2017年1月6日金曜日

出雲・勝山城(島根県安来市広瀬町石原)

出雲・勝山城(いずも・かつやまじょう)

●所在地 島根県安来市広瀬町石原
●別名 滝山城
●高さ 250m(比高 230m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 田中三良左衛門
●遺構 畝状竪堀群、郭、堀切、土塁
●備考 尼子十砦、京羅木城塞群
●登城日 2014年10月24日

◆解説(参考文献『出雲の山城』高屋茂男編・ハーベスト出版等)
 地元の山城でありながら中々登城できなかった山城の一つで、登城したのは2014年の10月である。本来ならもっと前にアップしなければならないのだが、いつもの癖で他県などの山城に浮気?していたのか、登城後3年も保留していた。
【写真左】勝山城遠望
 飯梨川を隔てた南岸にある「道の駅広場富田城」から見たもので、橋の下を流れるのが飯梨川。





大内氏月山富田城攻

 さて、この勝山城については、京羅木山城・砦群 その2でも少し紹介しているが、第一次月山富田城攻めとして、天文11年(1542)から山口の大内義隆が毛利軍をはじめ石見国人衆らも引連れて尼子氏の居城・月山富田城攻めを行っている。このとき本陣としたのが、富田城の西方に控える京羅木山城である。そしてこの戦いの際、大内方の前線基地として使われたといわれるのが、勝山城である。

 大内氏による月山富田城攻めは、翌天文12年(1543)まで行われたが、長引く戦いと吉川興経・三刀屋久扶ら多くのものが途中から尼子方に寝返ったため、大内氏は大敗北することになる。
【写真左】勝山城と京羅木山城遠望
 上の写真と同じく「道の駅広場富田城」から見たもので、京羅木山城から富田城までは、直線距離で3.5キロであるのに対し、勝山城からは2.5キロと勝山城の方が富田城により近い位置になる。



月山富田城落城

 勝山城は、富田城から見ると手前の飯梨川を挟んで北方2.5キロの位置にある。富田城の本丸は標高184mであるが、勝山城は250mと70m程高い。しかも、この位置からは特に飯梨川下流域の動きがよく分かり、逐次本陣である京羅木山へ連絡していたものと思われる。
【写真左】京羅木山側から勝山城を俯瞰する。
 京羅木山主郭から勝山城の先端部までは尾根筋を通っていくことになり、その距離は総延長で4キロほどになる。
 下段に示すように、富田城が落城する永禄9年頃は、おそらく京羅木山城を降りて、富田城により近いこの勝山城を本陣とした可能性が高いと思われる。


 尼子氏が滅亡するきっかけとなったのが、第二次月山富田城攻めである。すなわち、毛利元就による永禄年間から始まる出雲国への進出からである。荒隅城(島根県松江市国屋町南平)の稿でも述べたように、天文年間における大内氏の富田城攻めで大敗退を自ら経験していた元就は、同じ過ちを犯さないため慎重に策略を練った。そして、永禄5年(1562)12月に荒隅城を築いてからの動きは活発となり、白鹿城(島根県松江市法吉町)攻略を皮切りに、富田城の兵糧攻めにシフトしていくことになる。
【写真左】登城道
 この日向かった登城道は勝山城の南の谷から入ったが、途中から道は沢登りとなり、シダや倒木に遮られかなり体力を消耗した。

 勝山城の南西斜面には竪堀などが配置されていない理由は、一つにはこの谷がこのように歩行困難な状況であることと、斜面が急峻であることから必要なかったためと考えられる。


 永禄8年(1565)4月、兵糧が途絶え始めた月山富田城では、逃げ出すものが増えだした。元就は本陣を先ず星上山に移した。そして秋になると、富田城に接近、京羅木山に本陣を移し、攻め落とす前に富田城に対し、降伏・退去の意志を確認する手立てを行った。

 これに対し、富田城内では軍議が開かれたが、主戦派と和睦・降伏派などに意見が分かれ、白鹿城の守将であった牛尾久清などは退去した。富田城内における統率は乱れ、城主尼子義久は長年忠節を尽くした重臣宇山久兼(「久信」説あり)を、讒言により誅殺してしまった。
【写真左】勝山城側の尾根を進む。
 谷の終点部で右方向を示す標識があり、そこから尾根にとりついた道を進む。





 このころ、毛利方は京羅木山を本陣とし、そこから東に伸びる尾根筋上にあった勝山城や、石原山城など向城の整備を進めていった。なお、史料によっては、この段階で本陣を京羅木山から勝山城に移したとする説もある。

 永禄9年(1566)11月21日、尼子義久はついに元就の軍門に降り、ここに月山富田城は落城することになる。
【写真左】尾根にたどり着く。
 尾根に着くと、左手にも道が見えたので、おそらく京羅木山側から続くものと思われる。このあと、右に向かい勝山城を目指す。



畝状竪堀(空堀)群

 勝山城の特徴として挙げられるのは、なんといっても夥しい数で構成された畝状竪堀(空堀)群である。『出雲の山城』でも示されているように、特に北から南東に伸びる尾根の東斜面には堀切も含めると42本もの竪堀が確認される。
【写真左】勝山城鳥瞰図
 『出雲の山城』高屋茂男氏作図の縄張図を参考に管理人が描いたもので、畝状竪堀群は東斜面に集中している。





 勝山城の西側斜面がかなり急傾斜であるのに対し、東斜面は全体になだらかな箇所が多いことから構築されたものと思われるが、それにしても現地に足を踏み入れると、その徹底した普請計画に驚かされる。
 竪堀(空堀)遺構が残る山城では出雲国はおろか、管理人がこれまで登城してきた山陰の山城の中でも5本の指に入るものだろう。
【写真左】分岐点
 尾根に入ってから1分ほど進むと、左側に降りる道が見える。おそらくこれは勝山城の東方植田町側の谷筋から伸びる道だろう。
 このまま右の尾根道を奥に進む。
【写真左】ここから登り勾配
 勝山城の主郭に向かう途中には、一旦最高所267mのピークをこえなければならない。
【写真左】最初のピーク
 この位置が最高所267mの地点で、遺構らしきものはないが、まとまった平坦地になっている。勝山城はこのピークを越え、一旦鞍部を過ぎてから城域とされているが、勝山城を本陣とした頃はこの付近も兵站地として利用されていたと思われる。
【写真左】勝山城と月山富田城が見えてきた。
 上掲した最高所付近から見たもので、左側には勝山城の先端部が、その奥には月山富田城が見える。
【写真左】三条の堀切
 勝山城の城域に入る手前で尾根は一旦下がり、鞍部となるが、その箇所に三条の堀切が残る。
 現地は大分埋まっているが、当時はかなり深い堀切だったと思われる。
【写真左】堀切
 城域側の堀切で、両端部は竪堀としてそのまま谷に降りていく。
【写真左】竪堀
 左側に枡形虎口が控えているが、その手前の東斜面に残るもので、このあたりから連続して竪堀が出始める。
【写真左】人枡入口付近
 勝山城の要所にはこうした案内標識が設置されている。「人枡入口」とかかれた箇所で、正面の奥がその枡に当たる。
 左側から回り込む。
【写真左】畝状竪堀群
 虎口に向かう手前で、左手に再び畝状竪堀群が目に入る。
【写真左】虎口
 右に向きを変えて登っていくと、虎口が出迎える。
【写真左】虎口と土塁
 虎口を抜けると、ほぼ四角形で囲まれた郭が控え、その周囲には土塁が囲繞している。
 写真は西側から見たもの。このあと、さらに先端部に向かうため右に進む。
【写真左】西側に残る土塁と郭
 先ほどの虎口をこえて南に進むと、一旦尾根幅が絞られ、その後膨らむが、尾根軸は東に屈折していく。
 ほぼ軸が東に向いた辺りから、右(南)側には土塁が少しずつ高くなっていく。
【写真左】先端部に出た。
 勝山城の東端部にあたるところで、左側には高さ2m近い土塁が設置されている。
【写真左】月山富田城を俯瞰する。
 先端部からは月山富田城がはっきりと見える。

 毛利軍による富田城攻めは足かけ7年にも及んでいる。
 ここに佇むと、毛利軍の陣城のうち、京羅木山城やこの勝山城は、他の戦場で普請したような一時的な向城ではなく、長期戦に備えた根城に近いものになっていたのではないかと想像してしまう。
【写真左】月山富田城遠望
 勝山城からは南側の塩谷は見えないが、手前の菅谷口を含め、主要な郭群内の動きは毛利方にとって、手に取るように分かったことだろう。
【写真左】虎口と土塁
 この郭の形状は東方向に蛇の頭のような三角形をなしており、北側には最初に紹介した人枡虎口と同じような配置で、左側(北側)に虎口をとっている。
 このあと、この虎口を抜けて北側斜面に向かう。
【写真左】畝状竪堀
 虎口を降りると、さっそくここにも竪堀が張り巡らされている。
【写真左】竪堀上端部
 各竪堀の上端部は、ご覧の様な直線の空堀と直角に交わっている。竪堀は郭上段部までは伸びておらず、横に伸びた空堀との交差で終わっている。
 敵兵がここまで登ってきたら、一旦この空堀で足止めさせようとしたねらいがあるかもしれない。

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