2011年12月23日金曜日

赤屋城山城(島根県安来市伯太町赤屋)

赤屋城山城(あかやしろやまじょう)

●所在地 島根県安来市伯太町赤屋
●築城期 不明
●築城者 不明
●高さ 標高221m
●備考 用土の城山城
●遺構 郭・帯郭等
●登城日 2010年9月29日

◆解説
 前稿「赤崎山城」の東麓を流れる伯太川をさかのぼり、県道9号線(安来伯太日南線)にそっていくと、伯太町の赤屋という地区につながる。
【写真左】赤屋観光案内図
 この図では上が伯耆(鳥取県)側で、下が安来方面(北)になるが、赤屋山城は図中の中央やや左側に記されている。


 高尾山はその右側に記されている。また、伯太川支流の小竹川には「尼子橋」という橋も記されている。

赤屋城山城は、この伯太川と小竹川が分岐した位置に築かれ、小竹川沿いに築かれた山城である。なお、伯太川をそのまま登っていくと、西側には尼子十砦の一つとされた高尾城(島根県安来市伯太町下十年畑)がある。
【写真左】登城口付近
 下に見える道路は、県道9号線で、その脇から登城口の案内が出ている。







現地の説明板より
“ふるさと憩の場
赤屋城山公園のご案内


伯太町赤屋地区の扇の要の位置にあたるここ城山は、伯太川の上流・草野川と小竹川の合流点にあり、大字赤屋と下十年畑にまたがる面積6ヘクタール、標高220mの独立山である。
城山は、遠く尼子時代には「尼子十砦」の一つ下十年幡の高尾城見張所として、防衛上の重要な地点であったという。山頂には「馬乗り馬場」といわれる馬場道も残っている。


近年赤屋地区においても、過疎化現象が進む中で、ふるさとを守り、ふるさと赤屋を愛し、地区の活性化を見出そうと周知を結集して、ここ城山の公園化を企画したのである。
以来、赤屋地区の多数の皆様の温かいご協力と、多くの方々のボランティア活動によって、諸施設が次々と整い、地区民手造りのユニークな公園が出来つつある。


ここ登山口より350m登ると、山頂に達する。東に赤屋の家並み、見土路、部張、そして遠く秀峰大山を仰ぐ景観が広がる。眼を転じて西方を望めば、下十年畑の田園風景が眼下に、上十年畑、草野の山々、さらに中国山地の峰々が紫雲にかすんでひときわ美しい。
【写真左】登城道
登城道はご覧の通り公園として整備されたことから歩きやすくなっている。


 最初に南側にある頂に向かって登り坂となり、その後いったん鞍部を介し、北側の主郭部に向かって再び登るコースとなっている。


この由緒ある城山の山頂に立ち、遠く戦国の世を偲び、そしてまた大山の霊峰を拝して夢をふくらませ、共に語り合うひと時は、誠に意義深い憩いのひと時になるであろう。


城山の花のさかりに登り来て
仰見渡せば昔偲ばゆ    妹尾豊三郎 作


要害の山は昔をもらさねど
人かわりてぞ語りつぎける   稲田元治 作


昭和61年7月 建立   赤尾城山公園促進協議会”
【写真左】主郭へ向かう坂
 このあたりから公園として改変されているようで、遺構の明示もないため判断が難しいが、主郭を中心に周囲に帯郭が巻き付いたものだったと考えられる。




 説明板にもあるように、尼子十砦の一つとされる「高尾山城」の見張所の役目を負った城砦でもあるが、同じような役目をしていたと思われる支城としては、この他に高尾山城の南西方向に「岩伏山城」及び「小屋ノ峰城」(いずれも上・下十年畑)があり、小竹川上流部には「比婆山城」(峠之内)も配置されている。
【写真左】主郭
 およそ20m四方の平坦地となっており、ベンチなどが設置されている。






 ただ、これら3城の位置は、隣国伯耆国との境でもあり、いわゆる「境目の城」としての城砦だったものと思われる。

また、この地域は南方の伯耆国と同じように、中世から多くの鉄の生産が行われていたところで、4,50か所の鈩跡がある。

築城者・城主

 残念ながら、当城に関する史料は持ち合わせていないため、築城期や築城者など詳細は不明である。

 ただ、永禄9年(1566)11月、尼子の居城・月山冨田城が落城し、尼子義久・秀久・倫久らが毛利元就に捕らわれ、杵築の港から護送される際、最後の別れをした鹿助をはじめとする69名の面々の中に、「高尾縫殿助」及び「高尾左馬允」という部将の名が記録されているので、両名はおそらく「高尾山城」や本稿の「赤屋城」の城主ではなかったかと考えられる。
【写真左】主郭から西方を見る。
 記憶に間違いがなければ、この中央右にみえる山並みの中に、根拠城である高尾山城が入っていると思われる。
【写真左】主郭から東方を見る。
 視界がいいと、鳥取伯耆の大山(だいせん)がこの方向に見えると思われるが、この日は残念ながら霞んでいた。

2011年12月22日木曜日

赤崎山城(島根県安来市赤崎町城山)

赤崎山城(あかさきやまじょう)

●所在地 島根県安来市赤崎町城山
●高さ 87m
●遺構 郭・堀切
●築城期 不明
●城主 原民部少輔
●備考 尼子十砦の一つ
●登城日 2011年12月2日

◆解説(参考文献:『尼子とその城下町』編著者 妹尾豊三郎、サイト『城郭放浪記』等)
 出雲から鳥取・岡山方面の山城を探訪する際、山陰自動車道をよく利用するが、車で走っていると安来ICに差し掛かるころ、右手(南側)にいつもこの山が見えていた。
【写真左】赤崎山城の頂上部
 展望台が設置されている。北~西~南方面の眺望が確保されている。







 標高90m弱という低い丘陵上の頂上部が最近伐採され、展望台のようなものが見え出していたため、気にはなっていたが、まさかこの山が山城とは思っていなかった。というのも、あまりにも低く、なだらかな山(丘といったほうがいいかもしれない)であったからである。

 所在地は安来市の飯梨川と伯太川に挟まれた場所で、尼子十砦のひとつとされた山城である。

 尼子十砦とは、尼子氏の本拠城・月山冨田城を防備するために、冨田城を中心に半径約10キロ圏内に配置された支城である。
【写真左】登城口付近の案内図
 登城ルートは2か所あり、今回は東側の山辺大堤側から向かった。


 駐車はこの脇を走る道路の一角に少し三角形のスペースがあるので、1台分は何とか確保できる(下の写真参照)。
【写真左】登城口付近
 ご覧のように階段が設置され、この日登ったときには、登城道周辺も綺麗に除草され歩きやすくなっていた。
 
 登り始めて5分程度過ぎたころ、下山してくる初老の男性の方とすれ違ったが、近所の散歩程度の軽装で降りてこられ驚いたが、逆に向こうはこちらの服装(登山靴にリュックなど)に驚いていたようだ。


尼子十砦(あまごじっさい)

名称           城主名等             所在地
  1. 十神山城      松尾遠江守           安来町十神 
  2. 神庭横山城    川井信濃守            安来町神庭
  3. 三笠山城      西村治右衛門          広瀬町広瀬
  4. 赤崎山城      原民部少輔           赤崎町城山    
  5. 亀遊山城      和田源太左衛門        伯太町東母里
  6. 高尾城      足立右馬允           伯太町下十年畑
  7. 飯生高守山城   中井平三兵衛         伯太町井尻字大日
  8. 蓮華峯寺山城   福山肥後守・土居大隅守   広瀬町菅原
  9. 安田要害山城   福山綱信・源五郎父子    伯太町安田関字要害山

  10. 勝山城       田中三良左衛門         広瀬町石原
なお、これら10か所の山城(尼子十砦)については、すでに『城郭放浪記』氏がすべて登城・報告されているので、ご覧いただきたい。
【写真左】途中に見えた産業廃棄物処理場
 尾根伝いに進んでいくと、途中で鉄塔が設置され、その南麓には処理場が見える。






 赤崎山城は、中海に突き出した海城・十神山城と、尼子氏本拠城・月山冨田城を結ぶライン上に位置し、両城の連絡を担い、さらには近接の神庭横山城と呼応して、赤崎周辺を守備していたという。
【写真左】郭の一部
 このコースは多少の起伏はあるものの、全体に歩きやすい。

 途中で尾根幅の広くなったところや、土橋のような狭くなった箇所もあり、別の尾根との合流点には、郭のような削平地も認められる。





 ところで、赤崎山城は単独の丘陵地に築かれた山城で、前述したように標高が90mにも満たない低い山城である。

 当城の東側には伯太川が流れ、西側には吉田川が当城をぐるっと回り込む形で流れている。このことから、この赤崎山城も十神山城と同じく、戦国期までは中海に浮かぶ孤島ではなかったかと考えられる。

 そのため、標高は低くとも周囲が海に囲まれていたことら、天然の堀としての役目があり、北方の十神山城との連絡は、ほとんど船によってなされていたと考えられる。
【写真左】主郭手前の壇
 このあたりで、北側の加茂神社コースと合流するが、周囲には不定形な腰郭が確認できる。
【写真左】加茂神社側コースから主郭方面を見る。
 左側(大堤)が登ってきたコースで、手前が加茂神社側からのコースとなる。
【写真左】主郭
 展望台付近の郭は、10m四方の規模で、その北側には1m程度の段差を持たせた奥行10m程度の郭が伸びる。


なお、主郭から南には堀切のような段差が認められ、さらに南方に向かうと、尾根伝いに小郭が確認できる。ただ、その先はほとんど整備されていないようで、踏査しなかった。
【写真左】十神山城遠望
 写真右隅の山は、北方の中海に突き出す十神山城。
 中央横に走る道路は、山陰自動車道で、右側には安来ICが控える。おそらく、このあたりも当時は中海の一部だったのだろう。


十神山城の奥にみえるのは、中海に浮かぶ大根島で、さらに奥の左にみえるのは美保関方面。
【写真左】忠山城
 十神山からさらに西に目を向けると、島根半島にそそり立つ忠山城がみえる。


尼子再興をめざし、永禄12年(1569)6月23日、山中鹿助・尼子勝久らが隠岐から渡海し、この山に拠った。


忠山城については、いずれ取り上げたいと思う。
【写真左】車山城と京羅木山城
 手前中央の山が車山城、奥の左側が京羅木山城。
 集落中央を左から右に流れるのが飯梨川で、この川を上ると尼子氏の居城・月山冨田城につながる。

2011年12月20日火曜日

伝・佐々木伊予守古墓(島根県松江市玉湯町大谷)

伝・佐々木伊予守古墓(でん・ささきいよのかみこぼ)


●所在地 島根県松江市玉湯町玉造新弥堂●遺構 宝篋印塔
●遺物 土師器・陶磁器
●探訪日 2011年12月16日


◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
 玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)で触れた、湯氏の一人・出雲国守護代佐々木伊予守秀貞の墓である。
【写真左】佐々木伊予守古墓(四坊跡)全景
 玉造温泉街の南方にあって、この位置から東に玉造要害山城を望む位置にあたる。


写真の階段を上がるとすぐ右側の樹木の裏に建立されている。
 なお、階段の左側の道を進むと、頼清寺方面につながる。



現地の説明板より

“伝 佐々木伊予守古墓
 この宝篋印塔は、佐々木伊予守秀貞の墓と伝えられる。
 秀貞は、南北朝時代の有力武士で、出雲国守護代を務めるなど、出雲における佐々木一門の中心として活躍した。


 秀貞と当地のかかわりは、14世紀中ごろ、湯庄地頭になったことに始まる。
寛政3年(1791)、松浦清蔵が塔側に建てた碑文によると、秀貞は玉造に四坊を建立し、玉造要害山城に居城したという。


 この墓所に接する新弥堂もその四坊の一つで、上大門、下大門の2門があったという。今も屋号や地名になごりをとどめている。
昭和56年3月
 玉湯町教育委員会”
【写真左】佐々木伊予守古墓
  宝篋印塔の形式としているが、上部が相輪となっていないので、後につけられたものだろう。
高さは約1.5m弱程度か。





 所在地は、玉造要害山城の近くで、玉湯川を挟んだ西岸にある旅館「山の井」からさらに100mほど向かった丘にある。

参考までに、上掲した寛政3年の松浦清蔵の碑文も転載しておく。

“伝 佐々木伊予守墓側の碑文


佐々木伊予守の墓と伝えられる宝篋印塔の前に、来待石製の円柱があり、かつては次のように記された碑文が判読できた。


〝客、温泉之西に佐々木某公之墓有りと聞き、往きて之を求むれば果たして古塚の異形なるを見る。乃ち香を焚き苔を剥げば、延慶3年2月22日の十字を模(さぐ)り得たり。回暦(こよみ)により之を推すに、今を距(さ)る482年、正に鎌倉将軍惟康親王之時に當れり、里人云ふ、是れ故(もと)の忌部郷主・伊予候佐々木公之墓也。
【写真左】円柱
 この石柱に松浦清蔵が記していたというから、相当小さな文字で刻まれていたと考えられる。








 相傳ふ公豫(かね)て葬地を卜(ぼく)して伽藍を造り、名づけて新弥堂と曰ふ。堂は二門あり、其の右は上大門と為す。公之由る所なり。其の左は下大門と為す。衆庶共に由る。


塚の東南は両山相連なる。公之所城也。其の頂広く平にして、中は城を為す。其の南較(やや)高きは高支城と号す。


且つ公之営む所の仏刹四つ有り。曰く東坊、曰く興勝寺。曰く烏坊。皆東北に在り。而して新弥堂は、特に玉造川の西に在り。乳母谷有り。城の東北に在り。是れ公の乳母に賜る所の地也。東の突然城に対する者は花仙山也。城の鬼門なる為、薬王堂を構ふ。


今移して温泉の上に在る者是れ也。土人之れに祈り、数(しばしば)霊験有り。又城の西に故祠有り。是れ湯山主命なり。公世々之を尊信して嘗て献ずる所の陣鼓今尚存す。客慨然として望み、躊躇して入ること之を久くす。因りて一片の石を建てて、里人の説く所を識(しる)す。


寛政3年亥秋9月
 願主 松浦 清蔵″
【写真左】新弥堂
 古墓の左隣に建てられている。
もちろん当時のものではなく、近代に改修されたものである。
【写真左】古墓の残骸?
 新弥堂からさらに上の方へ向かうと、数基の墓石があるが、これらは現代のものである。ただ、写真にみえるように、脇には五輪塔もしくは宝篋印塔の残骸のようなものが積み上げられていた。
【写真左】もう一つの宝篋印塔
 佐々木伊予守古墓から北の壇にあったもので、規模はやや小ぶりながら、他の仏像と並んで鎮座している。
【写真左】佐々木伊予守古墓から玉造要害山城を見る。
 手前右側の玉造ふれあい公園の斜面があるため、全景は見えないが、主郭の一部がかろうじて見える。
【写真左】高支城遠望
 玉造要害山城の南方300mほどのところにある山城で、玉造要害山城の支城といわれている。


なお、この俯瞰位置は先述した「玉造ふれあい公園」という所だが、この場所も当初玉湯川を挟んだ支城ではなかったと思われるが、公園造成によって大幅に改変されているため、まったく不明である。

2011年12月19日月曜日

頼清寺(島根県松江市玉湯町林村本郷)

頼清寺(らいせいじ)

●所在地 島根県松江市玉湯町林村本郷
●創建期 建治元年(1275)
●創建者 湯氏一族
●探訪日 2011年12月16日

◆解説(参考文献「日本城郭体系第14巻」等)
 前稿「玉造要害山城」で少し触れたが、建治元年(1275)佐々木頼清、すなわち湯氏の始祖である佐々木七郎左衛門の子孫が、頼清の菩提を弔うために建立したといわれている寺院である。
【写真左】頼清寺













 前稿でも述べたように、建立した当時、父である泰清はまだ存命中で、出雲塩冶において出雲守護職として活躍している。

 当院の所在地は、頼清が治めていた拝志・湯の二つの郷のほぼ中心地で、この場所に建立した理由を考えると、当時彼はこの林村・本郷を本拠地としていた可能性もある。

 ちなみに、添付写真にもあるように、当院から東方の位置には「林城山城(旧)城山古城跡」という山城があり、当城とも関係があったのかもしれない。

 記録では城主は大野次郎左衛門が居城した、とあるが、おそらくこれは室町初期のころの城主と思われる。
【写真左】宝篋印塔か
 境内の東側に祀られているもので、部位が散逸しているため、形式は分からないが、宝篋印塔だったと思われる。





 ところで、創建された建治元年前後の動きを見てみると、この前年(文永11年:1274)には、元軍が筑前に上陸したものの、台風のため艦船は漂没している(文永の役)。

以後、幕府は鎮西・九州の防備に奔走することになる。

 そうした中、出雲国では杵築大社の造営が最も大きな事業であったらしく、近郷の領主に造営のために様々な注文を行っている。
【写真左】境内北に建立されている石碑
 境内の東側から奥に向かうと、ごらんのような石碑がある。
【写真左】五輪塔
 上記の石碑の脇には社のような建物と、奥に五輪塔一基が鎮座している。


 「平成15年度―富士名判官の真実―資料」という史料によれば、この頼清寺境内に、頼清一族の五輪塔や宝篋印塔が残されている、と記されているので、おそらくこのことだろう。
【写真左】頼清寺裏古墳群・その1
 さきほどの場所からさらに北の丘を目指すと、ご覧の古墳群が見えてくる。
【写真左】その2
 踏査できる範囲は30m四方だが、古墳群全体の区域はこれよりまだ広いと思われる。
 奥にはご覧の祠が祀られている。要所に地蔵菩薩などが配置されているが、おそらく江戸期のものだろう。


 島根県遺跡データベースでは、具体的な遺構・遺物は記録されていないが、古墳であることは間違いないようだ。
【写真左】頼清寺から「林城山城」を遠望する。
 前稿でも触れたように、当院から東方300mの地点に、三つの峰を持つ林城山城が見える。


 おそらく、三つの峰全体が城域となっているのだろう。郭・土塁・堀切の遺構があるとされているが、管理人は登城していない。

2011年12月18日日曜日

玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)

玉造要害山城(たまつくりようがいさんじょう)

●所在地 島根県松江市玉湯町玉造宮の上
●別名 湯ノ城跡、玉造城跡、湯ヶ城跡
●築城期 南北朝時代
●築城者 湯伊予守秀貞
●高さ 108m(比高80m)
●遺構 郭・土塁・空堀・井戸・石垣・竪堀・虎口・櫓台等
●登城日 2011年2月22日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 所在地である出雲国の玉造は、昔から温泉と青メノウの産地として知られた場所である。近くには、古代玉つくり集団の住居跡があったといわれる国指定の集落跡(約3万㎡)も公園として整備されている。
【写真左】玉造要害山城遠望
 玉湯川を挟んで西方にある玉造ふれあい公園から見たもの。







現地の説明板より

玉造要害山城(玉湯町玉造)
 中世の山城、湯ノ城ともいう。標高108mの半独立丘陵で、山頂及び山腹に削平地が数段にわたって残り、土塁・空堀・井戸跡なども見られる。
 小規模だが保存は良好である。


 この城は、元弘2年(1332)ごろ、湯庄留守職諏訪部扶重が最初に築いたといわれ、同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞がさらに改修・増築したとされている。


 その後は、湯庄支配の本拠地として、湯氏代々が居城したと思われるが、詳細は不明である。
天文11年(1542)には、湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。
昭和57年1月 玉湯町教育委員会”
【写真左】配置図
 現地に設置されたもので、西側の玉作神社側から入って、南南東に林道が続き、途中から東に向かって登城道が続く。


 最初に「三ノ平」があり、そのまま東に「四ノ平」が続き、南方に向かうと土塁を介して、「二ノ平」が東西に延び、さらに上に向かうと「一の平」があり、南側には土塁状の「詰ノ平」などが配置されている。


鎌倉期の出雲国守護

 源頼朝が平氏を滅ぼし、文治元年(1185)の11月29日、義経追討を名目とした「守護・地頭」を全国に設置したことは周知の通りだが、この年、出雲・隠岐国ではその守護として佐々木義清が補任された。ただ、史料によっては安達親長が建久年間(1190~99)にその任にあったとするものもある。

 義清には長男・政義、二男・泰清の二人の男子がいた。本来ならば長男・政義が跡を継ぐべきだったが、彼は天福元年(1233)の守護職としての記録を最後に、無断で出家したため、代わって弟の泰清が引き継ぐことになる。
【写真左】三ノ平付近
 最初に出てくるのが「三ノ平」といわれる郭で、周囲には土塁の遺構が残る。







 守護職(守)の任にあった泰清の記録が最後に見えるのは、建治2年(1276)で、この年の9月5日、僧慈蓮(じれん)に、美多荘大山社禰宜職を安堵する(『笠置文書)、というのがあり、その2年後の弘安元年(1278)に死去している。

 そして、弘安6年(1283)になると、守護・佐々木頼泰(泰清の三男)が、故・泰清の遺志により、鰐淵寺三重塔造営のため30貫文と銀塔一基を布施している(『鰐淵寺文書』)。このことから、泰清の出雲国守護職の在任期間は、兄政義から引き継いだ時期を始点とすると、約45年という長いものとなる。
【写真左】四ノ平付近
 一ノ平以外はほとんど孟宗竹が生い茂り、遺構の確認を遮るが、おおよその形は想像できる。






 泰清がこれだけ長く在任できたのは、その資質・能力もさることながら、やはり身体が丈夫であったことが最大の理由だろう。

 このためか、下段に示すように彼には男11人、女3人、計14名もの子があった(出典:ウィキペディア等)。
  1. 長男・義重    隠岐左衛門尉
  2. 二男・時清    隠岐二郎左衛門
  3. 三男・頼泰    塩冶三郎左衛門(塩冶氏始祖)
  4. 四男・義泰    冨田四郎左衛門
  5. 五男・茂清    佐々木五郎左衛門
  6. 六男・基顕    後藤六郎左衛門
  7. 七男・頼清    佐々木七郎左衛門(湯氏始祖)
  8. 八男・宗泰    高岡八郎左衛門(高岡氏始祖)
  9. 九男・義信    古志九郎左衛門(古志氏始祖)
  10. 十男・清村    駒崎十郎左衛門
  11. 十一男・清賀   因幡堅者
  12. 女子3人(省略)
【写真左】二ノ平へ向かう
 三ノ平から少し上ると東西に土塁で囲まれた小郭があり、ここから一気に二ノ平に向かって急勾配のみごとな切崖が控える。
 高さはおよそ10m前後はあるだろう。


 長男・義重と、二男・時清はそれぞれ隠岐左衛門尉、隠岐二郎左衛門と名乗っているところからすると、父の隠岐守護職を引き継ぎ、三男・頼泰は、神門郡塩冶郷へ入り、塩冶三郎左衛門と号し、塩冶氏の始祖となった。

 また四男・義泰は祖父義清が築いた広瀬の月山冨田城の冨田荘に入り、冨田四郎左衛門と名乗った。

 以下、五男・茂清は佐々木五郎左衛門、六男・基顕は後藤六郎左衛門となり、七男・頼清は佐々木七郎左衛門と名乗った。頼清については後ほど述べる。

 八男・宗泰は、三男・頼泰(塩冶三郎左衛門)の塩冶郷の一部である北方の高岡邑へ入り、高岡八郎左衛門と名乗り、高岡氏の始祖となった。
【写真左】二ノ平・その1
 細長く東西に延びる郭で、帯郭状のもの。









九男・義信は古志氏(その1)浄土寺山城(島根県出雲市下古志町)でも紹介したように、建長7年(1255)ごろ、神門郡古志郷の地頭に任じられ、浄土寺山城を築き、名を古志九郎左衛門と改め、古志氏の始祖となった。

十男・清村は駒崎十郎左衛門、十一男・清賀は因幡堅者とされているが、詳細は不明である。
【写真左】二ノ平・その2
 東方へ約30m近く伸びている。
 一ノ平(左側)の防御の最終地点でもあることから、特に末端まで整備されたものだろう。


なお、一ノ平の東から南面にかけては、天然の要害となる険峻な崖があるため、郭段はない。


湯氏始祖・佐々木頼清(七郎左衛門)

 さて、この中の七男・頼清、すなわち佐々木七郎左衛門は、玉造要害山城を中心とした湯荘に入り、地頭職・湯氏の始祖となる。

 時期は不明だが、弟の九男・義信が建長7年(1255)ごろ、古志氏の始祖となっていることを考えると、その時期より前と考えられ、宝治~建長年間のころと思われる。
【写真左】横矢付近
 二ノ平の東端部にある郭で、東方からの敵を意識している箇所である。
 左の高くなったところが、「やぐら台」となる。





 頼清が当地に入部した際の領地は、拝志(はやし)・湯の二郷とされている。湯の郷は、現在の温泉街が立ち並ぶ地区で、拝志というのは、現在の玉湯町林から西に向かった大谷・宍道町上来待あたりまでとされている。

 湯氏の始祖となった頼清については、現在の松江市玉湯町林に頼清寺(島根県松江市玉湯町林村本郷)という寺が残っているが、この寺院は、頼清の子孫が彼を菩提するために建治元年(1275)に創建されたといわれている。

 このことからすると、頼清はこの年に亡くなっている可能性があり、父・泰清はまだ存命中なので、創建にかかわったのは、子孫はもちろんだが、父親である泰清自身が菩提供養の主催者であった可能性もある。
【写真左】やぐら台から横矢を見下ろす。
 横矢とやぐら台の高低差は約4m前後だが、意外と登りにくい構造となっている。


おそらく、当時はこの横矢から東北部に向かって尾根伝いに視界が開け、途中には堀切などが構築されていたのかもしれない。


南北朝期

 さて、南北朝期になると、頼清の同母兄冨田義泰の孫・伊予守秀貞が湯荘に入った(『日本城郭体系第14巻』(以下「14巻」とする。)。

 義泰は前掲した泰清の四男で、冨田四郎左衛門である。伊予守秀貞が入ったのは、おそらく湯荘を領地した頼泰の死去後、湯氏の継嗣が順調にいかなかったためと思われ、同族の秀貞が選ばれたのだろう。
【写真左】一ノ平
 長径20m、短径10m前後の変形の四角い郭で、事実上の主郭となる場所である。






 さて、ここで、玉造要害山城の築城者の問題ともかかわることなるが、「14巻」では、

“この城は、富士名義綱が後醍醐帝について隠岐にあるとき、湯荘留守職諏訪部扶重謀反を企てた際に築かれた城で、この騒乱に焼失したといわれる。しかし、秀貞は焼失後、城の規模を改め、補強再築したのである。”


 とある。
 このことから、玉造要害山城は諏訪部扶重が築城したということになるが、後段に示すように、不可解な点が見える。
【写真左】詰ノ平
 一ノ平の南方に続く箇所で、遺構としては土塁形状のものだが、全体になだらかな高まりとなっている。





諏訪部扶重

 説明板にある諏訪部扶重については、越前(福井県)の金ヶ崎城でも少し触れているが、本拠地は現在の雲南市にあった三刀屋じゃ山城である。

 当稿でも述べているように、扶重については、後醍醐天皇が伯耆船上山に拠った時、他の出雲国人のように本人は馳せ参じていない。諏訪部一族で当山に向かったのは、三刀屋伊萱村に本拠を置く諏訪部弥三郎入道円教、及び彦五郎重信兄弟らである。
【写真左】井戸跡
 一ノ平の南側は切崖となっているが、ここから少し降りると、井戸跡がある。
 直径2m弱のもので、当城の井戸としては唯一のもの。



 そうした背景もあってか、「14巻」でも、「富士名義綱が後醍醐帝について、隠岐にあるとき、湯庄留守職諏訪部扶重が、謀反を企てたさいに築かれた城…」と記されている。

この場合、謀反と記されているが、隠岐にあった義綱は当初後醍醐天皇の監視・警固であって、途中から天皇の隠岐脱出の協力者となるため、湯庄留守職であった諏訪部扶重は幕府方の職責を果たすべく当城にあったわけだから、この流れから言えば(北条執権側から見て)、あながち「謀反」とはいえないだろう。
【写真左】空堀
 井戸跡を抜けると、ご覧の空堀(切通し)が残る。
 写真右にさらに上ると「伝湯佐渡守古墓」といわれる墓がある。



 そこで、築城者が誰であったのかという点だが、扶重が玉造要害山城を築いたとすると、では、伊予守秀貞が居城していたのはどこになるか、またそれ以前の湯氏始祖であった頼清の時代、どこを本拠城としていたかという疑問点も出てくる。

 扶重はあくまでも湯荘の留守職であり、本拠は三刀屋の「じゃ山城」であったはずである。

 そしてもっとも不可解な点は、湯荘に本拠をおいていたであろう、伊予守秀貞自身が、後醍醐天皇の隠岐配流中にどこにいたのか、ということであろう。仮に、この時期伊予守秀貞が未だ湯荘に赴いておらず、冨田にあったとすれば、湯荘を治めていた人物がいたはずであるが、この点が明らかでない。
【写真左】伝湯佐渡守古墓
 古墓が建立されている箇所も非常に高い土塁(あるいは櫓か)遺構で、南方の攻めに対処していると思われる。
 湯佐渡守家綱(後段参照)のものといわれている。



富士名義綱と塩冶高貞

 富士名義綱、即ち佐々木義綱は、名和長年(6)富士名判官義綱古墓でも紹介したように、当時玉造要害山城の東方にある「布志名(ふじな)郷」の地頭で、塩冶高貞」とはマタ従弟に当たる。

 当時、出雲国の守護所は塩冶にあり、守護職は塩冶氏の始祖佐々木(塩冶)頼泰の孫にあたる高貞が父・貞清から受け継いで間もないころであった。

 前述したように、隠岐にいた目的は、当初幕府からの命によって、後醍醐天皇の監視・警固の任のためであったが、途中から天皇の隠岐脱出のために協力することになる。義綱がこうした行動を起こし、守護職・高貞にもその支援を促していったのは周知の通りである。
【写真左】玉作湯神社
 玉造要害山城の登城口付近に祀られている古社で、櫛明玉命を祀る。
 当社には、いつの城主かわからないが、佐々木氏の陣太鼓があるという。


最近では、パワースポットとして有名になり、若い女性が多く訪れているという。


戦国期

 説明板にもあるように、戦国期における当城の記録はあまり残っていない。
 天文11年(1542)に湯佐渡守家綱の名が見え、彼の墓とされているものが当城に残っている。

 天文11年は、山口の大内義隆が出雲国攻略を開始し、頓原の赤穴城を攻め、北進後翌12年正月に月山冨田城を攻めた時期である。義隆の進軍ルートを考えれば、当然玉造要害山城もその目標とされたと考えられる。
【写真左】北側から見た玉造要害山城
 現在は周辺部が大分改変されているが、西側を流れる玉湯川とは別に、北側にも支流の小川が流れているので、当時これらが水堀の役目を成していたのだろう。

2011年12月14日水曜日

海老山城(島根県松江市 上佐陀町~八束郡 鹿島町)

海老山城(えびやまじょう)

●所在地 島根県松江市 鹿島町 名分 七日市
●別名 恵美山城
●築城期 不明
●築城者 新田(仁田)右馬頭
●落城 永正17年(1520)
●高さ 標高86m
●遺構 土塁・井戸・堀切7・郭
●登城日 2010年2月5日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』「佐太神社HP」等)
島根県の旧鹿島町と松江市の境にそびえる恵美山に築かれた山城で、小規模ながら堀切に見るべきものがある。
【写真左】海老山城遠望
 北麓の講武付近から見たもので、写真右に向かうと佐太神社・芦山城方面へ向かう。



現地の説明板より

“海老山城(恵美山城)


 海老山城主新田右馬頭守は、永正17年(1520)に佐太神社神主でもあった佐太宮内蘆山城主・朝山越前守綱忠と佐太神領を侵したとして争いになり、新田氏は討ち滅ばされました。


 海老山城跡は、標高70mの山頂にあり、山頂部は削平され平坦地で、井戸跡もあります。尾根には6か所の堀切があり、堅固な城構えです。


海老山城の落城した5月20日に山に入ると、鯨波(ときのこえ)や、轡(くつわ)の音、黄金の鶏の鳴き声がし、その声を聞いた者は不幸が来ると恐れられ、誰もその日には入るものはいなかったという。今でもこの周りの人たちはこの言い伝えを守っています。
生馬公民館
 平成10年9月吉日”
【写真左】登山道入り口
 松江市から鹿島町へ向かう県道37号線の上佐陀町付近で右に枝分かれする道があり、ここを少し進むとご覧の看板が見える。




 説明板にある佐太宮内の蘆山城とは、海老山城の西麓を流れる佐陀川を挟んで北北西にあった「芦山城」ではないかとされている。

この城は、宝徳2年(1450)、朝山越前守貞昌が築城したとされているので、永正年間に海老山城を攻めた越前守綱忠は、その孫あたりになるのだろう。
【写真左】蘆山城(芦山城)遠望
北東側から見たもので、手前の川が佐陀川。


中央の山(海地呂山)に築かれた山城で、遺構としては郭が残っているというが、管理人は未だ登城していない(登城道はないかもしれない)。


なお、この川の左側を進むと、佐太神社や海老山城に達するが、そのまま川を進むと宍道湖につながる。逆に右に向かうと日本海へ出る。


江戸時代の天明5年(1785)、清原太兵衛がこの佐陀川の開削工事を開始し、宍道湖と北の日本海を運河でつないだ。
【写真左】登城道
 先ほどの登山道入口から進むと、神社(加茂志神社だったと思う)があり、その脇を通って登っていく。
 踏み跡が結構あったので、迷うことはない。


佐太神社

 佐太神社は出雲国でも出雲杵築大社・熊野大社と並び、「出雲国三大大社」の一つとされた古い歴史を持つ社である。

 神主とされる朝山氏については、以前取り上げた旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)、及び平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)でも紹介したように、南北朝期から室町初期のころ、出雲国の国衙在庁官人兼社家奉行の任にあったとされ、京極高詮が出雲守護職を得たころ、同氏の一部(出雲朝山郷を支配していた人物)は室町幕府の奉公衆として京都に上ったとされる。
【写真左】佐太神社
 海老山城の西を流れる佐陀川を挟んで西岸に鎮座する。

由緒より、


“出雲国風土記に、佐太大神社或いは佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造りの本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた御社である。…”


 そして、出雲国に残った朝山氏のうち、宝徳年間に越前守貞昌が、支配地の中心を現在の宍道湖北岸にある佐陀神社近辺に定めていったものと思われる。
【写真左】堀切・その1
 海老山城の特徴としては、堀切が挙げられる。標高が100mにも満たないため、これを補完するための要害として堀切が多用されたと思われる。


 なお、このころの出雲国守護は京極持清だが、同国にある杵築大社や神魂神社、及び雲樹寺、出雲安国寺などに対し、幕府の命によって課役の免除や社領・寺領の安堵などを行っている。

 鹿島の佐陀神社に関するものはあまり残っていないが、おそらく同様の事務所管を行っていたものと思われる。

 ところで、海老山城と蘆山城の間は直線距離でわずか1キロ余りである。さらに佐陀神社と海老山城の距離となるとさらに短く、指呼の間である。

 このことから、おそらく蘆山城主・朝山越前守綱忠と海老山城の新田氏との境界争いは度々行われていたものと思われ、永正17年に至って、ついに戦端が開いたのではないかと思われる。

新田氏

 海老山城の城主は新田氏とされているが、史料によっては、「仁田氏」とも記されている。同氏の出自など詳細は不明であるが、地元の小国人領主であったのだろう。
【写真左】堀切・その2
 堀切は本丸を中心に東西にバランスよく配置されている。
現地には「堀切・№」の表示が設置してあり、分かりやすい。
【写真左】一段高くなった郭段
 全体に東西に延びる尾根を利用した城砦で、尾根幅も広くなく、小規模なものだが、逆にいえば、限られた条件でどれだけ有効な城砦施設が設計できるか、築城当事者が苦心した様子がうかがえる。
【写真左】西に延びる郭
 この先からはほぼフラットな形状が続き、しばらくすると主郭が見えてくる。
【写真左】海老山城主郭
 東西に長く、南北は10m前後の規模である。
【写真左】土塁
 主郭の北側を中心に土塁跡が見える。
永正年間朝山氏の攻撃を受けていることを考えると、当然北側や西側の防備には意を用いていたと思われる。
【写真左】主郭から南方に佐陀川を見る。
 写真右側のまっすぐに伸びた川が佐陀川で、奥の宍道湖とつながる。
 写真の右(北)に向かうと、日本海の鹿島漁港に出る。


戦国期まではこの写真に見える田圃は、宍道湖として、深く入り込んだ入江だったと思われる。
【写真左】主郭から北に島根原子力発電所を見る。
 主郭から西方の佐太神社は樹木があるため俯瞰できないが、北北西に島根原子力発電所の鉄塔が尾根越しに見える。
 この尾根の向こうは日本海になる。
【写真左】西方の堀切・その1
 主郭を過ぎて、反対側の西側ルートを降りていくと、いきなり見ごたえのある堀切が出てくる。


「空堀・4」と表示さている箇所で、登ってきた東側の堀切に比べ、さすがに規模が大きく、切崖も見ごたえがある。
【写真左】堀切・その2
 堀切を含め、西方には大きな窪地(郭か)が残っているが、おそらく馬場・駐屯地のような施設として使われたのだろう。
【写真左】崩落した南面
 下山コースの一部で、この写真の上を通って降りていくのだが、歩いている最中は分からず、下に降りて、この光景を目にしびっくりした。


 意外と地盤は弱いようだ。
【写真左】出雲二十七番札所・千光寺
 写真左側が下山した位置になるが、この場所は出雲二十七番札所、千光寺の境内につながる。


開基・創立など縁起は分からないが、古刹であることは間違いないようだ。