2014年3月29日土曜日

備前・白石城(岡山県岡山市北区建部町大田)

備前・白石城(びぜん・しらいしじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区建部町大田
●築城期 嘉吉年間(1441~44)
●築城者 田淵氏光
●城主 田淵氏・橋本氏(松田氏家臣)・岡氏(宇喜多氏家臣)
●高さ 150m(比高80m)
●指定 岡山市指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 備前・白石城(以下「白石城」とする)は、岡山市北区建部町大田に所在する城砦である。
 前稿虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)の東麓を流れる宇甘川を下り、途中で御津久保から建部大井線(71号線)を使って山間部を東進し、宇甘川の本流・旭川に出ると、建部町大田にたどり着く。

 この大田側の東岸に独立した小さな山があるが、ここに築かれた小規模な山城が白石城である。
【写真左】白石城遠望
 旭川を挟んで西側から見たもの。











現地の説明板より

“建部町指定文化財(史跡)
 白石城址

 白石城は、室町時代の嘉吉年間(1441~44)に、播磨から備前に進出した赤松氏に属した田淵氏光が築城し、永禄7年(1564)に5代城主田淵氏相が、宇喜多勢に攻められ落城するまでの約120年間、田淵氏の居城であったと伝えられている。

 その後、金川城主松田氏・岡山城主宇喜多氏の支配を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、宇喜多氏滅亡後は廃城となり、美作への備えは対岸の建部陣屋へ移った。
【写真左】登城口付近
 登城口は西麓を走る国道54号線と、北麓を走る484号線が交わる北西端部(484号線側)に設置されている。

 駐車スペースは、この右側に1台程度の空き地があるが、傾斜になっているのでサイドブレーキはしっかりとセットしておく。



 白石城は、旭川と長谷川が合流するすぐ北にある比高約80mの急峻な独立山塊を利用して築城している。山上部を削平整地して、本丸を置き、三方に下降する尾根上に計12段の小郭を設け、北西斜面には放射状の空堀14条と、その下方に山形に掘られた2本の大空堀を配している。

 城山の東西は川に挟まれ、山上からの眺望視野も広く、小規模ながら均整のとれた山容とともに、天険と地の利を併せ持つ要衝の地に築城された中世山城跡である。

  白石城址保存会”
【写真左】登城道
 登城道はよく整備されている。しばらく簡易舗装された道を進むと、やがて傾斜が付き始めるが、要所に階段が設けられている。

 登城道は、西側から回り込むコースとなっているが、途中で南西端側からの道と合流するようになっている(下段写真参照)。

 ほぼ直登だが、この写真は奥に見える竪堀が角度を変える箇所で、道はここからさらに右に回るようになっている。
【写真左】竪堀
 登城道側に最も近いところに造られた竪堀で、長さはおそらく50m以上はあると思われる。

 なお、このほか東側には畝状竪堀群が数条設けられているが、当日はその箇所までは向かっていない。


田淵氏

 田淵氏の祖は、清和源氏新田氏の後裔十左衛門氏光が伊勢国田淵に生まれ、姓を田淵としたのに始まるという。その後、説明板にもあるように、嘉吉年間(室町時代)に至って、播磨から備前に支配を広げた赤松氏に仕えることになる。

 置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも述べたように、「嘉吉の変」によって、足利義教を謀殺した首謀者・赤松満祐は、この年(嘉吉元年:1441年)9月10日、播磨木山城において山名宗全の攻略によって自刃することになる。おそらく、白石城の田淵氏も「嘉吉の変」の際、備前のこの地において、宗全らの追討に抗したものだろう。

 その後、田淵氏は備前を支配した浦上氏に属していくが、以前にも述べたように、戦国後期にいたると、備前は宇喜多直家の勃興が勢いを増すことなり、田淵氏は宇喜多氏の軍門に下ることになる。
【写真左】登城道分岐点付近の郭
 もう一つの登城道とされる南西部から登ってきた道の脇に見えるもので、幅8m×奥行10m前後の規模。

 ここから直角に左に向きを変え、南側からほぼ直登のコースを進む。
【写真左】本丸が見えだす。
 左側に連続する郭段が見えてくる。
【写真左】本丸から下3段目の郭
 2段目から上は整備されているが、3段目以降は熊笹などが繁茂しているため、あまりいい状態ではない。

 右側は桧や雑草などがあるため分かりにくいが、この箇所から切崖となっている。
【写真左】本丸・その1
 東西に長軸をとり、幅7m×長さ20m前後の規模。

 中央には電波塔などの建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
 「白石城址」と刻銘された石碑がある。

 裏面には、「五百年記念 田淵一族建立」と刻銘され、隣には祠が祀られている。
【写真左】本丸・その3
 東端部で、右側は伐採されていないが、よく見るとこの面も天険の要害となっており、急峻な構えである。
【写真左】本丸・その4
 東側から西方を見たもので、ベンチなどが設置されている。

 なお、植栽された樹木があるが、おそらく桜の木だろう。
【写真左】本丸・その5
 振り返って、登城道をみる。

 右側が本丸で、その下に2段目・3段目の郭が続く。
【写真左】旭川上流方向を見る。
 北側をみたもので、写真中央の街は建部町川口の街並みで、ここから旭川の支流・誕生寺川を登っていくと、美作国に繋がる。
【写真左】旭川下流方向を見る。
 旭川を降ると、一時当城を支配していた松田氏の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)へ繋がる。
【写真左】東方を見る。
 本丸から東方を俯瞰できる箇所は少ないが、戦国期は浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)の動きも常に監視下に置かれていたものと思われ、もっと視界が確保されていたものと思われる。
【写真左】出城か
 この写真の右側に白石城が控えているが、白石城の北麓を走る484号線の北には、ごらんの小丘が見える。

 白石城の北の守りとして、おそらくは見張櫓もしくは、出城の役目があったのかもしれない。

2014年3月27日木曜日

虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)

虎倉城(こくらじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区御津虎倉
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 服部伊勢守
●城主 伊賀氏・長船越中守
●高さ 327m(比高227m)
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・石垣・堀切・門跡・礎石・井戸・池等
●備考 金川城の出城
●指定 岡山市(御津町)指定重要文化財
●登城日 2014年3月15日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
  虎倉城は、岡山県を流れる三大河川の一つ旭川の支流宇甘(うかい)川の中流域虎倉に所在する連郭式山城である。
【写真左】虎倉城遠望
 南側の市場集落から見たもの。











 築城期・築城者など初期の記録については、下段の説明板にもあるように諸説あり、今一つ確定していないが、戦国前期には麓を流れる宇甘川が本流旭川と合流する地点に築かれた金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の出城であったという。
【写真左】虎倉城配置図
 現地の説明板に少しトレースしたもので、常盤橋から市場集落の方へ狭い道を進んで行くと、薄暗い谷へ向かうが、その途中に車1台分の駐車スペースが確保できる(下の写真参照)。

 ここから、左図のコースを辿って向かう道が案内されている。









 現地の説明板より・その1

“御津町指定重要文化財
  虎倉城跡

 虎倉城跡は城山山頂に築かれていた中世の山城跡です。
 15世紀後半に金川城(玉松城)の出城として服部伊勢守が築いたといわれていますが、詳しいことは分かりません。

 16世紀前半に伊賀氏の居城となり、以後三代にわたり城主となりました。16世紀後半の伊賀久陸の頃が全盛で、宇喜多氏の有力武将として、備前国北西部から備中国東部を支配しました。
【写真左】登城口始点
 手前に駐車スペースがあり、そこから先ず谷を進む。
 右の檻は猪捕獲のものだろう。


 やがて、宇喜多氏と対立し、子の与三郎は虎倉城から出ました。その後、長船越中守の居城となりましたが、1588(天正16年)、一族の争いで城は焼けてしまいました。

 虎倉城跡のある城山は、急な山で天然の備えとなっています。また、主要交通路の金川と高梁を結ぶ道、現在の県道高梁・御津線を見下ろすことができる重要な所です。
 虎倉城は連郭式山城で、慰霊碑のある郭から東へ200mの山頂に本丸があります。本丸から東に二の丸、出丸が、西に三の丸があります。郭の先には堀切が設けられています。本丸は石垣で築かれ、35×25mの広さがあります。瓦片も見つかっています。

 虎倉城は重要部に瓦葺の建物が建ち、土塀が巡るしっかりした城であったのでしょう。しかし、この城は戦いの時に備えた城で、ふだんは山麓の根小屋で生活していたようです。

     御津町文化財保護委員会
     御津町教育委員会”
【写真左】分岐点
 谷筋を進んで行くと、虎倉城方向を示す標識があり、ここから九十九折状の急峻な登城道を進む。







現地の説明板より・その2

“町指定文化財  虎倉城跡(標高327m)

 築城の年代は定かでない。虎倉物語(虎倉村又兵衛)によれば、伊賀伊賀守が、赤坂郡鍋谷の城から移ったとあるが、それは備前軍記等から文明12年(1480)ごろと推定される。
 一説によれば、伊賀兵庫頭が応永のころ(1400年前後)築城。また、大永7年(1527)服部伊勢守築城という説もある。城主は伊賀勝隆 ― 久隆 ― 与三郎家久の名が知られている。
  • 天正2年(1571) 虎倉合戦毛利勢敗退
  • 天正6年(1578) 久隆病没伊賀氏離散  家臣の多くは奥津高に帰農。宇喜多家臣長船氏・石原氏入城
  • 天正10年(1582) 小寺官兵衛一時在城
  • 天正16年(1588) 長船・石原内紛焼亡
  御津町教育委員会”
【写真左】最初のピーク
 途中ガレ場など歩きにくい箇所もあるが、九十九折であるため、大分負担は少ない。
 このピークは虎倉城の北西端部の堀切がある個所で、いわば最後尾にあたる。
 ここから尾根伝いに先端に向かって本丸を目指す。


伊賀氏
 
 上掲した二つの説明板にもあるように、築城時期についても様々な説があり、築城者も複数伝承されている。

 その中でも前段で紹介されている服部某については、江戸中期に行われた聞き取り調査をもとにした「虎倉記」からのもので、服部伊勢守とされ、金川城の松田氏家臣とされているが、史料的裏付けがなく、信憑性が薄いとされる。
【写真左】供養碑のある歓喜山へ向かう。
 堀切から尾根伝いに登っていくと、歓喜山という頂部に至る。

 写真の道は近代に整備されたものだろう。幅は広いが直登で結構傾斜がある。



 伊賀氏については、前稿備前・福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)でも述べた福岡合戦の中で、松田方家臣として伊賀修理亮の名が見える。
 すなわち、文明15年(1483)の段階で、修理亮は鍋谷城(加賀郡吉備中央町下加茂:未登城)にあったとされ、その後伊賀氏は虎倉城へ移っていくことになる。
【写真左】供養碑のある歓喜山
 西からの防禦とした出丸の一部と思われるが、直径10m前後の削平地には、ご覧の石碑が建つ。
 石碑は複数あり、最初に建立されたのは天保4年で、その後昭和58年・63年にも行われている。
 そのほか、当城調査をした大正時代の経緯については、下記のように刻文されている。

“大正年間御御津郡史編纂に当たり、安井岩太郎氏案内にて片山粛二郎佐義名加津海両先生より調査せり、私も随えり
  大正拾壱年秋 郷土史家 河田熊夫”


 伊賀氏が虎倉城に移った時期は、はっきりしないが、永禄から天文初年(1521~)頃には当城主として伊賀守になっていることから、左衛門久陸・與二郎(與三郎)と代々居城していたと思われる。

 久陸の代の前までは金川城主・松田氏の重臣として備前北西部を支配していたが、松田氏が衰え始めると、そのころ急激に台頭してきた宇喜多直家(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)等参照)に接近、縁戚関係を結んだ。そして、永禄11年(1568)、伊賀久陸は直家の先兵となって元の主君であった金川城の松田氏を攻略した。

 その後、伊賀氏は備中国北西部から東部にわたって次第に支配を広げ、直家の有力武将として歩み始めることになる。
【写真左】出丸
 歓喜山を過ぎると再び降りるが、その先にはご覧のような長さ200m以上はあろうかという長大な郭が続く。

 少し登り勾配だが、おそらくこの場所が主だった軍兵の駐屯場所として使われたのだろう。
 また、写真にはないが、この右側斜面の下にかなり大きな窪みが確認できた。おそらく生活用の溜池か、馬の飲み水等に使われた可能性がある。

虎倉合戦

 天正2年(1574)、毛利氏は備中を拠点として、備前攻めを本格的に開始する。毛利輝元はこのころ備中の竹の庄(現:吉備中央町竹庄)に本陣を置き、藤沢村福山城(現:吉備中央町の加茂福山城と思われる)に詰めていた直家の駐屯軍を攻略、次に狙いを定めたのが備前の北西の入り口にあたる虎倉城であった。

 同年4月13日、毛利方の馬廻衆であった児玉元兼、粟屋与十郎、神田宗四郎らが数千余騎を従い、虎倉城方面を目指しながら周辺を襲い、津高郡上加茂まで東進してきた。さらに、児玉らは伊賀方の動きがないため、このまま虎倉攻めを決断した。
【写真左】堀切
 出丸を過ぎると、三の丸が控えるが、その間にはかなり大きな堀切跡が残る。
 出丸側と堀切の傾斜は大分緩くなっているが、三の丸側(右側)とは険峻な切崖と相まって、当時はもっと鋭角に抉られていたものと思われる。


 ところが、伊賀方は、虎倉城の周囲の山に潜み、密かに毛利方の隙を狙うべく待ち伏せをしていた。敵兵の動向を確かめもせず、毛利方はそのまま虎倉城へ攻め込んだわけである。

 伊賀方の戦力は毛利方の大軍の比ではなかったため、戦略は毛利方が組んだ陣営の指揮官のみの首級をとることに徹していた。徹底したこの戦法は見事に当たり、毛利方の二人の指揮官(太田垣某、粟屋与十郎)は討死、忽ち陣形は乱れ、毛利方の大敗となった。この日の毛利勢の戦死者は130余人といわれている。
【写真左】三の丸南端部の犬走り
 堀切を抜けると、登城道は三の丸の南側にコースを変えて上に進む。
 写真の左側には三の丸の南に繋がる腰郭が来ている。



 この吉報は直ちに岡山城の宇喜多直家のもとに届けられた。この後、輝元は改めて軍評定を開き、虎倉城攻めの戦略を練り直した。その結果、先ずは虎倉城の支城を先に攻め流こととし、堤棚奥宿という伊賀氏の支城を攻略した。

 奥宿には伊賀氏の家人河田源左衛門ら50人がこの砦を守っていたが、忽ち毛利氏の猛攻によって苦戦を強いられた。そのため源左衛門は虎倉城へ急使を走らせた。しかし久陸は兵を動かさなかった。奥宿に兵を送ることは、虎倉城の分断を意味する。それが毛利氏の狙いだった。

 このため、奥宿の源左衛門は最期まで死闘を繰り返し、毛利方の兵を両脇に抱えながら滝壺に飛び込んだという。
【写真左】二の丸手前付近
 登りきると、右側に二の丸、左側に本丸が控える。
 先ずは左側の本丸に向かう。






宇喜多直家との対立

 宇喜多氏にとって、久陸は有力武将ではあったが、主君・直家は西国の梟雄といわれた人物である。
 久陸は、直家の父興家の娘を妻としていたから、久陸と直家は義兄弟でもあった。果たせるかな、主従といった信頼関係は、直家の方から破られることになる。
【写真左】本丸
 周囲には石垣で積み上げられた箇所が残る。
台形もしくは三角形の形状となっており、長径35m×短径25mの規模。



 殺伐とした下剋上の時代である。そして直家は忠義心と最も距離を置いた生き方をした。次第に所領を拡大しつつあった義兄弟・伊賀久陸に対する脅威を感じていたのだろう。直家にとって、久陸の存在は、侮れぬものとなっていき、若き日の直家自身が、主君浦上氏を裏切った姿にも見えたのかもしれない。直家は久陸の暗殺を謀るが失敗し、ついに久陸は直家と反目し、対立した。
【写真左】本丸と二の丸の間の腰郭
 二の丸と三の丸の位置については、現地の標識と『日本城郭体系・岡山県版』とでは合致していない。
 現地では本丸の西側の郭段を二の丸として標記し、『城郭体系』では、三の丸とのつなぎの腰郭としている。
 ここでは、現地の標識を順守し二の丸としておく。
 本丸は右側になるが、この腰郭との段差には石垣が積まれていたようで、現在は殆どが崩れている。

 久陸が亡くなったのは天正9年(1581)4月とされるが、別説では同7年ともいわれている。いずれもその死因ははっきりせず、急逝している。一説には直家家臣の河原某に毒を盛られたとされる。

 その後、伊賀氏は久陸の子・与三郎(家久)になって、毛利氏へ属し虎倉城を退出した。虎倉城には代わって、宇喜多氏の重臣・長船越中が入城したが、天正16年長船一族内の内訌がもとで城は焼失してしまったという。その後の経緯については、説明板の通りである。

 なお、説明板・その2にもあるように、天正10年には黒田官兵衛が当城に一時在城している。
【写真左】二の丸から下の三の丸を見る。
 下段の三の丸の東隅に井戸跡が確認できる。(下段参照)
【写真左】井戸跡
 直径約3m前後のもので、内側には石積が残る。
【写真左】三の丸
 三の丸の先端部は切崖となって、最初にみた堀切に至るが、南側には三の丸から連続する腰郭が二の丸直下まで伸びている。
【写真左】加工跡が残る石
 三の丸側の腰郭に残っているもので、切断加工した跡が明瞭に残っている。
【写真左】東端部へ進みたいが…
 再び本丸側に戻り、入口付近から先端部に伸びる出丸まで向かおうとしたが、ご覧の藪コギ。
 この先にはもう一つの二の丸や、出丸があるはずだが、ここで断念。
 

2014年3月22日土曜日

備前・福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)

備前・福岡城(びぜん・ふくおかじょう)

●所在地 岡山県瀬戸内市長船町福岡
●築城期 鎌倉末期
●築城者 頓宮四郎左衛門
●形態 平城(河城)
●遺構 郭
●高さ 海抜10m弱
●登城日 2014年3月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 備前・福岡城(以下「福岡城」とする)については、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)から見た遠望写真でも少し紹介しているが、それ以前には、富田松山城(岡山県備前市東片上)でも触れている。
【写真左】備前・福岡城
 北側の方から見たもので、長船のゴルフ場内にある。
 写真右の道はゴルフ場の西端部に伸びているもので、車で向かうことも可能だが、吉井川土手の道から鋭角に降りる道を進むため、あまりお勧めできない。

 この日はゴルフ場の事務所受付で許可をもらい、歩いてぐるっとゴルフ場を迂回して向かった。これでいくと、距離は約1.5キロほどあるが、吉井川の中州を歩きながら、周辺の景色も堪能できるので、さして苦にならない。

現地の説明板より

“郷土記念物 福岡城跡の丘
  1. 位置      瀬戸内市長船町福岡
  2. 指定年月日 昭和55年(1980年)3月28日(指定番号 岡山県告示第303号)
  3. 特徴
    1.     この丘は吉井川河川敷にある標高10mの粘板岩からなる小丘で、14世紀のはじめ築城された福岡城本丸跡といわれています。
    このあたりは、刀剣、須恵器の産地として古くから開けたところで、中世には、吉井川に沿った市場として町が形成され、備前の国の中心として栄えたところです。かつての広い福岡河原もすっかり姿を変え、往時の面影をとどめるものは、アラカシ、エノキなどの茂るこの丘だけとなっています。福岡の郷土景観を特徴づけるものとして人々に親しまれています。貴重な自然の保護にご協力をお願いします。 岡山県”
【写真左】福岡城遠望・その1
 北方に聳える熊山から見たもの。







頓宮四郎左衛門

 福岡城の築城期については、説明板には鎌倉時代末期とされている。『城郭体系第13巻』では、鎌倉末期争乱期、当地の地頭職であった頓宮四郎左衛門が築いたといわれる。
 その後、建武3年(1336)の足利尊氏上洛において、左衛門は新田義貞に荷担したためこの城を失った。以降、武家方(尊氏方)の佐々木氏、さらに赤松氏の支配(守護職)となっていく。
【写真左】福岡城遠望・その2
 ゴルフ場の西端部は吉井川に沿って、ご覧の道が設置されている。

 北側から見たもので、左はゴルフ場、右は中洲を挟んで吉井川が流れている。



 ところで、築城者で城を追われたこの頓宮(とんぐう)四郎左衛門だが、25年後の正平16年・康安元年(1361)、若狭国小浜の守護代になっている。この前年まで幕府軍の重鎮としていた細川清氏(阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)参照)は、同じく幕府(足利義詮)の側近であった佐々木道誉の謀略によって、京を追われ若狭国に入った。

 頓宮四郎左衛門がこのとき当地の守護代になっていたということは、彼が南朝から北朝(幕府)へと帰順していたということなのだろう。清氏は頼みにしていた左衛門が、支援するどころか逆に清氏追討の先陣を切って攻めてきたため、清氏は追われるように四国に逃れ、最期には細川頼之にも攻められ、讃岐で敗死することになる(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)。
【写真左】近影
 西側から見たもので、2,3年前土手側から見た時は、樹木が生い茂る小丘にしか見えなかったが、今回は遺構部がよく分かる。


足利尊氏滞陣

 さて、話は再び遡るが、正平4年(1349)4月11日、足利直冬は中国探題となって備後国へ赴いた。この命を出したのは、そのころ事実上の室町幕府の政務最高責任者であった直冬の養父・直義である。しかしそれからほどなくして、直義は執事であった高師直と決定的な対立を起こし、さらには、兄尊氏からも敵対視され、ついには政務をはく奪された。
【写真左】西側付近
 頂部(主郭か)には稲荷大明神が祀られている。
 鳥居は長船カントリークラブから寄進などがされており、毎年何らかの祭礼が行われているようだ。


 翌正平5年10月28日、尊氏は直冬追討のため、高師直らをひきいて京都を出発した。このころ、直冬は九州で次第に勢力を高めていたが、九州に向かう途中、尊氏はこの備前・福岡城を本陣として40日間も滞陣している。

【写真左】石碑「渋染一揆結集の地」
 登城口付近には下記の石碑もある。









 現地の説明板より

“渋染一揆結集の地
 1855(安政2年)暮、岡山藩は29条の倹約令の中で、被差別部落の人々に対し、「着物は渋染・藍染とすること」などの差別を押し付けました。このことに対し、翌(安政3年)6月13日(旧暦)の夜半から翌朝にかけて藩内の被差別部落の男たち数千人が立ちあがり、この吉井河原の地に結集し、藩の筆頭家老伊木忠澄(若狭)の虫明陣屋をめざしました。
 途中、家老側と交渉の結果、この差別法令の撤回を求める嘆願書を受け取らせ、事実上この差別法令を撤回させました。
 長船町教育委員会”

福岡合戦

 それから約100年後に起こった室町期の嘉吉の変(1441)においては、赤松氏が没落し、備前は山名教之の支配となった。そして、同氏の重臣小鴨大和守が備前国守護代となるが、このとき福岡城は大改築されたという。

 その後、応仁の乱が起こると、一旦没落した赤松氏の後裔赤松政則(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)は、細川氏に加勢して備前国守護となり、文明元年(1469)当城を奪還した。しかし、それから15年後の文明15年(1483)、赤松氏の被官で西備前を支配していた金川城の松田元成との不和が決定的となった。
【写真左】頂部にある稲荷神社社殿
 下からおよそ7,8m程度の高さがあり、階段を登っていくと、稲荷大明神の社殿が祀られている。
 実際には、この社殿の後ろの岩塊部が最高所となる(下の写真参照)
【写真左】社殿後の岩塊
 この小丘はご覧のように岩の塊で、上流部から運ばれてきた堆積物のかたまりではない。





 このため、赤松及び守護代の天神山城の城主・浦上氏らは、福岡城を大改造し、濠を廻らし、その中に町を取り込んだ大城郭にして立て籠もり、松田勢と合戦に及んだ。これがのちに「福岡合戦」と呼ばれた。

 この戦いは、連合した赤松・浦上軍ではあったが、松田氏の攻略によって破れ、さらには赤松・浦上両氏の主従関係も悪化し、分裂してしまった。ところが、この戦いで勝利した松田元成は深追いをし結果自滅してしまった。この結果浦上氏は福岡城を手にし、松田氏に対する前線基地とした。

 その後、大永年間(1521~28)になると、大洪水が頻発し、氾濫した吉井川は流路を変え、福岡城に流れ込み、そのまま川道となったため、廃城となったという。
【写真左】側面から見る。
 南側には遺構らしいいものは見当たらない。自然に崩落劣化した法面となっている。







福岡城の比定地

 さて、福岡城はこうした歴史を持つ城砦だが、『日本城郭体系第13巻』は、この福岡城が南北朝期から室町期にかけての備前国守護所の最有力候補地であるとしている。
 ただ、比定地については件の文献によれば、本稿の場所、すなわち吉井川中洲のこの場所ではないとしている。その理由は小規模すぎて適さず、現在の川土手側の小山(寺山)であろうとしている。
【写真左】北側の段
 北側には小規模な郭らしき段が認められる。










 確かに現在の遺構を見る限り、吉井川の河原に造成されたゴルフ場の一角に小丘として残るのみで、この規模を以て城砦であったというのはかなり無理があるだろう。

 ただ、前述したように吉井川はこれまで度々大規模な洪水を起こし、その都度流路を変えてきている。そしてもう一つの福岡城といわれている西岸の寺山は、北から流れてきた吉井川がこの箇所でぶつかり、少し角度を変えて南進している。現在の吉井川は本稿の福岡城(東方の中洲にある)と、西岸の寺山の間を流れているが、そもそも当時からこの流路であったかどうか、この点から検証する必要がある。
【写真左】空堀?
 福岡城と東側のゴルフ場の境には、ご覧のような濠跡と見られる窪みが回り込んでいる。
 近世のものか、中世のものかはっきりしないが、深さ1m程度のなだらかな形状となっている。


 そこで、推測の域を出ないが、この付近の吉井川の当時の流路は、福岡城の北方で現在の瀬戸町大内・長船町長船にかかる山陽新幹線付近から南下する角度が、もう少し東側に振れ、現在のゴルフ場若しくは、土手下の行幸小学校付近を流れていたのではないかと考えられる(下の想像図参照)。
【写真左】当時の吉井川の流路と福岡城(想像図)
 上段の遠望写真と比較していただきたいが、ご覧のように現在の蛇行した流路の前は、真っ直ぐに流下していたのではないかと思われる。


 そして比定地とされる二つの福岡城は、もともと繋がった城域を形成し、東西に凡そ600m程度伸びる規模のものではなかったか、さらに、その機能は城館と守護所を兼ねたもので、この地において備前国の守護職政務が執り行われていたのではないかと考えられる。

【写真左】北側からゴルフ場を見る。
 福岡城はこの写真の中央やや左にある。
 中世にはこの中洲(ゴルフ場)はおそらく吉井川の川中として流れていたのだろう。



 さらに、その周りには長船を中心とした賑やかな市が開かれ、瀬戸内・畿内など多くの商人が出入りし、守護職の任にあった赤松氏や浦上氏などもこうした吉井川による海上交通を利用しながら、京などへ往来していたのではないだろうか。

 そうした景観を想像させるものとして、他の類例を挙げるならば、福岡城(長船町)と同じく鎌倉期から室町期に至る凡そ300年続いたといわれる広島県福山市の草戸千軒だろう。

2014年3月19日水曜日

上寺山館(岡山県瀬戸内市邑久町北島)

上寺山館(うえてらさん やかた)

●所在地 岡山県瀬戸内市邑久町北島1187
●築城期 不明
●築城者 和田氏一族か
●城主 和田範長
●形態 館跡
●備考 上寺山餘慶寺
●登城日 2014年3月12日

◆解説
 今稿は、前稿熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)でも触れたように、児島高徳が熊山に挙兵する前に在城していたといわれた上寺山の居館跡を紹介したい。
【写真左】上寺山 餘慶寺 全景
 南側から見たもので、当院を含めこのあたりは吉井川東岸にある小丘陵地となっている。




 
 ところで、この上寺山館という名称は、度々参考にしている『日本城郭体系』にも載っていないため管理人が便宜上つけたものである。

現地の説明板より

“児島高徳公 和田範長一族
 供養塔建立の由来

 ここ上寺山を中心とする一帯の地はその昔、和田範長一族の居城や、居館のあった処で、児島高徳が7歳の頃から一族によって育てられ、立派な武士となり22歳の時、後醍醐天皇が隠岐還幸の途中を船坂山で待ち受けて奪い返そうとしたが失敗し、院庄まで後を慕うて行き、桜木に十字の詞を書き留めて帰った処であり、又25歳の年、足利尊氏が叛いて九州から攻め上ってきた時に、熊山に旗挙げをして新田義貞を助けに行ったのも、ここから出陣したのであったが、その時、居館を焼き払ったり、兵火のため居城が焼かれたため、其の後は廃墟となり、今日では今木、大富、射越、原、松崎など太平記にある、諸将の名が地名として残っているのみである。
【写真左】上寺の森案内図
  以前は緑に囲まれた里山としてあったらしいが、松枯れを中心とした荒廃がひどく、平成15年から17年の3か年をかけて整備し、現在に至っている。

 主だった建物なども改修・新築されたようで、探訪しやすい。


 しかし、余慶寺は借(仮)の姿であり、明王院や恵亮院は和田一族の菩提寺として、現存している。
 このような史跡でありながら世人にはあまり知られず、戦後は山麓に土地開発の波がおしよせつつあり、このままにして置くと、いつかは大切な史跡も跡方もなく消え失せるおそれがあるので、私達は、ここにこの供養塔を建ててこの史跡を保存し、これら南朝の大忠臣を顕彰せんとするのであります。

   昭和49甲寅年6月20日
     和田範長公第637回忌の日
       上寺山児島高徳公史跡保存会”
【写真左】児島高徳公、和田範長一族 供養塔・その1
 当院入口付近に建立されている。






 
児島高徳と和田範長

 以前にも述べたように児島高徳の出自については諸説があり、はっきりしない点が多い。今のところ下段に示すように、これについては三説挙げられている。
  1. 後鳥羽上皇後裔説
  2. 宇多天皇後裔説(佐々木盛綱を祖とする)
  3. 天之日矛後裔説
 そして、高徳自身が実在した人物なのか、という疑念まででているため、学術的な歴史文献史料としては彼の名前さえ出ていない。
 その理由は、彼自身の名が、現実に活躍した記録として余り残っていないことからきていると思われる。
【写真左】児島高徳公、和田範長一族 供養塔・その2
 後ろから見たもの。








 さて、和田範長についてだが、これも伝承で語り継がれてきた武将のイメージが強く、一説では高徳の父ともいわれ、別名児島高徳ともいわれている。

 そして、この児島(和田)範長・高徳父子は、南北朝期南朝方に属し、尊氏に属していた播磨の赤松則村(円心)の動きを阻止すべく、建武3年(1336)この上寺山から熊山に向かい、挙兵したといわれる。そしてその年の5月、赤松軍との戦いで討死したとされている。
【写真左】餘慶寺境内付近
 近年整備されたこともあって、和田範長時代の居館(居城)を彷彿とさせるような遺構は殆ど確認できないが、奥行は200m近くもあり、またこの位置からは眼下に吉井川を中心とした街並みが広がる。


 
児島高徳実在否定説
 
 歴史学という学術上の観点からみれば、古文書や具体的に史料に残る人物の名があれば、当然実在した者として確認できる。しかし、高徳や範長などのように『太平記』といったどちらかといえば文学作品の世界で登場するものの、それ以外の歴史資料には、ほとんど掲載されていないとなると、確かに史学的には扱い難いだろう。

 しかし、彼が活躍した場所として、西国から東国にかけて、少なくない史跡があることを考慮すれば、強ち実在を端(はな)から否定することはできないと思われるが、いかがだろう。
【写真左】鐘楼と梵鐘
 鐘楼は嘉永3年に再建されたものだが、様式は桃山末期から江戸初期のもの。

 中に釣られている梵鐘は、県の指定重要文化財とされている。


“梵鐘
   昭和31年11月1日指定

 「上寺の晩鐘」として親しまれている餘慶寺の梵鐘である。青銅鋳造製で総高94.8cm、口径58.5~59.0cm、竜頭は高さ11.0cmで極端に簡略化されている。

 銘文によれば、戦国時代の元亀2年(1571)に、明人(当時の中国人)が、豊後国大分郡府中(現大分県大分市)の惣道場に寄進したものである。惣道場は、近年の研究で浄土真宗など一向宗門徒が集まる施設であったと考えられている。
 池(ち)の間の下にひと区画もうけるという特徴から、豊後高田を拠点とした高田鋳物師(いもじ)の作である可能性が高いとされる。

 餘慶寺に入った詳しい経緯は不明だが、九州に遠征した宇喜多秀家軍が戦利品として持ち帰り、寄進したものと伝えられる。
    瀬戸内市教育委員会”
【写真左】餘慶寺本堂
 観音堂とも呼ばれ、国指定重要文化財となっている。
 棟札によれば、永禄13年(1570)に建立、正徳4年(1714)に再建されている。
 


【写真左】三重塔
 旧塔跡の本道北側にあって、岡山県指定重要文化財。
 文化12年(1815)に再建されたもの。
 方三間(一辺3.84m)、本瓦葺、総高20.6m、初重一辺3.4mと小ぶりなものだが、均整のとれた優美な姿である。

 棟札に宿毛村の工匠田渕市左衛門繁敷・宇三郎勝孝の名が記載されている。
【写真左】薬師堂
 古くは山のふもとにあったというお堂で、享保19年(1734)の再建棟札が残る。
 御堂の裏側にある収蔵庫には、薬師如来像(国重文)、聖観音像(国重文)、十一面観音像(県重文)などがある。
【写真左】豊原北島神社・その1
 正面向かって右側に建立されているもので、縁起は次の通り。









“豊原北島神社由緒
  御祭神 豊原北島神 応神天皇 神成皇后
  比咩大神

 当社は飛鳥時代舒明天皇6年12月、山上の磐座に奉祀したのに創る。延喜式外の古社旧郷社で、古来当国屈指の名社として崇敬され、平安時代は近衛院殿の祈願社、豊原荘の鎮守として栄え、源平時代佐々木盛綱は、藤戸合戦奉賽に大鎧等を奉納、南北朝時代は児島高徳の一族和田射越氏等が氏子から興った。
【写真左】豊原北島神社・その2




 江戸時代は池田候により中世以来習合の社寺は、分離されて旧に復し、社領寄進社殿造営が行われた。”



遺構の現状

 ご覧の通り大々的に近年整備されたこともあって、和田範長・児島高徳時代の居城もしくは居館跡らしき遺構はまったく分からないが、一族がこの地を本拠とするには十分な環境であったと思われる。