2009年1月25日日曜日

因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)

因幡・若狭鬼ヶ城(わかさおにがじょう)
●所在地 鳥取県若桜町
●築城期 南北朝
●築城者 矢部氏
●標高   452m
★登城日 2007年11月17日

◆解説(山陰の城館跡 山陰史跡ガイドブック第1巻)より
“難攻不落の巨大山城 鬼ヶ城は若桜の町を眼下に望む標高452mの鶴尾山の山頂部から丘陵尾根上に郭群を配しています。築城は南北朝期にさかのぼるとされ、のちに木下氏の手で大規模に整備された織豊期城郭の姿をよく残しています。
 鬼ヶ城は矢部氏によって築かれ、16代にわたる若狭統治の拠点であったといわれていますが、因幡から但馬・播磨に抜ける主要交通路を押さえる要衝の地であるため、戦国時代の天正3年(1575)尼子氏の支配下となります。のちには羽柴秀吉の配下である木下備中守が、若狭2万石の城主となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れるまで22年間若狭を統治しました。
 関ヶ原の戦い後には、山崎家盛が入城しましたが、元和3年(1617)の池田光政の鳥取移封に関連して、山崎氏は備中に転封となり、鬼ヶ城は池田氏の統治下に入りましたが、一国一城令に基づき鬼ヶ城は廃城となりました。

【主郭部】
本丸、二の丸、三の丸、ホウヅキ段、六角石垣などすべてが高石垣で築かれています。
また、発掘調査によって全国的にも珍しい廊下橋虎口や、全国で唯一確認された行き止まり虎口と呼ばれる特殊な虎口が見つかりました。
◆この城には、2007年11月17日に向かっている。登城するきっかけとなったのは、ちょうどこの年の11月に、当城が「国指定史跡」に認定されたという記事を地元の山陰中央新報で見つけたからである。

◆以前から、この城については興味をもっていたが、我が家から向かうアクセスとしては相当遠くなり、しかも一般道になるため渋っていたが、この記事で踏ん切りがつき向かった次第。
◆掲載した解説にもあるように、遺構もダイナミックなものがあり、しかも頂上部からの眺望もすばらしく、山陰の山城の中でもトップクラスに入ると思われる。



【写真左】本丸跡から、若桜街道(播州街道)の兵庫県方面を見る。
 この若桜街道は古代からの街道として使われてきており、因幡から播州を経て畿内に行く重要な道である。






【写真左】

本丸跡から氷ノ山方向を見る
 なお、この氷ノ山に行く482号線の途中に、長砂城という城があり、その城主・長砂伊賀守の子・長砂与五郎の墓とされている五輪塔があるとのこと。まだ私はその「長砂城」や五輪塔など探訪していないが、元々この地域は安芸の毛利氏の出自と同じで因幡毛利氏も矢部氏と同じくかかわっていた。
 その規模は塔高185cmで同町内では最大とのこと。


【写真左】麓にある若桜神社
現地の説明板によると、創立時は不明だが、古くから「松上大明神」と呼ばれ、元弘3年(1333)後醍醐天皇が、京都に還幸の際、名和長年が参拝して鉾を奉納したと伝えられている。
 当社は元は、八兵衛谷というところにあったものを、正治2年(1200)前記した当時の領主・矢部氏が赴任したあとの築城の際、松上山の宮ノ元にうつされた。その後天正9年(1581)羽柴秀吉の因幡攻めの時に兵火にあい、社殿や宝物を焼失した。そのあと、前記したとおり秀吉の配下木下重堅、山崎父子により社殿を再建立したという。

◆上段の青字による当城の説明の中で、「天正3年、尼子氏の支配下」となった状況には、山中鹿之助が絡んでいる。

 この前年(天正2年・1574)、鹿之助は同じ若桜街道を下ったところにある私部(きさいち)城(八東町)をまず陥れ、ここを拠点として鳥取城の山名豊国と対峙する(豊国は戦国の世の常とはいえ、余りにも頻繁に敵味方を変えるため、誰からも信用されなくなっていく)。

 翌天正3年6月、鹿之助は若桜城主・矢部氏を攻略。今度はこの城を拠点として、私部城には鹿之助の娘婿・亀井茲矩(これのり)を置いた。9月、吉川元春・小早川隆景が因幡に向い、私部城を10月頃落とし、そのあと当城・若桜城を攻め寄せた。このころ周辺の動きがさらに激しくなり、毛利方はいったん安芸へ帰らざるを得なくなった。

 鹿之助らも翌年(天正4年)5月頃、若桜鬼ヶ城から退散せざるをえなくった。両者のこうした動きの背景には、浦上宗景織田信長の支援を得て、具体的に動き出したからである。

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