2012年1月26日木曜日

白鹿城(島根県松江市法吉町)・その1

白鹿城(しらがじょう)・その1

●所在地 島根県松江市法吉町●築城期 室町時代後期
●築城者 松田・尼子氏
●城主 松田誠保
●別名 白髪山城
●高さ 154m
●遺構 郭・井戸・空堀
●備考 尼子十本旗の一つ
●登城日 2007年12月23日、及び2012年1月18日

◆解説(参考文献『尼子盛衰人物記:編者 妹尾豊三郎』『日本城郭体系第14巻』『新雲陽軍実記』等)
 白鹿城については、これまで 平田城・その2(島根県出雲市平田町)十神山城(島根県安来市安来町)で少し触れてきたが、今月取り上げた北東部に近接する真山城(島根県松江市法吉町)と関わった山城である。

築城期については明確な資料がないが、戦国期尼子氏の居城・月山冨田城を守備する尼子十本旗の第一の城として『雲陽軍実記』に記されている。
【写真左】東方より白鹿城を見る。
 真山城の南麓登城口付近にある三叉路(白鹿上池と白鹿下池の間)から見たもので、写真左側頂部が本丸位置になる。
 正面の奥に向かう道路(真山林道)を進むと、白鹿城の西の谷登山口にたどり着く。



 現地には説明板が2か所あるが、最初に白鹿城の南東部の登山口(常福寺側)にあるものを転載しておく。

“白鹿城址


白鹿山は白髪山とも書かれ、標高154m、尼子氏十旗の筆頭で、永禄年間は尼子晴久の義兄・松田左近誠保(まさやす)が城主であった。
 永禄5年(1562)毛利元就が出雲に侵攻し、尼子の本拠富田城の攻略に先立って洗合(あらわい)(松江市国屋町)に本営を築き、白鹿城も包囲した。
 松田左近誠保は、弟の常福寺住僧普門西堂らと力を合わせ、防戦に努めた。


毛利軍は、石見銀山の抗夫を動員して井戸の水源の切断を計れば、尼子軍は城内から坑道を掘り、地中でこれを迎撃したり、矢文を射て戦意をそぐなど激しい攻防戦が行われた。


 永禄6年(1563)籠城1年の後、兵糧も水も断たれ、毛利軍の総攻撃に矢玉も尽きて落城した。
左近の妻(晴久の姉)は自害、一族郎党多数が討死、左近は脱出して、のち元亀2年(1571)の尼子再興軍の戦いに加わったが、その後の動静は不明である。


法吉 白鹿 真山の自然と文化を育む会”
【写真左】白鹿城配置図
 後述するように、この日の踏査箇所は井戸跡・本丸・月見御殿・一ノ床までで、他の遺構については踏査していない。


 いずれ機会があったら主だった遺構も踏査したいと思う。



松田氏

 応仁元年(1467)に始まった応仁の乱において、当時出雲・隠岐守護であった京極持清は、東軍方細川勝元へ味方した。これにより出雲国守護代・尼子清貞は東軍方として活躍することになる。

 これに対し、安来・中海を本拠としていた松田備前守らは、事実上西軍方として尼子氏の居城富田城を攻めた。翌年の応仁2年(1468)6月20日のことである。

 応仁の乱はその後約10年にわたって繰り広げられるが、出雲国で一つの節目となったのが、文明8年(1476)に起こった『能義一揆』である。

 『尼子盛衰人物記』(妹尾豊三郎編著)には、この時の首謀者の一人として、十神山城主・松田三河守があったとし、この一揆にはさらに奥出雲最大の国人領主・三沢氏が参加し、清貞追放の引き金にもなったと記している。
【写真左】西の谷登山口
白鹿城への登山口はこの西の谷のものと、南東部の白鹿谷の2か所がある。今回(2007年)はこの場所から向かった。




 ただ、松田氏の動きについては、他の一揆に加わった諸氏とはその後の動きに差異が認められる。
というのも、守護であった京極持清が文明2年(1470)8月に亡くなり、後を引き継いだ政高になると、彼は文明5年(1473)2月11日付で、松田三河守に出雲国法吉郷を安堵している(「小野文書」)。

 このことから、松田氏は途中から守護代であった尼子氏に与し、能義一揆の首謀者としてではなく、むしろ鎮圧する側に立っていたのではないかと推察される。

 そして、安堵された法吉郷とは、まさに白鹿城の本拠地である。このことから、松田氏が当地を支配し始めたのは、この年(文明5年)と考えてよいだろう。

 永禄年間に城主であった松田誠保は、尼子氏から政久の息女を娶った。彼女は、尼子晴久の姉であり、従って誠保は、晴久の義兄に当たる。
【写真左】大井戸跡・その1
 西の谷側から向かうと割と早く遺構に出会える。
 写真は大井戸跡といわれたもので、直径は4m以上あったと思われる。
 この井戸が、説明板にもあるように、毛利方が石見銀山から抗夫を呼び寄せ、水脈を断ち切ったといわれたものである。
 毛利方によって断ち切られる前は、おそらく満々と湛えていただろう。
【写真左】大井戸跡・その2













白鹿城

 築城期についてははっきりしないが、上掲したように松田氏が京極政高から当地を安堵された文明年間、すなわち室町後期と考えられる。

 主だった遺構としては、上図のように北方中央に本丸及び、月見御殿を置き、そこから左右にΛ(ラムダ)字のように、二つの分岐した尾根伝いに郭群を南に伸ばしている。東側の尾根としては、上から順に、「一ノ床」「二ノ床」「三ノ床」と配置され、西側には、「井戸」「大黒丸」「小白鹿城」といった出城形式の城砦を配置している。

 なお、この西側尾根とは別に、西麓の鶯谷を介して小白鹿城の西方に聳える小丘には「高坪山城」があり、東側尾根東麓の白鹿谷の東方には「常福寺丸」という小規模な出丸も配置されている。
【写真左】本丸跡
 井戸跡から北東に少し向かうと、やがて本丸にたどり着く。


 登城したのが5年前(2007年)ということもあって、記憶が薄らいでいるが、規模はさほど大きなものでなかったと記憶している。
【写真左】月見御殿付近
 記憶に間違いがなければ、この箇所が月見御殿といわれた箇所と思われる。


 本丸と近接した場所であるが、戦がないときはこの場所で、「月見」など風流な催し物をやっていたのだろう。
【写真左】一ノ床
 本丸・月見御殿から南東側に延びる尾根に造られている郭で、この写真の奥に向かうと「二ノ床」「三ノ床」へとつながる。
【写真左】祠
 一ノ床付近に祀られている。
【写真左】一ノ床から二ノ床方面を見る。
 残念ながら、この日は二ノ床・三ノ床まで踏査していない。また、西側の尾根にある「大黒丸」や「小白鹿城」までも足を運んでいないため、ご紹介できない。


幸い、『城郭放浪記』氏が「二ノ床」「三ノ床」を紹介されているので、ご覧いただきたい。

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