2011年4月26日火曜日

美作・高田城 その2

美作・高田城 その2

はじめに

 今稿は、前稿で少し紹介した「出丸(太鼓丸)」と西麓に残る「三の丸」、及び三浦貞勝の妻で後に宇喜多直家に嫁いだ「お福」を取り上げたい。

出丸(太鼓丸)

 本丸のある如意山は標高322mで、南方の出丸(太鼓丸)が築かれた山が、勝山といい、標高261mである。これら二つの山を合わせて、「大総山」という。
 出丸あるいは出城ともいわれているこの太鼓山は、本丸に比べ当然その規模は小さいが、現地を踏査してみると、思った以上の遺構を見ることができる。

 なお、現在残る出丸の主だった遺構は、明和元年(1764)、三浦明次が真島郡23,000石の領主となり、本丸の修復及び、この出丸に太鼓櫓を設置したといわれ、その時、高田城を「勝山城」と改称したといわれている。
【写真左】鼓城橋(こじょうばし)
 本丸と出丸の間にかけられている橋で、近年のものであるが、この下を道路が走っている。
   
 現地には何も書かれていなかったが、元々出丸東麓にあった東虎口から伸びるルートでもあったことから、この谷間は事実上の堀切を兼ねていたのではないかと思われる。
 なお、写真の右側が本丸で、橋の向いが出丸に繋がる。
【写真左】鼓城橋を渡り切った出丸側から本丸を見る。
 写真上段部に二の丸(野球場)が設置されている。
【写真左】堀切
 出丸の中で最もはっきりと残る堀切で、この付近には番所らしき平坦地が認められた。

【写真左】登城途中から北方に本丸を見る。
 樹木が遮り、登城途中の眺望は余り期待できないが、中腹付近から本丸を見ることができる。

【写真左】出丸主郭付近
 登城路後半から階段は設置されているものの、かなり傾斜がきつくなる。少し息切れしそうになったところで、主郭にたどり着く。
 写真の附近は20m四方程度だが、主郭の下東方から南方にかけて2,3段の郭が残る。

【写真左】主郭の下に残る帯郭
 写真右に主郭があり、この写真にみえる郭段が最も規模が大きく、東方から南方にかけて連続した郭構成となっている。
 また、更にこの下にも小規模な郭が残っているが、部分的に歩道(ウォーキングコース)が設置されたため改変されている。

【写真左】カンカン井戸
 上の写真にも見えているが、小規模な井戸跡がある。
 深さは5m以上あるとのこと。また説明板には「井戸は抜け道で、西側の町裏へ続くといわれているが、あり得ない」と書かれている。


三の丸遺跡

 本丸の西麓には、三の丸遺跡がある。市役所の隣に残されているもので、三浦氏時代の15世紀ごろから、江戸初期の森氏城番ごろまでの館跡とされている。
【写真左】三の丸跡
 石垣・鍛冶炉・井戸・溝など生活感の残る遺跡である。

 現地の説明板より抜粋しておく。

“……本遺跡を調査した結果、室町時代前期から江戸時代初期にわたる建物や、遺物が出土した。その中には大型の掘立柱建物や、瓦葺の建物・茶の湯にかかわる天目茶碗・輸入された中国製の陶磁器・武具・碁石・鉄漿付皿(かねつきさら)などの文化程度の高い武士の生活が営まれたと考えられ、15世紀の三浦氏から継続して、17世紀初頭の森氏の城番までの館跡の一部と推定される。

 平成15年3月、本遺跡が勝山にとって、貴重な歴史的価値があると判断して、現状に近い形で保存することになり、平成16年11月に保存整備が完成した。
真庭市教育委員会”


「おふくの方」

 さて、現地には、城主三浦貞勝の代に正室だった「おふくの方」について、詳しい略歴が紹介されている。

高田城(勝山)
 城山は、本丸を如意山といい、その南麓に二の丸と出丸があり、出丸を勝山と呼んだ。両山をあわせて大総山または、大津夫良山ともいい、これを総称して高田城と名付けた。
 高田城の築城は、三浦貞宗によると伝えられ、8代貞連の孫貞久が天文元年(1532)に城主となり、高田城は戦国時代に入る。

 西美作の軍事交通上の要衝であった高田(勝山)は、はじめ山陰の尼子氏が、次いで備前の宇喜多氏が、また西からは安芸の毛利氏が侵攻してきた。
 高田城を巡っての戦国の争奪戦については、種々の話が伝わっている。

【写真左】高田城本丸遠望

 天文13年(1544)、山陰の尼子氏が侵攻してきたが、まもなく尼子氏の勢力も衰え、永禄2年(1559)高田城を奪回し、貞久の嫡子三浦貞勝を城主とした。


 高田城第11代の三浦貞勝の正室「おふくの方は、後に石山城主(岡山市丸の内)宇喜多直家の室となり、秀家を産む。岡山城を築城した築城した宇喜多秀家の生母は「おふくの方」であった。

 「おふくの方」と桃寿丸は密かに城を脱出し、備前津高郡下土井村(現在の加茂川町)の縁故先にたどり着く。そこで宇喜多直家に匿われ、宇喜多氏の居城亀山城に送り込まれた。

 直家は、桃寿丸を我が子同様に養育につとめていたが、「おふくの方」の悲願であった桃寿丸を立て、高田城再興の夢も、桃寿丸が地震による圧死のため潰えた。八郎(後の秀家)が生まれて間もなく、直家は死去した。
【写真左】勝山の街並み

 「おふくの方」は、備中高松城攻めで岡山入りした羽柴秀吉に見初められ、寵愛を受ける。八郎は、羽柴秀吉が名付け親になり、秀吉の秀の一字と、父の直家の家をもらい、「秀家」と名乗った。

 それ以後、実母「おふくの方」の尽力により、秀家は養父の太閤の寵愛を受け、破格の昇進をした。 関ヶ原の合戦後、秀家の身を案じた「おふくの方」は、京都の圓融院に入り、尼となり、圓光院と名乗った。その後の足取りは定かでないが、一度勝山に帰郷後、備前に出て直家の菩提を弔ったと伝えられる。

 群雄割拠の戦国時代、「おふくの方」の美貌は、戦いに明け暮れた直家を捕らえ、時の天下人秀吉をもとりこにした。秀家の出世、岡山城築城の際には、「おふくの方」の力があったともいえる。”

2011年4月19日火曜日

美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1

美作・高田城(みまさか・たかだじょう)その1

●所在地 岡山県真庭市勝山
●別名 勝山城・大津夫良山城
●築城期 延文年間~嘉慶年間(1360~1388)ごろ
●築城者 三浦貞宗
●標高/比高 322m/140m
●遺構 郭・石垣・井戸・堀切
●指定 真庭市指定史跡
●登城日 2007年11月9日及び、2011年4月23日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 岡山県の北西部旧勝山町にあった山城で、現在同町は合併して真庭市となり、旧役場が同市役所となっている。
【写真左】高田城遠望
 西麓を流れる旭川対岸からみたもので、左側が本丸のあった城山、右側の山が出丸(太鼓山)。
 写真にある町並みは、「武家屋敷」跡が残り、市役所の脇には三の丸遺跡がある。



 高田城(別名「勝山城」)は、この市役所のある建物の北東部に屹立した如意山に築かれた。この城砦を北から西にかけて取り囲むように岡山県三大河川の一つ旭川が流れている。
 築城者は、鎌倉時代後期に三浦氏が築いたとされる。

  高田城の現地には詳細な当城の歴史を紹介した説明板が2,3種類あり、概略が理解できる。以下それらの内容を下段に転記しておく。
【写真左】高田城案内図
 現地二の丸跡付近に設置されているもので、左方向が北を示す。
 図の下を流れるのが旭川。この川は典型的な濠の役目を果たしていた。

 本丸のある城山と南の出丸の間の谷には道路が走り、橋がかけられているので、両城間の往来が楽にできる。


「城山・太鼓山 総合案内板」より

高田城(如意山・大総山)の縄張り
 三浦氏が高田庄の地頭としてこの地へ来た時期は明らかではない。延元元年(1336)、足利尊氏は、後醍醐天皇らと対立し、九州から京へ攻めのぼるとき、美作の国高田庄三浦介に宛てて、教書を送っていることからみれば、鎌倉時代にさかのぼると思われる。美作西部の拠点として高田城が築かれた。
【写真左】二の丸と出丸
 二の丸は現在野球場となっており、この位置まで車で来ることができる。
 この位置からレフト方向を見ると、南方に出丸(太鼓丸)を遠望できる。


 標高320mの山頂に、主郭(本丸)、周りの帯曲輪を巡らし、北東の尾根に2段の郭、さらに下って2条の深い堀切と郭が交互に配されている。

 北東の緩斜面に3,4段の郭を、南にも3,4段の郭を築いている。南にある出丸(出城)への鞍部にも郭(二の丸)がある。東の谷を隔てた細長い南北の尾根の南端(甲岩(かぶといわ))や、東の山塊に繋がる鞍部にも堀切がある。

 北側は急な斜面で旭川が外堀の役目を果たしていた。西側も急な斜面であるが、数条の竪堀が掘られている。”
【写真左】馬洗場
 二の丸から東谷を進んでいくと、すぐに見える場所で、かつてはこの谷付近には池もあり、また井戸もあったといわれている。



 さらに、「高田城の攻防」として主だった略歴が記されている。

“◇高田城の攻防◇
  • 正平16年(1361)三浦貞宗以前、美作守護赤松貞職に属していた頃から山名時氏が高田城を攻撃。
  • 文亀元年(1501)8代城主貞連は、見明戸(湯原)・塩湯郷(美作)の代官職を兼ね、足利義尚に従って近江へ出陣した。
  • 9代貞国は、真庭郡の全城を支配。
  • 永正17年(1517※⇒1520)~尼子経久・赤松氏・浦上村宗ら美作へ侵入。
  • 享禄5年(1532)尼子晴久に攻められて落城し、貞国が戦死。
  • 天文元年(1532:享禄5年)ごろ、貞久が10代城主となる。
  • 天文9年(1540)、尼子国久が5千人の軍勢で攻撃、笹向城とともに落城。
  • 天文12年(1543)、尼子氏の武将宇山久信に攻められ、呰部で牧官兵衛が討死。
  • 天文13年(1544)、再び宇山氏に攻められるが、10代貞久が死守。
  • 天文17年(1548)、貞久が病死し、喪に乗じて宇山氏が新庄、美甘の諸城を落とし、陣山に陣を張って攻撃し、落城する。貞勝は岩屋城(久米町)に逃れる。
  • 永禄2年(1559)、家臣の舟津・牧・金田らが高田城を復興し、貞勝が11代の城主となる。
  • 永禄8年(1565)、毛利の属将三村家親に攻められて落城し、貞勝が戦死。
  • 永禄9年(1566)、貞盛が12代城主となり、高田城復興する。貞勝の正室「お福」が宇喜多直家に嫁ぐ。
  • 永禄12年(1569)、毛利氏が攻撃し、貞盛が自害、貞広は備中に逃れる。毛利の部将が高田城を守る。
  • 元亀元年(1570)、貞広は尼子氏の部将山中鹿助の援助で、毛利軍を破って高田城へ入る。
  • 天正4年(1576)3月、毛利・宇喜多軍が、高田城を攻撃し、浦上宗景の援助むなしく落城し、貞広は備中に逃れて死す。三浦氏の滅亡。
  • 毛利氏の領有することになり、部将楢崎元兼が高田城主となる。
  • 天正11年(1583)ごろ、宇喜多秀家が美作を領有することになる。”
【写真左】登城口付近
 高田城本丸へ向かう道は西麓側及び北麓側などがあるが、写真にある東谷からのルートが最も体力的には楽のようだ。
 この写真の左側に本丸がある。



尼子氏らの美作侵入

初期の侵入 

 出雲国の雄・尼子経久による南方侵略は、天文元年(1532)ごろから本格的に始まるが、美作・高田城へはそれ以前の永正年間にも押し寄せてきていることが分かる。ところで、当地の説明板の下線を引いた個所で、永正17年(1517)とあるが、永正17年は1520年となるので、誤記である。
【写真左】堀切と竪堀
 北東部に伸びる「椎の木古径」という歩道の途中に残るもので、この先にも2カ所の堀切があったようだが、その先を歩くと舗装道路が出てきたので、無くなっているかもしれない。



 この年、尼子経久及び赤松氏・浦上氏がそれぞれ美作に侵入、と記されている。

 尼子経久によるこのときの美作侵入の規模がどの程度か不明だが、当時経久については、京における細川両家の乱に関わり、この年(永正17年)2月22日、細川高国より京極高清の援助を求められている(片岡文書)。
 ただ、その催促によって、経久が実際に京に上ったかどうかは不明である。
【写真左】東側の郭より本丸を見る。
 本丸の東には3段の腰郭があり、中段の郭は北方に伸び、現在休憩小屋が建っている。





 結局、細川高国は摂津で敗れ、一旦近江坂本へ逃れ、改めて六角定頼・京極高清らの支援を得て、5月、京に入って細川澄元・三好之長を破り、翌永正18年(大永元年)12月、足利義晴を第12代将軍として擁立していくことになる。

 仮に、経久が美作に侵入したとしても、極めて期間の短いものだったと思われる。というのも、明くる大永元年(1521)8月には、山口の大内義興と石見大麻山(浜田市)で戦いを始めている(その後、将軍になったばかりの足利義晴によって、この戦いは一旦は収まった)。
【写真左】本丸跡その1
 本丸は変形の台形をなし、長径50m、短径30mの規模を誇る。また北側に石垣の一部が残るが、はっきりとはしていない。




中期・後期の侵入

 天文元年・享禄5年(1532)7月、今度は経久の孫・晴久も出陣し、当城を攻め立て、城主三浦貞国が討死している。そのあと高田城主には嫡男・貞久が継いだ。

 この行軍で経久・晴久父子が攻めた美作の城砦としては、高田城の外に、下記のものがある。
  • 麓城     城主・三浦忠近:自刃(所在地:美甘村美甘)
  • 細尾城    城主・菅家一党(所在地:奈義町宮内)
  • 神楽尾城  城主・山名右京太夫氏兼:敗走(所在地:津山市総社)
  • 稲荷山城  城主・不明(所在地:美咲町原田)
  • 医王山城  城主:不明(所在地:津山市吉見)
【写真左】本丸跡その2
 南側から北の方向を見たもの。なお、本丸の南東部には、虎口らしき痕跡が認められたが、大分崩落しているため、はっきりとはしない。




 天文9年(1540)になると、今度は尼子経久の二男で、晴久の叔父に当たる新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の党領・尼子国久が高田城に攻め入った。

 ちなみに、国久は、孫四郎を名乗っていたが、前記した細川高国から偏諱を受け、「国」の文字を貰って、「国久」と名乗った。のちに国久は、甥の晴久によって誅殺されることになる。

 この合戦では、高田城を落とし、さらに旭川を10キロ下った笹向城(岡山県真庭市三崎)も落としたという。
 なお、この年の高田城攻めは、国久らのみで、晴久らは専ら大内義隆や毛利元就など石見・安芸での戦いに明け暮れている。
【写真左】本丸跡から北方に星山牧場を見る。
 星山牧場は、高田城から約6キロ北に向かった星山(H1,030m)の西麓にあるが、高田城の標高よりは大分高い。




尼子重鎮・宇山久信の攻略

 高田城がこうしたたび重なる尼子氏の攻撃によって、度々落城するも、その都度当城を奪還しているようで、天文12年(1543)以降になると、今度は尼子の重鎮・宇山飛騨守久信がしばらく当地において高田城地域を攻め始める。

 宇山飛騨守久信は、以前投稿した宇山城(うやまじょう)跡(島根県雲南市木次町寺領宇山)の城主で、宇多源氏佐々木氏の一族といわれ、経久時代には尼子氏の筆頭家老として活躍する。ただ、晩年は台頭してきた山中鹿助ら若い世代と意見が合わなくなり、尼子義久の代になって、心ない讒言によって非業の最期を遂げることになる。

 宇山久信の高田城を含めた美作攻めは、天文12年(1543)から天文17(1548)の約5年間続いた。
 この期間を含め美作の国衆の中には尼子氏に属するものが多くなっていく。下記史料はその当時の一例だが、田口某はおそらく当国(美作)の国人だろう。

“天文13年(1544)12月8日付
 尼子晴久、田口志右衛門の美作国北高田荘を安堵する(「美作古簡集」)。”
【写真左】本丸跡から下の郭休憩小屋を見る。
 下の郭は東から北にかけて帯郭形式の配置となっている。
 西側斜面は、ほとんど天然の切崖状態のため、歩道以外は、新たな郭段は設置されていない。



 尼子氏が高田城を含めた美作や、備前・備中・備後、そして本拠である山陰の出雲や、伯耆・因幡を支配下に置いたいわゆる「七カ国の守護」に補せられたのは、天文21年(1552)である。

 もっともこのころの室町幕府の将軍としての権力はかなり衰退したもので、補任の効力もどれほど実効性があったものか疑問だが、当時としては尼子氏が中国地方の最大の実力者であったことは間違いない。
【写真左】本丸から東方の草加部地域を見る。
 高田城本丸からはあまり眺望は期待できないが、下の郭付近から少し東方を望むことができる。



 その後の動きについては、高田城の沿革にもあるように、尼子氏の攻略時代から東南の浦上氏が、また西方の備中方面からは毛利氏が、また備前南部からは浦上氏の家臣であった宇喜多直家が台頭し、高田城をめぐって激しい戦いが続いた。

2011年4月17日日曜日

下津井城(岡山県倉敷市下津井)

下津井城(しもついじょう)

●所在地 岡山県倉敷市下津井
●築城期 文禄年間(1592~96)
●築城者 宇喜多秀家
●城主 岡石見、池田長政、池田由之、荒尾但馬、池田由成
●形態 山城
●遺構 郭・石垣・天守台・枡形・井戸等
●標高/比高 88m/88m
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2011年4月13日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」「城格放浪記」等)
  下津井城は、岡山県の児島半島南端部にある下津井港を見下ろす位置に築城されている。
 当然、その役目は瀬戸内海航路を監視する役目を担うことが最大の目的で、江戸幕府初期には西国大名に備える内海航路の戦略拠点として造られた。
【写真左】下津井城の満開の桜
 登城したこの日(2011年4月13日)、まったく花見の目的はなかったが、城域内に植えられた桜の花が満開だった。
 この場所は、西端部の「西出丸」にあったもの。

 築城期は、宇喜多秀家が文禄年間に既存の小城を改築し、現在のような近世的城郭構造となったのは下記説明板にもあるように、池田長政の頃であろうとされている。

 また、今月紹介した「常山城」(4月11日投稿)でも紹介したように、常山城が解体された際、廃材の一部がこの城の修理にも利用されている。
【写真上】下津井城の遺構図
 全体に文字が小さいため読みづらいが、概ね形状は理解できる。

【写真左】下津井城遠望
 北側の駐車場からみたもの。左側の高い位置が本丸跡と思われる。
 駐車場も整備され、ここから西側の西出丸と二の丸の間に向かう歩道が整備され、数分で着く。

現地の説明板より

下津井城跡

 この城は、慶長のはじめ宇喜多秀家によって築かれたが、小早川の家臣岡石見が居城、次いで慶長8年(1603)の池田忠継入国と共に、老臣池田河内守長政(禄高32,000石)の守るところとなり、城郭に一大整備がなされ、城は慶長11年に現在の遺構にみるような本格的な形態を整えるに至る。

 後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て、一国一城の制令のため、寛永16年(1639)廃城となる。”
【写真左】土塁跡
 駐車場から二の丸まで向かう歩道途中に見えたもので、部分的に整備されている。

 下津井城は瀬戸内方面を東西にわたって俯瞰できるようにするため、東西650mの長さをもち、南北の幅は最大でも150m程度しかない構造となっている。

 大手は港側である南にとり、西から「西出丸」「二の丸」「本丸(天守台)」「三の丸」と続き、ここで一旦堀切を南北に切り、「東出丸」さらに100m以上東方に「独立した東出丸」を設けている。
【写真左】馬場跡
 西出丸(西の丸)の北側から西にかけて造られている。
 くの字形のもので、長径100m前後。
【写真左】西の丸
 ほぼ正方形の形で、一辺が50m程度ある。また北から西にかけては土塁跡がある。



【写真左】西の丸から下津井港を見る。
 左側に見える島は、六口島

【写真左】西の丸から南麓に「下津井古城」を見る。
 現在祇園神社がまつられている場所で、「下津井古城」は、おそらく当時は孤島の海城だったと思われる。

 南北朝期の建武3年(1336)、5月15日、九州で陣を立て直した足利尊氏は、海路途上中、児島に立ち寄り、下津井の「吹上」において、加地筑前守顕信に迎えられた。
 「吹上」という地区はこの下津井城の東方200m付近で、軍船を停泊させたのは、この「下津井古城」だったと思われる。

 なお、当城についてはサイト「城格放浪記」さんが紹介しているので、御覧頂きたい。
【写真左】本丸跡
 西の丸から東方へ向かって二の丸を抜けると、本丸跡に出る。
 二の丸から本丸までの高低差はあまりない。
 大きさは、60m×54mのいびつな四角形をなしている。

 なお、二の丸は本丸を南側下段で支えるように東西に約100m程度長く伸びている。

【写真左】天守台跡
 本丸の北側には1.5m程度高くなった天守台が設けられている。
 大きさは13m×12m程度。

【写真左】「本丸から中の丸まで250m」とかかれた位置
 本丸の南東部に東方の「中の丸」と書かれた道があるが、ここから少し下り坂になる。

【写真左】二の丸跡
 前述したように東西に伸びる二の丸。左に見える建物は展望台。

【写真左】南方に瀬戸内海、讃岐富士を見る
 手前に見える島は、坂出市の櫃石島で、左側の橋はせとうち大橋。また奥に見える山は、四国の讃岐富士。

【写真左】三の丸
 本丸を中心に、西に西の丸を置き、東には三の丸を置くことによって、東西をバランス良く支え、この後東に一旦大きな堀切で区画している。
 三の丸は西の丸に比べるとやや規模が小さい。
【写真左】堀切
 三の丸の東側に設置されたもので、現在は南側から登っていくる道と兼ねているようだ。
 写真右が本丸側、左に向かうと次に「中の丸」がある。
【写真左】中の丸その1
 東の出丸とも言われている個所で、幅は狭いものの、長さは200mと長大だ。
【写真左】中の丸その2
 途中にこうした土塁のようなものが残っている。
【写真左】中の丸その3
 中の丸の東端部で、現在の瀬戸内大橋が最もよく見える地点である。当時は東方の播磨灘方面を監視する位置として重要だったと思われる。
【写真左】瀬戸内大橋を見る
 この写真には写っていないが、左側には「鷲羽山」が見える。

2011年4月16日土曜日

撫川城(岡山県岡山市撫川)

撫川城(なつかわじょう)

●所在地 岡山県岡山市撫川
●築城期 平安末期又は永禄2年(1559)
●築城者 妹尾(瀬尾)兼康、又は三村家親
●遺構 本丸・石垣・濠・礎石等
●形態 沼城・平城
●別名 高下ノ城・芝揚城・泥城・小倉城
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2010年11月21日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿「庭瀬城」より西に約200mほど行くと、庭瀬城と同じく濠に囲まれた「撫川城」がある。
 説明板にもあるように、初期は「庭瀬城」と「撫川城」は元は一体の城砦だった。
【写真左】撫川城の濠
 南側に入口があり、濠にかけられている橋を渡ると門が控えている。
 写真はその橋の袂から西の方向に濠を見たもの。




 現地の説明板より

“岡山県指定史跡

 撫川城跡

 撫川城は、泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、東西77m、南北57mの長方形を示し、幅15mの濠がぐるりを巡っています。西半に高さ4m強の高石垣(野面積み)と、東半には土塁が現存しています。また、北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。

 この城は、永禄2年(1559)に、備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正10年(1580))には、毛利方の国境防備の城「境目7城」の一つとなり、当時の城主井上有景と、秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり、廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
【写真上】撫川城の位置図
 前稿「庭瀬城」の西隣にあり、撫川城は全周囲が濠で囲まれている。
 現在、2城の周囲は住宅団地が並び、道路も当時の区割りのままのせいか、入り組んで狭い道が多い。



 戸川氏は安風(やすかぜ)(4代目)で断絶しますが、その弟達冨(みちとみ)が撫川領分を継ぎ、「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。

 撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
 なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
 昭和30年(1957)5月、県の史跡に指定されました。
 平成9年3月
   岡山市教育委員会”
【写真左】撫川城の入口・大手門
 この門は、戸川氏時代のもののようだ。
 現在当城の中は公園になっている。
 





妹尾兼康

 築城期及び築城者については諸説あり、確定していない。最も古いといわれているのが、平安末期当地(妹尾郷)の平氏として活躍した妹尾兼康で、最期は木曽義仲に討たれた。

 妹尾という地は、この撫川城の南方にあるが、この地域の湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水を開削したといわれているのが、兼康とされ、撫川城や、また庭瀬城の初期の普請でも彼が関わった可能性は高いだろう。
【写真左】井戸跡
 沼城のため、井戸深さは極めて浅い。











戦国期

 中世から近世城郭へと変わりつつあった当城の改修者は、三村家親とされている。当時三村家親は、現在の高梁市成羽町成羽にあった成羽城鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)を本拠とし、永禄年間に東国備前から侵攻してきた宇喜多直家に備えるため築城したといわれている。

 撫川城のさらに前線基地として使われたのが、今月投降した常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)である。このため、家親は、愛娘・舞姫を常山城主・上野隆徳に嫁がせた。

【写真左】土塁跡その1
 ほぼ全域にわたって土塁跡が見られるが、子の北東部は特に高く残っている。









 さて、天正年間には当時の伊賀左衛門尉久隆が当城で切腹している。伊賀久隆は、虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)主で、宇喜多直家の妹婿になり、宇喜多直家が当城を三村氏より奪った後、当城を任せられていた。

 なお、久隆の切腹という記録もあれば、毒殺という説もある。亡くなった年も、はっきりしないが、おそらく天正9年(1581)といわれている。

 この間の動きについては目まぐるしいものがあり、本稿では整理できないが、翌天正10年になると、秀吉によって落城させられ、宇喜多氏の部将が城番として在城し、慶長年間に至って戸川達安の所領となった。
【写真左】土塁跡その2
 東側の平坦地は地元の子供たちの遊び場となっている。この場所なら交通事故の心配はない。

 こうした場所で遊んだりする経験は、大人になってから特に懐かしくなり、いい思い出として残るだろう。
【写真左】三神社
 北側中央部に祀られている。

2011年4月15日金曜日

庭瀬城(岡山県岡山市庭瀬)

庭瀬城(にわせじょう)

●所在地 岡山県岡山市庭瀬
●築城期 室町時代末期
●築城者 三村元親
●城主 戸川肥後守達安、板倉氏
●別名 芝場(こうげ)城
●形態 平城、沼城
●遺構 郭・堀・礎石
●登城日 2010年11月21日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 岡山市の西端庭瀬にある平城で、西方を流れる足守川からとりいれた堀などを利用した城砦である。
 この付近は全体に沼地のような低い冠水地帯で、梅雨時にはかなり水害に悩まされるだろうと思われるような場所である。
【写真左】庭瀬城跡に設置された石碑












現地の説明板より

庭瀬城跡
  岡山市庭瀬

 室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は、備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれた。
 一帯は泥沼地で非常な難工事であった。その後、宇喜多の重臣戸川肥前守達安(みちやす)が入り、1602年古城を拡げ城下町を整えた。

 元禄12年(1699)板倉氏の居城となり、明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。
 寛政5年(1793)板倉勝喜は、城内に清山神社を建て、板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り、歴代の遺品を収蔵した(遺品は現在吉備公民館に収蔵)。”
【写真左】庭瀬城と撫川 城などを示した現地の地図
 写真右隅にJR山陽線の庭瀬駅が示されている。

 庭瀬城は図中の真ん中にあり、そこから西に2、300mほど歩くと「撫川城」が図示されている。
 「撫川 城」については、次稿で取り上げる予定。




三村元親

 当城の築城期は、説明板にもあるように三村元親が最初の築城者とされている。
 三村元親は、宇喜多氏に対する遺恨(宇喜多氏による父・家親の暗殺)と、支援者であった毛利氏が宇喜多氏と結びついたため、やむなく織田信長と手を結んだ。そして最期は、備中松山城に拠って、毛利方と奮戦するも、天正3年(1575)6月2日、城下の松蓮寺にて自害した。

辞世の句

 人といふ 名をかる程や
     末の露 きえてぞかへる もとの雫に

 さて、三村元親が庭瀬城の築城に取り掛かったのは、おそらく父・家親が宇喜多直家に暗殺された永禄9年(1566)以降と思われる。ただ、この当時の庭瀬城の状況は、現在残る遺構とはだいぶ趣の違った沼城だったと思われ、おそらく軍船を停泊させるための港、もしくは船着場的城砦だったと考えられる。
【写真左】堀と清山神社
 手前の濠などはおそらく当時の形状を残したものだろう。








戸川肥前守達安

 江戸期に入って当城の城主となったのが、戸川肥前守達安である。達安の父は、前稿「常山城」で紹介した戸川秀安である。
 達安は、関ヶ原の戦いで徳川方に属し戦功をたてたので、備中国都宇(つう)・賀陽両郡のうち、29,200石を与えられ入部した。

【写真左】西側部分
 立っている位置はおそらく、当時の「内屋敷」というところだったと思われる。








めまぐるしい藩主の交代

 4代・安風には嗣子ができず、戸川家は断絶、そのあとは、めまぐるしい藩主の交代が続く。
 天和3年(1683)、そのあと久世重之が下總関宿から入部、貞享3年(1686)になると、久世氏は丹波亀山に移封された。そして元禄6年(1693)、大和興留の松平信通が入るも、同10年には出羽上山へ転封された。
 そして、最後に板倉重高が2万石を与えられ、元禄12年に上総高滝から当地に入り、以後明治維新までつづくことになる。

【写真左】大賀一郎博士と大賀ハスの説明板
 千葉県の検見川の泥炭層から、2000年前の古代ハスの実を発掘し、その発芽に成功させた大賀一郎氏の名をとって、「大賀ハス」と呼んだ。
 そして、「大賀ハス」はこの庭瀬城の濠にも開花させることができたという。
 


江戸期の概要

 安政4年(1857)に作成されたといわれる絵図によると、庭瀬城は亀甲型の切り石を積み上げた外堀と内堀に囲まれ、表御門を北にとり、参勤交代や山陽道に面した物資流通の効率化を図っているとのこと。

 表御門を入って行くと、以下「家中屋敷」「番所」「中屋敷」「御蔵」「作業場」「馬屋」、そして家屋6軒からなる「御殿」があり、それ以外の付属施設としては、「勤番部屋」「馬場」などがあったという。
 城域は東西南北約200m四方の規模だったという。