2012年4月24日火曜日

鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)

鏡山城(かがみやまじょう)

●所在地 広島県東広島市西条町御薗宇
●別名 西条城
●築城期 長禄・寛正年間(1456~66)
●築城者 大内氏
●形態 山城
●遺構 郭・井戸・土塁・竪堀・堀切等
●高さ 標高335m・比高110m
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年7月27日

◆解説(『日本城郭体系第14巻』等)
 鏡山城は現在の東広島市に所在する国指定史跡の城砦である。
 東広島市は、市街地を訪れるたびに大きな建物が増えてきている。旧西条盆地という広大な平坦地を持ち、近年その良好な地理的条件から近代的な建物が次々と建ち、さらに隣接自治体との合併により巨大な都市へと変貌を遂げている。

 そうした近年の姿とは別に、当地は往古から人々の生活があったらしく、弥生時代を中心とした多くの遺跡が点在する都市でもある。
【写真左】鏡山城
 本丸付近の大岩
 人為的に石積みされたものかもしれない。








現地の説明板より

“国史跡 鏡山城跡
  平成10年1月14日指定

 南北朝から戦国時代にかけて、この地域は「安芸国東西条」と呼ばれ、山口の守護大名大内氏の所領でした。大内氏は、九州博多を有して海外貿易に力を入れていました。

 鏡山城は、大内氏が安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる目的で築いたものです。大内氏は、大内氏と海外貿易をめぐって対立する細川氏との接点となっていたため、鏡山城をめぐって激しい戦いが行われました。
【写真左】鏡山城遠望
 鏡山城周囲は、「鏡山公園」として整備され、地元市民の憩いの場として活用されている。








 戦国時代に入ると、出雲尼子氏が勢力を伸ばし、大永3年(1523)、鏡山城を攻め落とします。同5年(1525)、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、その拠点は盆地西方の杣城(そまじょう)・槌山城(つちやまじょう)に移され、鏡山城はその役割を終えました。

 城跡は、標高335mの山頂に位置する御殿場と呼ばれる郭を中心に、約300m四方に広がる大規模なもので、ダバ(段場カ)と呼ばれる郭や、堀切・畝状竪穴群・石塁などからなり、中でも井戸跡は5か所もあり、多くの人が城内にいたことをうかがわせます。

 平成10年1月14日、室町時代を代表する地域の拠点的な城跡として、国史跡に指定されました。

  社団法人 東広島市観光協会”
【写真左】縄張図
 東西に延びた郭群(1郭・2郭)を中心に、東に5郭、南に3・4郭を配し、さらに下には南郭群を置き、北には数条の竪堀を設置、西には南北に巨大な2条の堀切(竪堀)を構えている。



大内氏

 鏡山城の築城期は冒頭で示したように、長禄・寛正年間(1456~66)とされているが、大内氏が当地を治めていたのはこれより以前とされているので、『城郭体系第13巻』でも指摘されているように、室町初期には築城されていた可能性が高い。

 鏡山城が所在する地域は、旧東西条といわれ、鎌倉初期は国衙領であったが、その後東寺領となり、南北朝期には大内弘世(霜降城(山口県宇部市厚東末信)参照)が当地を事実上武力制圧しているので、鏡山城もすでにその頃築かれていた可能性もある。
【写真左】堀切
 南郭群にあるもので、大分埋まっているようだ。









大内政弘

 さて、この長禄・寛正年間を境に応仁の乱が勃発することになるが、政弘は義父にあたる西軍の山名宗全に味方し、応仁元年(1467)8月、政弘は摂津国において東軍を破り入京、その後約10年の間畿内において戦うことになる。

 文明9年(1477)10月、政弘は東軍に降り、幕府は周防・長門・豊前・筑前の四国を政弘に対し守護職として安堵したが、その際この安芸東条・西条及び、石見も安堵されている。

 政弘はこのようにほとんど在京での活躍が多いが、鏡山城での戦いは細川氏と対立した動機からのものが多いようだ。
【写真左】4郭
 南東部に突出した郭で、大手門が築かれていたとされている。この上部には3郭があり、広い通路と連絡されている。





戦国期

 説明板では尼子氏が鏡山城を攻め落としたのは大永3年(1523)となっているが、「毛利文書」によれば、その前年(2年)に、尼子経久と毛利元就が鏡山城を攻略し、同年7月5日、経久はこの日出雲国に凱旋した、と記されている。

 尼子氏と大内氏の戦いは、永正14年ごろからすでにその兆候が現れ始めている。そして大永元年(1521)9月、大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)は石見大麻山にて尼子経久と戦火を交えた。おそらくこの戦いが大内・尼子の最初の本格的な戦いと思われる。なお、この戦いは直ぐに幕府の足利義晴が調停に入り、停戦した(「安西軍策」)。
【写真左】3郭
 通称「馬のダバ」といわれている箇所で、東西30m、南北11mの規模を持つ。
 西側に土塁と竪堀、南側に畝状竪堀群が配置されている。


 「馬」とはこの3郭が城の南側で、干支でいう午(うま)からついたものという。


 しかし、それもつかの間で、大永4年(1524)大内氏と尼子氏の鏡山城での戦いは最も激しくなった。同年5月、義興は息子義隆を伴って安芸国に入り、尼子氏が押さえていた属城を次々と攻撃していく。そうした最中、石見国では益田氏と、三隅・福屋両氏の争いが激化、大内氏は自らの戦いも行いながら麾下の内紛調停も行わなければならなかった。

 同年7月になると、今度は尼子氏は毛利元就と連合し、再び鏡山城を攻めたてた。翌5年6月、義興の将・陶興房は、安芸国米山城(こめやまじょう:東広島市志和町志和東)の天野興定を落とし、服属させた。そして興房はこの天野興定と組んで、同国志芳荘で戦った。

 以後、義興が没する享禄元年(1528)ごろまで鏡山城を中心とした戦いが続くが、義興が亡くなった後はしばらく直接の戦いはいったん収まる。
【写真左】「中のダバ」
 3郭から上がると通称「中のダバ」といわれる郭に出る。


 この西側に主郭とされる壇があり、事実上本丸の一部と考えられる。
 東西に約60m前後、南北幅20m前後のもので、平坦な仕上げとなっている。
【写真左】「中のダバ」から先ほどの「馬のダバ」を見下ろす。
 高低差もかなりあり、切崖も効果をもったものである。
【写真左】2郭から1郭方面を見る。
 奥に見える高台が1郭になるが、手前の2郭の方がやや長く、規模が大きい。


 右に見える四角いものは井戸跡(下の写真参照)。
【写真左】2郭から東方下に「下のダバ」を見る。
 3郭から東に犬走りのような郭を抜けると5郭(下のダバ)が見える。


 2郭との高低差はかなりあり、ひょっとして10m程度あるかもしれない。このため手前に転落防止用のロープがかけられている。


 なお、この下のダバをさらに下ると、東西100m、幅10m前後の規模の「屋敷跡」があったといわれている。
【写真左】井戸跡
 中の方まで確認はしていないが、地形から考えると、相当深いものだったものと思われる。


 なお、この井戸跡とは別にこの近くにも大きなくぼみ(穴)が残っているが、これも井戸跡だったかもしれない。
【写真左】1郭から2郭を見る。
 2郭と1郭との段差は約3m前後ある。この1郭は通称「御殿場」といわれ、いわゆる本丸に当たる。
【写真左】1郭(本丸・御殿場)
 東西30m×南北11m。西側にむかうと尖った形となり、その下には堀切を介して「石門」があったとう。


 なお、本丸には礎石建物があったといわれている。
【写真左】本丸から北に「陣ヶ平」を見る。
 本丸からの眺望は東西は期待できないが、南北方向は確保できる。


 この写真の看板越しにみえる山は、おそらく向城として使われたと思われるが、「陣ヶ平(城)」といわれた城砦。
【写真左】北郭群へ向かう。
 次に1郭と2郭の取次部から降りる道があり、ここから北麓にある北郭群に降りていく。
 途中に再び別の「井戸跡」がみえる。
【写真左】畝状竪堀群・その1
 北郭群の見どころは何と言っても「畝状竪堀群」である。


 登城したこの日は、最近伐採整備されて間もないころだったこともあり、遺構がはっきりと確認できた。
 おそらく10条ぐらいはあるかもしれない。
【写真左】畝状竪堀群・その2
 南東麓の竪堀から上を見たもので、上部は5郭の切崖。

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