2011年4月8日金曜日

金川城(岡山県岡山市北区御津金川)

金川城(かながわじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区御津金川
●築城期 承久年間(1219~22)頃
●築城者 松田十郎盛朝
●城主 松田氏・浮田氏など
●形態 複合連郭式山城
●標高/比高 225m/185m
●遺構 土塁・石垣・堀切・井戸・枡形等
●別名 玉松城
●登城日 2010年2月23日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 金川城は、前稿「富田松山城」の「福岡合戦」のくだりで少し紹介したが、松田氏が居城とした山城で、別名玉松城ともいう。
 臥龍山という山に築かれ、当城もその規模において、備前国でも壮大な山城として屈指のものである。
【写真左】金川城遠望
 南麓の七曲神社からみたもの。
 なお、七曲神社は代々松田氏が氏神として崇拝した社という。

 なお、登城したこの日は前稿「富田松山城」を終えたあとだったこともあり、この段階ですでに夕方の5時頃だった。このため、撮影した写真は全体にピンボケ気味になっている。



 ところで、岡山県には以前紹介した「天神山城」などを含め、極めて規模の大きい山城が多い。
 これは、旧国名である備前・備中・美作の3国全体に言えることである。

 中世山城を築城する際、城主がどういう計画のもとに、地どりや縄張りを決定していったのか興味のあるところであるが、結果として自らの支配体制の強化と併せ、大規模な城砦普請が行われていったわけである。

 特に戦国期に至っては、西・北方の尼子・毛利が度々攻めよせ、東方からは信長・秀吉の西国侵攻があり、地元国人領主にとって自己防衛上、拠って立つ居城の整備は最大の課題であったと思われる。
【写真左】金川城案内図
 当日は七曲神社境内の駐車場に車を置き、西側の治部ヶ谷というところから登り、時計周りにたどった。













 金川城については、先ず現地の二つの説明板より転載しておく。

史跡 金川城(玉松城)跡

 この城の築城は諸説があって、定かでないが、松田氏系図第8代元成が松田氏本城としたのは確かのようである。
  • 永正6年(1509)  玉松城と命名(三条西実隆)
  • 永禄11年(1568) 宇喜多直家により落城、宇喜多春家在城
  • 慶長8年(1603)  日置忠俊修築
 廃城も不明であるが、元和の一国一城令まであったかもしれない。現状は最終的遺構である。”

 もうひとつの説明板は、本丸付近に設置されたもので、昭和44年に設置されている。
【写真左】登城口付近
 上の図でいえば「治部ヶ谷」といわれた個所だが、しょっぱなから大木の倒木があり、少し不安になる。





“玉松城碑

 臥龍山にはじめて砦が築かれた年は明らかでない。戦国時代のはじめ、1480(文明12)年頃、松田左近将監元成が、本拠を金川に移して以来、5代90年にわたって西備前随一の山城として栄えた。

 1509(永正6)年、城主元勝は三条西実隆より、玉松・麗水の二書を贈られ、以後玉松城と命名した。1566(永禄11)年7月5日、宇喜多直家に攻められ、城主元輝嫡子元賢共に壮烈な戦死を遂げ、7日早暁ついに落城した。

 その後、1603(慶長8)年、徳川幕府の一国一城令によって、廃城となった。
 落城ここに400年の星霜を経る。
  昭和44年4月 坂津謙六撰文”
【写真左】道林寺丸
 西側に伸びた郭群で、5,6段の中小規模の郭からなり、長さは約150m程度か。

 なお、史料によってはこの郭群を外城としているものもある。
 というのも、この郭群と本丸までの距離がかなりあるためである。

 また名称からいえるように、この先端部の郭には道林寺という寺もあったようで、金川城が築城された際、寺院を取り壊し城砦(郭)となったのだろう。


 備前・松田氏と出雲・松田氏

 築城期及び築城者については、明確な史料がないものの、江戸中期の史料「東備郡村誌」によれば、相模国の松田十郎盛朝が承久の乱の戦功によってこの地を与えられ、承久年間にこの城を築いたとある。

 実は、この松田十郎盛朝なる人物は、100年後の南北朝期に記された「太平記」及び「備前一宮文書」などで登場する松田十郎盛朝と同姓同名である。
 このことから、江戸期に書かれた「東備郡村誌」に錯誤が有るとする説もあるが、当時武者の時代には、一族の先祖で武勲の誉れ高い人物の名をそのまま命名することもあったため、強ち錯誤とはいえないだろう。
【写真左】北の丸と本丸の分岐点
 道林寺丸から登って行くと、この分岐点に差し掛かる。この日はすでに夕方でもあったため、北の丸は省略し、このまま右の本丸へ向かった。

 なお、北の丸は「三の丸」とされ、近くにはかなり大きな堀切があるという。
 西麓からの攻めを意識しているようで、手前には出郭が3,4段設置されているようだ。



 ところで、この承久の乱における戦功により西国に移住した松田氏一族が、当地備前のほかに出雲国安来庄にも地頭職として任ぜられたことは、「十神山城」(2010年2月13日投稿)でも紹介した。

 出雲国にやってきたのは、松田九郎有忠である。備前・金川城は承久年間に築城されたとあるから、おそらく後鳥羽上皇が隠岐に配流されたその年、すなわち承久3年(1221)の9月以降だろう。出雲国における松田氏は、その翌年の貞応元年(1222)の7月8日である(小野家文書)。
 このことから、備前の松田十郎盛朝と、出雲の松田九郎有忠の名から考えて、二人は兄弟(兄:有忠、弟:盛朝)であった可能性が高い。
【写真左】本丸跡その1
 本丸は長径80m×短径40mの規模。
北側から東側にかけての端部は土塁が残る。





 さて、時代が下った南北朝期の松田氏の動きについては諸説あり、このことは上述した備前松田氏の祖(九郎有忠)自身の初期の本拠地についても言及されてくる。どの説が事実かはこの稿で明らかにする知見もないが、2,3の記録史料として挙げておきたい。

  1.  松田氏は、南北朝期に南朝方に与し、恩賞として備前国御野郡伊福郷(現:岡山市街地西部)を授かったという。このことから「日本城郭大系 第13巻」では、この当時、備前国の西部において、北と南に松田氏の二家が併存していた可能性が高い、としている。これを各々本拠とした地名をとって、「金川松田氏」及び「伊福郷松田氏」としている。
  2. もう一つは、「松田氏系図」という史料によると、相模国の松田元国が南朝方につき、その恩賞として備前国御野郡伊福郷を賜り、この地方に移住して富山城(※)を築いたとしている。
※富山城

  岡山市北区矢板東町にある標高135m(比高115m)の山城で、沿革では仁和元年(885)に富山重興が築城し、応仁元年(1467)富山長頼が、松田元隆の攻撃を受けて自刃し落城。
 文明15年(1483)、松田元隆の子・元成が居城を金川城へ移したとされている。

 従って、上記2.の特に築城者が符合しない。なお、この富山城については、サイト「城格放浪記」さんがすでに登城しているので、御覧頂きたい。
【写真左】金川城の平面略図
 前記した案内図と似ているが、それぞれの遺構の大きさや配置がよくわかる。

 本丸から南東に伸びる部分が最も規模の大きなところで、南東端部の二の丸まで連続し、総延長約300mもある。



 さて、室町期における松田氏及び金川城の動きは複数の史料があり、相互の整合性が合わない点が多いため、本稿では割愛させていただき、戦国期の動きについて記しておきたい。


金川城落城と松田氏の最期

 天文年間(1532~55)頃になると、今月紹介した「天神山城」(2011年4月2日投稿)城主・浦上宗景が次第に当地にも手を伸ばし始め、松田氏の勢いに陰りが見え始める。

 そして、永禄年間(1558~70)になると、今度は同稿でも述べたように、浦上氏の元家臣であった宇喜多直家が当城を攻めた。

 当時、金川城主は松田元輝で、その嫡男・元賢は宇喜多直家の娘を妻にしていた。金川城が落城したのは、最初の説明板にもあるように、永禄11年(1568)である。舅が娘婿とその父を攻めたわけである。

 金川城における攻防は2日間に及び、元輝・元賢父子は討死、備前松田氏は、ここに13代・235年の幕を閉じた。
【写真左】本丸跡その2
 本丸南東部の二の丸をつなぐ大手郭付近からみたもの。
 写真奥に、松田氏一族を祀る五輪塔や石碑が建立されている。




その後の金川城

 金川城を攻略した宇喜多直家は、舎弟の浮田(宇喜多)春家を城主とし、北の押さえとした。しかし、関ヶ原の合戦で滅び、小早川秀秋が備前国領主となったが、彼が当城に在城したかどうかは不明である。

 その後、池田忠雄が岡山城主となり、金川の地は家老・日置(へき)忠俊が知行することとなった。そして慶長8年(1603)、忠俊が当城の修築を行ったといわれている。
 しかし、当時の幕府の政策から考えて、城の修築は容易に許可が下りなかったことや、日置氏の石高は、17,000石であったことなどを考慮すると、少なくとも城の修築ではなく、金川城下に陣屋を設置した程度ではなかったかと思われる。
【写真左】天守の井戸
 本丸の北を少し斜めに下がって行くと、大規模な井戸が残っている。「天守の井戸」といわれているもので、直径は4,5m程度あると思われる。

 金川城にはこのほか2カ所の井戸が確認されている。そのうち二の丸にある井戸は「杉の木井戸」と呼ばれ、天守井戸のと反対の峰、すなわち南側に設置されている。


日置氏

 ところで、この日置忠俊は、池田家家老日置忠勝の子で、その父真斎もまた池田家家老として戦国期より同氏につかえている。

 それ以前の日置氏の出自については、手持ちに史料がないためなんとも言えないが、前述した「出雲・松田氏」の中で、松田九郎有忠の息子は、日御碕神社検校・日置氏と関係を持ち(養子に入ったと思われる)、日置小次郎有基と名乗り、宝治元年(1247)、時の将軍・藤原(九条)頼嗣から、地元大野庄の地に補任されている。

 なお、日御碕検校は代々小野氏を称しているが、一時期日置氏を名乗っており、この小次郎有基のことと思われる。
【写真左】二の丸
 当城の南端部にあり、先端部から城下の金川の町や旭川などが望める。







 鎌倉期の出雲・松田氏と備前松田氏を直接つなぐ具体的史料はないものの、350年も経った慶長年間に、備前に入封した池田氏が、日置氏という松田氏とは縁浅からぬ姓を持った者を当地に置いたことは、なんとも奇遇である。

 なお、七曲神社の境内に、玉松城(金川城)命名500年を記念した碑が建っている。平成21年(2009)の年が、命名して500年に当たるということだろう。参考までに碑文を転記しておく。
【写真左】南麓中段を走る道
 二の丸を降りると小規模な出丸があり、そこからつづら道(千島坂)を下がって行くと、写真に見える道に繋がる。

 そのまま下ると、国道53号線にでるが、ぐるっと西に周回する道があり、最初の七曲神社に到達する。
 いつ頃造られた道か分からないが、大分古そうだ。


玉松城命名五百年記念

實隆公記 永正6年(1509)閏8月27日の条
 泰首座今日下向備中云々 松田城名事先日所望之間麗水 玉松 二書遣之了

 三條西家は公家の中でも大臣になる家柄で、實隆は正二位内大臣にも昇進し、古典学者・歌人として当時の京を代表する文化人であった。特に、応仁の乱頃から戦国時代へかけて、63年間の日記「實隆公記」107巻13冊は、下剋上の風潮と陰謀渦巻く世相を伝え、この時代の根本史料と評価されている。
【写真左】七曲神社



 備前松田氏中興の主といわれた第8代金川城主・元成のあとを継いだ元勝は、西備前の武備と経営は、大村・宇垣・楢村・横井氏等の扶翼により、人心の安定には、日蓮宗の広宣につとめ、左近将監に任じられ、上洛しては、京の人士との交遊を年々深め、その縁浅からず奥方は、三條右大臣實光公女と松田家系譜には記されている。

麗水 玉松 択一ならばと松田の松 臥龍山の松に通じる 玉松 が選ばれたが、乱世の玉の如く輝く松田氏、それは願望でもあり、祈りでもあったであろう。

 「實隆公記」のこの一文、簡にして短なりと言えども松田氏の歴史、金川の歴史に永く、千釣の重みをもたらし続けるであろうことを祈念し、備前松田氏の氏神として、往古相模の国より勧請され、代々崇敬を受けてきた七曲神社の境内にこの碑を建立する。

 平成21年(2009)4月吉日
   玉松会”

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