2009年1月13日火曜日

名和長年(6)富士名判官義綱古墓

名和長年(6)
富士名判官義綱古墓(ふじなはんがんよしつなこぼ)


●所在地 島根県松江市玉湯町布志名判官山
●指定 松江市指定史跡

◆解説
 当ブログの看板名である「やまじろ」を掲げていながら、肝心の山城そのものの記事が少なく、我ながら面目ない。 もう少し、名和長年絡みの話題に付き合っていただきます。

富士名義綱

 さて、前回船上山の長年のもとにはせ参じた、近国の武将の中に、出雲から塩冶高貞と富士名義綱も見出されている。今回は、この富士名(佐々木)義綱を取り上げたい。

【写真左】富士名判官の墓地へ入る付近
 場所は、玉湯町布志名の県道263号線の途中から南のわきに入るところで、写真は携帯で撮ったためぼやけているが、案内標識がある。











 富士名(ふじな)は元々佐々木一族で、現在の松江市玉湯町に当たる布志名(ふじな)郷の地頭で、義綱と塩冶高貞はマタ従兄弟になる。

 義綱は後醍醐天皇警護の役で隠岐に渡っていた。その彼が天皇からどういう懐柔?を受けたか分からないが、天皇を隠岐から脱出させる役目を担う。このため、守護である高貞にもその計画の協力を仰ごうと、本土・出雲に戻る。

 前記したように、高貞は守護であると同時に、鎌倉創成期から有力な御家人でもある。熟慮の末、義綱の懇願を断る。
そうこうしているうちに、後醍醐天皇は義綱の帰島が待ち切れず、自ら脱出を敢行してしまったということである。

【写真左】富士名判官義綱古墓(昭和39年玉湯町指定史跡)

 左に立っている説明板の内容は以下の通り。

“義綱は、出雲国守護佐々木氏の系譜をひく。鎌倉時代末期から室町時代初期に活躍した布志名の地頭。

 鎌倉時代の末期、元弘の変で倒幕に失敗した後醍醐天皇は隠岐に流された。
 警護のため派遣された義綱は、翻意して、天皇の隠岐脱出を援助。その後も名和長年らとともに、天皇に従う。

 建武の新政、天皇に反旗を翻した足利尊氏方と各地で戦い、建武3年(1336)正月、京都での激戦で非業の死を遂げた。享年41歳。

 明治31年福庭美静の撰文になる顕彰碑が墓のある判官山の頂に建立された。大正4年、正四位上を贈られた。平成8年3月 玉湯町教育委員会”
【写真左】判官山に立つ顕彰碑
 この判官山という南から北へ突き出した丘陵部は、幅は狭いものの、義綱らが居住していた館跡もしくは、山城ではなかったかと思われる形状・要害性を感じた。

 もっとも、この判官山の約200m西隣に突き出した丘があり、「布志名城」という名の山城あとがある。ただ現在はほとんど遺構は残っていない。

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