2010年4月1日木曜日

佐世城(島根県雲南市大東町下佐世)

佐世城(させじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町下佐世
●登城日 2007年12月8日
●標高 80m
●比高 30m
●築城期 室町期
●築城者 佐世清信
●遺構 堀切、郭、五輪塔、土塁、櫓等
●別名 金剛山城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」「尼子盛衰人物記」等)
 佐世城は、先月30日投稿した山口県の「高嶺城」のところで、当城の最後の城番として任を負った佐世氏の居城である。

【写真上】金剛山佐世城案内図

 この案内図には、佐世城に関わった他の史跡も図示されている。





 所在地である島根県雲南市大東町の佐世地区は、西方4,5キロに三刀屋城(尾崎城)があり、東方5キロに牛尾氏の三笠城を、また北方3キロに高麻城(未投稿)を控える位置にある。

 先ず、現地にある説明板より当城の概要を転載しておく。

金剛山佐世城跡
 佐世城は正中3年(1326)佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝まで276年にわたる居城であった。
 初代清信は、湯頼清の五男・清信で、東忌部地頭から佐世の庄を領し、佐世七郎左衛門清信と名を改め、佐世氏の祖となった。



【左図】佐世家系譜
 現地に設置されているもので、文字が小さいが、佐世氏が湯氏から分かれている箇所が左下に表記されている。





 以来8代佐世伊豆守清宗まで尼子氏の家老衆として、12万石を領していたが、永禄8年(1565)より毛利氏に属し、防州山口に移住。その後数々の軍功により、文禄3年(1594)再び佐世城主に迎えられた。佐世氏は、代々文武共に優れ、特に書画、詩歌の遺品が多い。また敬神崇仏の念も厚く、神社、仏閣を造営するなど、大きな業績を残した。


 正勝公には嗣子がなく、慶長6年(1601)逝去と同時に、甥に当たる防州山口の佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、佐世家は断絶した。

  昭和49年4月7日  大東町教育委員会 佐世城址城山公園整備委員会”
【写真左】本丸下から見る
 同城跡の北側には現在ゲートボール場などや、公園設備が付帯されているが、おそらくこのあたりも当時の城域だったと思われる。



 初代清信の父・湯頼清は、塩冶氏や隠岐氏と同じ佐々木氏一族である。築城期である正中3年は、嘉暦元年でもあるが、このころ出雲では杵築大社(出雲大社)仮殿造営のため、幕府の命によって国内の諸族にその資金の調達を通知している。


 そうした中、鰐淵寺では濫妨狼藉などが発生、挙句同寺北院で三重塔以下の堂舎がすべて炎上という記録も見える。おそらくこれらは放火であったと思われる。

 というのも、日本国内ではすでに後醍醐天皇の討幕計画が発覚し、六波羅探題は厳しい処罰を行い、土岐頼兼を殺し、日野資朝を佐渡に配流(1325)する。執権である北条氏自身も不安定な国情を嫌い、高時出家の後、北条貞顕がなるが、すぐに降り、代わって北条守時が執権となった。そうした先の見えなくなったころに、佐世城が造られたことになる。
【写真左】井戸跡 現地はほとんど埋まっており、公園の一部と化している。





 おそらくこれは逆にいえば、当時出雲守護であった佐々木定清(貞清)が、雲南地域の監視役を、従兄である清信に佐世の地を任せたいという狙いもあったのではないだろうか。


戦国期

 下って戦国期である。尼子分限帳によると、佐世清宗は、家老衆の中では以前取り上げた宇山飛騨守に次ぐ重臣であったという。


 彼には男子3人、女子3人の子があり、このうち長女は、宍道湖西岸の斐川高瀬城主・米原綱寛正室となる。男子は、長男・正勝、次男・元嘉、三男・大二郎となっている。残りの女子2名については不明である
【写真左】侍屋敷跡(政務・事務の事務所、侍の詰所)
 現在残っている佐世城跡は、小規模な山城(というより平城といったほうがいいかもしれない)であるが、郭などは明確に残っている。


 ただ表示されている城域より、もう少し西の尾根伝いまで範囲が広いような気がするが、そのあたりは未整備なので何とも言えない。



 清宗はそうしたことから尼子氏から信頼を受ける立場にあったが、永禄3年(1561)に尼子晴久が49歳で亡くなると、一気に尼子氏の勢力は弱体化し、清宗の娘婿であった米原綱寛は毛利方に降ってしまった。

 そして永禄8年(1565)月の富田城三面攻撃(第二次月山富田城攻め)の際は、舅・清宗と婿・綱寛が敵味方に分かれて戦うはめになった。幸い翌永禄9年11月末、ついに尼子義久は、兵糧の欠乏や、清宗と同じく尼子の重臣・宇山飛騨守の誅殺などもあって、富田城を開城。


 このため両名とも討死することなく、佐世清宗はじめ、富田城に籠城していた主だった面々(亀井能登守安綱、河本弥兵衛隆任、湯信濃守惟宗など)は、毛利方に投降した。

 清宗はその後入道して源友と名乗り、法名は「永林院法厳源入居士」という。後に佐世城東方に、源入寺を建立した(写真参照)

 清宗の長男・次男の正勝・元嘉は、その後毛利氏の家臣として忠節を励み、朝鮮征伐に従軍、また次男・元嘉は関ヶ原の戦いにも参戦し、毛利氏が萩氏に移封された時も、その活躍が認められ、禄高はむしろ増えたという。

 
【写真左】佐世正勝の墓といわれる五輪塔
 佐世城の東方にある狩山八幡宮境内脇に建立されているもので、当社も正勝が京都石清水八幡宮より勧請したもの。







上記説明板にある郷里佐世に帰ることを許されたのは、長男正勝で、文禄3年(1594)9月9日のことである。「萩閥24」によると、輝元は佐世伊豆守(正勝)に、佐世郷850石を宛がう、とある。出雲国出身で元の領地をこの時期宛がわれたのは、佐世氏が最初で、翌年から輝元は、出雲・石見・隠岐の検地を始めている。

 正勝には子がなく、佐世家が断絶したのは、祖である当地(出雲大東)であり、完全に同氏一族が絶えたわけではない。弟・元嘉の子・正景がそのあとを継いでいる。
【写真左】源入寺
 当院は佐世城から北東約800mの丘に建立されている。








前原一誠

 参考までに佐世氏の末裔として有名なのは、明治新政府の方針に異を唱え、奥平謙輔らと起こした「萩の乱」の首謀者・前原一誠である。新政府側の方針である「徴兵制」に反対し、萩に帰郷してから起こしたものだが、すぐに鎮圧され同地で処刑された。享年43歳。

 前原一誠の父は佐世彦七といい、一誠の幼名は佐世八十郎と呼んでいたが、慶応元年、藩の許可を得て、前原を継ぎ、前原彦太郎(一誠)と改めている。なお、これも奇しき縁というか、前原家は元々米原綱寛(太尾山城・その5参照)の子孫とも言われている。当初米原と名乗っていたが、江戸期に入って何代目かわからないが、「米原」を「前原」という似た呼称に変えたともいわれている。
【写真左】前原一誠旧宅
所在地 山口県萩市土原
 「前原一誠舊宅地」と玄関前に石碑が設置されている。
 なお、個人所有のものとなっているため、敷地内には入れない。

1 件のコメント:

  1. はじめまして。
    「島根県邑南町の城」サイトを開設しております。
    http://iwami.web.fc2.com/

    島根を中心に実に多くの城跡を訪問され、歴史を考察されているブログに驚きました。
    これからもちょくちょく見せていただきます。
    どうぞ、よろしくおつきあいください。

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