2009年4月3日金曜日

三刀屋じゃ山(みとやじゃやま)城 その2

三刀屋について

三刀屋地域は、島根県出雲部のほぼ中央部に当たる。
現在は数年前の合併により、雲南市に包含された町の一つだが、以前の三刀屋町そのものの面積もかなり広く、北側入り口付近は、斐伊川と三刀屋川が合流する地点で、上流から流れてきた肥沃な堆積土によって、斐伊川本流部の旧木次町と、三刀屋川本流部の三刀屋町がそれぞれ長い街並みを形成していた。

三刀屋氏について(参考:三刀屋町誌等)
さて、この三刀屋地域に地頭として入ってきたのが、三刀屋氏の祖である諏訪部(すわべ)氏である。
三刀屋家文書によると、承久の乱の戦功により、承久3年(1221)9月4日付で、時の執権・北条義時の下知状によって、三刀屋郷に補せられた。諏訪部氏は清和源氏の一族で、清和天皇の孫・経基を始祖とする。

【写真左】本丸跡付近にある説明板



この経基の五男・満扶を初代として、10代・助長のとき承久の乱が起こり、助長がこのとき勲功をあげ、その恩賞としてこの出雲国三刀屋郷の地頭職を命ぜられる。

それまでの諏訪部氏の活動していた地域は、東国(信濃・伊豆・甲斐・遠江)で、諏訪部氏のほかにも多くの東国武士が承久の乱の恩賞として西国に移ってきている。
近くでは、福田荘(加茂町)、飯野荘(加茂町)、淀本荘(大東町)、安田荘(伯太町)、安来荘(安来市)、香折新宮(加茂町)などがあり、特に有名なのは仁多三沢郷の三沢氏である。

さて、その諏訪部氏が地頭職として出雲の地にすぐにやってきたかというと、どうもそうではないらしい。同氏が三刀屋に来る前に治めていた者が当然いるわけで、前任者と事前の調整などは、当時のことであるからほとんど行っていない。そうなると、当然両者には紛争が起きる。こうした事例は頼朝の時代の下知された地頭職の入部の時もあったらしく、その後約35,6年経った承久の乱後のときも、地頭職(守護も含む)で、東国から西国へと渡ってきた一族のその数は、およそ30万人といわれているから、各地で相当の混乱が生じていたようだ。
【写真左】上の段から見た池
位置的には城郭の形が凹型になっており、その窪んだ位置に設置してある



諏訪部氏(三刀屋氏)の場合、その時前任者は飽馬斉藤四郎時綱という人物であったらしく、承久3年の2年後である貞応2年(1223)付の義時下知状によると、助長の息子・助盛に改めて知行安堵する際、件の藤四郎時綱との「紛争をすぐにやめるよう」命じている。

その後、最終的には諏訪部氏が治めていくとこになるが、完全に知行完遂を行ったのが何代目かははっきりしない。ただ、地元に残る「千家文書」の文永8年(1271)11月付「出雲国杵築大社御三月会相撲舞頭役結番事」によると、出雲部の各地を治めていた支配者リストの中に、助盛の子で3代目・諏訪部三郎入道子が、「三刀屋郷 21丁反」とあり、このころにはほぼ諏訪部氏の名実ともに地頭職としての領有支配がなされていたと思われる。

なお、文永年間当時の三刀屋郷近辺の郷としては、このほかに多禰郷、飯石郷、熊谷郷、日倉郷、太田別宮などがあり、このころは諏訪部氏はこれらの支配領有まで至っていない。


【写真左】本丸跡付近から南西の山並みを見る


越えて建武の中興の際、諏訪部氏は他の出雲国人領主と同じく、伯耆船上山の後醍醐天皇のもとにはせ参じ、軍功をたて、所領を安堵された。

 佐方(さかた)文書諏訪部氏の一族で、のちに姓を改め、熊本の細川家に仕えた佐方家に伝わる文書)によれば、このとき、向かったのは当時、三刀屋じゃ山城より北へ4,5㎞向かった斐伊川本流側にある伊萱村(いがやむら)に居を置く、諏訪部弥三郎入道円教、及び彦五郎重信兄弟一族である。このことから、すでに三刀屋地域には諏訪部氏の一族が、かなり分散・拡大して所領をもっていたと思われる(なお、上記一族の居城はおそらく、この伊萱村を見下ろす「伊萱城」であったと思われる)。

宗家である諏訪部扶重(このころには姓を「諏訪部」又は「三刀屋」と併用している)については、国宣により地頭職と同郷御堂垣田畑などの知行を安堵されている。

さて、その後後醍醐天皇による建武の中興の失敗により、尊氏がのし上がってくるが、三刀屋家文書によると、他の出雲豪族諸氏(塩冶氏にほぼ従う形)と同じく、諏訪部扶重も建武2年10月のころに後醍醐から距離を置き始める。

その後尊氏が九州で力を蓄え、再び東上し建武3年5月、兵庫湊川で新田・楠木軍を破ると、諏訪部氏は一族をあげて尊氏派に与する。

その後、扶重は新田義貞を越前金崎城に追い、その後東海道を登ってくる北畠顕家を迎え撃つべく、美濃山中へ、顕家が伊勢に向かえば、扶重も伊勢へと連日連戦の日々を送ることになる。


こうして扶重はこの約2年の間は、畿内・北陸・美濃などにあって、地元出雲に帰ることはなかった。このように諏訪部一族は総力をあげて尊氏方について各地で転戦している。三刀屋家文書には、これらの関係した軍忠状がかなり残っているとのこと。

その後、塩冶高貞が高師直らによって惨死したが、諏訪部氏はそれまで塩冶氏に従っていたことから、地元に戻った際、本来ならば塩冶氏を支援すべきとところを、他の出雲地頭・豪族たちと同じく、反塩冶氏として対処している。一族が生き延びるためにとった判断だろう。

鎌倉・南北朝時代における諏訪部氏の動きは、このほかにもいろいろあるが、あまり長々と記すのも冗長になるので端折って、戦国期の動きを次の投稿で記したい。

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