2015年11月29日日曜日

安芸・亀居城(広島県大竹市小方)

安芸・亀居城(あき・かめいじょう)

●所在地 広島県大竹市小方
●別名 小方城
●形態 平山城
●築城期 慶長8年(1603)
●築城者 福島正則
●遺構 郭・堀切・石垣・井戸
●指定 大竹市指定史跡
●登城日 2008年4月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 亀居城を訪れたのは2008年で、7年も前になる。当城は本ブログのテーマとしているいわゆる「山城」ではないため、おそらくアップするのを控えていたものと思う。
【写真左】亀居城
 当城は下段に示すように、城主福島正則にとって不運な歴史を持つ城址だが、遺構として残った石垣には見るべきものがある。

 ただ、後年(近代か)相当な修復がなされているようだが、具体的にどの部分なのか管理人は把握してない。


 もっとも、写した写真を見てみると、桜見物が目的のような絵柄が大半となっている。そんなわけで、遺構の方はあまり期待しないでいただきたい。

 なお、写真の日付には2007年1月1日と表示されているが、これは管理人の設定上の不手際で、実際に登城したのは2008年の4月11日である。
【写真左】亀居公園案内図
 現地に設置してある案内図に、管理人が追記したもので、今では市民の憩いの場として公園となっている。

 左図の赤字で示したところは現在消滅しているが、当時「妙見丸」と「鐘の丸」という郭があった。


現地の説明板
“市指定史跡 亀居城跡
  慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国8ヶ国の内、防長2ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備2ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。

 広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。
 このとき小方の城将には、甥の福島伯耆(1万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
【写真左】亀居城・その1
 7年も前のことなので、写真の箇所がどこなのか全く思い出せない。







 5年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島正則は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。

 海に面したこの城の規模は、面積10町歩(992アール)、周囲18町(1,960メートル)におよび、山頂に本丸・これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸・妙見丸があって、合計11台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が巡らされていたといわれています。
 なお、この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。

 かくして亀居城は、広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16年(1611)、この城は取り壊される運命となりました。

 大竹市教育委員会”
【写真左】亀居城・その2
 本丸付近か











福島正則

 築城者福島正則は、賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)でも紹介したように、賤ヶ岳の戦で勇名をはせ、加藤清正らとのちに「賤ヶ岳の七本槍」の1人とも称された武将である。文字通り秀吉を支えた人物で、秀吉亡き後、次第に石田三成との不仲が決定的となり、関ヶ原では東軍(家康方)についた。
【写真左】亀居城・その3













 新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)や、千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)でも述べたように、秀吉に対する熱い忠義が家臣にも伝わったらしく、有能な家臣も多く仕えた。
【写真左】亀居城・その4













 徳川幕府が彼に対し執拗なまでの圧力をかけていたのは豊臣恩顧の家臣で、しかも彼の母が秀吉の叔母という間柄という濃い親族であったことも理由だろうが、やはり百戦錬磨の実績を誇った武将であり、家康が亡くなったあと、幕府としては清正と同じく、もっとも脅威を感じた人物であったことが大きな理由であろう。
【写真左】石垣の刻印
 亀居城の特徴の一つとされるのがこの刻印である。

現地説明板より

“亀居城の石垣の刻印(その1)

 城は「建てる」とはいわずに「築く」といいます。城の威力は建物よりも、石垣の要害に負うところが大きいからです。
 その石垣の石に、刻印を付けたものが慶長~寛永(1603~1642)の頃の築城に、著しく見受けられます。

 刻印の目的は、種々考えられますが、亀居城の場合は、石の出荷を厳しく督励するために仕事を請けたグループごとに、目印のマークを彫りつけさしたものと思われます。

 石垣は、花崗岩で築かれていますが、山そのものは、堆積岩(水成岩=玖珂層群)で出来ています。
 この石垣のすべての石が、島や海岸からばくだいな労力で運び上げられたものです。
 亀居城の刻印は、42種類-264個が発見されており、このうち広島城の刻印と同型のものが、21種類もあります。
 このことは、両城とも福島正則が普請したという、一つのあかしとなります。

 「三の丸」の刻印は左記のように16種類・54個あります。
 ※印は広島城と同じ型です。

    大竹市教育員会”
【写真左】亀居城・その5
【写真左】亀居城・その6
【写真左】亀居城・その7
 奥に見えるのは、広島湾(安芸灘)に突出した大竹市の街並みと工場地帯。
【写真左】亀居城・その8
 左に見えるのは厳島と思われる。
【写真左】亀居城・その9
【写真左】亀居城・その10

2015年11月26日木曜日

阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内)

阿用城(あようじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町東阿用宮内
●別名 磨石城・蓮花(寺)城
●築城期 南北朝期
●築城者 土屋氏(桜井氏)
●城主 桜井(阿用)宗的
●高さ 309m
●遺構 郭・堀切・土塁・帯郭・虎口
●備考 明峰山 蓮花寺
●登城日 2014年10月24日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系第14巻』『石見町誌』等)
 前稿まで九州地区の山城を取り上げてきたが、今稿は久しぶりに管理人の地元・出雲の山城を取り上げたい。
【写真左】阿用城遠望
 西側から見たもので、北(左)側には蓮花寺が所在する。









 阿用城は別名磨石城(とぎしじょう)とも呼ばれ、現在の雲南市大東町阿用地区に築かれた城砦で、この近くには以前取り上げたものとしては、丸子山城(まるこやまじょう)跡・島根県雲南市大東町大東や、佐世城(島根県雲南市大東町下佐世)などがある。

現地説明板より

“阿用城由来記

 阿用城は、14世紀から16世紀、南北朝時代から室町時代にかけて阿用を支配していた土豪桜井氏の居城跡である。桜井氏は京極氏の家臣であったが、15世紀の終わりに京極氏に代わって出雲の覇者になった尼子氏に従わなかったため滅ぼされたと伝えられている。
【写真左】登城口始点
 蓮花寺に向かう道の途中で道が分岐し、右に向かうと阿用城(とぎし城)へ、左に向かうと蓮花寺にたどり着く。

 車はこの付近の空き地に1台程度は留めることができる。


 城跡は、標高309mの通称磨石山(とぎしさん)の頂部から延びる尾根上や、枝尾根上に延600mにわたり大小60余りの郭(平に加工された区画、曲輪)が配置された大きな山城跡である。
 しかし、郭面は自然地形のままのところも多く、土塁も明確なものは山頂の主郭の一部のみである。また斜面に竪堀(敵の移動を防ぐための竪状の堀)は見当たらず、城の縄張り(構造)としてはややまとまりを欠く。
【写真左】登城道
 林道として使われているせいか、しばらく歩きやすい道となっている。

 また要所ごとにこうした案内標識が立っているので分かりやすい。


 城主の居館跡については、平成元年多量の埋納銭貨(せんか)が発見された南西側東上集落の山麓区域が考えられる。また下方の福富集落東側低丘陵上には、福富城跡があり、阿用城の支城跡の一つと考えられる。

 阿用城の城攻めについては、軍記物の『雲陽軍実記』及び『陰徳太平記』に独特の文学的表現で劇的に語られている。即ち寄せ手の大将尼子政久(経久の嫡男)が夜、向城の櫓上で笛を吹いていたところ、阿用城主桜井宗的に向いの竹やぶから矢を射掛けられるという奇襲攻撃を受けて殺された。この事件の後、阿用城は尼子軍の総攻撃を受け落城したと記されている。
【写真左】ここから急坂となる。
 幅員が結構あるので、おそらくここまで軽トラックで登れるかもしれない。
 ここまで遺構らしきものは見いだせない。


 また『佐々木系図』(佐々木寅介蔵原本・県立図書館写本蔵)には、政久の死について次のように記している。
 「政久 又四郎 民部少輔 永承十年(1513)癸酉九月六日於雲州阿與城当流矢卒歳廿六 法名 華屋常心」。

 落城の時期については、雲陽軍実記は1508年(永正5年)、陰徳太平記は1518年(永正15年)とする。これら三資料から阿用城落城は1510年前後と考えられるが、あるいは佐々木系図の1513年が当たっているかもしれない。

 平成22年10月 阿用地区振興協議会”
【写真左】土塁
 登城途中の右側に土塁が見える。
この辺りから郭群が散見されるが、いずれも小規模なものや、劣化のため自然地形に近いものが多い。


蓮花寺(曹洞宗 明峰山)

 阿用城の所在する磨石山に向かうには、北側の谷を挟ん隣接する尾根に建立された古刹・蓮花寺を目指す。先ずはこの寺院について先に紹介しておきたい。

 『島根の寺院 第3巻』(有賀書房)によると、寺伝によれば、奈良時代後期の天平年間(749~766)、行基菩薩又は延暦年間(782~805)、伝教大師の開基ともいわれる。また、出雲観音霊場第14番の札所でもある。
【写真左】蓮花寺
 参拝日 2007年12月26日











 南北朝時代の正平年間、大東庄南北を領していた土屋氏の一族・土屋四郎左衛門尉、及び伊藤弾正左衛門尉が、伯耆の名和氏と呼応し、蓮花城に拠って勤王の兵を挙げたと伝えられている。

 元は天台宗であったが、応永年間(1394~1428)に本院開山融山大祝禅師が再興し、以来曹洞宗として法灯絶えることなく今日に至っている。
【写真左】「くのじ展望台」から阿用城を遠望する。
 蓮花寺側から東に少し登っていくと、「くのじ展望台」があるが、ここから南方向を眺望すると、阿用城が見える。

 なお、「くのじ展望台」については下段の方で紹介している。




土屋氏

 さて、上掲した説明板には、阿用城を居城としたのは、土豪桜井氏とあり、元は京極氏の家臣であったとしている。これに対し、「蓮花寺」の項では、土屋氏としている。

 土屋氏と桜井氏、この両氏がどういう経緯で当地に入ったのか、詳細な記録はない。
【写真左】このあたりから左右に小郭の段。
 説明板にもあるように、中小60前後の郭が点在していると書かれているが、ほとんど明瞭でない。





 そこで、まずは土屋氏という姓名を一つの手がかりとして推考してみたい。出雲国という西国における当時の国人領主や土豪といった一族の出自を思い浮かべるとき、一般には東国御家人が考えられる。土屋氏もその例外でなく、やはり鎌倉期における地頭補任がもっとも可能性が高いだろう。
 
 出雲国において最初に土屋氏の名が出てくるのは、土肥実平の弟・土屋宗遠(むねとお)が大原郡福田荘に補任されたという記録がある。もっとも、この地頭記録はその後代官の濫妨行為によって、文治2年(1186)に停止されている。
【写真左】主郭・その1
 尾根の最初のピークを過ぎるとその後は平坦な道となるが、そのまま北に進んで行くとご覧のように伐採整備された主郭が見えてくる。



 福田荘というのは阿用城の所在する大東町の西隣加茂町にあった荘園で(下段写真参照)、文治2年の地頭停止の際、土屋氏は福田荘から大東町阿用に移った可能性もある。また、少し時代は下るが、天福元年(1233)ごろ、宍道湖の北岸にあった秋鹿郷には土屋氏が地頭となっている。
【写真左】主郭から北西に旧福田荘などを見る。
 主郭から眺望が利くのは、北西方向だが、ここから旧福田荘があった加茂町や、以前取り上げた高瀬城(島根県斐川町)や、葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1などが見える。

 また、斐川町を挟んでその奥には、通称北山に聳える旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)も眺望できる。


 ところで、土屋宗遠の兄・土肥実平はこれまで何度も登場してきているが、安芸・高山城の城主沼田小早川氏の始祖である。実平の弟とされる土屋宗遠は、兄実平と同じく相模国の出で、現在の神奈川県平塚市土屋を本拠とした。頼朝の鎌倉開幕に貢献し有力御家人となった人物であるが、晩年は承元3年(1209)梶原景時の孫を殺害した咎などで歴史の表舞台から姿を消すことになる。
【写真左】主郭の北側切崖
 主郭の北西側は全体に急傾斜となっているが、その上段部には高さ3m前後の切崖があり、一段ほどの腰郭状のものが付随している。



南北朝期

 上掲した蓮花寺の寺伝にもあるように、南北朝期におそらく阿用城と思われる蓮花城があり、時の城主が土屋四郎左衛門尉(以下「土屋四郎」とする)などとなっている。このことから、鎌倉期に当地に下向して以来、同氏はその地に根を張っていったのだろう。
【写真左】竪堀
 本丸の西側斜面に残るもので、大分劣化した遺構だがこの箇所の竪堀は比較的分かりやすい。





 土屋四郎が伯耆の名和氏と呼応し、当城に拠って勤皇の兵を挙げたというのは、後醍醐派に与したことでいわゆる南朝方(宮方)として戦ったということである。
 当然、これに対する北朝方の攻防もあったわけで、これを示したのが、諏訪部扶貞(貞扶)の軍忠による文書である(『三刀屋文書』)。
【写真左】腰郭
 主郭から北東に延びる尾根を少し進んで行くと、細長い腰郭がある。
 当城の北端部に当たる個所で、この付近には櫓に使われたと思わる巨石が2,3点在していた。


 このことについては、すでに瀬戸山城で紹介しているが、出雲部における戦いは、正平5年・観応元年(1350)が最も激しい。この年の8月下旬、諏訪部扶貞は下記の場所での軍忠を書き上げ、高師直の証判を受けた。
  1. 7月8日、阿用荘蓮花城
  2. 7月12日、来島荘由木城(由来城) 飯南町頓原
  3. 7月13日、来島荘野萱・下小城(下古城か)
  4. 8月8日、安来津
  5. 8月13日、富田関所
  6. 8月14日、平浜八幡宮
丁度この頃、畿内では北朝方の足利直義と高師直両者の対立が生じ始め、京の都は騒擾し始めていた。そして、師直は直義を討つため、尊氏の館(直義がこの館に逃げ込んだ)を囲んだ。

 またこれとは別に、正平4年(1349)の9月10日、足利尊氏は中国探題として備後にあった直冬を討伐することを決意、直冬は四国に奔り、さらには九州へ一旦逃れた。その後直冬は石見国へ向かうことになる。
【写真左】蓮花寺本堂の屋根
 主郭から尾根を更に進んで行くと、北東方向には蓮花寺の屋根が見える。
 当院との間に登城道(参拝道)があり、当城とは谷を介している。



 翌正平5年:観応元年(1350)6月21日、尊氏が担ぎ出した北朝方天皇・光厳上皇は、院宣によって足利直冬の追討を命じ、高師泰が石見国へ向かった。

 これに対し、直冬は鰐淵寺に祈祷を命じ(「鰐淵寺文書:7月20日条」)、8月13日には出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉らが直冬に応じて挙兵した。おそらく、阿用城(蓮花城)にあった土屋四郎左衛門尉、及び伊藤弾正左衛門尉らもこれらに与していたものと思われる。また、同月19日には小境元智(檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)参照)が直冬方として挙兵し、翌20日には多久中太郎入道らも参戦して、白潟橋で終日戦闘している(『萩閥66』)。
 こうしたことから、阿用城における両者も含めこのころの反北朝方は、宮方というよりも直冬に集結していたと考えられる。
【写真左】主郭・その2
 探訪したこの日、幸いにも主郭付近はきれいに伐採され、ここから麓の大東の街並みをはじめ、西隣の加茂町、斐伊川沿いの山並みや宍道湖を挟んで北側の北山連山などが俯瞰できた。
 なお、この位置からこれまで取り上げてきた山城数か所も確認できる(下段写真参照)。



石見土屋氏桜井氏

 さて、次に桜井氏だが、土屋氏と桜井氏両名の姓名を調べていくと、意外なことに、この二つの姓名を名乗る一族が実は隣の石見国に記録されている。

 特に土屋氏は平安末期ごろより、江の川の中流域にあった桜井郷に居住し、海外貿易を盛んに行っていた一族で、桜井郷を苗字にとって桜井氏とも名乗っている。そして桜井郷というのは、現在の江津市桜江町地域である。従って、桜井氏とは土屋氏のことである。
【写真左】主郭から岩熊城を見る。
 岩熊城(いわくまじょう)で、すでに紹介しているが、阿用城主桜井氏は経久によって攻略されたものの、同氏庶流及び、馬田氏はその後忠山城(島根県松江市美保関町森山)でも紹介したように、山中鹿助らと共に永禄年間尼子氏再興をめざし奮闘している。


桜井宗直宗信

 応永13年(1406)、周布兼宗の所領であった邇摩郡井尻村を桜井宗直が横領するという事件が起こった。兼宗は幕府に訴えたが、驚くことに幕府はそれを退け、宗直の領有と認めた。そして兼宗にはその替え地として同郡福光上村の土地を与えた。その理由は桜井氏(土屋氏)が海外貿易で蓄えた莫大な財力を背景に、幕府にいわば賄賂的なものを提供して了承を得たものであろうとしている。
【写真左】主郭から北方に丸倉山城・大平山城・八重山(城)を遠望する。
 阿用城のある磨石山から北方に目を転ずると、幡屋三連山とわれる三山が見える。
 これらも既に、丸倉山城跡大平山城跡八重山城跡で紹介済みである。



都治騒動

 その後桜井宗直の嫡男宗信の代になると、那賀郡都治の都治家(佐々木)から娘を貰い受けるが、かねてから日本海側の領地取得を画策していたのか、宗信は妻の実家都治家の乗っ取りを図った。応永20年(1413)、「泊り狩り」に都治家八人衆を謀殺、翌21年正月には年賀に出かけた義兄都治弘行及び妻を殺害した。
【写真左】主郭から高麻城を遠望する。
 高麻城跡(島根県雲南市加茂町大西)ですでに紹介しているが、旧福田荘(加茂町)に所在する山城である。



 幕府は当然ながら宗信の不法を責めたが命に従わないため、山名氏明に命じて宗信討伐に向かわせた。このとき、氏明が率いた軍勢は、但馬・因幡・伯耆・出雲から参陣したもののほか、当地石見からは吉見・益田・三隅・周布・福屋・小笠原・佐波・河上(かわのぼり)など中小の国衆も集まったという。

 桜井一族の討伐のためこれだけ大勢の軍勢が向かったのは驚きだが、逆に言えば、桜井氏が財力と併せそれだけ強大なものだったのだろう。また、山名氏明側は当時石見守護であった山名教清(在職期間 1406~29)の威光も働いたのかもしれない。

 この戦いでは宗信の拠る要害堅固な鏑腰城(かぶらこしじょう(写真参照)の攻略はせず、氏明らは向城として市山江尾の小城、日和の金比羅山城(日和城)、谷住の宮山城に陣を構え、氏明自身は波積に本陣を構えた。戦いはいわば持久戦によって氏明らが勝利し、桜井(土屋)氏の領地は次の諸族に預けられた。また、氏明はこの戦いで石見守守護職に補せられたという。
【写真左】鏑腰城遠望
 所在地:島根県江津市桜江町川戸

 江の川を挟んで北側を走る国道261号線から見たもの。

 右に向かうと江の川河口(日本海)へ出る。
 当城の北麓直下はJR三江線が走っているが、麓からは見上げるような絶壁となっている。
 まさに難攻不落の山城といった感じで、現在も登城は不可能に近い。



●川戸・有福・波積   山名氏明
   ※桜井地方史によれば、敗れた土屋宗信はその後氏明の領地のうち、川戸と波積は再び手に入れている)

●市山・日貫   福屋(氏兼)

●日和・川越池内大貫   小笠原(長教)

●谷住郷・松川地内上津井  某(周布兼宗か)

●上都治・下都治  烏丸豊光
   ※桜井地方史によれば、これに河上を加えている。

 桜井宗直はこの結果ほとんどの領地を失ったが、対外貿易で莫大な富財を手にしていたことや、縁戚関係にあった周布氏の協力も得て、その後失地回復を図ることになる。戦いの2年後の応永23年(1416)7月、京都の後小松上皇の御所が火災に遭った。幕府はその修理費として諸国へ一郡100貫ずつの郡銭徴収を命じた。石見については幕府は宗直に対し、当地六郡分の郡銭600貫を納入させ、一定の免罪と併せ、一部領地を回復させたという。
【写真左】「くのじ展望台」
 蓮花寺から370m程北東部の尾根頂部に向かったところに設置されている。
 永正年間に尼子経久の攻略によって落城するが、おそらくこの展望台が尼子氏の向城として使われた可能性が高い。


阿用城桜井氏石見桜井氏

 さて、長々と土屋氏並びに桜井氏について述べてきたが、出雲阿用城の桜井氏と石見の桜井氏の接点は資料上いまのところ見出し得ない。しかし、冒頭でも紹介した戦国期尼子氏に討ち取られた桜井宗的という名前からいえば、「宗的」の「宗」は土屋氏時代の祖・宗遠からすでに、「宗」を名乗り、石見の桜井氏もまた、宗直・宗信と継承されている。
【写真左】尼子政久の墓
所在地 松江市八雲町熊野 常栄寺

 阿用城の落城期については諸説あるが、陰徳太平記によれば、経久嫡男の政久が亡くなったのは永正10年(1513)9月6日とある。
 政久の墓は、松江市八雲町の常栄寺に建立されている。



 そして、阿用城の初期は土屋氏を名乗り、戦国期に至って桜井の姓を名乗ったということから考えると、この石見の桜井氏が当地出雲に下向してきた可能性が十分に考えられる。逆にいえば、石見桜井氏が下向しなければ、阿用城の城主はそのまま「土屋」氏を永代名乗ったはずである。

 想像だが、石見桜井氏が都治騒動後、何らかの理由で当地を離れざるを得なくなり、また同族の大東阿用城主土屋氏も、継嗣上の都合が生じ、石見桜井氏を招聘したのではないだろうか。

2015年11月14日土曜日

中津城・城井神社(大分県中津市二ノ丁)

中津城城井神社なかつじょうきいじんじゃ)

●所在地 大分県中津市二ノ丁

(中津城)
●指定 市指定史跡
●別名 丸山城・扇城・小犬丸城
●形態 平城
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 黒田孝高(官兵衛)
●遺構 石垣・堀

(城井神社)
●創建 天正19年(1591)
●城井大明神 開創 黒田長政
●城井大権現(城井神社) 宝永2年(1705) 小笠原長円

●登城・参拝日 2014年10月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 中津城については、中津城(大分県中津市二ノ丁)ですでに紹介しているが、当稿でも述べているように、この時は全くの観光気分で訪れたものである。そして、実際に登城したのは2005年10月なので、今回10年ぶりの再訪となった。
【写真左】中津城
 北側から見たもので、後段でも紹介するように、模擬天守を支える石垣は築城期の黒田氏時代、およびその後入封した細川氏時代のものとで構成されている。













 再訪の動機は、この年(2014年)のNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」の放映がきっかけであるが、今回は官兵衛はもとより、黒田氏に葬られた宇都宮氏にも興味があったため、築上町の史跡(城井ノ上城・大平城など)を探訪したあと、再び中津城を訪れた。
【写真左】江戸期の中津城配置図
 後段でも述べるように、この図は細川氏から小笠原氏へと城主が変わったころ確定した頃のものだろう。




中津城

 馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)でも少し述べているが、黒田官兵衛が当城を築城する直前まで居城としていたのが馬ヶ岳城である。秀吉が九州征伐のため、馬ヶ岳城に入ったのが天正15年(1587)3月29日とされている。そして5月8日に島津氏の降伏を受け、翌月の7日、博多筥崎に諸将を集め、九州諸大名の封域を定めている。
【写真左】南側から見た中津城
 10年前訪れた時は観光客もまばらだったが、この日は朝早くから観光バスなどで訪れる人が多くいた。
 官兵衛関係のコーナやグッズなども販売されていた。大河ドラマによる宣伝効果はやはりすごい。



 官兵衛が中津城の築城を開始したのは、翌天正16年の正月からといわれているが、もともとこの場所には応永年間(室町初期)に、中津江太郎の拠った小規模な城砦(大塚山土塁か)があったといわれている。

 中津江太郎は応永4年(1397)に大友氏鑑に随い田川郡・規矩郡に攻め入っているが、これはその5年前になされた南北朝合一後、山口の大内氏が豊前守護職を得て、豊後の大友氏と対立したことからしばらく続いた戦いである。

 そのあとと思われるが、この辺り(本丸付近)には二重の溝に囲まれた館があったという。それを裏付けるものとしては、最大径1.6m、厚さ70cmの大型礎石やタイル状の瓦が大量に出土し、建物種別としては寺院跡であったといわれている。

中津城石垣

 中津城の石垣については、現地の説明板に特記されているように、黒田氏時代のものと、細川氏時代のものと二つ残っている。

現地の説明板より

“黒田本丸石垣と細川時代石垣

 右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。
 両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
【写真左】黒田時代の石垣案内表示板
 北側にある薬研堀の中央部から西側の塀一帯が黒田氏時代のものといわれている。
 下段写真参照。



 中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。

 軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。

 孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯を含む大規模な築城に取り掛かったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いなどの功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。
【写真上】黒田氏時代と細川氏時代の石垣境界部
 三の丸側の方から見たもので、遠くからでも目地が違うので分かる。


 黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。

 元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。
【写真左】黒田時代の石垣
 写真は西側の中津川沿いにあるもので、ほとんど黒田氏時代のもの。
 細川氏時代と比べると、石積のすき間が大きい。


 元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二ノ丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

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【写真左】椎木御門付近
 東南部隅にある個所で、二ノ丸から本丸に向かう入口に当たる。
 細川氏時代以降のものだろう。なお、この手前には「長福寺」という寺院が建っていたとされる。


唐原山城

 ところで、黒田氏が築城する際に用いられた石垣は、西側を流れる山国川を遡ったところの唐原山城(とうばるやまじょう)から移設したものといわれている。この唐原山城は現在の上毛町にある古代山城(唐原神籠石:とうばるこうごういし)で、直方体の一辺が断面L字型に削られている石が特徴とされている。

 この古代山城が発見されたのは最近のようで、さきごろ開通した東九州自動車道の「唐原山城トンネル」の真上に当たる。機会があれば、いずれ探訪してみたいものだ。
【写真左】西側を流れる中津川
 右に見える川が中津川で、旧名高瀬川といわれた。この川は南方から流れてきた本流山国川が途中で中洲(小祝)を挟んで分岐したもので、河口である周防灘までわずか1キロ余りの短い河川である。


歴代城主

 中津城の歴代城主は前述した南北朝期の中津氏を別枠とすれば、築城者であった黒田氏(官兵衛)から始まり以下三氏の名が残る。

(1)黒田氏(官兵衛・長政)
        天正15年(1587)~慶長5年(1600)

(2)細川氏(忠興・忠利・三斎(忠興))  
         慶長5年(1600)~寛永9年(1632)

(3)小笠原氏(長次・長勝・長胤・長円・長邑)
         寛永9年(1632)~享保元年(1716)

(4)奥平氏(昌成から始まり昌遭まで9代)
         享保2年(1717)~慶應4年(1868)
 このことから、中津城主としてもっとも長く施政を布いたのは最後の城主であった奥平氏で、150年余と長期にわたり、近代まで事実上の主であったようだ。
【写真左】武家屋敷跡
 二ノ丸の北側に残るもので、中津城の最後の城主奥平氏の家臣・竹下氏のものといわれている。

 「江戸家中分限帳」(享和3年(1803))によれば、竹下義兵衛は「一高十人扶持」と記されている。
 建物は茅葺箇所が桁行9.756m、梁間4.98mの寄棟造りで、入口には土塀と門があったという。


城井神社

 中津城の西側には宇都宮氏一族を祀る城井神社と、扇城神社が建立されている。
【写真左】二社入口付近
 なお、この付近にはこのほか、奥平神社、中津神社、金比羅宮なども併設されている。






現地の説明板より

“城井神社

 御祭神  宇都宮鎮房

 城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代、およそ400年の間豊前国守(くにのかみ)として徳政を布いた。
 天正15年(1587)5月、豊臣秀吉は九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。

 鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
 そこで秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
【写真左】城井神社本殿
 ここにも大河ドラマ「軍師 官兵衛」で宇都宮鎮房役が村田雄浩さんに決定したと記された看板が添えてあった。




 天正16年(1588)4月20日、鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
 天正19年長政は深く感ずる処があって、城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。
 宝永2年(1705)小笠原長円(ながのぶ)は、小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度からの変遷の後、城井神社として改められた。

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“扇城神社(せんじょうじんじゃ)
   宇都宮鎮房公従臣四十五柱

 天正16年(1588)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の間に生まれた)の合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
 異変を知った家臣群は次々に城中へ駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い、広津広雲寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い、遂に庫裡にて討死、その他はことごとく討死した。
【写真左】扇城神社の看板
 境内末社のため、本殿は祠程度の小規模なものがこの看板の後ろに建立されている。






 家老渡辺右京進は、7,8人を薙ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ、城内乾の上段、この地に埋葬された。

 宝永2年(1705)、小笠原長円(ながのぶ)公は、広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正9年(1920)4月20日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。

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【写真左】中堀の土塁 ~おかこい山~
 ところで、中津城の南側には南部小学校があるが、この付近にかつて数か所の土塁があったという。地元ではこれを「おかこい山」と呼んでいる。
 写真に見える歩道には、その箇所を薄い緑色で示している。
【写真左】おまけ・中津城のネコ
 城井神社から少し南の方を散策していたらご覧のネコちゃんと遭遇。ネコ好きの家内、さっそく近寄ってスキンシップ。

 ヒト慣れしているせいか、愛嬌がいい。そういえば、こんな光景、広島の尾道でも見た覚えがある。

2015年11月6日金曜日

合元寺(大分県中津市寺町973)

合元寺(ごうがんじ)

●所在地 大分県中津市寺町973
●別名 赤壁寺
●創建年 天正15年(1587)
●開創 黒田孝高(官兵衛)
●開山 空誉上人
●宗派 浄土宗西山派
●参拝 2014年10月19日

◆解説
 本稿では宇都宮鎮房及び、黒田氏(官兵衛)などが関わった中津市街地に点在する幾つかの寺院を取り上げたい。

寺町

 下段の寺町周辺マップでも示されているように、当時の中津城の城域ともいえる総曲輪の中で、特に東側に寺町としての町割りができている。
 主だった寺院を時系列的に整理すると以下のようになる。

1、黒田氏入封以前のもの
   地蔵院・安随寺

2、黒田氏入封時のもの
   合元寺・大法寺・円応寺西蓮寺

3、細川藩時代のもの
   普門院・宝蓮坊・本伝寺

4、小笠原藩時代のもの
   圓龍寺・浄安寺

5、奥平藩時代のもの
   松厳寺

赤字は本稿で紹介しているもの。



合元寺 

 城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)で、天正16年4月、宇都宮鎮房が中津城において黒田長政によって謀殺されたことを紹介したが、そのとき鎮房と共に中津に出向いていた家臣たちも誅滅された。その殺害された場所が号元寺といわれており、通称「赤壁寺」とも呼ばれている。
【写真左】合元寺山門
 ご覧の通り通りに面した塀や山門付近も朱色で染まっている。








現地説明板より

“赤壁 合元寺ごうがんじ

 通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派開山空上人が天正15年(1587年)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に移り来た。
 その後天正17年4月、孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し最期をとげた。
【写真左】寺町周辺マップ
 合元寺を含めたこの辺りは寺町と呼ばれ、数多くの寺院が建ち並んでいる。
(後段参照)

 合元寺は右下に記されているが、なお、黒田氏居城の中津城は西側の中津川河畔に築城されている。


 以来門前の白壁は、幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。
 当時の激戦の様子は現在も庫裡の大黒柱に刀痕が点々と残されている。また戦死した宇都宮家の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。

 その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。
寺内には、三浦梅園・倉成龍渚の師・儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。後のお堂は経蔵である。

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【写真左】号元寺に面した通り














円応寺 浄土宗 鏡智山


【写真左】浄土宗 鏡智山 円応寺












当院縁起より

“円応寺

 天正15年(1587)に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗の寺院です。
 開山は真誉(しんよ)上人見道大和尚。
 慶長5年(1600)、見道和尚は黒田氏に従って福岡に移り、同名の円応寺を開きました。

 円応寺の境内に河童の墓と呼ばれる五輪塔があります。『下毛郡誌』によるとこの墓は、宇都宮鎮房が誘殺された時、鎮房に一の太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓だとされています。野村太郎兵衛は黒田二十四騎の一人です。
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圓龍寺(えんりゅうじ) 浄土宗 岡谷山


【写真左】浄土宗 圓龍寺












現地説明板より

“閻魔(えんま)さんのお寺
  岡谷山(おかやさん) 圓龍寺

當山は寛永年間に、小笠原長次公が播州龍野(7万石)から中津藩主として入国したとき、専譽(せんよ)上人を開山として開いた。阿弥陀如来を本尊にまつる。

 山門を入って左手に観音堂、閻魔堂があり、子安観世音菩薩、右手奥に閻魔さまと葬頭河婆(そうず かのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置され、老若男女から恐れられ、親しまれ大衆を仏心へ導いてくださるという民俗信仰が伝承されている。
 また、境内の墓地には小笠原、奥平家の家臣や水島銕也(てつや)、南画の片山九畹(きゅうえん)の墓がある。
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西蓮寺 浄土真宗本願寺派 


【写真左】浄土真宗本願寺派 西蓮寺
 当寺は黒田官兵衛の末弟・市右衛門がのちに出家し、官兵衛を慕って中津に入国し建立したものとされている。





 説明板より

“黒田官兵衛孝高(黒田如水)公 ゆかりの寺

浄土真宗本願寺派

 寶池山(ほうちざん) 西蓮寺(さいれんじ)

 西蓮寺は、天正16年(1588)に光心師によって開創された。光心師の俗名は「黒田市右衛門」であり、黒田孝高公の末弟で父・黒田美濃守職隆公の逝去時に出家した。

 黒田孝高公が播州より豊前中津に入国の際に兄・孝高公の御徳を慕い共に中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し、初代住職となったのである。
 以来420年以上の長きに亘り、現20代住職までこの地で法灯を伝えている。
【写真左】西蓮寺 本堂











 現在の本堂は、天保14年(1844)に再建されたもので、金剛棟札を見ると、発起人は8才の童子「播磨屋助次郎」とある。

 この童子が山国川から小石を運び、立派な本堂を建てる用意をしていることを聞き、総代・小畑親民(ちかたみ)は深く感激し再建に尽力した。
 この本堂は、再建当時藩主であった第8代奥平昌服(まさもと)公が、度々お茶会を催した場所でもある。”