2012年9月27日木曜日

景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)

景石城(かげいしじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
●別名 磯辺城
●高さ 標高325m(比高240m)
●構造 連郭式山城
●築城期 延文年間(1356~61)か
●築城主 用瀬氏
●城主 用瀬左衛門尉・磯辺豊直・山崎家盛
●遺構 郭・石垣・虎口・堀切・竪堀等
●登城日 2012年6月23日

解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 前稿・鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)の東麓を流れる千代川をさらに南にさかのぼっていくと、用瀬町(もちがせちょう)にたどり着く。この町で千代川と並行して南北に走る智頭街道(R53)と、西方の美作(岡山)恩原高原から千代川の支流佐治川と並行して走る国道482号線が合流している。
 景石城は、この両街道が合流する地点の東方に聳える三角山の北方に築かれた山城である。
【写真左】景石城遠望
 千代川を挟んで西を走る鳥取自動車道の用瀬パーキングから見たもの。 麓を流れる川は、千代川。
 景石城の向背には修験者の山として知られた三角山(みすみやま)・H508mが控える。


現地の説明板より

“景石城跡

 この城が何年頃築かれたは明らかでないが太平記に延文の頃(1360年頃)既にあったと記されている。

 その後、山名の城となったが、天正8年(1580)豊臣秀吉が鳥取城攻略の重要な拠点として磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として鳥取城への備えとした。ところが、磯部が若桜鬼ヶ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻め落とされたが、翌天正9年、秀吉再度の鳥取城攻略により、鳥取城は落城、この際磯部は許されて再度景石城主となった。
【写真左】登城口付近
 景石城・三角山一帯は「用瀬地区生活環境保全林」として維持され、それぞれ「もみじの森」「あたごの森」などといった区分を設け、ハイキングコースのような道が設置されている。

 このため、写真にある位置もかなり上まで車で向かうことができ、4,5台は駐車できるスペースが近くにある。


 以来城下町として用瀬宿を発展させたが、関ヶ原の戦いに西軍に味方したため咎を受け、この城を去らねばならなかった。

 替って智頭八東二郡の領主となった山崎佐馬介の持ち城となった。ところが元和元年(1615)一国一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となった。
 今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており、又本丸・二の丸・物見櫓などの広場と石垣又矢竹の群生が見られる。
  平成12年4月   用瀬町教育委員会”
【写真左】登城道
 道幅は狭いが、踏み跡がしっかり残り、要所には案内標識が設置されている。

 おそらくこのルートは、当時の大手道とほぼ同じものだったと思われる。


南北朝後期

 以前にも述べたように、南北朝動乱期にあって着実に勢力を伸ばした有力守護があった。特に観応の擾乱(じょうらん)、すなわち足利尊氏と弟直義の戦いが終わったあと、因幡国においては山名時氏が伯耆・美作国と併せ領有し、隣接する南の播磨・備前国は、赤松氏が扶植していった。いわゆる守護大名としての先駆けである。
【写真左】堀切跡
 現在堀切の底部が登城道となっているので、当時の大手道はこれと直角になる左側からのコースからだったのだろう。




 ところで、因幡・山崎城(鳥取県鳥取市国府町山崎)でも述べたように、山崎城の出城として紹介した「七曲城」(国府町雨滝)や、「楠城城」(同町楠城)は、南北朝期の築城と伝承されている。

 「七曲城」は赤松円心の築城とあり、「楠城城」は楠木正成(一族)とされ、両城の築城時期は若干の時差があるが、南北朝期にすでに山陽~山陰の間で争奪戦が行われていたことをうかがわせる。
【写真左】竪堀跡
 上記堀切跡を過ぎて反対側の斜面に見えるもので、この斜面そのものも十分な切崖だが、さらにダメを押すように竪堀が設置されている。


 そして、特筆されるのは、「七曲城」が赤松円心の築城であることである。すなわち、播磨国の守護であった円心が、山名氏の領有していた因幡国の東方部に食い込んでいることである。しかも、この地区は、東隣の但馬国(当時は山名氏であるが、一時的に仁木氏が領有)にも近い。

 さて、景石城は延文の頃にはすでに築城されていたとされている。この頃、当城も上述したように、播磨守護の赤松氏が攻略している。国府町の「七曲城」は今稿の景石城より北方にあって、円心の本拠地播磨国よりさらに遠い。このことから、山名氏が因幡国守護として統治していたとはいうものの、同国の東南端部は事実上赤松氏が支配していた時期があったことがうかがえる。

 その後は山名氏が奪還し、同氏の持ち城となったという。
 戦国期の動きについては、説明板の通り。
【写真左】三の丸
 先ほどの竪堀を過ぎると次第におおきな岩が左右に現れてくる。尾根は西から東にかけて伸びていくが、次第にその幅は狭められ、傾斜もきつくなっていく。

 その途中に三の丸が造られている。最初の物見櫓を兼ねた郭で、西にむかって三角形の形状をした長径10mほどの規模のもの。


主だった遺構と地名など

 当城は西方を大手としている。また、説明板の他に、馬場谷・馬場谷奥・城の下などの地名も残っているという。

 珍しいものとしては、景石城で使われたという「格子戸8枚」が、同町鷹狩の大安興寺という寺院に残っているというが、管理人は訪れていない。
【写真左】二の丸・その1
 三の丸を過ぎてしばらく行くと、すぐに二の丸が控える。

 三の丸より少し奥行のある郭で、長径15m程度。幅はさらに狭くなる。
【写真左】二の丸・その2
 西端部から本丸方面を見たもので、登城道はここまですべて南斜面に設置されてきているが、ここから大きな九十九折の登り道となる。
【写真左】切崖
 二の丸からさらに本丸へ向かう途中の個所で、左から大きく回り込み、再び南側へコースがとってある。

 崩落した中小の石が散在しているので、このあたりから石積みがされていたのだろう。
【写真左】眼下に用瀬の町並みを見る。
 写真中央の奥の谷間に佐治川と並行する国道482号線が走り、千代川沿いの智頭街道(R53)と交わる。

 なお、千代川の支流佐治川を上っていくと、景石城の支城といわれた飯盛山城がある。
【写真左】本丸・その1 石垣
 本丸跡にはご覧のような展望台が設置されている。
 登ってくるとすぐに左手には石垣が見える。
【写真左】本丸・その2
 先ほどの石垣の左側を登ると、ご覧の本丸跡がある。

 南側から北に細長く三角形の形で伸びた郭で、奥行は15m前後か。
【写真左】本丸・その3
 隅の方に大きな岩がある。この場所にも説明板が設置されているが、ほとんど同じ内容なので省略する。
【写真左】本丸・その4 築城当時の石垣
 本丸の周囲にはこうした当時の石垣遺構が残る。

 大分ずれた箇所もあるが、苔むした石垣も味わい深い。
【写真左】北方を見る
 奥の右側に見える頂部が平たい山は霊石山(H:326m)で、源範頼の墓や、奥ノ院の鐘楼など多くの伝説が残る山で、近年はパラグライダーやハングライダーなどのフライトエリアとしても使われている。
【写真左】子持ち松砦登り口
 景石城の本丸から別のルートがあり、そこから向かうと、当城の出城として使われていた「子持ち松砦」という珍しい名称の砦に繋がる。

 この日は6月であったこともあり、草丈が伸びていたため省略した。

 なお、この砦については『城郭放浪記』氏が紹介しているので、ご覧いただきたい。まずまずの遺構があるようだ。

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