2011年3月22日火曜日

丹波・篠山城(兵庫県篠山市北新町2-3)

丹波・篠山城(たんば・ささやまじょう)

●所在地 兵庫県篠山市北新町2-3
●別名 桐ヶ城
●築城期 慶長14年(1609)
●形態 平山城
●縄張 梯郭式・輪郭式
●面積 約5万坪(160,000㎡)
●構成 天守台・本丸・二の丸・三の丸・内堀・外堀・馬出
●築城者 天下普請(徳川家康)・縄張:藤堂高虎、普請総奉行:池田輝政
●城主 松平氏・青山氏
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年10月8日

◆解説
 丹波篠山市の盆地中心部に築かれた平山城で、築城期が慶長14年(1609)であるから近世城郭である。つまり、この当時は豊臣秀頼や淀君が大阪城で踏みとどまっていた頃である。
【写真左】入口付近の石垣













 家康はその前年の慶長13年3月、駿河の駿府城殿舎が完成し、ここに移った。このころから家康は、天下普請と称して、特に西国大名を中心に主だった城の築造を命じている。

 姫路城もこの年(慶長13年)の暮れ、天守閣が完成し、慶長15年になると、尾張名古屋城の築城を命じている。

 篠山城も西国15カ国・20諸侯の助役を命じて築城された。以前にも記したが、このころ全国の諸大名は家康の命に逆らうことを嫌い、やむなく他国の城普請や内裏の賦役に駆り出され、そのために多大な財政負担を負うことになる。特に西国大名に対してはより徹底したものがあった。
【写真左】築城当時の篠山城絵図
 外堀をはじめ幾何学的に整然とした配置である。






 慶長14年(1609)9月、幕府はそれまで西国諸大名が所有していた500石積以上の大船の保有を禁じ、重要な収入源であった外国との海外貿易ができなくなった。

 幕府(家康)のこうした行動の目的は明らかに、大阪城に居る豊臣方に対する作戦の一つで、豊臣方に与する可能性のある西国大名の力を削ぎ落す狙いがあった。

 篠山城はこうした経緯を経て築城されたため、当然当城で戦火を交えたことはない。特徴的なのは、規模が大きく堅牢な造りであった割には、天守が造られなかったということである。城主は、その後松平三家が8代、青山家6代が務めた。
【写真左】大書院付近
 篠山城の中ではもっとも大きな建屋で、中を見学するには入場料がいる。








 篠山城は2回目の登城で、前回は2006年1月である。このときも整備工事が行われており、周囲は雑然としていたが、2回目の2010年10月のときも未だ竣工していなかった。
 ただ本丸跡中心部はほとんど完成していたようで、今後は外周部を中心として進められていくようだ。

 明治維新後、城郭の主だった遺構がほとんど破棄され、唯一残っていた大書院も戦前に火災にあって一旦焼失している。
 現在その大書院は復元され一般公開されている。2回目の登城の時は大書院には入らず、専ら周囲の石垣群を見て回った。
【写真左】二ノ丸跡
 現在は御覧の通りの平地となっているが、当時の状況を示したものが、下の写真である。
【写真左】当時の二ノ丸配置図
 これを見ると、非常に多くの部屋が造られている。
【写真左】井戸跡から二ノ丸跡・大書院を見る
【写真左】天守台跡
 築城当初は天守閣を建てる計画があったところで、南東部の隅に残っている。

 規模は石垣高さ17m(下の濠から)、東西18m、南北20mの大きさを持つ。
【写真上】天守台から右に八上城を遠望する
 右に見える形のいい山が、高城山で、別名丹波富士とも呼ばれ、今月紹介した丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)である。
【写真左】石垣に残る「三左之内(さんざのうち)」の刻印
 篠山城の埋門周辺にある石垣には、こうした刻印や符合が残るものがある。

 この写真のものは、築城期普請総奉行を務めた池田三左衛門輝政の名を冠したものといわれている。
【写真左】本丸跡に建つ青山神社
 明治15年に建立されたもので、篠山城主であった青山家ゆかりの社である。

 祭神の一人は、青山忠俊で、竹千代(徳川家光)を厳しく育てたことにより、家光が大成したといわれている。寛永20年(1643)4月15日逝去(享年66歳)。

 もう一人の祭神は、青山忠裕(ただやす)で、特に教育に熱心であり、篠山藩校「振徳堂」の学舎を増やし、善政をしいた城主として崇められている。天保7年(1836)3月20日逝去(享年69歳)

 この外にも青山家ゆかりの石碑も数基残っている。

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