2014年9月29日月曜日

尼子城の堀跡・殿城池、尼子館跡土塁(滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中)

尼子城堀跡・殿城池
         (あまごじょうのほりあと・とのじょういけ)
尼子館跡土塁(あまごやかたあとどるい)

●所在地 滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中
●築城期 正平2年(1347)頃又は、応永5年(1398)以降
●築城者 留阿又は、佐々木(京極)高久(尼子左衛門尉高久)
●遺構 土塁・濠など
●規模 堀跡・殿城池:79㎡(約24坪)、尼子館跡土塁(公園):1,300㎡
●落城 永享元年(1428)ころ
●備考 藤堂高虎一族館跡(堀跡・殿城池)、玄翁堂襄(尼子館跡土塁)
●登城日 2014年9月11日

◆解説(参考文献 パンフ「尼子のご案内」尼子公民館編、『佐々木道誉』森茂暁著・吉川弘文館等)

 前稿勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)の流れで、京極氏史跡を紹介する予定にしていたが、その前に道誉が晩年を過ごし、骨を埋めた同町の尼子郷に築かれた尼子城・館関係の史跡を先に紹介しておきたい。
【写真左】尼子氏の城(館)跡の土塁公園
 堀・土塁などが残されている。









 今稿の史跡名は二つ取り上げているが、下段の説明板にもあるように、もともと近江尼子氏の居城(居館)として単一のものであったが、その後尼子氏の没落や、後段で紹介するように戦国末期に至ると藤堂一族(高虎)の住むところとなり、近代にいたると宅地開発などによって部分的に残ったため、二か所の史跡名として挙げている。本稿では便宜上、これら二つの史跡をまとめて、「尼子氏城館」とする。
【写真左】配置図
 文字が小さくて分かりずらいが、黄色で囲んだ範囲が、当時(南北朝・室町期)の尼子城(館)の範囲とされている。

 このうち「現在地」としめされた位置が、上掲の土塁公園で、左側の赤丸で示された箇所が、下段の堀跡・殿城池(お園堀)とされている。


現地の説明板より・その1

“尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)

   場所 滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中1436番地
   面積 79㎡(約24坪)
 御祭神 八千姫      祭日 1月15日

 尼子城は、京極家第5代で室町幕府の重臣で「バサラ大名」として其の名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が、甲良荘尼子村を領有し、尼子氏と称した。其の頃本家京極家の居城勝楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です。
【写真左】尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)・その1
 今回探訪した尼子氏城館は、尼子地区内にあるが、いずれも狭い路地を通っていかなければならないので、車で直接向かうことはお勧めできない。

 近くに尼子公民館があり、駐車スペースは用意されていないが、たまたまこの日館内に係の方がおられたので、事情を説明したところ、道路脇に確保できた。そして、公民館で「歴史と自然とふれあいのあるまち あまご」というパンフを頂き、この中に配置図が描かれていたので、これをたよりに歩いて向かった。
 


 嫡男出羽上詮久以後、近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期京極家の有力連技旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち、一族家臣達は四散したと考えられるが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り、彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています。

 殿城池は、ありしの尼子城の堀跡です。昭和初期まで池の西、深さ4,5mで北側に湾曲した竹藪となった堀跡が続いていましたが、戦後宅地に変貌しました。村の東、玄翁堂裏の竹藪から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
【写真左】尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)・その2
 周囲には民家が立ち並び、予想以上に小規模なものである。
 池の中央に小さな祠が祀ってある。これが八千姫を祀るものだろう。


 お堀の水神様は、落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。またこのとき、若く美しい侍女お園も姫のあとを追って入水殉死したことを領民が憐み、いつしかこの堀のことを「お園堀」と呼び、敬い親しみ護り続けて今日に至っています。

  平成5年1月吉日     尼子 区長
                 尼子むらづくり委員会”
【写真左】尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)・その3
 東方の勝楽寺側の鈴鹿山脈から流れてくる犬上川の伏流水だろう、尼子の集落には中小の用水路には絶え間なく豊富な水が流れている。
 城館を構えた近江尼子氏も、こうした地理的条件を巧みに利用し、堀を普請していったと考えられる。


現地の説明板より・その2

“尼子氏の城(館)跡の土塁公園

 この尼子城の土塁と堀跡は、今から650年余年前の正平2年(1347)(※)頃に、本家京極家の勝楽寺の前衛城として、京極家5代婆娑羅大名として天下にその名を馳せた佐々木佐渡判官入道道誉の孫6代高秀の四男高久が、甲良荘尼子郷を領有し、この地に築城し居城した。
【写真左】玄翁堂
 土塁公園は、この写真の右側(東)にある。おそらく当時、この場所も尼子氏城館だったと思われる。


 高久は地名を姓として、尼子左衛門尉高久と名乗り、尼子氏の始祖となった。嫡男詮久が近江尼子氏、次男持久は出雲国(島根県)の守護代として、月山富田城に拠り雲州尼子氏の祖となった。
 3代経久、晴久の時代には、山陰山陽道11ヶ国200万石の覇者として室町時代、天下に尼子氏の名を知らしめた。
【写真左】五輪塔群
 当院累代の住職の墓とは別に、中小の五輪塔がまとめられている。

 近江尼子氏のものだろうが、一部には下段で紹介するように、戦国期の藤堂氏一族のものも含まれているかもしれない。


 しかし、近江尼子氏は2代氏宗の頃、戦乱で落城し、当時としては広大な尼子城(館)と共に歴史の上から消えて、「まぼろしの尼子氏」と言われた。

 昭和63年に滋賀県教育委員会が玄翁堂の東の竹藪から、土塁と堀跡を発見した。この土塁と堀は室町時代、当地の領主尼子氏の居城(館)跡の一部であることを確認し発表された。
【写真左】尼子氏の城(館)跡の土塁公園
 冒頭の写真にもあるように、堀(濠)も残されているが、この土塁も小規模ながら往時を偲ばせてくれる。


 平成8年度に「むらづくり事業」で、甲良町の「水と緑の景観整備事業」の助成を受けて、落城後650余年間竹藪の中で眠っていた尼子城(館)の土塁、堀跡の一部を保存、修復して約1,300㎡の土塁公園とした。この公園は尼子氏の歴史、尊い史跡として後世に伝えると共に区民の憩いの場所です。

   平成8年3月30日   尼子 区長
                尼子むらづくり委員会”
【写真左】京極・尼子系図
 土塁公園に設置されているもので、これを見ると、尼子氏始祖・高久のあと、近江尼子氏となったのが、高久の長男・詮久である。

 そして、2代氏宗が正長元年(1428)、甲良荘円城寺に築城した、とされている。円城寺は現在の南隣・愛荘町円城寺地区である。

 また、7代宗光の代になると、織田信長による近江侵攻によって甲良荘雨降野に蟄居した、と書かれている。雨降野は、同じく南隣・豊郷町雨降野地区である。


尼子左衛門尉高久

 尼子氏城館を築城した武将で、道誉の孫で、京極氏6代高秀の四男である。因みに高秀の子を順に列記しておく。

高秀の男子
  • 長男 高詮      (六角氏頼猶子後に、京極氏7代)  
  • 次男 高経
  • 三男 秀満
  • 四男 高久     ⇒  長男 詮久(近江尼子氏始祖) 
                 ⇒  次男 持久(出雲尼子氏始祖) 
  • 五男 重秀     
  • 六男 秀益 → → 後に宍道氏(出雲国)
  • 七男 高雅
  • 八男 満秀
【写真左】尼子の歴史と十九宅案内図
 尼子地区の入口付近の交差点にかなり大きな案内図が設置されている。

 尼子という地名は7世紀天武天皇の時代、高市皇子の生母「尼子姫」が当地に住まわれたことが地名の由来と推定される、と書かれている。


築城期と築城者
 
 上記の説明板の(※)箇所では、道誉の孫高久が正平2年・貞和3年(1347)にこの地を領有し、築城したとされている。
 しかし、築城期が事実であれば、錯誤が生じてしまう。というのも、出典は不明ながら、高久の生誕年は、正平18年(1363)といわれているので、築城期(正平2年)頃にはまだ生まれていないからである。

 逆に、築城者・高久が事実であれば、当然本人生誕後すくなくとも元服後に築城されたと推測されるが、実はそれと相前後して、高久とは別にこの頃当地を安堵された女性の記録が残っている。その女性とは、道誉の後妻と思われる留阿(りゅうあ)である。
【写真左】尼子氏の城(館)跡の土塁公園を遠望する。
 土塁公園は住宅地が途切れる辺りにあるが、この付近は肥沃な土地であったことがうかがえる。



後家尼・留阿

 道誉は78歳という当時としては大変な長寿を全うした人物である。このこともあり、彼にはこれまで少なくとも二人の室(妻)(※別説では三人)がいたといわれている。一人は先妻と思われる女性で、次男・秀宗の母である。彼女の父は二階堂時綱で鎌倉幕府の事務方有力御家人である。

 もう一人は、「きた」といわれ、道誉が亡くなったあと出家して「留阿」と名乗っている。おそらく、二階堂の女が亡くなったあと、後妻として入ったものだろう。前稿の勝楽寺・勝楽寺城の中の事績でも紹介しているが、亡くなるこの年(応安6年:1373)の2月27日付の書状で次のように認めている。

 “ 所領とものなかに、甲良の尼子郷ほどに心やき(す脱)事あるへからす…”

 さらに道誉は続ける。

“…この心安き尼子郷を、親愛なる「ミま」に譲る…” と。

 この書状には掛け紙があり、一つは「御ミまへ たうよ(道誉)」であり、もう一つは嫡子高秀宛である。

 冒頭で紹介した「きた」が出家後「留阿」と号しているため、道誉が亡くなる応安6年にしたためた「ミま」宛てとする書状が、かならずしも「きた(留阿)」宛てのものと同一であるかどうか確証はないが、どちらにしても道誉には、死に際に託そうとした最愛の女(後妻)がいたことは確かである。
【写真左】尼子の街並み・その1
 写真右の小川は満々と水が流れる。









 道誉が往生してから6年後の永和5年(1379)3月、足利義満は室町新第(花御所)に移った。それまで義満を養育してきた細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)は、幕府内において次第に信頼を失い、4月ついに出家して讃岐に帰った(康暦の政変)。こののち、義満が幕府将軍職として絶大なる権限を広げていくことになる。丁度この頃である、義満は生前の道誉から頼まれていたのだろう、道誉亡き後、将軍の証判を添えて、この後妻の将来を保障・担保すべく袖判安堵状をしたためた。

“ (付箋) 「公方 鹿苑院殿  義満公」
               (花押) (足利義満)

 近江国甲良荘内尼子郷の事、亡夫佐渡大夫判官入道道誉譲与の旨に任せ、後家尼留阿 北と号す 領掌、相違あるべからざるの状、くだんのごとし、
       永和538日”

 幕府の重鎮であった道誉であるが、自身の死後、我が妻のために所領安堵を最高権力者である幕府将軍銘によって証すること自体、異例といえば異例である。うがったみかたをすれば、応安6年に書き残した事実上の遺言書が、道誉の思惑通りならなかったため、あえて将軍・義満が公式に袖判安堵を認めたのかもしれない。
【写真左】尼子の街並み・その2
 この写真の先を向かうと、隣地区である在士(ざいじ)がある。
 藤堂高虎生誕地といわれているところである(下段写真参照)。



 このあと、この留阿(きた・ミま)は安堵されたものの、19年後の応永5年(1398)6月1日に、この尼子郷を高秀の子・高久に譲った(「伊予佐々木文書」)。

あうみ(近江)のくにかう羅(甲良荘)のしやうあまこのかう(尼子郷)、せうらく(勝楽)寺殿ゝおほせおかるゝ御ゆつり(譲)御しやうにまかせて、さゝきの六らうさゑもん殿(高久)に、ゑいたい(永代)ゆつりあたふる所なり、たうしよ(当所)のうちのねんく米内くりやたのせに、めんめんにかくへち(格別)に、ゆつりしやうをもつてはからひ申候、これのめしつかう人々のふちとくふん(扶持得分)、いんしゆ(員数)にまかせて、この程にかわらす、さほい(相違)なく、御はからいあるへく候、さらにわつらい(煩い)候ましく候、御いちこ(一期)ののちは、いや(弥)六殿に御ゆつりあるへく候、

  おうゑい(応永)五年六月一日   きた(花押)
※赤字:管理人

道誉が当初留阿(ミま)に宛てた安堵は基本的に一期(いちご)、すなわち彼女の代で終了を意味している。出家時(道誉没後)、留阿はかなり若い女性だったようだが、この書状を見る限り彼女はこの土地(尼子郷)所有に対して、最期まで固執しなかったようである。また、生前の道誉が尼子郷をいずれ孫である高久に継いでもらいたいという意思もあったようで、留阿としては道誉のその想いも忖度したのだろう。
【写真左】藤堂高虎出生地の碑
在士村は井伊直孝が「藤堂村」から「在士村」と改めたという。
高虎は弘治2年(1556)に生まれているが、そのころ近江尼子氏はすでに円城寺の方に移っていたものと思われる。


限られた史料ではあるが、こうした慎ましやかな後妻・留阿であったからこそ、道誉は最大の愛情を彼女に注ぎ込んだと思われ、そこには、若き日に婆娑羅大名として名を馳せた道誉とはまた別の顔が見えてくる。

従って、当地に設置してある説明板の築城期等については、一つの参考資料ではあるが、城館の形式となるのは高久が居住した応永5年(1398)以降と思われる。

2014年9月24日水曜日

勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)

勝楽寺・勝楽寺城(しょうらくじ・しょうらくじじょう)

勝楽寺

●所在地 滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4
●創建 暦応4年(1341)
●開山 東福寺慧雲の法嗣雲海
●開祖 佐々木道誉
●参拝 2014年9月11日

勝楽寺城

●所在地 同上
●築城期 応安元年(1368)
●築城者 高築豊後守(道誉家臣か)
●城主 多賀豊後守など
●高さ 308m
●遺構 郭・石垣・土塁など
●登城 ※この日(2014年9月11日)は登城できず。

◆解説(参考文献『佐々木道誉』森茂暁著・吉川弘文館等)
 前稿でも述べたように、今稿では道誉が後半期に居をさだめたといわれる甲良町にある勝楽寺及び勝楽寺城を取り上げたい。
【写真左】勝楽寺
 勝楽寺城(正楽寺山)の麓にあり、静かなたたずまいの境内である。

 道誉の墓はこの写真の左側奥に祀られている(下の写真参照)。


 当地は、前稿清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)から旧中山道を伝って、約25キロほど向かった犬上川中流域にある甲良町にある。

 ちなみに途中には元弘3年(1333)、後醍醐天皇の綸旨を受けた尊氏軍らに攻められた六波羅探題の北条仲時が、東国に落ち延びる途中、さらに行く手を道誉に阻まれ、一族郎党432名ともども自刃した蓮華寺がある(笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)参照)。
【写真左】正楽寺(勝楽寺)の案内図
 名神高速道の高架下を潜ると、この看板と小落城が目の前に現れる。





現地の説明板より

“婆娑羅(ばさら)の地  勝楽寺

勝楽寺

 慶雲山勝楽寺は、南北朝動乱期の近江守護職として、また室町幕府侍所々司を勤める四職家の一つとして、当代に傑出した武将・佐々木(京極道誉)を開祖として創建された。寺号は道誉の諡号勝楽寺殿徳翁道誉によって命名した。字名もまた明治のはじめ大字正楽寺と改めるまでは、勝楽寺と称していた。


婆娑羅(ばさら) 佐々木道誉

 道誉は、その暁勇諸将に卓越した豪傑であり、如何なる権威にもとらわれぬ稀にみる自由奔放な思想の持ち主として、いわゆる「ばさら」の典型として、今日、歴史的な注目をあびるようになった。
 道誉は、きわめて豊かな文化的教養をになっていた。今日の伝統芸術として親しまれている能・狂言・田楽はもとより、茶・花・香などの芸道に及んでその真価を発掘して、その興隆に力をつくした。
【写真左】案内図付近から勝楽寺城を遠望する。
 この辺りは広々とした平地が続き、開放的な気分にさせてくれる。




大日如来坐像(重要文化財)

 収蔵庫に安置されている大日如来坐像は、恵心僧都の作と伝え、道誉の念持仏といわれている。寄木式彫眼漆箔の手法による胎蔵界の大日形をなし、其宝髪は高く毛髪の線刻は精緻を極め天台と環釧とは、仏身と共木彫出となり、法界足印を結んで結跏し、その流麗なる衣文と端厳なる容姿とは藤原期の代表的な霊像といわれ、古来安産の霊験ありとして参拝者が多い。


佐々木道誉画像(重要文化財)国立京都博物館(預託)

 精緻な色彩で描かれた肖像画である。この年代〔貞治5年(1366)〕のものとしては数少ない貴重なもので、道誉の画像は子高秀が道誉の還暦に筆をとり、それに端正なる筆跡で道誉自ら讃を添えている。
【写真左】山門
 さほど大きなものではないが、歴史を感じさせる。









山門

 室町時代の特徴豊かな六脚門である。織田信長のため一山は火燼に帰したが、この山門だけが火難を免れわずかに残ったものである。時代のおもかげを充分感じることのできる門である。
【写真左】佐々木道誉の墓・その1












墳墓

 佐々木道誉の墓石は、本堂の北境内の一隅にまつられている。南北朝期の宝篋印塔婆として大名にふさわしいものであるが、兵火の際に塔身の一部が欠損している。
 道誉(勝楽寺殿 前廷尉 徳翁道誉 大居士)
 応安6年(1374)8月25日卒
【写真左】勝楽寺城遠望
 勝楽寺境内に登山口がある(下段写真参照)。








勝楽寺城

 南朝期の城で、一部だけ石垣を築いた山城である。尾根の各所から近江の平野が手に取るように見え、河瀬・多賀に支配を配し、鶴翼の陣構えで湖国近江を睨んでいた往時の本城の威容が偲ばれる。我が国初期の城として近年脚光を浴び、学術的価値を高めつつある。
 山中には、狐塚・経塚・仕置場・上ろう落とし等があり、歴史とロマンを感じさせる。

     甲良町・甲良町観光協会”
【写真左】勝楽寺城案内図
 勝楽寺境内に設置されており、ハイキングコースとしても利用されているようだ。

 この日は近江探訪の最終日で、前夜予想以上に雨が降ったことや、帰りの時間も制限されていたため、登城は断念した。



鎌倉末期から南北朝・室町初期まで

 佐々木道誉が生まれたのは以前にも述べたように、鎌倉末期の永仁4年(1296)といわれている。実父は宗氏であるが、間もなく貞宗の猶子となる。

 正和3年(1314)12月、19歳のとき、左衛門尉に任じられるが、具体的な活躍はそれから約10年ほど経た正中元年(1324)3月に行われた後醍醐天皇石清水行幸の際、橋渡しの使いを勤めるのが道誉の公式なデビューとなる。この年の暮れ、従五位下に叙し、佐渡守に任じられた。

 鎌倉幕府の崩壊が顕れだしたのは北条高時が執権になったときである。すでに幕府の支配体制は弛緩の極みを見せ、嘉暦元年(1326)3月13日、高時は出家した。この10日後の23日、それまで佐々木高氏と名乗っていた道誉は、主君に倣って出家し、道誉と号することになる。道誉31歳のときである。
【写真左】勝楽寺境内
 登城口付近から見たもの。











 元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇は内裏を出奔、神器を持って笠置山に入った。29日、天皇御謀叛の報が鎌倉に届いた。直ちに幕府は討伐軍を上洛させるべく、北条一族の大仏・金沢氏をはじめ、外様の足利高氏(尊氏)らを大将として進発させた。
 9月28日、幕府軍の猛攻の前に笠置山は陥落、後醍醐天皇は捕らわれた。この戦いにおいて道誉は、勢多橋警固を命ぜられ、10月6日には天皇近臣の一人千種忠顕を預かる。

 翌2年(1332)3月、幕府は後醍醐天皇を隠岐に配流することを決断、道誉はその護送・警固の任に当たった。天皇配流によってこの討幕というクーデターは鎮圧したかに見えた。しかし実態はそれとは逆にさらに討幕の機運が盛り上がることになる。

 こうした中、鎌倉御家人であった道誉がいつから討幕側にまわったのだろうか。
 この年(元寇3年)、船上山における戦いで後醍醐派が勝利をおさめるや、一気に全国の武士たちが後醍醐のもとに馳せ参じた。
 特に、3月に後醍醐派に与した播磨の赤松一族が、摂津で六波羅軍を破り京都へ進攻しだすと、幕府は4月16日に名越高家と足利尊氏に対し、京に討手の大将として進軍するよう命じている。そして、高氏(尊氏)は、道中道誉の本貫地であった近江番場駅で、道誉から饗応を受け、軍談・密約を交わしている。

 その後、尊氏は敢然と幕府に反旗を翻すことになる。尊氏叛逆の背景には道誉が密接に絡んでいることは注目に値する。おそらくこの尊氏との密談のときが一つのきっかけであったものと思われる。

 鎌倉幕府が倒れたあと、後醍醐天皇による建武の新政が行われたが、僅か3年で瓦解した。そして武家方の代表・足利尊氏による北朝(室町幕府)と、吉野に逃れた後醍醐天皇による南朝の両朝に分裂することになる。延元元年・建武3年(1336)の11月から12月にかけてのことである。
【写真左】大日池
 登山口側脇には大日池と呼ばれる小さな池がある。

 現地の説明板より

“大日池
 元亀元年(1570)7月、織田信長の兵火によって、ほとんどの堂宇が焼失したが、大日如来像は幸いに、村人たちの機転で此処に埋めて難を逃れました。
 鎮火後、掘り出してみると、ここから水が涌き出し、以来涸れたことがなく、大日池と呼ばれ、安産・美顔等に霊験あらたかな水と崇められ、汲んで行かれる人も多い。”


 さて、この頃の道誉の動きを見てみたい。先ず最初に、指摘しておきたいことは、道誉が常に尊氏に従っていることである。そして活躍の場が主として近江を中心にしていることである。

 北朝が樹立されて間もないこの年(延元元年)、若狭守護に補任され、翌年の6月には本稿の勝楽寺に近い多賀荘を多賀社に寄進し、当地の多賀・河瀬一族の軍忠について執事高師直に報告、すなわち証判を加える立場でもあった。道誉が受けた褒賞の理由は道誉自身の活躍もあるが、既に成人して活躍していた嫡男秀綱等の勲功も大いに役立っている。

 そして、道誉が勝楽寺が所在する甲良荘に居住し始めたのがこのころであったとされる。因みに、この前年佐々木氏嫡流であった六角氏の佐々木氏頼は、愛知川を挟んだ南の観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)に入っている。
【写真左】佐々木道誉の墓・その2
 道誉の墓の左隣には、「赤田栄(又は宋か)公墓」と刻銘された墓がある。

 赤田氏は、道誉が多賀荘区域まで勢力を広げたころ、それまでの支配者曽我氏に代わって、当地(曽我城:犬上郡多賀町一円附近)を本拠とした。

 同氏と道誉の関係がうかがわれる(下段道誉の事績・文和3年の項参照)。


道誉の事績と出雲国との関わり

 その後の道誉の事績や、守護職として出雲国などが関わった所領地など主だったものを時系列的に列記しておきたい。
  • 暦応元年(1338) 43歳 近江守護に補任される。
  • 暦応3年(1340)  45歳 嫡男・秀綱白河妙法院宮と争い、同宮御所を襲い、焼はらう。これにより延暦寺から訴により、幕府しぶしぶ道誉父子の配流を決するも、道中で酒宴や遊女をもて遊ぶ(配流先には向かっていないと推測される)。
  • 暦応4年(1341) 46歳 犬上郡甲良荘に慶雲山勝楽寺を創建。
  • 康永2年(1343) 48歳 出雲国守護職に補任される。
  • 康永3年(1344) 49歳 幕府、引付・内談結審定め、二番引付並びに内談方に配属さる。嫡男・秀綱、四番引付に配属。
  • 貞和4年(1348) 53歳 2月、大和風森巨勢河原水越で、南朝軍と戦い秀綱と共に負傷。次男秀宗、大和国水越合戦で戦死。出雲国諏訪部貞助、同信恵代扶直に軍忠状証判を加える。
  • 貞和5年(1349) 54歳 8月以後、引付編成替えにより、5番引付の筆頭に昇格。
  • 観応2年(1351) 56歳 8月観応の擾乱において、尊氏近江鏡宿に着陣の際、道誉・秀綱父子三千余騎を率いて馳参す。11月、両朝和談の交渉において、義詮、赤松則祐らと共に和議を主張。義詮の命により、南朝との交渉に当たる。12月、義詮、道誉を「佐々木大惣領」となし、一族を催さしめる。
  • 文和元年(1352) 57歳 閏2月、義詮京都の戦いに破れ近江国四十九院に逃れ、道誉父子随従す。6月、芝宮弥仁王擁立のため、武家使者として執奏勧修寺経顕と交渉す。8月、義詮、道誉に命じ、禅林寺聖衆来迎院雑掌に出雲国淀新荘地頭職を渡付せしむ。
  • 文和3年(1354) 59歳 4月尊氏(幕府)、勲功賞として出雲国富田荘・美作国青柳荘・近江国江辺荘幷鳥羽荘下司職・同国多賀荘・一円石炭召次等を宛行う。10月、秀綱戦死の功を賞し、秀綱跡に出雲国安来荘・伯耆国小鴨次郎・同庶子等跡幷蚊屋荘・神田荘・因幡国私都郷を宛行う。
  • 文和4年(1355) 60歳 2月、足利義詮の軍に属し、摂津神南に山名時氏・師氏父子と戦う。
  • 延文元年(1356) 61歳 2月、吉田厳覚をして出雲漆治郷(現在の出雲市斐川町上直江附近)を円宗院に渡付せしむ。8月、義詮より、四条京極四町々(釈迦堂地を除く)を与えられる。またこの地を金運寺に寄進す。
  • 延文2年(1357) 62歳 閏7月、北朝、関白二条良基撰集の莬玖波集を勅撰に准ず。これ武家奏聞(道誉の執奏)による。
  • 延文3年(1358) 63歳 10月、細川清氏をもって幕府執事(管領)となす。義詮、昨日道誉をもってこれを内示する。12月、幕府評定始に着座(評定衆)。
  • 延文4年(1359) 64歳 6月、義詮、勲功賞として近江国多賀荘地頭職を宛行う。8月、飛騨守護職に補任さる。
  • 康安元年(1361) 66歳 9月、細川清氏と不和、清氏、若狭に奔る。12月9日、南朝軍の攻撃により後光厳天皇を奉じて京都を落ちる。同月27日、北朝軍京都を奪還す。
  • 貞治元年(1362) 67歳 10月、幕府評定始に着座す(評定衆)。
  • 貞治2年(1363) 68歳 7月10日、道誉以下他大名等、斯波高経を討たんとするの風聞あり。同月19日、道誉家人吉田厳覚、高秀の命により四条京極道場前にて、侍所所司代若宮左衛門尉に殺害される。これについて道誉、高秀を譴責(けんせき)す。
  • 貞治4年(1365) 70歳 2月、飛騨・出雲国分春日社造替料諸国棟別の賦課令を受く。閏9月、祇園百度大路石塔西頬神保掃部助俊氏地の沽却を後家尼みやうゐに証す。10月、大野頼成の出雲国安国寺領同国大野荘半分内三分一薩摩八郎跡を押領するを止め、下地を同寺雑掌に渡付しむ。
  • 貞治5年(1366) 71歳 6月、道誉画像(上記:佐々木道誉画像)に自賛す。8月、元の如く出雲守護職に補任され、元の如く摂津国多田院を返付さる。仁木義長の所領(4,5ヵ所)を拝領す。11月、幕府、出雲守護職道誉をして、被官人同国加賀荘・持田村(現在の松江市持田町付近か)領家職の押領するを止め、蓮華王院雑掌に渡付しむ。12月、隠岐入道に令して、出雲国加賀荘・持田村領家職のことを施行せしむ。
  • 貞治6年(1367) 72歳 4月29日、南北両朝の和議破る。道誉、義詮からの譴責を受ける。5月、医師但馬入道々仙、道誉宿所を訪れ治療及び良薬を提供す。5月下旬、関東の紛争成敗のため、将軍の使いとして関東に下向す。
  • 応安元年(1368) 73歳 足利義満元服。嘉例の石清水八幡宮参詣で前駆を勤む。管領細川頼之に従い、河内飯盛城の南朝軍を攻める。8月、猿楽能興行あり、道誉・高秀父子見物に招待さる。
  • 応安4年(1371) 76歳 8月、義満月見会遊宴を主催。道誉、管領細川頼之の次席に列さるれ、和歌詠む。
  • 応安6年(1373) 78歳 2月27日、近江甲良荘尼子郷を「みま」に譲ることを嫡子・高秀に告げ、後事を託す。3月10日、近江清瀧寺徳源院(滋賀県米原市清滝)・西念寺の両寺の寺務制定を定む。8月25日、疫癌を病み、近江で没す(戒号:勝楽寺殿徳翁道誉)。子息高秀、これに先んじて下向。12月、惣奉行佐々木高秀除服宣旨を下さるにより、山門神輿造替沙汰執行さる。
 上掲した事績は当然ながら一部である。佐々木氏本流である六角氏が近江に強力な地盤を根付かせたことに対し、庶流の京極氏(道誉)は摂津、上総、飛騨、若狭などの守護職を一時的に獲得するものの、出雲国が同氏の最も重要な支配地であり、その礎を築いたのが佐々木道誉である。

 次稿では、道誉のあとを引き継いだ戦国期に至るまでの京極氏関係の史跡を取り上げたい。

2014年9月15日月曜日

清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)

清瀧寺徳源院(せいりゅうじ とくげんいん)
                     ・柏原城(かしわばらじょう)

●所在地 滋賀県米原市清滝288
●当院創建 弘安6年(1283)
●開祖 佐々木(京極)氏信(法号 清瀧寺殿)
●山号 天台宗 比叡山延暦寺派 霊通山
●備考 柏原城・京極氏菩提寺
●参拝・登城 2014年9月10日

◆解説(参考文献 当院パンフ資料、「吉川弘文館『佐々木道誉』森茂暁著等)
 今稿では、前稿尼子氏祈願所・光徳寺(鳥取県東伯郡琴浦町公文)で紹介した佐々木道誉ゆかりの地の一つである近江(滋賀県)の清瀧寺徳源院(柏原城)をとりあげたい。
【写真左】清龍寺入口付近
「史蹟 清瀧寺 京極家墓所」と刻銘された石碑が建立されている。

 この近くには江戸時代初期に将軍が朝廷(京都)と江戸城を往来する際、宿泊・休憩の目的で建てられた館・御茶屋御殿(柏原御殿)があり、ここから2キロほど東進すると美濃国(不破郡関ヶ原町)に入る。






現地の説明板より

国指定史跡 清滝寺京極家墓所
  ●指定年月日 昭和7年3月25日
           平成14年3月19日追加指定

 清滝寺(せいりゅうじ)は、京極家の始祖氏信(うじのぶ)の草創(1283)で、寺号は氏信の法号の清瀧寺殿から称されました。永仁2年(1292)氏信の死後、寺内に墓を建て、以後、京極家は清滝寺を菩提寺に定め、歴代当主の墓所としました。

 浅井氏の台頭とともに寺運は衰えますが、江戸時代の寛文12年(1672)に、丸亀藩主京極高豊(22代)が、所領の播磨国(兵庫県)二ヶ村と清滝寺周辺の土地を清滝寺周辺の土地を知行替えすることにより、子院12坊の再興と三重塔を建立して、高和(21代、初代丸亀藩主)の院号から徳源院と称しました。
【写真上】清龍寺史跡散策マップ
 文字が少し小さいため分かりづらいが、清瀧寺・徳源院は中央の上段部に図示されている。
 手前の道には「大門跡」とされる箇所があるが、おそらく当時はこの位置まで境内となっていたのだろう。

 また、左側の丸山という箇所には「北畠具行の墓」がある。後醍醐天皇の側近であったが、天皇の隠岐配流の3か月後、護送人であった道誉の助命嘆願も叶わず、当地でその生涯を終えた。なお、道誉は後醍醐天皇の隠岐配流にさいしても護送の役目を務めていたとされる。


 京極家墓所は、高豊が付近に散在していた各代の墓石を集め、順序を正して整理したものです。始祖氏信の塔から25代高中および、分家の多度津藩主5代の塔など34基の宝篋印塔と、4基の五輪塔が林立しています。鎌倉時代から江戸時代に至る約600年間の宝篋印塔群の多くには銘が刻まれており、形式の変遷を知る上でも貴重な資料になっています。
【写真左】京極家墓所・その1
 上下2段に分けられている。写真は上段のもので、手前(右側)から始祖・氏信の墓があり、4番目が道誉の墓(塔)となっている。

 なお、ここにある道誉のものは供養塔で、次稿で紹介する予定の甲良町にある勝楽寺の墓石が実際の墓である。


 歴代の墓所は、清滝寺の法灯を伝える徳源院本堂の裏の土塀に囲まれた中にあります。

 土塀のなかには上下2段に分かれ、上段には向かって右より始祖氏信の宝篋印塔を筆頭に、18代高吉におよぶ歴代当主の墓18基が整然と並び、このなかには婆沙羅大名として名を馳せた京極高氏(道誉)の塔も含まれています。
 塔の石材には花崗岩を中心に、砂岩、石灰岩などがみられます。また、形態や石材から、整理されたときに補われた部材もあるようです。


【写真左】京極家墓所・その2 配置図













 下段には、衰退していた京極家の勢力を立て直し中興の祖とされる19代高次(たかつぐ)の宝篋印塔を安置する石製の霊屋(れいおく)と、22代高豊から25代高中までの木製霊屋のほか、分家した多度津藩主の塔などが安置されています。

    平成21年度 里山・遺跡のコ・ラ・ボ事業”
【写真左】京極家墓所・その3 下段の墓石群
 左の木製霊屋から25代・高中、20代・忠高、22代・高和、22代・高豊(木製霊屋)

 


柏原荘と柏原城

 京極家菩提寺とされる清瀧寺が所在する位置は、現在の米原市にあって、JR東海道本線柏原駅があるところだが、この地には近江と美濃をつなぐ中山道が往来している。
 旧坂田郡柏原庄といわれたところで、鎌倉初期当地初代地頭であった柏原弥三郎為永が所有していたといわれる。この弥三郎は清和源氏頼光の弟頼平の流れといわれている。
【写真左】「柏原城」の標柱
 清龍寺の塀の角には「柏原城」の標柱が建っている。
 清瀧寺が建立される前に当城があったとされるが、当院の位置は城館として活用され、後背に聳える清滝山に詰城(砦)があったとされている。


 「吾妻鏡」によれば、弥三郎は地頭職として補任されたものの、中央からの命を無視し、特に朝廷からの納税義務を果たさなかった。このため、正治2年(1200)11月、弥三郎を攻め滅ぼすよう命が下った。この任を受けたのが相模権守源仲章と佐々木左衛門尉定綱である。

 さて、弥三郎が当時居城としていたのが、この清瀧寺といわれている。ただ、現在はほとんど城砦としての遺構は残っていない。おそらく平城形式の城館であったものと思われる。
【写真左】清瀧神社
 清瀧寺の北隣には清瀧神社が祀られている。

当社由緒より

“ 保延4年(1138)の創建といわれ、建長5年(1253)6月21日より5日間、太政官牒を下して当社に祈雨せしむ。清瀧権現と称し祈雨の神と崇めらる。
 応永13年(1406)、殿村伊賀守吉重、当村を領し神供田寄進、社伝に八大龍王を祀ると記す。”

佐々木定綱

 弥三郎為永を攻め滅ぼした定綱は、佐々木秀義嫡男で、別名佐々木太郎といわれる人物である。以前にも紹介したように、定綱の兄弟には、義清があり後の出雲守護となる佐々木(塩冶)高貞に繋がる。

佐々木源三秀義 ⇒ 定綱 → → 氏信(京極) → → 高氏(道誉)

           ⇒ 経高
           ⇒ 盛綱
           ⇒ 高綱

           ⇒ 義清 → → 塩冶高貞

           ⇒ 厳秀 → → 出雲吉田氏

 この定綱の次男・信綱が前稿尼子氏祈願所・光徳寺(鳥取県東伯郡琴浦町公文)で紹介したように、のちに京極氏始祖となった四男氏信の父である。
【写真左】三重塔
 第22代・高豊が、寛文12年(1672)寺の復興をはかり、建立したもの。県指定文化財。










佐々木道誉の所領

 ところで、佐々木道誉の生誕年は永仁4年(1296)といわれているが、生誕地ははっきりしない。しかし、父・宗氏は当時鎌倉幕府御家人であったことから、鎌倉で誕生した可能性が高い。そして10代後半期まで当地で過ごしたのではないかとされている(太尾山城・その3参照)。
【写真左】道誉桜
 樹齢約300年、樹高約10m、胸高周り2.3m。
道誉が植えたということから「道誉桜」と呼ばれている。
 現在のものは2代目で、昭和52年には3代目を植えている(市指定天然記念物)。


 道誉という名は出家したときに改めた名であるが、その前は高氏である。足利尊氏も偏諱を受ける前、「高氏」を名乗っているので聊か紛らわしいが、道誉の高氏は、元服の際当時幕府の得宗であった北条高時から偏諱を受けたものだろう。道誉がその後上洛も含め、近江周辺に活動の場所を移すのは20代前半からといわれている。
【写真左】池泉回遊式庭園
 京極家墓所の上段から移したもので、この日ご住職と客殿で庭園を見ながらお話を伺ったが、ついつい話に夢中になってしまい、そこで写真を撮ることを忘れてしまった。このため、この箇所(上)から撮ったもの。
 小堀遠州の作ともいわれている。

 紅葉の時期になると多くの観光客が訪れるようだ。


 南北朝期から室町初期にかけて長く活躍した道誉である。彼が所領とした土地は本拠地近江を中心にして大変多くの地域が記録されている。東海道・東山道を基点として畿内・北陸道・山陰道・山陽道・南海道に及ぶ。所領安堵の詳細については、次稿で改めて取り上げたい。

 さて、清瀧寺のある柏原荘については、氏信の代から受け継いだものと思われるが、道誉と柏原城に関するものとしては、文和2年(1353)1月5日、北野参詣と称して逐電し、近江柏原城に蟄居したとする記録が残る。これは足利尊氏の側近として仕えていた寵童・饗庭氏直(あえばうじなお)の讒言によるものとされる。

その後道誉は晩年に至ると、次稿で予定している犬上郡の甲良荘の勝楽寺に居を定めた。

2014年9月7日日曜日

尼子氏祈願所・光徳寺(鳥取県東伯郡琴浦町公文)

尼子氏祈願所・光徳寺(あまごしきがんしょ・こうとくじ)

●所在地 鳥取県東伯郡琴浦町公文227
●備考 伯耆三十三観音霊場第24番札所
●山号 亀福山
●指定 琴浦町指定保護文化財 光徳寺山門(昭和49年5月1日指定)
●開基 永享元年(1429)
●創建 退休寺(大山町)三世無餘空圓禅師
●参拝 2013年12月21日

◆解説(参考文献「吉川弘文館『佐々木道誉』森茂暁著等)
 鳥取県の伯耆国に聳える名峰大山(だいせん)は、火山活動によって周辺部に放射線状に数多くの丘陵地と谷を形成している。特に北方の日本海側を車で横断する際、規模の大小はあるものの、よく似た地形の谷間が多くあるため、目的地に行く際、混乱することがある。
【写真左】光徳寺
 茅葺の山門
「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑を左手に見ながら、享保15年(1730)に造られた階段を登ると、趣のある山門が出迎えてくれる。


 地勢的に大山の影響を受けなくなる位置は、伯耆の東方すなわち倉吉市辺りからと思われるが、その手前にあたる東伯郡琴浦町には何本もの深い谷間がある。このうち、赤松川が流れる谷間に公文という地区があり、そこには尼子持久や清貞が寄進し、祈願寺としたといわれる光徳寺がある。
【写真左】公文地区の景観
 光徳寺付近から見たもので、右方向に日本海、左方向には大山があるが、大山はこの谷からは行けない。



 現地の説明板より

“琴浦町指定保護文化財
 光徳寺山門
    (昭和49年5月1日指定)

 亀福山光徳寺は、もと天台宗で、現地から南方一里の野田の地にありましたが、室町時代の永享元年(1429)退休寺(大山町)三世無餘空圓禅師が現在の地、公文亀谷に移して、曹洞宗に改めました。当時出雲守護代尼子持久は空圓に帰依して、永享5年(1433)本堂、庫裡を寄進し尼子一族の祈願寺としました。
【写真左】山門前附近
 当院は公文地区の東側に伸びる舌陵丘陵に建立されているが、この場所に至るまでに数軒の民家の脇を通る狭い道を通らなければならない。
 

 次いで、持久の子、清定は、嘉吉3年(1443)開山堂、鐘楼とこの山門を建立寄進しました。
 鎌倉時代様式で、茅葺寄棟造りの山門楼上には、この門をくぐる参拝者の願い事を叶えてくださるという伝えの「金色寳光妙行成就王如来」坐像が安置されています。
 末寺10数ヶ寺を有する、地方本山でもあったこの寺の風格にふさわしい山門といえます。

 平成21年3月24日
    琴浦町教育委員会”
【写真左】山門
 現在残る山門はこれまで何度か改修されたものだろうが、おそらく当時(鎌倉時代)の様式を継承した茅葺寄棟造りの建物だろう。
 部材も相当年数が経っている。



佐々木道誉から尼子持久まで

 ところで、未だに月山富田城を投稿していないが、いずれアップすることとし、今稿では当城を本拠とした出雲尼子氏の出自について概説しておきたい。
 
 尼子氏の元を古代まで辿ると、近江の豪族佐々貴山君(ささきやまのきみ)一族に繋がる。この地にその後別系統の宇多源氏系の佐々木氏が乗り込み、同氏の間に同化が進んだとされる。そして、経方の代に季定・行定の二子ができ、季定以下の系譜が宇多源氏系、行定以下は佐々貴氏系とされている。しかし、実態として定綱の代であった鎌倉寺時代初期には同化していなかったため、佐々貴氏は「本佐々木氏」と称されていたという。
【写真左】鐘楼
 尼子清貞が嘉吉3年(1443)に寄進した鐘楼は、昭和17年の第2次世界大戦のために供出され、その後新たに設置したものの台風などで倒壊、昭和53年に檀信徒によって寄進・再建された。


 その後近江武士佐々木氏の基礎を築いたのが、前出の季定の子・佐々木三郎(源三)秀義である。そして秀義の子・佐々木太郎定綱から信綱と続き、信綱が4人の男子を設けた。これが下段に示すのちのそれぞれの祖となった。
  1. 佐々木重綱  ⇒ 大原氏
  2. 佐々木高信  ⇒ 高島氏
  3. 佐々木泰綱  ⇒ 六角氏(庶流近江米原氏 ⇒ 高瀬城(島根県斐川町)主・米原氏など)
  4. 佐々木氏信  ⇒ 京極氏

 このうち佐々木(京極)氏信は、満信と宗綱の男子を設け、満信は宗氏を経て、貞氏・高氏・貞満・秀信・時満・経氏の6人の男子が生まれた。
 一方、宗綱の方は、祐信・時綱・貞宗の3人の男子のほか、二人の女子があった。
 前出の宗氏の次男・高氏はその後、宗綱の三男・貞宗の猶子となった。この高氏がいわずもがな佐々木(京極)道誉その人である。
【写真左】本堂
 峰瓦に家紋(尼子氏:平四つ目結)などがあるかと思ったが何もない。

 もっとも、説明板にもあるように当院は、退休寺(大山町)三世無餘空圓禅師が建立したもので、退休寺は以前紹介した大山町にある岩井垣城主・箆津敦忠との関わりの強い寺院であったから、平四つ目結の家紋などは入らなかったのだろう。



 道誉には、秀綱・秀宗・高秀の三人の男子があり、三男・高秀はその後、高詮(経)と高久の男子を持った。

佐々木道誉  ⇒ 秀綱 → 秀詮 → 秀頼

         ⇒ 秀宗

         ⇒ 高秀 → 高詮(経)(氏頼猶子)

               ⇒ 高久(尼子) ⇒ 詮久(近江尼子氏)
                           ⇒ 持久(出雲尼子氏)

 この高久が後に出雲尼子氏の祖となる持久の父である。高久は近江守護代に任ぜられたのが14世紀後半といわれているが、元中8年(1391)に29歳で早逝しているので、守護代になったのもこの直前頃と思われる。

 高久が亡くなったあと、長男・詮久(のりひさ)は父の跡を受け継ぎ、近江尼子氏を、二男・持久は出雲に下向し守護代となり、出雲尼子氏の祖となる。
【写真左】五輪塔・その1
 境内には檀家墓地とは別に歴代住職の墓があるが
その一角に五輪塔が数基祀られている。尼子氏と関係がったものだろうか。



出雲守護職・守護代

 さて、京極氏が出雲国と最初の接点を持ったのは、道誉のときで、第1期は康永2年(1343)8月20日、出雲守護職に補され、観応2年(1351)まで続く(「正閏史料」)。補任したのは足利尊氏である。
 
 これより先立つ暦応4年・興国4年(1341)3月、出雲国及び隠岐国守護職であった塩冶(佐々木)判官高貞は、高師直によるいわれなき讒言によって京から本国へ逃走、宍道白石にて無念の自刃を遂げた(塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)参照)。高貞討伐に功のあった山名時氏は、高貞に代わって出雲守護職に任じられた(田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)参照)。
【写真左】五輪塔・その2
 境内にある五輪塔とは別に、南側の斜面に複数の石塔を含む五輪塔もある。この付近には自然石を墓石のように扱い、数か所に分散させて供養しているところがある。このような箇所を他所で見たことがあるが、それがどこだったか、今は思い出せない。
 刻銘もされていない墓石なので、無縁仏と思われるが、何らかの謂われがあったものだろう。


 時氏が出雲守護職に任じられてから2年後、前記した道誉が時氏に代わって任じられることになる。これは観応の擾乱(景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)参照)が原因とされる。すなわち、室町幕府開幕期、足利尊氏と弟・直義との権力争いで、尊氏が勝利したものだが、もともとこれ以前から山名時氏と佐々木道誉には確執があった。

 そして尊氏に従った道誉がこれにより出雲守護職を補任された。なお、冒頭で第1期の出雲守護職期間終了年を観応2年としているが、その後も山名氏と断続的な交代劇があるものの、道誉は貞治6年(1367)まで、同国守護職を務めている。
 山名氏は満幸の代(至徳3年・1386~明徳2年・1391)を最後とし、以後京極高詮を始めとして名目上、永正5年(1508)まで京極氏が任じた。
【写真左】秋葉三尺坊の鳥居
 光徳寺の脇には秋葉三尺坊とされる社が建立されている。
 急傾斜の階段を登ると、社殿が建立されている(下段写真参照)
【写真左】【写真左】秋葉三尺坊社殿
 創建時期などは不明だが、歴史を感じさせる。








 ところで、出雲国における守護職の記録は残るものの、守護代の記録は余り残っていない。むしろ、守護職として当国にせわしくなく立ち振る舞った京極氏の記録が多いため、守護代の必要性もなかったのかもしれない。

 応永8年(1401)、8月出雲守護・京極高詮は、出雲・隠岐・飛騨三国の守護職、所領、惣領分を嫡子・高光に譲り、その翌月の9月高詮は没した(「佐々木文書」)。
【写真左】尼子持久の墓・その1
 持久の墓とされているのが、出雲(島根県)広瀬月山富田城の西南・菅原附近にあるもので、最近できた「菅原広瀬バイパス」沿いにある。
【写真左】尼子持久の墓・その2
 あくまでも伝承として伝えられているもので、確定したものではない。

 当地には、持久が月山西南鬼門に当たる山上に経塚を築き、平穏な治政、子孫の永福を祈ったと記されている。



 翌応永9年(1402)、尼子持久は野崎武右衛門に従って富田城に入った(「島根県歴史大年表」2001年発行)。これとは別に、明徳3年(1392)、出雲守護京極高詮によって尼子高久が守護代に補任され(「陰徳太平記」)、3年後の応永2年(1395)に月山富田城に入城したとある。 ただこの入城記録には出典が明記されていないため、真偽のほどは解らない。
 むしろ、前記したように、京極高詮が亡くなり、その跡を嫡子・高光に譲った時期と併せて持久が出雲国に来住した応永9年説が有力だろう。

 持久に関する記録は、今のところ出雲国においては入国した時期のみで、他に見当たらない。しかし、今稿の因幡国にある光徳寺において、

 “当時出雲守護代尼子持久は空圓に帰依して、永享5年(1433)本堂、庫裡を寄進し尼子一族の祈願寺とする…”
 
 という記録があるところを見ると、持久が京極氏の元で何らかの役割を果たしていたと考えられる。ただ、なぜ持久が守護国である出雲国ではなく、因幡国に祈願寺を設けたのだろうか。
【写真左】尼子清貞(定)・経久の墓
 安来市広瀬町の洞光寺に祀られている。
右が清貞、左が経久の墓


【写真左】月山富田城遠望
 この場所から月山富田城が正対して見える。









 そこで考えられるのが、明徳2年(1391)に起こった「明徳の乱」である。この乱については既に小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)などでも紹介しているが、乱の首謀者であった伯耆守護職山名満幸が、出雲守護職京極高詮によって打果されたことが一つの原因と思われる。そして満幸のあと、持久及び清貞が一時的に当地を支配したのではないだろうか。

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