2013年2月20日水曜日

安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1

安芸・高山城(あき・たかやまじょう)その1

●所在地 広島県三原市高坂町
●別名 妻高山城
●築城期 建永元年(1206)頃
●築城者 小早川茂平
●城主 小早川氏
●高さ 291m(197m)・比高184m
●遺構 本丸・二の丸・北の丸・西の丸・イワオ丸・馬場等多数
●指定 国指定史跡
●登城日 2013年1月13日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・高山城については、以前新高山城(広島県三原市本郷町本郷)でも紹介している。本来ならば、新高山城の投稿に併せて当城も紹介すべきところだったが、この城の登城口がなかなか分からず、また南麓部にあったことは分かったものの、険しいコースだっため、二の足を踏んでいた。
【写真左】高山城遠望・その1
 南東部にある米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)側の峠から見たもの。
2014年5月8日撮影
【写真左】高山城遠望・その2
 東麓を流れる仏通寺川沿いにある河崎付近(南側)から見たもので、本丸は右側にある。






 そうしたところ、度々管理人が参考にさせていただいているサイト「城郭放浪記」氏が、最近みごとな当城の写真をアップされ、しかも険しくないもう一つの登城口(北側からのアクセス)を紹介しておられたので、これを頼りに登城することにした。改めて「城郭放浪記」氏にお礼を申上げたい。
【写真上】高山城鳥瞰図
 この図は北側から見たもので、高山城の真下を山陽新幹線が走っている。また、以前紹介した新高山城はこの絵には描かれていないが、右側にあり、沼田川を挟んで西に配置する。

 高山城の主だった遺構を示すと、北側の峰に本丸を置き、東西には扇の丸・二の丸・北の丸があり、南側の尾根との間に、馬場を置き、南側には、西の丸・太鼓丸・高野丸・イワオ丸・西丸などがある。



現地の説明板より

“高山城と小早川隆景公の歴史

○鎌倉時代の初期、小早川4代小早川茂平築城。
○1400年頃大火に遭う。
○毛利元就の三男が竹原小早川の養子となり、小早川隆景を名乗る。
○1551年、本家沼田の小早川をも継ぎ、高山城へ入る。時に20歳。
○1552年、17代小早川隆景本城を新高山へ移す。
○築城してからこの間、沼田小早川惣家の本城として約350年。
○1567年、三原城を築き始め、1582年、隆景三原に移る。
○9曲輪と多くの出丸を持ち、中央の低地を挟んで二つの連郭式縄張の山城である。
○高さ291m、広さ41万㎡、全国でも五指に入る規模。”
【写真左】登城口付近
 東麓を走る50号線(県道か)から枝分かれする高坂町真良という地区に当たるが、かなり急坂道となっており、しかも道が狭い。ただ、登城口付近には墓地があるため、駐車スペースは2台程度確保できる。
 なお、このコースはいわゆる搦手道となる。


土肥実平

 沼田小早川氏については、新高山城(広島県三原市本郷町本郷)で既に紹介しているので、ご覧いただきたいが、始祖は土肥実平である。

 実平の根拠地は相模国土肥郷で、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町~真鶴町に当たる。現在でも地元には実平の銅像や、居城といわれた土肥城(H562m)などが残る。

 実平が西国に赴くきっかけとなったのは、源平合戦における頼朝側近として活躍したことからだが、元暦元年(1184)、備前・備中・備後の惣追捕使となって、備後国の有福荘を拠点としたことから始まる。

 有福荘というのは、現在の広島県府中市上下町有福で、当地には実平などが拠った有福城(H531m)も残る。この城についても、既に『城郭放浪記』氏が紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】登城道
 搦手側となるこのコースは、道幅約1m前後が確保され、九十九折状に登りやすくしてある。ただ、この時期(1月13日)落ち葉が厚く堆積しており、結構足元が滑る。



小早川茂平

 ところで当地沼田荘は、鎌倉期以前は当然ながら平氏の支配地であり、京都三十三間堂で有名な蓮華王院の領地(荘園)でもあった。そして平氏の家人である沼田氏がこの荘園の本下司を務めていたという(安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)参照)。

 小早川を名乗りだしたのは、実平の子・遠平であるが、これは土居郷の地名である小早川からきたものである。平氏滅亡後、いわゆる没官領(もっかんりょう)となって、北の有福荘にあった小早川氏が地頭として南下し、入ることになる。
【写真左】「北の丸」と「二の丸」分岐点
 登城道を登りきった最初の地点で、「北の丸」と「二の丸」の分岐点になる。
 先ず、正面(西側)の北の丸に向かう。



 そして、沼田荘の本格的な経営基盤を構築したのは、遠平の孫・茂平のころからである。『日本城郭体系第13巻』によれば、茂平の代になってから、東国から一族を率いてこの地に移ったとあり、初期の地頭職であったころは、相模国と安芸沼田荘にそれぞれ在住していた。

 この理由は、入部してきた地頭職が必ずしも赴いた土地を完全に支配する保障がなかったからであろう。この傾向は鎌倉期に西国に入部してきた他の一族と同じような流れである。
【写真左】北の丸・その1
 高山城の北側尾根筋に構築された郭群は全体に規模が大きく、しかも平滑に造成されている。
 この付近は、およそ、幅15m×奥行30mで、この先にはさらに3段の小郭が沼田川に向かって階段状に設置してある。
【写真左】北の丸・その2
 北の丸の西端部で、下段には北西方向に伸びる小郭があり、眼下には沼田川が見える。

 沼田川沿いに山陽本線が走り、さかのぼっていくと、今月紹介した松嶽城(広島県東広島市河内町入野)がある。


室町・戦国期

 室町期における当城がもっとも戦火にあったのは応仁の乱のときといわれている。このころ安芸国は、大内氏がその力を誇示していたものの、武田氏との対立が顕在化していた。この武田氏を支援したのが東軍方の細川氏である。
【写真左】北の丸側から新高山城を見る
 この位置から沼田川を挟んで西方には小早川氏が後に移った新高山城が見える。
 余談ながら、両城ともこの真下を新幹線が走っているので、トンネルを抜けるたびに轟音が下から聞こえてくる。
 このあと、戻って二の丸へ向かう。



 そして、安芸小早川氏一族は、すでに惣領家沼田小早川氏と、庶流家竹原小早川氏(木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)参照)との不和が生じていた。このころの高山城主即ち、惣領家小早川は、敬平(たかひら)である。敬平は父・煕平(ひろひら)が、東軍方細川勝元に属して京に上ったあと、地元の守備を務めていた。その父が京で討死すると、敬平は家督を継ぐや、すぐに父に代わって京に上り東軍方として戦った。敬平が京に上った間隙をついて高山城を攻めたてたのが、竹原小早川氏の弘景らである。
【写真左】二の丸・その1
 二の丸も規模が大きく、南に向かって3段の郭で構成されている。







 この報を聞いた敬平は文明6年(1474)、京から沼田高山城に戻り、西軍方の攻めを防いでいる。落城寸前までいったとされる高山城攻めは、敬平の奮闘で6年もの間持ちこたえた。

 その後、惣領沼田小早川家と竹原小早川家は、永正14年(1517)両家の宿老らによって解かれ、天文19年(1550)の竹原小早川隆景が、沼田惣領家に養子として入ると、両家は合体されることになる。
【写真左】二の丸・その2
 最下段の郭から見たもので、左側の熊笹を越えた位置に北の丸がある。
【写真左】二の丸と本丸を繋ぐ連絡路
 二の丸から本丸へ繋ぐ道で、二の丸から一旦1,2m程度下がり、幅約2m程度の連絡路が設置されている。左側は切崖だが、右側の熊笹などが繁茂しているところは、削平地にも見える。何らかの用途として使用された箇所と思われるが、分からない。
【写真左】本丸・その1
 先ほどの連絡路を進むと、本丸手前に控えの郭があり、そこから約1.5m程度高くなったところに本丸となる郭が配置されている。
 目測で20m×30m程度の大きさと思われるが、東・北・西側の周囲には帯郭が取り巻いている。
【写真左】本丸側から振り返って二の丸方面を見る。
 振り返ってみると、かなりの規模であることが分かる。
【写真左】本丸から「扇の丸」へ向かう途中の小郭
 本丸の南東部には1段下がった三角形の小郭がある。この郭は下段に示す「扇の丸」へ向かう途中にあるもので、さらにこの位置から一旦南に降りて馬場に向かう箇所でもある。
【写真左】扇の丸・その1
 中規模な郭だが、北尾根側の東端部の郭として、重要な場所だったものと思われる。
なお、この郭のさらに東側下段には、「ハチツコ」という変わった名称の独立した小郭があるようだが、道標をみつけられず踏査していない。
【写真左】扇の丸・その2
 井戸跡らしき窪みが中央部にある。また、この箇所だけ少し高くなっているところもあり、あるいは櫓台のようなものの痕跡かもしれない。
【写真左】扇の丸・その3 帯郭
 扇の丸の周囲にはこうした小郭が取り巻いている。




【写真左】扇の丸から本郷の町並みを俯瞰する。
 JR山陽本線本郷駅などが見える。








 今稿はここまでとし、次稿では、馬場跡をはじめ、イワオ丸を中心とした南尾根の郭群を紹介したい。

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