2012年7月3日火曜日

温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)

温湯城(ぬくゆじょう)その2

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 今稿では戦国期における温湯城、及び小笠原氏の動きについて取り上げる。
【写真左】温湯城鳥瞰図
【写真左】東方の郭から本丸方向を見る。
 前稿の写真とほぼ同じ位置だが、この位置から本丸方向へ向かうと、最初に本丸を取り囲むような帯郭が出てくる。


 立木が繁茂している割に、この箇所は遺構の確認がしやすい。



小笠原長隆

 戦国期に至って戦歴の記録が出だすのは、長隆のころからである。もちろんそれ以前にも同氏の活躍はあったものと思われるが、記録が残っていないため詳細は不明である。
【写真左】本丸東方の切崖
 温湯城の北東部にはこうした数段の郭があるが、西側は本丸側からストレートに下まで切崖状の面が多く、手が加えられた痕跡はない。



 永正5年(1508)6月、長隆は、江川北方の君谷において討死した井原弥六の祖父と、弥六の忠勤を賞して、井原かちや名(みょう)を本領として、領有させた(「庵原文書」)。また、それから11年後の永正6年にも、井原氏が長隆に従って君谷で戦功をあげ、豊後守に推挙されている(「同文書」)。
【写真左】君谷付近
 川本町の東隣にある現在の美郷町にあり、京覧原という地区でもある。手前の道を下ると地頭所城に向かい、さらに進むと江川に突き当り、少し下ると川本町・温湯城へつながる。
 なお、この箇所で北に向かうと二手に分かれ、左側の狭い道を行くと、石見銀山へ、右に向かうと尼子・毛利が戦った「忍原合戦」場の川合へつながる。


 このことから、当時小笠原氏は、江川北岸の君谷地域(現美郷町)の進出を計っていたことが分かり、また、江川の南岸は現在の邑南町にある井原地区まで支配していたことが理解できる。
【写真左】下の郭から本丸へ向かう。
 おそらく犬走りのような連絡路は当時あったかもしれないが、本丸に向かう道は消滅している。
 何度か九十九折をしながら向かう。



石見銀山をめぐる戦い

 ところで、温湯城及び小笠原氏を語る際、石見銀山を抜きにしては語れない。

石見銀山については、以前石見銀山・山吹城(島根県大田市大森銀山)の稿で少し取り上げているが、当山が初めて記録に出るのは、延慶3年(1310)ごろである。
【写真左】山吹城から石見銀山を見る









 「銀山記」によれば、大内弘幸が石見国銀峯山において、白銀を採り、外国船に与えたという。その後、大永年間ごろ(1520年代)まで当山の動きは不明だが、大永6年(1526)3月23日、博多の豪商・神谷寿貞が、出雲国鷺浦(史料によっては、田儀村)の銅山師・三島清右衛門の協力を得て、仙之山銀峯山で銀を採掘し、それを博多に持ち帰ったという(「銀山日記」)。このときの事業を支えたのは、大内義興といわれる。
【写真左】二の丸・その1
 本丸の南端部から尾根筋にむかって東方へ伸びるもので、幅7~4m、長さ25m前後の規模を持つ。
【写真左】二の丸・その2
 先端部から本丸方向を見たもので、この位置から本丸までの比高は4,5m程度ある。





 もっともこの採掘も一時的なもので、この5年前、すなわち大永元年(1521)のころから尼子経久と安芸鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)などにおいて合戦が始まり、石見国においても両者の戦いが繰り広げられた。このため、採掘した時期は、大内氏優勢の時期、すなわち(大永4年(1524)から享禄元年(1528))ごろまでに限定されたようだ。
【写真左】二の丸先端部の堀切。
 二の丸の先端部から一旦大規模な堀切が介され、さらにその先にも尾根北面に竪堀、及び堀切が2か所あるようだ。
 そして、そのまま尾根を進んで行くと、毛利方が陣した会下山城(奥山城か)に連なる。


 なお、この会下山城については、サイト『城郭放浪記』が紹介しているので、ご覧いただきたい。


 享禄元年(1528)、銀山の支配に最期まで執着していたのだろう、大内義興は亡くなるこの年に、銀山防衛のために、矢滝城を築いた。そしてその年嫡男義隆が家督を継いだ。ところが、それから3年後の享禄4年(1531)4月、小笠原長隆は、大内氏に反旗を掲げ、大田高城を攻略し、併せて矢滝城(島根県大田市温泉津町湯里 西田)を急襲し、ついに石見銀山を支配下に置いた。この後3年間、小笠原氏の手によって大量の銀が採掘されたという。
【写真左】本丸先端部から二の丸を見下ろす。
 二の丸から直接切崖を登って本丸にたどり着くこともできるが、二の丸の南側からが行きやすい。



 しかし、天文2年(1533)4月、大内義隆は再び奪回した。そして、8月になると、再び福岡の神谷寿貞は、宗丹・慶寿を伴って銀山に入り、初めて銀の現地精錬(灰吹き銀精錬)に成功した。こうした事業の成功によって、義隆は銀山奉行として、飯田石見守、吉田若狭守を派遣させ、銀100枚を上納、この資金は翌年(天文3年)の4月、後奈良天皇の即位の費用に献納され、自身は太宰大弐に任じられた。

 天文6年(1537)8月16日、尼子経久は石見銀山を攻略した。尼子氏が石見銀山に対して本格的に触手を伸ばしたのはこのときからと思われる。その際、大内寄りだった石見の小笠原・福屋・三隅・益田氏などが尼子氏に従っているので、事前に懐柔策がとられていたことが想像される。

 その後、尼子氏は以前紹介した播磨三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、本願寺光教と手を結び、播磨國に侵入し、赤松政村を淡路島に敗走させている。しかし、そうした尼子氏の播磨出兵の隙を狙って、再び大内義隆が石見銀山を奪回した。おそらく、このとき石見の主だった諸氏が再び大内氏に属したと思われる。
【写真左】本丸・その1
 最大幅10m×長さ20m程度と小規模なもので、中心部で少し段差が認められ、西側が高くなっている。



 この後、銀山をめぐって両者及び小笠原氏が争奪戦を繰り広げていく。そして、天文10年(1541)、尼子経久が亡くなると、大内義隆は出雲国攻略の準備に入った。小笠原長隆は経久の亡くなった翌年に亡くなるが、嫡男長徳が家督を継ぎ、あらためて大内氏の麾下として石見銀山に入った。天文11年(1542)7月のことである。

 そして、大内氏の月山富田城攻めにおいては、翌天文12年(1543)長徳は大内氏に合流し、2月6日出陣した。この戦いは、以前にも紹介したように大内方の大敗北となり、義隆は辛くものがれ周防山口に帰還した。
【写真左】本丸・その2
 ご覧の通り本丸跡であるが、石碑や案内板など何もない。

 『山陰の城館跡・改訂版』(2011年3月刊行)という島根県及び鳥取県の各教育委員会が編集した非常に分かりやすい冊子があるが、どういうわけか、戦国期非常に重要な城砦であったこの「温湯城」はまったく掲載されていない。

 山城はほとんど民有地であるが、それでも歴史跡的価値のあるものには一応案内板などが設置されているのが一般的である。
 温湯城については、所有者の方からそうした趣旨を理解していただけなかったのかもしれない。


 ところで、長隆の代に小笠原氏は積極的に周囲の領主たちと和睦を進めている。とくに彼の姉妹は、それぞれ当時強大な力を誇っていた高橋氏や、福屋河上へ嫁いでいる。また、その息子・長徳は、福屋の息女を妻として迎えている。しかし、天文11年、長隆が亡くなり、家督を継いだ長徳もわずか5年後の天文16年(1547)に亡くなる。
【写真左】本丸西の郭
 本丸から西方にかけては、V字状に尾根が分かれている。このうち、北側に延びる尾根が登城したときのコースだが、この日下山する尾根を間違え、南側の尾根を降りてしまった。



 大内氏の出雲国における大敗後、石見国では不安定な政情が続くことになる。そして、天文20年大内義隆が陶晴賢によって誅滅されると、石西では益田・吉見両氏がさらに対立、石央・石東では、小笠原氏をはじめとし、福屋・佐波氏などが相争った。

 対立構造としては、小笠原VS福屋、小笠原VS佐波、という形であったが、福屋氏と佐波氏は連合し、結果毛利氏に与していった。対する小笠原氏は尼子氏と通じていくことになる。
【写真左】尾根下から岩塊を見上げる。
 降りるにしたがって傾斜はきつくなり、しかも南側の「市井原」側に出る直前、背丈の高い熊笹と草のツルに足を取られ、老女犬(チャチャ)を抱いたまま、ひっくりかえってしまった。
 尾根を降りていく途中で、おかしいとは思ったが後のマツリである。



小笠原長雄(ながかつ)

 ところで、石見銀山の支配については、前半期は大内氏が、そしてその後尼子氏などが関わっていくことになるが、実質の現地支配を任されたのは、ほとんど小笠原氏であったようだ。これは同氏にとっては、地元の鉱山でもあり、当地の状況を把握していた強みが最大の理由でもあり、大内・尼子両氏はその都度、小笠原氏に事実上の管理運営を委ねていたわけである。

 また、小笠原氏は銀山に最も近い祖式を領有するため、当地支配者であった出羽氏とは早くから同盟を結びその基礎を築いた。
こうした態勢を整えながら、前記した福屋・佐波氏と度々抗争を続けていくことになる。
  • 天文19年(1549)11月24日、長雄、佐波氏と石見国太田造山で戦う(「平田文書」)。
  • 天文22年(1553)12月21日、小笠原方・平田彦衛、石見国日和村に福屋方を破る(「同文書」)。
  • 弘治元年(1555)4月16日、長雄・横道十郎、石見国都治で福屋方と戦う(「清水文書」)。
ちなみに、このころには同盟を結んでいた出羽氏は、小笠原氏を離れ毛利方に入った。

次稿では、温湯城陥落及びその後について触れておきたい。

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