2013年6月21日金曜日

麓城(岡山県真庭市美甘)

麓城(ふもとじょう)

●岡山県真庭市美甘
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 三浦忠近
●高さ 513m(比高140m)
●遺構 郭・堀切・井戸跡等
●登城日 2013年4月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 麓城は、現在の国道181号線、すなわち出雲街道が走る旧真庭郡美甘村美甘に所在した山城である。
【写真左】麓城遠望
 南側から見たもので、左側は伯耆・出雲方面、右に行くと美作・高田城へ向かう。
 この日登城した箇所は、写真の反対側すなわち、出雲街道から北の蒜山方面に走る447号線(県道か)脇から登った。


出雲街道

 古代の飛鳥・奈良時代よりこの道は出雲国から都へ往来する道として使われ、特に山陰から山陽に抜ける道としても利用された。
 中世・戦国期尼子氏が美作・備前・播磨に進攻する際も度々軍道としても利用されることになる。

 最大の難所となる峠は、鳥取県日野町と、岡山県新庄村の境をなす四十曲峠で、伯耆国と美作国との境でもある。現在の米子自動車道ができる前まで、この峠を持つ国道181号線が利用されてきたが、冬期になると度々大雪のため通行止めが行われた。
【写真左】登城始点
 この日探訪した際、麓城を含むこの山全体が大掛かりな伐採作業が行われていたため、直登できそうな箇所もあったが、邪魔になってはいけないと思い、北側に回り込んで尾根伝いから南下するコースを選択した。


 さて、麓城のある美甘は、「ミカモ」と呼称するが、四十曲峠のある新庄村を過ぎると、すぐにこの麓城にたどり着く。

 戦国期における当城の城主は、ここからさらに新庄川を下り、旭川と合流する地点で現在の真庭市役所にある美作・高田城(勝山城)(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1参照)の城主三浦貞明の次男・忠近といわれている。
【写真左】一条目の堀切
 城域からおそよ300m程度北側に逸れた箇所から向かったため、途中から藪コギ状態となり、随従の連合いと四足の供を一旦下山させ、一人で向かった。

 最初に現れたのが、三条の堀切の内の一つで、大分埋まっているが原形は確認できる。


尼子氏の美作侵攻

 このことから麓城は、美作・高田城の支城の一つであり、特に伯耆・出雲国からの侵略を防ぐ前線基地の役割を持った城砦であった。

 美作・高田城の稿でも述べたように、尼子氏が本格的に美作に攻め入った時期は、天文元年・享禄5年(1532)である。西美作の中心地である高田城は、三浦氏が本拠とし、このころ尼子氏に抗戦した諸城は、今稿の麓城をはじめ、津山市の神楽尾城、同市吉見の医王山城、美咲町の稲荷山城、奈義町の細尾城などである。

【写真左】二条目の堀切
 二番目の堀切で、尾根幅10mはあるだろうか。

 深さ3m前後。
【写真左】三条目の堀切
 三番目の堀切で、当城で最大規模のもの。

 麓城そのものは小規模な城塞だが、この堀切は見ごたえがある。


【写真左】三条目の堀切底部から見上げる。
 整備されていないため、写真ではわかりにくいが、比高差約8m前後あるだろうか、手ごたえ、いや、「足ごたえ」十分な堂々たる堀切である。

 ここから強引によじ登っていく。足に草のツルがまとわりつく。


 『日本城郭体系第13巻』でも記されているように、城主・三浦忠近は尼子氏の攻撃に抗戦するも、落城し、忠近は自刃したとされ、その時期は天文年間(1532~55)とされている。

 特定した時期がこれでははっきりしないが、尼子経久が備中・美作の戦況を近江国の浅井亮政小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)に、報告した文書『江北記』が、天文5年(1536)12月26日付で出されているところを見ると、おそらくこれ以前と思われる。

 ただ、次稿に予定している新庄村にあった「沢城跡」にある説明板には、当城を襲撃したのが天文17年(1548)、と記されているので、この説と合致しないが、このことについては次稿で述べたいと思う。
【写真左】本丸・その1
 堀切をよじ登ると、本丸に出る。
東西40m×南北最大幅18mの規模で、堀切は南北に連続しているが、この本丸からはL字状になって東に伸びている。

 南側には東西に10~15m程の土塁の高まりが残る。
 ここから、さらに東の段へ進む。
【写真左】中央部の郭
 西端部が本丸となっており、ここから東へ徐々に下がって郭段が続く。

 このあたりから急に整備され綺麗になっている。
【写真左】下の郭
 先ほどの郭を東に進むと、比高5m前後低くなった郭が見える。

 この付近から伐採用の重機の音が聞こえてきた。
【写真左】下から見上げる。
 東西に延びる郭の両側は天然の切崖となっており、斜面には加工のあとは見えない。
【写真左】東端部の郭
 この場所で伐採作業をしている人に出くわす。

管理人が下から上がらず、上から突然現れたものだから、驚かれてしまった。

 東麓部から伐採・搬出のため、重機でどんどん斜面に運搬道路が上の方へ伸びながら造られていく。そして、東端部の郭跡の直前まで来ている。

 作業員の方は、この山が山城であることは知らなかったという。事情を話し、麓城の遺構について、即席ウンチクを垂れたところ、結構興味を持っていただいた。

 そして、この箇所から上が麓城の重要な遺構部であることを説明した。幸い今回の伐採作業は、この地点までが運搬道路としての終点であること、またこれから上の方も間伐して、遺構部の見晴しもよくなるだろう、ということだった。


 おそらく、今回の作業のために造った道路(林道)は、今後麓城の登城道として再利用できると思われる。ただ、くれぐれも遺構部が伐採作業等のため、改変されないことを祈りたい。

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