祀られていた小堂跡だろう。
【写真左】五輪塔群・その1
 南東隅に残るもので、20基余りの数に及ぶ。
【写真左】五輪塔群・その2
 殆ど五輪塔形式のものが多いが、一部宝篋印塔のものもある。
【写真左】笹尾城主・近藤氏を攻めた赤木氏の居城・滝谷城方面を見る。
 この写真のほぼ中央部に見える山の後に所在している。

 笹尾城から滝谷城までの距離は直線距離でわずか780mほどで、指呼の間である。


 なお、赤木氏については次稿で取り上げたい。

2016年3月25日金曜日

吉田兼久の墓(岡山県高梁市吹屋町)

吉田六郎兼久
              (よしだろくろうかねひさのはか)

●所在地 岡山県高梁市吹屋町
●参拝日 2016年3月29日

◆解説
 本稿では、前稿黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)の城主・吉田六郎兼久の墓を紹介したい。

 黄金山城を探訪した3月15日の当日も件の墓を訪ねようとしたが、この時は手がかりになる史料がなく、分からないまま帰宅した。その後、調べていくうちに、どうやら吹屋の街並みの一つ「中町」に在りそうだということが分かったので、この日(3月29日)地元の観光案内所に向かい、教えていただいた。

 場所は、北側にある「べんがら屋」の脇にある路地を入って少しのぼった墓地の一角にある。
この高くなったところ(尾根)を越え、降っていくと吹屋小学校跡側に出てくる。
【写真左】吉田兼久の墓・その1
【写真左】吉田兼久の墓位置図
 この地図は、明治28年8月ごろ、街並み復元図として作成されたもので、おそらく江戸時代にすでにこのような街並みが出来ていたものと思われる。

 吉田兼久の墓は、ご覧のように街の通りから外れたところにある(下段写真参照)。
 なお、この図は小さい文字で分かりづらいが、兼久の請負人となった大塚家が右下に記されている。


【写真左】吹屋の街並み
 通りの左右にはベンガラ色に染まった建物が往時を偲ばせてくれる。
【写真左】墓地に向かう
 吹屋の街並み通りの北側に、現在「べんがら屋」という店があり、そこの隣に小さな脇道がある。

 これをまっすぐに進んで行くと、次第に登り坂となり、左側には杉林が続く。

【写真左】中嶋家の墓地
 しばらく行くと、右手にまとまった墓地が点在してくるが、その中に「中嶋家」の墓地がある。
 この中に、吉田兼久の墓が祀られている。

【写真左】吉田兼久の墓・その2
 墓石は3対の体をなしているが、分散したものを後に付き合わせたものだろう。中央が兼久で、残りは正室のもの、及び兼久の子のものもあったかもしれない。

 隣に石碑があるが、裏を見ると、「昭和55年 中嶋秋雄建立」とあるので、この墓地の所有者中嶋家の方が建立されたものだろう。

碑文は判読不明な箇所もあるが、次のように記されている。

《正面》
 “清源寺院殿壽澗兼久大居士  永禄六癸亥十一月二十九日
  黄金山城主吉田六郎権頭兼久
     室蓮華院殿◇室◇◇大姉

《側面》
祖近江源氏
 近江国神埼郡佐々木氏ノ分レ近江国愛智郡吉田郷拝領主ト為リ地名ニ因ミ吉田氏ヲ名乗ル出雲ノ太守尼子義久氏傘下ノ武将守護職トシテ毛利氏ト戦イ討死セリ 嗚呼”


兼久討死の時期
 
 前稿では兼久が戦死した時期がはっきりしなかったが、上記碑文を読むと、永禄6年11月としている。すなわち、1563年のことで、このころ、出雲においては毛利元就が、荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を本陣として築き、尼子氏の重要な支城であった白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻め、同年10月29日に、当城を攻略している。
 そして、その3年後の永禄9年(1566)11月21日、尼子氏の居城であった月山富田城が落城、義久・秀久・倫久3兄弟が降伏することになる。

 このことから、兼久の居城・黄金山城を攻めた毛利軍とは、おそらく備後東部や備中における国人領主らで、毛利氏に帰順した者たちによるものだろう。

2016年3月24日木曜日

黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)

黄金山城(こがねやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市成羽町吹屋下谷
●別名 小金山城・古金山城
●高さ H:491m(比高50m)
●築城期 天文年間(1532~54)又は永禄年間(1558~69)
●築城者 吉田六郎兼久
●遺構 竪堀・郭・井戸跡・石垣・堀切等
●備考 銅山、国指定重要伝統的建造物群保存地区
●登城日 2016年3月15日

◆解説(参考資料 HP「備中高梁情報ステーション」等)
 前稿備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)から東に枝分かれする県道85号線を登っていくと、銅山やベンガラで有名な吹屋の街並みに入る。この地区は昭和52年に「鉱山町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町並みはベンガラ色に染まる建物が通りを彩る。

 吹屋は千枚・中町・下町・下谷の4地区で構成されているが、このうち、中心部から少し東の位置に当たる下谷・白石地区に黄金山城が築かれている。
【写真左】黄金山城遠望
 南側から見たもので、中央の通りも吹屋重要伝統的建造物保存地区にあたる。

 黄金山城は、東西に挟まれた谷の中央部に突出した舌陵丘陵上に築かれている。


 現地の説明板

“黄金(こがね)山城(小金山城・古金山城)

 後方の小高い山を黄金山といい、城が建っていた。(現在は石垣のみが残る。)
 永禄年中(1558~1569)山陰尼子家の武将吉田六郎兼久当城開基、吹屋の銅山を支配する。
 後、毛利に攻められて戦死。兼久の廟塔中町の裏手にあり、人称して郷名(地名)を石塔、後に関東と名付けられた。
 川向かいに大塚屋敷があり、往時この辺りは吹屋の要所であった思われる。
【写真左】黄金山城の南端部と説明板
 当城南端部で、左側が黄金山城。
 その南麓部には幅15m前後の空き地があり、道路脇には説明板が設置されている。


銅山別記
 この裏の北側を大深谷(おおぶかだに)といい、銅山発生の地であり、大深千軒といわれるほど、大いに繁栄していた。

 まかねふく  吉備の中山帯にせる。
             細谷川の昔のさやけさ。「備中府志より」”
【写真左】黄金山城の位置
 吹屋地区の要所に設置されている「吹屋ふるさと村観光案内板」に記載されているもので、文字が少し小さいが、黄色で囲んだ箇所が黄金山城の位置を示す。


【写真左】黄金山城鳥瞰図
 踏査した記憶を頼りに描いたもので、規模は南北を軸線に300m余の長さを誇り、郭幅は20m前後と小規模なものである。
 麓を走る県道85号線は、当時(戦国期)と同じルートだったと思われる。

 なお、同図の川は県道85号線と並走しながら南下し、宇治本郷に繋がり、島木川となって、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の北麓で成羽川と合流する。



吉田六郎兼久

 上掲した現地の説明板では、築城期を永禄年中としているが、『御山鏡(おやまかがみ)』という史料によれば、尼子氏が当地・吹屋を支配したのは、すでに天文年間(1532~54)であったという。そして築城者は尼子家の武将・吉田六郎兼久とされている。

 尼子氏家臣団で吉田氏といえば、川手要害山城(島根県安来市上吉田町)でも紹介したように、古くから同氏に仕えた一族で、この戦国期に吹屋に赴いた六郎は、出雲吉田氏始祖と同じ名前を名乗っているので、同氏嫡流であろう(吉田兼久の墓(岡山県高梁市吹屋町)参照)。
【写真左】西側の斜面
 黄金山城は50m前後の比高差しかないが、先端部(南側)から北にかけて東西の斜面は天険となっている。
 写真は北側から先端部(南側)を見たもの。
 唯一登れそうなのが、北側に向かった切通し側になるため、このあと北に進む。


 ところで、出雲尼子氏がもっとも隆盛を誇ったのは天文年間であり、このころから備中・美作方面に盛んに進攻し、しばらく支配下に治めている時期でもある。

 この中で最も知られているのは、美作の高田城攻め(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1参照)だが、備中においては紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)でも述べたように、天文9年(1540)の段階で、紫城主平川氏が尼子氏から毛利氏へと鞍替えするとき、それを阻止するため尼子氏の被官・米原(米倉は誤記)平内正勝が戦っており、また吹屋から島木川を南下した宇治地区の国人領主・赤木氏が、天文9年以前に尼子氏に属していることなど、そのころは備中の主だった地区を支配していたと考えられる。

 また、美作・備中の支配に一定の目途がたったのだろう、天文5年(1536)12月26日付で、尼子経久は、近江国の浅井亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)にその戦況を報告している(「江北記」)。
【写真左】切通から登る
 北端部で東西に横断する林道を登っていくと、峠付近でなだらかな尾根を確保できる。
 おそらくこの道は、当時堀切であったと考えられる。

 右が黄金山城北端部で、左側の山も中世には銅山としての坑道があったようだ。


大塚家

 ところで、吉田六郎兼久が当城を築いたころ、併せて銅山を開坑し山師としての鉱業経営も図っている。尼子氏がこのように美作・備中国の山間部まで進出した理由は、一義的には領国拡大を狙ったものだろうが、実利的な側面を見ると、やはり備中の銅採掘がもたらす富がそこにあったものと推察される。
【写真左】井戸跡か
 北端部の東斜面には小規模な郭段が残るが、尾根側に岩でかこまれた大きな窪みがある。おそらく井戸跡と考えられる。



 ちなみに、ほぼ同じ時期と思われる天文6年(1537)8月、尼子経久は石見銀山攻略を計り、それを手中に収めている。

 ところで、吉田兼久が黄金山城の周辺部で銅山を経営する際、請負人となったのが大塚孫一・松浦五右衛門らで、後に地元吉岡銅山経営などで成功したのが大塚家である。
【写真左】竪堀
 写真ではあまり明瞭でないが、西側斜面には浅い二条の竪堀が残る。
 因みに東斜面も探してみたが、こちらには竪堀は残っていない。もっともこちらの斜面は急傾斜が多いため必要なかったかもしれない。


毛利氏の吹屋攻略

 さて、尼子将の吉田兼久が後に毛利氏の攻略によって戦死することになるが、その時期については上掲した説明板には触れられていない。状況を考えると、尼子氏の居城・月山富田城が落城した永禄9年(1566)から翌10年ごろと推察される。
 なお、吹屋銅山の請負人であった大塚家などは、毛利氏の代になってもそのまま当地に留まり、銅山経営を続け、江戸期の繁栄に繋がっていくことになる。
【写真左】主郭付近
 尾根伝いに南に進んで行き、ほぼ中間地点にいくと、約5m前後高くなった段が構成されている。
 ここが主郭と思われ、小さな祠が祀ってある。
「◇建 城址 麻利天神社 願主 辰生男 堀新市◇」と書かれている。

なお、この一画だけ北から東にかけて高さ50cm程度の土塁が残る。
【写真左】低くなった段
 主郭から少し南に進むと、西側半分の幅で低く加工された段がある。
【写真左】西麓を見下ろす
 登城口に向かう前に歩いた西側の谷が見える。また、川を挟んで対岸に建立されている本教寺の屋根もかすかに見える。
【写真左】南端部
 先に進むにつれ幅は狭くなるが、平滑面は維持されている。
【写真左】南突端部
 先端部は多少の曲線を残して切崖をなしているが、この辺りの側面はすべて険峻な状態となっている。
【写真左】下山後、再度遠望
 冒頭の写真より近づいて撮ったもので、手前には伝統的建造物保存地区の家が建つ。

2016年3月16日水曜日

備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)

備中・坂本城(びっちゅう・さかもとじょう)

●所在地 岡山県高梁市成羽町坂本1604
●別名 坂本村山城
●備考 西江邸
●築城期 戦国時代
●築城者 西江大蔵清成
●城主 西江氏
●高さ H:330m(比高70m)
●遺構 石垣・近世建築等
●登城日 2014年11月24日
 
◆解説(参考資料 HP「奥備中 西江邸」等)
 本業とは別に、晩年はライフワークとなった放浪芸など、芸能の歴史を研究し続け、自らはその話芸に独特の境地を開いた多才な俳優がいた。小沢昭一氏である。1973年から2012年まで放送されたラジオ番組「小沢昭一的こころ」は、ほとんど車の運転中に聴いていたが、絶妙の話芸に陶酔し、笑ったり、時には涙腺が緩んだりと、随分と楽しませていただいた。
【写真左】西江邸(備中・坂本城)
 現在の姿は宝永2年(1705)、郡中惣代庄屋になったころ建てられた建物が基礎となっている。
 因みに、その2年前の元禄16年は、赤穂浪士46(47)名が切腹を命じられている。


 ところで、小沢氏最後の映画出演となったのが、2007年封切りの映画「釣りバカ日誌18」だったと思う。この映画では、岡山で政財界に強い影響力を持つ陰の実力者・渋谷剛三という役で出演している。
 その中で、渋谷の屋敷という設定で、歴史のある豪邸が紹介された。これが室町末期より当地に居住し、地方豪族として、戦国時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた「西江邸」である。

【写真左】案内図
 現在地と書かれた箇所にあるもので、色が大分薄くなっていたため、管理人によって加筆している。
 上方が北を示す。
【写真左】吹屋に向かう県道85号線から坂本城を俯瞰する。
 坂本から分岐して吹屋に向かう県道85号線は急坂道の九十九折れとなるが、途中から天神山や、西江邸が俯瞰できる。




西江邸

 備中(岡山県)高梁市成羽町には、江戸期にベンガラ製造で栄えた吹屋地区がある。吹屋から県道85号線を西の坂本川沿いに降っていくと、県道33号線(吹屋街道)と合流するが、この場所が坂本という地区である。そして、交差点から少し南に向うと、「西江邸」という看板が見える。
【写真左】バス停前の案内標識
 南北に走る吹屋街道(県道33号線)の脇に看板があり、道路を挟んで反対の東側に専用駐車場が設置されている。
 車はここに停め、歩いて西江邸に繋がる坂道を登っていく。
【写真左】駐車場側から西江邸方面を見上げる。
 手前の道が吹屋街道で、高台に見えているのは西江邸の屋敷ではなく、広い平坦地に南北に長い建物(何らかの施設か)が建っている。
 西江邸はこの建物のさらに上の段に建てられている。



初代・西江大蔵清成
       坂本(村山)

 西江氏の家譜によれば、出自は関東の三浦氏とされる。
 三浦氏といえば、隣接する美作・高田城(岡山県真庭市勝山)の三浦氏が、既に南北朝時代に足利尊氏から教書を送られており、当城の三浦氏は鎌倉時代に遡ったころ既に当地(美作)に下向していたとされるので、西江氏も実際には南北朝期に、美作三浦氏の分流となり、備中国成羽に赴いたものだろう。
【写真左】西江邸に向かう坂道
 車は道路側の駐車場に停めて、歩いて向かう。北側の谷に設置された急坂道で、高低差があるため、途中で何度も休憩をとった。


 初代・西江大蔵清成はこの坂本に住み、山城(坂本村山城)を守る地侍となり、天正の乱で武勲を挙げ、毛利輝元より200町歩の土地を与えらえれた。関ヶ原の戦いで毛利氏敗退により、武士を捨て帰農した。
 江戸時代に入ると、この地は天領となり、西江家は1705年、郡中惣代庄屋として代官御用所となった。
【写真左】古墓群
 ほぼ登りきったところで、左側にご覧の墓石群が見えた。
 五輪塔や宝篋印塔形式のもので、おそらく散在していたものをこの場所に集めたものだろう。
 西江氏一族のものと思われる。


 現在の西江邸には、今も第18代当主が居住され、当時の館構えのまま、白洲(しらす)、郷蔵、駅馬舎、手習い場など往時の姿をそのまま残している。

 さて、初代清成が地侍となったとき、坂本村山城という山城を守ったと記されている。西江邸が坂本城であることを標記するものは現地にはなく、また具体的な史料も今のところ見出されていない。

 しかし、探訪したこの日、同氏18代当主の奥様にお会いし、そのことを確認したところ、当屋敷(西江邸)の前身は坂本城であったと聞いています、との返事だった。
【写真左】入口付近
 凡そ200m程登っていくと、やがて風格のある門が出迎えてくれる。
 現在は写真のように石積で高くし、舗装された道路となっているが、当時はこのあたりまで郭段が構成されていたのだろう。


 このことから、件の山城そのものが現在の西江邸を中心とした高台であったと思われ、居城としていたと考えられる。
 ただ、比高がさほど高くないため、平時はこの城郭(坂本城)にあって、有事の際の詰ノ城は、さらにここから尾根伝いに登った天神山(H:777m)もしくは、その尾根筋上にあったのかもしれない。
【写真左】門手前から振り返る。
 写真左に西江邸の建物があり、右側の登ってきた道との間は、ごらんのような大きな窪みがある。
【写真左】井戸跡か
 上の写真にも見えているが、道路脇の下には板で蓋をした四角いものが見えている。おそらく井戸跡と思われる。
【写真左】北側に延びる平坦部
 ほぼ登りきったところの東側には、北に向かって次第に細く伸びた郭状のものが残る。

 城郭の時代にはこの辺りが一番街道筋を俯瞰できるので、物見台があったかもしれない。
 この一角に朽ち果てた祠があった。

 邸内を見学(有料)したあと、坂を下りて東側の谷に向かう。
【写真左】北側の谷
 写真に見える川は、坂本川でここから左に向きを変え吹屋街道と並行して南下し、成羽川と合流する。
 西江邸は写真中央部樹林の奥にある。
 この川が濠の役目をしていたものと思われる。

 
【写真左】辰口八幡神社
 川を挟んで北側には辰口八幡神社が祀られている。

 弘安2年(1279)豊後国(大分県)の宇佐八幡宮の御玉串をいつき帰り、龍ノ口山に鎮祀したのに始まるという。

 弘安2年といえば、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の間にあたり、その間に朝廷が全国の諸社寺に対し、異国降伏の祈祷を命じている。
 坂本の辰口八幡社創建期は不明だが、西江氏が関わった可能性が高い。

 なお、龍ノ口山というのは、現在の岡山市中区四御神にある標高256mの山で、北麓に龍の口神社が祀られている。


【写真左】辰口八幡神社から西江邸側を見る。
 上の段にさきほどの道があり、かなりの高さを感じたが、下から見るとさらにその険峻さを再認識させられる。