2011年3月26日土曜日

駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)

駒山城(こまやまじょう)

●所在地 兵庫県赤穂郡上郡町井上
●築城期 南北朝時代か
●築城者 赤松氏
●標高 263m
●遺構 本丸・二ノ丸・堀切その他
●指定 上郡町指定文化財
●登城日 2011年3月6日

◆解説
 所在地は、前稿「赤穂城」の脇を流れる千種川を上った赤穂郡上郡町にある。
 独特の山容を誇った生駒山に築かれた山城で、特に登城途中から見る本丸や、二ノ丸は見ごたえがある。
【写真左】駒山城遠望
 登城途中からみた駒山城の二ノ丸










 現地の説明板より

“上郡町指定文化財

 駒山城跡

   上郡町山野里・井上

 標高263mの駒山山頂にあり、上郡の市街地を一望のもとに見渡すことができます。南の尾根伝いと東の麓からの登山道が設けられています。

 南北朝時代(14世紀)の築城とも伝えられていますが、現在残る縄張は、戦国時代(16世紀)の後半頃のものと思われます。

 二つの尾根を中心に、帯曲輪跡や石積・土塁・堀切・井戸跡などが残っており、瓦や備前焼等の戦国時代の遺物も採集されています。
 瓦や石積など、後の近世城郭につながる特徴を持つ中世の山城として、町内でも数少ない貴重な城跡です。
  上郡町 上郡町教育委員会”
【写真左】登城口付近
 登城口は2カ所あり、この写真は南側からのもので、「羽山登山路」とよばれるもの。

 もう一つは、東側にあるもので、「井上登山路(いろは道)」というもの。これは尾根斜面の急坂を登るのできついようだ。
 ここには当城の由来や簡単な配置図が掲示されている。


南北朝時代

 説明板にもあるように、築城期が確定していないが、駒山城から北東3キロに赤松円心(則村)が築城したといわれる白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)の支城ともいわれているので、当城も同じころ、すなわち南北朝初期(1330年代)と思われる。
【写真左】登山路案内板
 左下に登山口があり、しばらくこの尾根筋を伝って次第に登るコースとなっている。






 白旗城の支城としては、駒山城の外に、当城から真北に1.5キロ向かった愛宕山の東麓に聳える苔縄(こけなわ)城(H400m)がある。

 駒山城の築城者は円心の三男・則祐といわれている。ちなみに則祐の妻は佐々木導誉の娘である。

戦国時代

 戦国時代の駒山城については詳しい史料が乏しいが、唯一天文15年(1546)に、安室五郎義長の家臣・安室五郎が幼かったため、「長船越中守」が城主となった、という記録が残る。

 安室氏についてはその出自など不明だが、天文15年頃の状況を考えると、播磨・備前国については、浦上氏が扶植していたので、安室氏も同氏の傘下にあったものと思われる。
 浦上氏はそれまで赤松氏の家臣として働いていたが、次第に赤松氏と対立しながら、独自の道を歩み出す。
【写真左】登城途中から本丸が見え出す。
 羽山コースは距離が長いものの、緩やかな稜線が多いため、比較的楽に歩ける。

 ただ、後半の井上登山路(東側の登城路)と合流する地点から、途端に険しい岩山をよじ登ることになる。



 こうしたことから、安室五郎義長・安室五郎、及び長船越中守なども、当時赤松氏から抜け出した浦上政宗三石城(岡山県備前市三石)参照)の家臣であったと考えられる。

 ただ、このころから播磨・備前国はめまぐるしく戦況が変わって行ったので、件の城主らの在城期間も短いものだったと思われる。

 さらに下った天正5年(1577)には、小田・吉田・内海・片島の四氏が当城を攻めたものの、なかなか落城しなかった。そこで、兵法に長じた高見治部を頼んで、火を放って落城させた、という記録が残る。
【写真左】馬の蹄(ひづめ)跡
 途中に大きな岩が露出し、その上を歩かなくてはならない。このため、馬を登城させる際、蹄に合わせた形の穴が掘られている。




 天正年間の当地については、宇喜多直家新庄山城(岡山県岡山市竹原)参照)が主に治めていたが、直家が毛利方から秀吉方(織田信長)に寝返ったのは、天正7年(1579)であるので、上記の天正5年ごろの城主は宇喜多氏側のものが在城し、攻め立てた四氏は秀吉方のものだったと思われる。

【写真左】荷置岩
 後半はほとんどこうした岩だらけの登城路となる。従って、雨天や雨天直後は滑りやすく、晴天の日でないと無理かもしれない。
 写真は、「荷置岩」と呼ばれているところで、登城途中、一旦荷物をこの付近におろし、休憩をとった場所なのだろう。

【写真左】駒山城跡案内図
 文字が大分薄くなっているが、この図では右側に本丸があり、左側に向かって一旦下がると堀切がある。それを過ぎると再び登って行くと二ノ丸が控える。
 遺構の数は少ないものの、険峻な山容と相まって、現地にたたずむとその迫力に圧倒される。
【写真左】直下から本丸を見る
 この付近から遺構は岩と砂礫の混ざった土質で構成されている。
【写真左】本丸から西方に二ノ丸を見る。
 本丸から二ノ丸までは約200m程度あり、この位置から二ノ丸を見る景色も見ごたえがある。
【写真左】本丸から北東方向に伸びる郭段
 先端部に向かって幅は狭くなっていくが、本丸から3,4段の郭が構成されている。
【写真左】上記郭段の先端部
 これまでかなり険峻な山城を探訪してきているが、久しぶりに足元がすくんだ個所である。
 かなり前の方に出てみるものの、斜面が見えない。
 どうしても見たい方は、この位置で腹這いになることをお勧めする。
【写真左】本丸から北東に白旗城を見る
 おそらくこの写真の中央部にかすんだ一番高い山が白旗城と思われる。
 この日も少し雨が降っていたため、全体に視界がよくなかった。
 左側に見える川は、千種川。
【写真左】空堀跡
 本丸とその先にある二ノ丸をつなぐ中間点に設置されている。
 堀切となっているが、元々本丸と二ノ丸が別の尾根構成をしているので、鞍部であったものを土橋で繋いだようにも見える。

 この写真では分かりにくいが、右側にも土橋のような連絡路が構成され、その間が深くなっている。本丸側は崩落を防ぐため、石垣が組まれている。
 また、この深くなったところは、井戸跡にも見える。
【写真左】二ノ丸
 標高は本丸より少し低いが、規模は本丸と同等もしくは凌ぐ大きさかもしれない。
 非常にきれいに管理されているので、気持ちがいい。
【写真左】二ノ丸西端から振り返ってみる。
 二ノ丸はおよそ2m程度の段差を持たせた3段程度の郭で構成されている。
 北から西及び南側面はほとんど険しい切崖で、登城路以外のコースから登ることはほぼ不可能である。
【写真左】二ノ丸から東に本丸を見る
 この位置からは本丸の南端部しか見えないが、それでも当城の威容感を十分楽しめる。
【写真左】二ノ丸から登城路の尾根、及び上郡の街並みを見る。
 写真の尾根筋が登ってきた羽山登山路で、その向こうに城下の上郡の町や、千種川が見える。

2011年3月25日金曜日

赤穂城(兵庫県赤穂市加里屋)

赤穂城(あこうじょう)

●所在地 兵庫県赤穂市加里屋●別名 加里屋城、大鷹城
●形態 平城・海城
●築城期 文正元年(1467)~文明15年(1483)
●築城者 岡光広
●城主 池田氏、浅野氏、森氏など
●廃城年 明治6年(1873)
●遺構 石垣、堀
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年3月6日

◆解説
 赤穂といえば、忠臣蔵などでおなじみの「赤穂城」が最も有名である。
 現在の赤穂城は、近世城郭としての姿を再現すべく、何期かに分けて整備が進められている。
【写真左】赤穂城本丸付近













応仁の乱

 もともと赤穂城は、室町期の応仁の乱が勃発する前年の文正元年(1467)ごろより築城がはじまったという。

 所在地である赤穂は、播磨国の西端・播磨灘に接する。この当時播磨は、山名宗全(持豊)を筆頭とする西軍方に属し、西隣の備前、美作、北の但馬、因幡国などまとまったグループを形成していた。

 築城者である岡光広という人物については史料がないため詳細は不明だが、前記したように彼も山名氏と同じ西軍方であったことは間違いないだろう。
 なお、このころの名称は、「加里屋城」と呼ばれていた。
【写真上】赤穂城案内図
 登城したのが夕方だったため、中に入ることはできず、もっぱら外の方を探訪した。



 ところで、赤穂城の位置を考えると、当城は限りなく平城もしくは、海城といった形態になる。

 応仁の乱が特に西国で激しかったことから、当然瀬戸内海の制海権を奪取することは当然のことで、しかも、瀬戸内対岸の讃岐国は、敵対する東軍方(香川・安富・香西・奈良氏など)であり、最も近い小豆島辺りににらみを利かす意味が大きかったと思われる。

 従って、加里屋城時代の機能は、舟戦用の船が多く停泊できるような軍港的城砦だったと考えられる。
【写真左】赤穂大石神社
 四十七義士・大石内蔵助らを祀る











江戸期

 慶長18年(1613)、池田輝政の次男で岡山藩主であった忠継の所領となった。そして、元和元年(1615)、忠継の弟・政綱が35,000石を領し、ここに赤穂藩が誕生した。

 その後、継嗣がうまくいかず、最終的に正保2年(1645)、浅野長直が53,000石で入封し、この段階で初めて近世城郭としての築城が開始された。

 その後、山鹿素行が承応元年(1652)に召抱えられ、赤穂城の設計・築城にかかわることになる。
 江戸城において、吉良上野介を刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭、すなわち長矩(ながのり)は、浅野氏3代で、長直の孫に当たる。
【写真左】片岡源五右衛門高房の宅跡
 現地の説明板より

片岡源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼いころから君側に召出された寵臣であった。

 出世加増の少ない元禄時代に、はじめ100石であった俸禄が、19歳で200石、24歳で300石、元禄12年(1699)正月には、32歳で350石元を給せられている。

 元禄14年(1701)3月14日、内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は、下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾に当たった。

 田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。

 討ち入りの時は、表門隊に属し、冨森助右衛門、武林唯七と3人組合って、真っ先かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍を振って戦った。細川家にお預けののち、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹した。
 赤穂義士会”
【写真左】 二ノ丸の外堀













 元々赤穂浅野氏は、広島の浅野家の傍流で、浅野長政の三男長重を祖としている。

 浅野長政は豊臣秀吉時代、五奉行の一人に数えられ、関ヶ原の合戦では東軍方に入り、江戸幕府開幕後、家康の懐刀の一人ともなった。

 なお、浅野氏改易後は森長直が20,000石で入封し、以後明治まで森氏が受け継いだ。

【写真左】山鹿素行の銅像
 現地の説明板より

山鹿素行先生銅像
 兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622~85)は、承応元年(1652)から万治3年(1660)の間、赤穂藩主浅野長直に1000石で召抱えられ、承応2年には、赤穂城築城に参画して、二ノ丸虎口の縄張を一部変更し、家中に兵法を指南した。

 その後、寛文5年(1665)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝3年(1675)まで赤穂に配流され、二ノ丸内の家老大石頼母助邸の一隅に謫居(たっきょ)した。

 配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全」「中朝事実」「武家事記」「謫居童問」など、素行の学問を代表する大著を完成して謫居いる。

 大正14年(1925)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成10年に赤穂城跡公園整備のため、現位置に移転した。
 赤穂義士会”
【写真左】大石頼母屋敷跡
 山鹿素行が身を寄せたといわれる大石頼母の屋敷跡。
 大石頼母良重は大石内蔵助の実の大叔父に当たる。

【写真左】本丸手前の門

【写真左】外堀回りその1

【写真左】外堀その2

【写真左】復元された米蔵
 現地の説明板によると、浅野家断絶のとき、二ノ丸内米蔵には、1,204石4斗(4斗俵で3,036俵)の残米があったという。
 また、当時はこうした米蔵が2~3棟建っていたとされている。
【写真左】水手門(みずのてもん)
 現地の説明板より

“瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や、水運を利用した平城の海城が多数見られます。

 かつて、赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていました。

 水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木」や、船を波から守る「突堤(波止場)」など、海城の特徴を伝える貴重な施設が、発掘調査などに基づき復元されています。

 ここから搬入された米などの物資は、二ノ丸内の蔵に蓄えられ、藩の財政を支えたのです。”
【写真左】外堀と土塁
 土塁の高さは5mはあるだろうか、かなり高い。

馬場ノ平城(兵庫県美方郡新温泉町奥八田)

馬場ノ平城(ばばのひらじょう)

●所在地 兵庫県美方郡新温泉町奥八田石橋
●築城期 慶長年間(1596~1615)か
●築城者 馬場豊後守
●標高 不明(比高20m程度)
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2010年12月18日

◆解説
 兵庫県の北西端にあって、西隣の鳥取県岩美郡岩美町と接する美方郡新温泉町の山間に築城されたといわれている山城(城館)である。
【写真左】付近の案内図
 この図でいえば、右側が北を示し、下段の道路を右に向かうと、国道9号線に繋がる。

 図にある「上山高原ふるさと館」の館長がたまたまおられ、当城について訪ねたところ、図の「現在地」より少し左側の畑になっているところが屋敷跡ではなかったかということだった。

 ずいぶん前に、地元の郷土史家の方が当城についてもう少し調査をしたいと計画しておられたが、高齢のため断念されたという。
【写真左】馬場ノ平城(屋敷)跡と思われる個所
 畑もしくは田圃のような状況になっている。







 現在のルートでいえば、新温泉町の国道9号線蒲生トンネルの東側手前で南に分かれる枝線(262号線)に入って、奥八田小学校もしくは上山高原ふるさと館のところからさらに西の林道に入った地点になる。

山崎左馬允家盛と馬場豊後守

 詳細な記録はないが、城主(屋敷)であった馬場豊後守は、因幡(鳥取)の南東部因幡・若桜鬼ヶ城主・山崎左馬允家盛・甲斐守家治父子の家臣であったという。

 山崎左馬允家盛については、以前紹介した因幡・若桜鬼ヶ城の稿で、少し紹介しているが、彼が鬼ヶ城に入ったのは、関ヶ原の合戦後、すなわち慶長5年(1600)過ぎで、その17年後の元和3年(1617)、池田光政の鳥取移封に伴い、備中に転封となっている。
【写真左】 同上
 土地改良や、農道が設置されたため、当時の面影が失われているが、近くの祠や社、またここから下の谷の景色を見ると、ほぼこの位置であろうことは想像できる。



 このため、馬場ノ平城主・馬場豊後守も、同時期に当城から去ったものと思われ、在城期間も短かったものと思われる。

 ただ、地元には馬場姓を名乗る人が少なくないので、同氏の一部がそのまま当地に残り、今も残る「馬場大明神」を建立したものと思われる。

 若桜鬼ヶ城主であった山崎氏時代は、その所領範囲が現在の鳥取県若桜町を越え、但馬国の二方郡(美方郡・新温泉町)まで及んでいた。このため、家臣であった豊後守のいる馬場ノ平城までの往来は、若桜から北方に向かい、諸鹿(もろが)を通り、扇ノ山(1310m)の東尾根を越え、但馬に入るというルートが使われた。このルートは山崎氏の名をとって「左馬殿道」と呼ばれた。
【写真左】豊後守を祀る祠
 馬場一族が「馬場大明神」として小祠を建立したものと思われる。
【写真左】石橋神社
 上記の祠はこの鳥居の左側斜面にあり、鳥居をくぐり階段を上ると、石橋神社本殿が建つ。
 大正13年の同社改築の際、境内に移し合祀したといわれている。
【写真左】因幡・若桜城
【写真左】因幡・若桜城から但馬の馬場ノ平城方面を見る。
 若桜城側(鳥取県)からは、八束川の支流・来見野川沿いに登る県道103号線から向かうと、諸鹿に向い、扇ノ山(写真ほぼ中央部の山と思われる)の東の峰を越えると、但馬美方郡の馬場ノ平城に繋がる。
 このルートが前記した「左馬殿道」である。

2011年3月23日水曜日

波賀城(兵庫県宍粟市波賀町上野)

波賀城(はがじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市波賀町上野(波賀城史公園)
●築城期 弘長年間(1261~63)
●築城者 芳賀七郎
●標高 458m
●城主 中村氏など
●遺構 郭、石垣、土塁、堀切、復興木造二層櫓
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年8月15日

◆解説
 兵庫県の西部因幡街道(国道29号線)沿いに築城された山城で、現在公園として整備され、車で直接たどり着けるようになっている。
波賀城については、現地にある詳細な説明板があるので、以下に示す。
【写真左】波賀城・その1
 西麓から見たもの
【写真左】波賀城・その2



















説明板より

波賀城蹟

 11世紀の初めのころまでに、私達のこの地域は、伯可荘(はかのしょう)として石清水八幡宮の荘園になっていました。

 この地には有名な名馬の伝説があります。
 「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、あるとき、そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。

 七郎は、名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました…」

 伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。

 13世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移ってきたのが中村氏大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で、秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党(たんとう)、丹治(たんじ)氏の一族です。
【写真左】石垣と塀














 中村氏は、初代の光時から戦国時代末期の吉宗まで20代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。

 現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧したときに、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。

 この城は、山陽道と日本海側を結ぶ因幡海道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を造って縦深をとっています。
【写真左】復元木造二層櫓
 櫓は城山西端部に造られ、この場所から眼下に波賀の街並みが望める(下の写真参照)







 また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は、中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張とともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。

 平成2年3月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構と、その縄張と、山麓部の製鉄遺構の発掘調査を行いました。

 このことから、波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産のさらなる調査と保護をも含めて実施されるべきものとの結論を得ました。
【写真左】西方の眺望
 写真の右が北になり鳥取方面に向かう。
 手前が波賀の街並みで、谷の奥は斎木地区。この谷を越えると千種に繋がる。




 このたび、その第1期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされていくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。

      宍粟市”


 なお、上記の説明板とは別に、二層櫓内には当城の歴史について表記したものがある。これによると、波賀城の築城者は、波賀七郎光節と、初代城主中村光時が併記されている。
【写真左】落城の記事













 また、落城したのは1585年、すなわち天正13年と書かれている。この年は秀吉が四国征伐した頃で、波賀城はその前に堕ちたのだろう。

鉄の生産

 ところで、波賀を含めた千種地域は昔から良質な鉄が生産されていた。鎌倉末期の元亨3年(1323)、国宝の短刀が波賀城の東方揖保川沿いの三方(みかた)西で造られている。
この短刀には表に「備州長船住景光」とあり、裏には「元亨3年3月」とある。これ以外にも名刀が作られている。(下の写真「たたらの里」参照)

【写真左】古城跡付近に建つ祠
【写真左】たたらの里
 波賀城の麓を流れる引原川の西の峰を越えた千種川の上流、西河内にあるタタラ跡で、その規模や歴史は近在ではもっとも大きく、古い。

園部城(京都府南丹市園部町小桜町)

園部城(そのべじょう)

●所在地 京都府南丹市園部町小桜町
●形態 平山城
●築城期 元和5年(1619)
●築城者 小出吉親
●城主 小出氏
●遺構 石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所
●指定 京都府指定文化財
●登城日 2010年7月27日

◆解説(参考文献「ウィキベディア」「別冊歴史読本新選日本の名城」等)
 前稿「篠山城」から再び戻って京都府の園部にある園部城を取り上げる。
 所在地である南丹市は2006年の合併によってできた市であるが、出雲の田舎から訪れたものにとって、新しい市名は、今一つなじみを感じない。
【写真左】園部城本丸大手門前の石碑

 南丹市の地図を見てみると、京都府下では京都市に次ぐ面積となり、しかも隣接県は、福井県・滋賀県・兵庫県と3県にもなる。

 園部町は合併前にも2,3度訪れているため、「南丹市」と表示されていても、元の園部町のイメージが強いため、違和感を感ずる。
 
 冒頭から脱線してしまった。
 さて、園部城については、篠山城と同じく近世城郭で、元和5年(1619)の築城となっている。この年は、徳川家康が没して3年後にあたり、2代将軍秀忠の時代である。

 現地の説明板より

園部城址
 元和5年(1619)、但馬の出石から移封となった初代園部藩主小出吉親公は、約2年を費やしてこの地に園部陣屋を築きました。
 歳月を経て、おりしも伐辰戦争のさなか最後の園部藩主(第10代)小出英尚公は、明治新政府から園部陣屋をより堅固な園部城として整備する許可を受け、明治元年(1868)から2年(1869)にかけて、櫓門・巽櫓の他、小麦山山頂に3層の櫓などを築きました。

 しかし、新たな時代の潮流の中、園部城は明治5年(1872)そのほとんどが取り壊され、今は残った巽櫓などが往時を偲ばせます。
 激動の時代に再整備されるという例のない歴史を持つ園部城も、現在はその跡地に園部公園や、京都府立園部高等学校が設置され、憩いの場・教育の場として住民から親しまれています。
 園部町
 園部高校”
【写真左】園部公園の案内図
 この写真では右下に本丸跡が記されているが、園部高校の場所になる。

 初代城主小出吉親の妻は、秀吉の母の妹である。吉親の兄吉英は、出石藩や岸和田藩主を務めた。

 説明板にもあるように、幕末期園部城(陣屋)をより強固なものとした理由は、新政府側が万が一の事態を想定し、園部城を明治天皇の避難場所(行在所)として計画したものらしく、まさに突貫工事であったようだ。

【写真左】本丸大手門その1
 現在は園部高校の校門を兼ねているようだ。
【写真左】本丸大手門その2
 内側から見たもの
【写真左】巽櫓
 大手門をくぐると左手に建っている。
【写真左】園部高校
 跡地が高校となっているため、ほとんど遺構は消滅しているが、高低差の残るところは少しその面影を想像することができる。

【写真左】綾部国際交流会館
 天守閣風の建物で、予備知識のない人ならこの建物が園部城跡と思うかもしれないが、まったく別の建物である。