2017年11月8日水曜日

安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)

安芸・高木山城(あき・たかぎやまじょう)

●所在地 広島県三原市本郷町下北方
●別名 沼田城
●築城期 不明(平安時代後期か)
●築城者 不明(沼田氏か)
●城主 沼田次郎、内藤実豊
●高さ 30m
●形態 丘城
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献 『中世武士団』石井進著、HP 「城郭放浪記」等)
 安芸・高木山城(以下「高木山城」とする)は、広島県三原市本郷町下北にあって、沼田川の支流梨和川の北岸に築かれた城館である。別名沼田城ともいわれる。

 元暦年間に伊予国の河野通信が、母方の伯父沼田次郎を頼り、安芸国に渡りこの城に籠って平教経の攻撃に防戦したが破れたという。
【写真左】高木山城遠望・その1
 西側から見たもので、北側から伸びる細尾根先端部に遺構が残る。

 右側に少し見える道路が旧山陽道だが、平安末期のころは道路などはなく、沼地の景観だったと推測される。



沼田荘

 南北朝期、九州を席巻し始めた南朝方菊池武光(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)を制圧するため、幕府は九州探題に今川了俊(多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)参照)を任命西下させた。このころ、都から九州方面に向かう際、瀬戸内を使った船旅はすでに定番になっていた。そして瀬戸内航路の途中には、鞆の浦をはじめとする潮待ち湊などが多くできた。
【写真左】高木山城配置図
 現地に設置してあった案内板をもとに、管理人によって当城の位置を追加したもので、左図の沼田川本流を北に登ると、小早川氏の高山城(広島県三原市高坂町)新高山城(広島県三原市本郷町本郷)などがあり、支流の梨和川を西に向かうと、梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)に繋がる。



 現在の三原市沼田町から本郷町にかけて流れる沼田川の下流部にもその当時船を停泊する湊があった。了俊の頃は沼田川が上流部から土砂を運んだため、すでに下流部は湿地帯となっていたが、平安後期の頃はまだ遠浅の海だった。それからおよそ100年後、了俊は西下の途中沼田にしばらく留まり、紀行文『道ゆきぶり』を綴った。

“……このあたりは寿永の昔までは海の底だったというが、なるほど岩石のかたわらにかきの殻等のついたものが見える。

……甑天神の山のならび、道の脇のちょっとした岡に松や竹が繁り、草葺の堂がひとつ建っている。平家の時代に沼田の某が立て籠もった城を、平教経朝臣が攻め落とした場所だそうだ。……”


寿永というのは、元暦元年(1184)の前年のころで、後白河法皇が東海・東山両道の支配権を源頼朝に委任した宣旨を出し、源氏が本格的に平氏打倒の動きを見せる年である。
【写真左】高木山城遠望・その2
 南側から見たもので、高木山城は中央の小丘部。手前が梨和川で、右に下ると沼田川に注ぐ。




沼田氏(ぬたし)

 この沼田荘はそれまで京都の三十三間堂で知られる蓮華王院の所領となっていた。そして、そのこの荘(荘園)の管理監視を司るいわゆる下司としてその職を担っていたのが、地元豪族沼田氏である。

 源平争乱が勃発した際、瀬戸内でもっとも早く反平氏の旗幟を挙げたのが伊予河野氏(高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)参照)である。この河野氏の挙兵に応じたのが縁戚関係を結んでいた沼田氏で、その中心人物が沼田次郎である。
 これに対し、平家方の平教経が沼田次郎の拠る沼田城を攻め落としたという。平教経の父は清盛の異母弟で、清盛の甥にあたる。
【写真左】登城口付近
 左奥の段丘から城域となるが、その手前に旧山陽道が東西に走る。
 写真の中央右には「梨羽城跡←」の看板が設置されている。



 亡びた一族の記録は多くの場合ほとんど残されていないことが多い。高木山城(沼田城)及び平家に滅ぼされた沼田氏は、後の土肥(小早川氏)氏(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の支配に及ぶと、さらにその痕跡さえも留めなくなった。

 平安時代中期に作成された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、律令時代、沼田本郷・船木郷・安直郷・真良郷・梨子羽(梨葉)郷の名があり、その後ほとんどが沼田荘に変わっているが、この段階で沼田の郡司として荘園の寄進などを行っていたのが沼田氏ではないかと思われ、源平合戦の際、生口島の公文や下司たちが、沼田氏(のちに平家に帰順した沼田五郎など)に召集されて門司関まで従軍参戦したといわれる。
【写真左】この階段から登城する。
 南麓部には寺院があり、その裏山である高木山城跡の南側には墓地が点在している。
 登城道は従って墓地に向かう道を使う。
【写真左】墓地
 階段を上がると、直ぐにこの墓地が見える。

 10mにも満たない尾根幅全体を削平し、奥行もさほどない状況だが、おそらく当時高木山城の最先端部に設置された郭だったのだろう。
【写真左】尖端部から南を眺望
 手前の樹木下を旧山陽道が走り、その奥を梨和川が流れている。

 奥に見える山並みを超えると、沼田氏が隆盛の時代、水軍領主でもあったことから当地(沼田荘)以外に支配下に治めていた竹原荘(現竹原市)に繋がる。
【写真左】地蔵及び五輪塔の部位
 墓所の片隅には石仏などが集められているが、中には五輪塔の部位も見える。沼田氏一族のものもこの中にあるのかもしれない。
【写真左】北側から南を見る。
 墓地奥から振り返ってみたもので、奥行は20m弱ほどか。
 このあと、さらに奥に向かう。
【写真左】堀切・その1
 当城の遺構として残るのは、この郭跡に残る墓地のみと思っていたが、さらに奥に進むと、墓地は無くなり、尾根を遮断するような切り込みが見える。堀切である。
【写真左】堀切・その2
 下りてみると、予想以上に堀切としての良好な遺構を残す。

 瀬戸内に力を誇示した沼田氏は水軍領主として船戦に長けていたこともあり、本格的な城砦(海城)は残さなかったかもしれないが、この堀切だけは貴重なものと思われる。
 


横見廃寺跡

 ところで、上掲した高木山城配置図にも記しているが、当城の周辺には多くの史跡が点在している。特に当城西麓には白鳳時代に建立されたといわれる横見廃寺跡がある。
【写真左】横見廃寺跡
 高木山城の西麓に残るもので、現在畑地などになっている。









現地説明板より

“国指定史跡
 横見廃寺跡
     昭和53年5月22日 指定

 横見廃寺跡は、いわゆる火炎文軒丸瓦を出土する広島県最古の寺跡として知られている。昭和48年以降、広島県教育委員会が行った発掘調査によって、北側に山を背負った南面する微高地に講堂、塔、築地などの遺構が残存していることが明らかになった。建物の数が未調査であるため不明な部分も多いが、寺域は東西約100m、南北80m前後と考えられる。
【写真左】横見廃寺跡平面図
 高木山城はこの図の右側に当たる。
左側は本郷中学校。







 講堂跡は寺跡の東寄りに位置し西面する。基壇は、南北28.8m、東西19.1mの規模で、建物は桁行7間メ梁行4間と推定されている。
 基壇は平瓦をたてならべて化粧し、この基壇の南側には回廊がとりつく。講堂の西北方には塔(または北金堂か)の遺構が検出され、西向きの特異な伽藍配置となる。

 瓦類は山田寺式単弁蓮華文軒丸瓦(火炎文瓦)や、忍冬唐草文軒丸瓦をはじめとし、優美な白鳳時代のものが多数出土しており、特に火炎文瓦は飛鳥地方との直接的な交流を物語るものとして注目されている。
【写真左】瓦類発掘調査状況











 なお、本寺跡の西約200mには、県内最大の横穴式石室をもつ梅木平古墳(県史跡)があり、さらに西約2kmには、切石積の石室で知られる御年代古墳(国史跡)がある。
 いずれも畿内政権との交流を示すものであり、当時のこの地域が畿内と密接に関係していたことがわかる。
          三原市教育委員会”


楽音寺

 上掲した高木山城配置図にも記されているが、梨和川を挟んで南側には古刹・楽音寺がある。

 承平・天慶の乱(935~941年)で流罪されていた藤原倫実(ともざね)は、藤原純友を追討する大将に任命され、髻(もとどり)に込めた一寸二分の薬師像のお蔭で窮地を脱し、純友を滅亡させた。この功によって沼田七郷を賜り、感謝をこめて建立したのが薬師如来を祀る楽音寺である。
【写真左】楽音寺・その1
 現在は真言宗だが、かつては天台宗の古寺で、盛時は仁王門から内側の谷いっぱいに多くの坊が建ち並んでいたという。
 
参拝日 2014年5月8日


 歴史学者・石井進は、その著書『中世武士団』の中で、倫実が中央からの流人であったというのは、家系を飾るための虚構であって、おそらく本来の在地豪族か、あるいは国衙の在庁官人が土着して開発領主となっていったのではないか、と記している。
【写真左】楽音寺・その2
 写真の階段を登ったところが現在の本堂で、この位置まで長い坂が続く。おそらくその間に段があり多くの坊が建っていたものと思われる。

なお、当院は境内及び本堂等の写真撮影は禁止されているため、周辺部のみのものとなった。


 当寺に伝えられた鎌倉中期の文書(「楽音寺文書」3〔『広島県史』古代中世資料編4〕に、この寺は天慶年中(938~947)に沼田氏が建立した氏寺である、と書きつけられ、鎌倉末期に至るまで楽音寺の院務職は、代々倫実の子孫が連綿として相伝してきたとされている。このため、この倫実こそが沼田氏の祖と仰がれてきた人物であったという。
【写真左】楽音寺下の景観
 この写真でいえば、左側に梨和川や高木山城がある。

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