2016年3月24日木曜日

黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)

黄金山城(こがねやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市成羽町吹屋下谷
●別名 小金山城・古金山城
●高さ H:491m(比高50m)
●築城期 天文年間(1532~54)又は永禄年間(1558~69)
●築城者 吉田六郎兼久
●遺構 竪堀・郭・井戸跡・石垣・堀切等
●備考 銅山、国指定重要伝統的建造物群保存地区
●登城日 2016年3月15日

◆解説(参考資料 HP「備中高梁情報ステーション」等)
 前稿備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)から東に枝分かれする県道85号線を登っていくと、銅山やベンガラで有名な吹屋の街並みに入る。この地区は昭和52年に「鉱山町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町並みはベンガラ色に染まる建物が通りを彩る。

 吹屋は千枚・中町・下町・下谷の4地区で構成されているが、このうち、中心部から少し東の位置に当たる下谷・白石地区に黄金山城が築かれている。
【写真左】黄金山城遠望
 南側から見たもので、中央の通りも吹屋重要伝統的建造物保存地区にあたる。

 黄金山城は、東西に挟まれた谷の中央部に突出した舌陵丘陵上に築かれている。


 現地の説明板

“黄金(こがね)山城(小金山城・古金山城)

 後方の小高い山を黄金山といい、城が建っていた。(現在は石垣のみが残る。)
 永禄年中(1558~1569)山陰尼子家の武将吉田六郎兼久当城開基、吹屋の銅山を支配する。
 後、毛利に攻められて戦死。兼久の廟塔中町の裏手にあり、人称して郷名(地名)を石塔、後に関東と名付けられた。
 川向かいに大塚屋敷があり、往時この辺りは吹屋の要所であった思われる。
【写真左】黄金山城の南端部と説明板
 当城南端部で、左側が黄金山城。
 その南麓部には幅15m前後の空き地があり、道路脇には説明板が設置されている。


銅山別記
 この裏の北側を大深谷(おおぶかだに)といい、銅山発生の地であり、大深千軒といわれるほど、大いに繁栄していた。

 まかねふく  吉備の中山帯にせる。
             細谷川の昔のさやけさ。「備中府志より」”
【写真左】黄金山城の位置
 吹屋地区の要所に設置されている「吹屋ふるさと村観光案内板」に記載されているもので、文字が少し小さいが、黄色で囲んだ箇所が黄金山城の位置を示す。


【写真左】黄金山城鳥瞰図
 踏査した記憶を頼りに描いたもので、規模は南北を軸線に300m余の長さを誇り、郭幅は20m前後と小規模なものである。
 麓を走る県道85号線は、当時(戦国期)と同じルートだったと思われる。

 なお、同図の川は県道85号線と並走しながら南下し、宇治本郷に繋がり、島木川となって、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の北麓で成羽川と合流する。



吉田六郎兼久

 上掲した現地の説明板では、築城期を永禄年中としているが、『御山鏡(おやまかがみ)』という史料によれば、尼子氏が当地・吹屋を支配したのは、すでに天文年間(1532~54)であったという。そして築城者は尼子家の武将・吉田六郎兼久とされている。

 尼子氏家臣団で吉田氏といえば、川手要害山城(島根県安来市上吉田町)でも紹介したように、古くから同氏に仕えた一族で、この戦国期に吹屋に赴いた六郎は、出雲吉田氏始祖と同じ名前を名乗っているので、同氏嫡流であろう(吉田兼久の墓(岡山県高梁市吹屋町)参照)。
【写真左】西側の斜面
 黄金山城は50m前後の比高差しかないが、先端部(南側)から北にかけて東西の斜面は天険となっている。
 写真は北側から先端部(南側)を見たもの。
 唯一登れそうなのが、北側に向かった切通し側になるため、このあと北に進む。


 ところで、出雲尼子氏がもっとも隆盛を誇ったのは天文年間であり、このころから備中・美作方面に盛んに進攻し、しばらく支配下に治めている時期でもある。

 この中で最も知られているのは、美作の高田城攻め(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1参照)だが、備中においては紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)でも述べたように、天文9年(1540)の段階で、紫城主平川氏が尼子氏から毛利氏へと鞍替えするとき、それを阻止するため尼子氏の被官・米原(米倉は誤記)平内正勝が戦っており、また吹屋から島木川を南下した宇治地区の国人領主・赤木氏が、天文9年以前に尼子氏に属していることなど、そのころは備中の主だった地区を支配していたと考えられる。

 また、美作・備中の支配に一定の目途がたったのだろう、天文5年(1536)12月26日付で、尼子経久は、近江国の浅井亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)にその戦況を報告している(「江北記」)。
【写真左】切通から登る
 北端部で東西に横断する林道を登っていくと、峠付近でなだらかな尾根を確保できる。
 おそらくこの道は、当時堀切であったと考えられる。

 右が黄金山城北端部で、左側の山も中世には銅山としての坑道があったようだ。


大塚家

 ところで、吉田六郎兼久が当城を築いたころ、併せて銅山を開坑し山師としての鉱業経営も図っている。尼子氏がこのように美作・備中国の山間部まで進出した理由は、一義的には領国拡大を狙ったものだろうが、実利的な側面を見ると、やはり備中の銅採掘がもたらす富がそこにあったものと推察される。
【写真左】井戸跡か
 北端部の東斜面には小規模な郭段が残るが、尾根側に岩でかこまれた大きな窪みがある。おそらく井戸跡と考えられる。



 ちなみに、ほぼ同じ時期と思われる天文6年(1537)8月、尼子経久は石見銀山攻略を計り、それを手中に収めている。

 ところで、吉田兼久が黄金山城の周辺部で銅山を経営する際、請負人となったのが大塚孫一・松浦五右衛門らで、後に地元吉岡銅山経営などで成功したのが大塚家である。
【写真左】竪堀
 写真ではあまり明瞭でないが、西側斜面には浅い二条の竪堀が残る。
 因みに東斜面も探してみたが、こちらには竪堀は残っていない。もっともこちらの斜面は急傾斜が多いため必要なかったかもしれない。


毛利氏の吹屋攻略

 さて、尼子将の吉田兼久が後に毛利氏の攻略によって戦死することになるが、その時期については上掲した説明板には触れられていない。状況を考えると、尼子氏の居城・月山富田城が落城した永禄9年(1566)から翌10年ごろと推察される。
 なお、吹屋銅山の請負人であった大塚家などは、毛利氏の代になってもそのまま当地に留まり、銅山経営を続け、江戸期の繁栄に繋がっていくことになる。
【写真左】主郭付近
 尾根伝いに南に進んで行き、ほぼ中間地点にいくと、約5m前後高くなった段が構成されている。
 ここが主郭と思われ、小さな祠が祀ってある。
「◇建 城址 麻利天神社 願主 辰生男 堀新市◇」と書かれている。

なお、この一画だけ北から東にかけて高さ50cm程度の土塁が残る。
【写真左】低くなった段
 主郭から少し南に進むと、西側半分の幅で低く加工された段がある。
【写真左】西麓を見下ろす
 登城口に向かう前に歩いた西側の谷が見える。また、川を挟んで対岸に建立されている本教寺の屋根もかすかに見える。
【写真左】南端部
 先に進むにつれ幅は狭くなるが、平滑面は維持されている。
【写真左】南突端部
 先端部は多少の曲線を残して切崖をなしているが、この辺りの側面はすべて険峻な状態となっている。
【写真左】下山後、再度遠望
 冒頭の写真より近づいて撮ったもので、手前には伝統的建造物保存地区の家が建つ。

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