2011年2月24日木曜日

姉川古戦場跡(滋賀県長浜市三田町・野村町)

姉川古戦場(あねがわこせんじょう)

●所在地 滋賀県長浜市三田町・野村町)
●探訪日 2008年3月19日

◆解説
 前稿「関ヶ原古戦場」を探訪した後、再び滋賀県に入り北上し、長浜市にある姉川古戦場を訪ねた。

 関ヶ原から国道365号線を使って向かうが、このあたりには中世の史跡が非常に多い。中でも上平寺の京極氏遺跡なども見たいと思ったが、時間がなくそのまま向かった。
【写真左】現地に立つ案内板













 姉川は東方伊吹山地の中にある新穂山(H:1,067m)を源にして流れる川で、途中で草野川と合流して琵琶湖にそそぐ。

 合戦のあった場所は、現在の国道365号線がこの川と交差する野村橋付近だが、次第に信長方が優位に立つと、草野川方面に移動していった。

【写真左】姉川
 姉川はさほど大きな川ではないが、古戦場付近には砂状の中洲が多くできている。

【写真左】現地に設置してある姉川の戦いの状況を記した説明板










 “元亀元年(1570)6月28日
   戦いは午前5時ごろに始まり 午後2時ごろには終わった。

 この姉川をはさんで、北に陣取る浅井・朝倉連合軍は約1万8千人、かたや南に織田・徳川連合軍も約2万8千人でした。

 徳川方から仕掛けられたこの戦いは、最初浅井・朝倉軍の方が優勢でした。織田方は、13段構えの陣を11段まで突破され、信長の面前に刀・槍が突き出るまでにいたりました。

 しかし、徳川軍の力戦によって、朝倉軍が後退したため、浅井軍は右翼から崩れ始め、これに力を得た織田軍も総攻撃に転じ、ついに浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走することになりました。

 この戦いによる戦死者は、浅井・朝倉軍が1700余人、織田・徳川軍も800余人とみられ、負傷者は、その3倍にも及び、清らかな姉川の流れも数多くの死傷者によって赤く血に染まったと伝えられています。

 当時、浅井長政26歳、織田信長39歳でした。この後、一時和議が成立しましたが、天正元年(1573)8月、浅井氏は小谷城において滅びました。

 この戦いは、信長の天下統一のきっかけといわれています。左の図(下の写真参照)は、この戦いの各軍配陣図ですが、これにも各種の説があり、その一つです。”
【写真左】姉川合戦各軍配陣図
 

















  この図には描かれていないが、信長は姉山の戦いの前の6月21日に小谷城の出城・横山城近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)参照)を囲んでいる。

 小谷城に拠る浅井・朝倉勢をおびき出すための作戦である。これを知った浅井・朝倉勢は小谷城を出て、姉川方面に向かった。

 横山城にいた浅井勢は降伏、後に秀吉が当城に城番をつとめることになる。

 横山城(H313m)は、長浜市と米原市の境界にあって、石田山公園の北東端にある。もともと京極氏が築城したもので、近くには石田三成の出世地とされているところがある。

 当城については、サイト「城格放浪記」さんも紹介しているので、御覧頂きたい。
【写真左】姉川堤防に設置されている看板












 戦いは、織田勢の圧勝で、敗れた浅井勢は小谷城に逃げ戻ることになる。

2011年2月23日水曜日

関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)

関ヶ原古戦場(せきがはらこせんじょう)
           ・笹尾山(ささおやま)

●所在地 岐阜県関ケ原町
●指定 国指定史跡
●探訪日 2008年3月19日

◆解説
 今稿は山城ではないが、戦国時代最大の合戦が繰り広げられた美濃国不破郡の関ヶ原古戦場を取り上げる。
 【写真左】関ヶ原古戦場の碑













青野原の戦い

 ところで、この関ヶ原では、慶長5年(1600)の合戦よりさかのぼること約260年前の南北朝期にも大きな戦が行われている。

 延元3年(暦応元年:1338年)正月28日、南朝方の命運をかけて奥州から北畠親房の長子・顕家(あきいえ)が、足利軍の大将・高師冬とこの関ヶ原で激突した。当時、この地は「青野原(あおのがはら)」と呼ばれていたところで、この戦いは後に「青野原の戦い」と呼ばれている。

 戦いの結果は顕家の大勝利に終わるが、5月25日、和泉堺浦で大敗し顕家は討死した。わずか21歳であった。
 顕家は公家の出であったが、武功の誉れ高く、また建武の新政を行った後醍醐天皇に対しても遠慮することなく、堂々と意見を述べている(「顕家奏上文」)。

 ところで、当地の地名「青野原」が、いつごろ「関ヶ原」となったか分からないが、一説には現在の「関東」「関西」の元となったのが、「関ヶ原」の「関」からきているともいわれている。

笹尾山
 さて、この日探訪したのは、西軍方石田三成が陣した笹尾山付近である。戦いの推移については他の史料やサイトで紹介されているので、ここでは一部を除いて割愛させていただく。
【写真左】関ヶ原町観光案内図
 写真中央上部に「笹尾山」の位置が示されている。

【写真左】「決戦地」の案内板

“国史跡(昭和6年3月30日指定)
 決戦地

 西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。

 小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。

 笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。
関ヶ原町”

【写真左】島左近(勝猛)陣跡の説明板

島左近(勝猛(かつたけ)陣跡

 三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。

 前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討死したともいいます。

 鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は、諸書に様々な姿で描かれています。
関ヶ原町”

【写真左】石田三成の陣地・笹尾山
 小高い丘陵地にあって、「竹矢来(たけやらい)」という竹や丸太をもちいた囲いが復元されている。

 三成はこの丘の頂部に陣取り、指示を与えていたという。

2011年2月22日火曜日

彦根城(滋賀県彦根市金亀町)

彦根城(ひこねじょう)

●所在地 滋賀県彦根市金亀町
●構造 連郭式平山城
●築城期 元和8年(1622)
●築城者 井伊直継
●城主 井伊氏
●廃城年 明治7年(1874)
●遺構 天守・櫓・門・塀・厩・石垣・土塁・堀
●指定 国宝・国指定重要文化財
●探訪日 2008年3月19日

◆解説
 今稿の彦根城は、中世山城ではなく、近世城郭である。2008年3月の近江探訪の折り、時間を割いて当城にも向かった。

 当日、他の城跡なども予定していたことから、彦根城には朝早いうちに向かったのだが、あまりにも早く来てしまい、城内に入ることができなかった。そのため、撮影した写真はすべて外から撮ったものばかりである。

 彦根城については余りにも有名で、他のサイトなどでも度々紹介されているので、詳細は省くが、現存天守が国宝となっているものの一つである。ちなみに、他のものとしては、松本城・犬山城・姫路城がある。
【写真上】彦根城遠望
 南東部からみたもの。

【写真左】井伊直弼の像
 説明板より

井伊直弼(1815~60)
 開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、嘉永3年(1850)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858)には江戸幕府の大老職となった。

 同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。この大事業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって安政7年(1860)3月3日、桜田門外で暗殺され、46年の生涯に幕を閉じた。”

【写真左】彦根城その1

【写真左】彦根城その2
【写真左】彦根城付近から佐和山城を見る。
 佐和山城は、石田三成が城主として活躍したことが知られているが、典型的な山城である。

 築城年は鎌倉期といわれ、佐保氏が築城したといわれている。

 残念ながら、近江探訪をしたこのときは、当城は計画に入っていなかったので、登城していない。機会があったらぜひ踏査してみたいものだ。

花の生涯
 ところで、管理人にとって彦根城のイメージは歴史的な観点よりも、テレビでの印象が強く残る。
 1963年、NHK初の大河ドラマ「花の生涯」が放映され、冒頭必ず彦根城の姿が映し出された。船橋聖一作の歴史小説「花の生涯」がテレビ化され、井伊直弼役には二代目・尾上松緑、長野主馬には、佐田啓二(中井貴一の父)、村山たか役には、淡島千景など当時の名優が出演している。

 そして、特にこのドラマをより奥深く堪能させてくれたのが、語り(ナレーター)の小沢栄太郎である。個人的には、こうした時代劇の語りでは、彼の声が一番味わい深い。

 現在のようなデジタル、カラーではなく、モノクロで画像も荒いものだったが、一年間彦根城を見せられると、彦根城の残像が脳裏に焼きついた。

2011年2月21日月曜日

観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)

観音寺城(かんのんじじょう)

●所在地 滋賀県近江八幡市安土町
●築城期 建武2年(1335)又は応仁・文明年間(1467~87)
●築城者 六角氏頼
●廃城年 永禄11年(1568)
●標高 433m(本丸395m)
●遺構 郭群・石垣・石塁・礎石建物等
●指定 国指定史跡
●備考 日本100名城
●登城日 2008年3月18日

◆解説(参考文献「戦国の山城」全国山城サミット連絡協議会編、「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、その他)
 
 今稿も「西国の山城」ではなく、近江の山城で、前稿「太尾山城」と関わった六角氏(佐々木)の居城・観音寺城を取り上げる。
 登城したのが、3年前にもなるので、細かい部分については大分記憶が薄らいでいるが、とにかく当城の麓に立ち止まった時、余りの巨大さに驚いたことを鮮明に覚えている。

 所在地は、近江八幡市にあって、東海道本線と南に並行して走る近江鉄道の間に屹立する繖山(きぬがさやま:標高433m)を中心に築城されている。
 これまでの調査から特記されることは、郭が100か所以上もあり、いまだに正確な数が確定していないこと、また石塁や5mを越える石垣が無数に点在するという巨大な山城であることである。
 しかもこれらの郭は城砦機能を持った一般的な山城とは違い、家臣などが居住するためのものが多いという。

 築城期は建武2年(1335)といわれているが、このころは城砦としての機能は整備されていなかったという。城砦として形が出来上がってきたのは、応仁・文明の乱のころ(1467~87)といわれ、合戦に備えた改修がなされたというが、明確な遺構は今のところ発見されていない。

 現在のような大規模な城郭施設を設置したのは、天文元年(1532)頃といわれ、室町幕府第12代将軍足利吉晴を迎えるため、繖山全域に居住性の高い郭が配備されたとされている。
 そして、鉄砲が使用されるに至って、各所に石垣が増設され今日の形が出来上がった。
【写真左】観音寺城遠望
 南側から見たもの。なお、この写真には写っていないが、左側の峰を越えた西方には、織田信長の居城・安土城がある。

 登城口は3カ所あり、この日は途中まで車で登ることができる南側の石寺楽市から向かった。

 なお、この石寺楽市は、全国で初めて楽市が開かれたところで、観音寺城の城下町である。

【写真左】観音寺に向かう階段
 車で途中まで登ると駐車場があり、そこからこの階段を登って行く。

 ちなみにこの駐車場までの道は有料道路となっている。入口には手動で操作する遮断機があり、御年配の御夫婦らしき方が常駐していた。
【写真左】観音正寺
 当城の城域中心部に建立されている。戦国時代になると、合戦を避けて山麓の方に移されたという。

 当城の名前もこの観音寺の名からきている。
 以前は、彦根城の欅(けやき)御殿を移築した本堂や、重要文化財の本尊木造千手観音立像などがあったが、平成5年(1993)の火災で全焼してしまった(この火災については、管理人も新聞記事で読んだことがある)。

 現在の本堂と本尊は従って平成16年に再建されたものである。
【写真左】案内板
 観音寺城へは、観音正寺の境内左側を通り抜けて行く。
 ちなみに、眺望がいい場所はこの観音正寺の境内付近ぐらいで、城砦区域ではあまり望めない。

 この案内板から観音寺城まで310m、また三角点まで560m、そして北側尾根中腹の桑実寺まで860mと記されている。 
【写真左】登城路
 傾斜のある登城路には石積みによる階段が設置されている。
【写真左】説明板
 以下のように記されている。

“観音寺城跡
 観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表ていな大山城である。
 築城は永い年月を経て応仁2年(1468)に完成し、さらに弘治年間鉄砲に備えて大々的に石塁が改修されている。

 永禄11年9月、織田は当城に入城したが、城は元のまま残し、佐々木氏に守らせたが、天正10年安土城とともに滅亡した。

 昭和44・45年、近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し、発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。
 なお、全山いたるところに昔をしのぶ遺構が数多く残っている。”
【写真左】石垣及び郭
 多数の郭群のうち、本丸付近には特に広大な郭が連続している。
 北端から南端部にかけて
  • 伝本丸
  • 伝平井丸
  • 伝池田丸
といういずれも規模の大きい郭及び石塁が設置されている。
 この写真がそのうちどれだったか忘れてしまったが、こうした景観の個所が続く。

【写真左】平井丸か
 このような広大な削平地であることから、当然この中に礎石建物が有ったものと思われ、その棟数も多数あったのだろう。


【写真左】石塁
 高さはさほどないものの、石塁の総延長はかなりのものになるだろう。

 なお、この日は踏査していないが、観音正寺の北方には、数百メートルにわたって東西に伸びる「大土塁」が残っているという。

 当城北方からの攻めを意識した城砦施設と思われ、単一の遺構としては当城で最大のものかもしれない。

【写真左】大井戸跡
 井戸跡は数カ所あるらしいが、この井戸はそのうち最も大きなもので、「大井戸」とよばれるもの。

 設置場所は、本丸の北端部を少し降りたところにあるので、専ら本丸用として用いられたのだろう。

近江源氏・六角氏

 太尾山城の稿でも同氏について少し触れているが、六角氏は鎌倉・室町時代を通じて近江守護職を独占してきている。

 そして、戦国期になると、江北の同じ佐々木氏の嫡流である京極氏・浅井氏と対峙しながら当地を治めていった。

 六角氏を支えてきた家臣は、琵琶湖の東部から南部にある村々を根拠とする在地土豪が主流である。その中でも、東近江市中羽田町を根拠とする後藤氏は、当地に館を置きながら、一方で観音寺城内にも同氏の館跡といわれる郭を持っていた。
 このような形式をとった家臣は他にもあったらしく、そうしたことから、当城には夥しい郭の数がある。

 永禄6年(1563)、六角氏は家臣との不和が元で、観音寺騒動(重臣・後藤賢豊父子殺害)を起こし、統制が揺らぎ、そのため5年後の永禄11年(1568)、織田信長が近江侵攻を行った際は、まったく抗戦する体制もとれず、落城した。

2011年2月15日火曜日

太尾山城・その5

太尾山城・その5

◆解説(参考文献「米原町史」等)

 今稿は直接太尾山城と関係するものではないが、当地に出雲米原氏(綱寛)関係の書状が残されているので、紹介したい。

松原文書(米原氏関係文書)

 太尾山城のある米原市米原に、米原氏を祖とする松原氏があり、入手経路はよく分からないが、「松原文書」として、出雲高瀬城主だった米原綱寛に宛てられた書状が残っている。

 詳細は細川涼一著「近江米原氏と尼子勝久」(『日本歴史』588号・1997年)に記されている。

 米原氏の関係文書は、33号~35号、並びに37~39号で、特に後者については、すべて米原綱寛へ送られた書状である。

 これらの書状は、永禄年間に山中鹿助尼子勝久らが、尼子再興を願って蜂起したとき、一旦毛利方に属した出雲高瀬城主・米原綱寛に対して、再び尼子方に加わるよう催促したものである。

 また、もうひとつの書状は、九州で毛利方と交戦していた大友宗麟が、尼子再興軍と手を結び、毛利氏を挟みうちにするため、おそらく九州に陣していたと思われる米原綱寛に対して送った書状である。

《37号》 永禄12年(1569)8月12日付
     尼子勝久書状

 “今度此方現形祝着に候。然る間、その方身躰においては、別して表裏なくその感を立つべく候。
 知行等の儀、別紙(《38号》のこと)をもって申し候。いよいよ向後御入魂においては、日本国中大小神祇杵築大山も照覧候え。偽り有るべからず候。 恐々謹言

 8月12日   勝久(花押)
 米原平内兵衛尉(綱寛) 殿
  これをまいらせ候”
【写真左】尼子勝久書状《37号》
(米原町史より転載:以下同)








 この書状を見ると、その前にすでに勝久から綱寛に対して、事前協議があり、綱寛が毛利方を離れ、尼子再興軍に加わる決意を固めていたように見える。

 ただ、勝久としては、さらに彼を具体的に動かすために、論功行賞として記したのが別紙・《38号》の書状である。


《38号》 永禄12年(1569)8月12日付
   尼子勝久書状

“此法について現形申し付くる知の事。
一、当知行分の事。
一、宍道当領知の事。
一、加茂700貫の事。
一、平田300貫の事。
一、案威1000貫の事。
一、原手三郡奉行の事。
己上
 右の分領知有るべく候。いよいよ忠儀専用に候。 恐々謹言

8月12日   勝久(花押)
  米原平内兵衛尉殿
  これをまいらせ候”
【写真左】尼子勝久書状《38号》 









 尼子再興が成就したら、上記の領地や権限を綱寛に与えると約束した内容である。

 中身を見ると、以前領していた斐川の土地以外に、北の平田地域、そして南の加茂地域、さらに案威(安来のことか)など、数倍の新地を宛がう内容である。

 次の書状は、上記の書状が布達される3カ月前の、5月17日付で記された大分の大友宗麟から、綱寛に宛てられた書状である。


《39号》永禄12年(1569)5月17日
  大友宗麟書状

“防長一行の儀に至り、入魂に預かり候。其の意を得候。承る如く候。芸州の事、この砌(みぎり)差し寛め候わば、向後においても、一つも雅意止む事有るべからざるの条、自他申し談じ、取詰め覚悟すべし。油断に非ず候。然らば、勝久御一家再興この節に候の間、各々別して馳走有り、本意を遂げらるるは肝要に候。なお年寄共に申すべく候。 恐々謹言

5月17日    宗麟(花押)
米原平内兵衛尉殿”
【写真左】大友宗麟書状《39号》









 日付を考えると斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2及び立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)でも記したように、綱寛が福岡の立花山城で交戦中に宗麟から渡されたものと思われる。

 文面からすると、宗麟から綱寛に対して、尼子再興軍(勝久・鹿助)に加わるよう盛んに勧めている。


書状の経緯

 ところで、これらの書状が、なぜ当地・米原市に残っていたのだろうか。
 米原町史によると、尼子氏滅亡ののち、出雲米原氏の一族が、縁者の近江米原氏を頼って、近江に帰農した者がいるためだろう、としている。

 伝聞では、綱寛は元亀2年(1571)3月19日、高瀬城が落城した後、勝久・鹿助らが陣取る真山城(島根県松江市法吉町)に逃げ込んだが、8月21日、その新山城も落城し、綱寛は京都へ向い、後に出家したといわれる。

 おそらく、綱寛が京都へ向かった際、随従した家臣の中で、その書状を携えて、近江米原に向かった者がいたのかもしれない。

 なお、地元出雲高瀬城のある島根県出雲地方にも、米原姓の人が少なくないので、両城(高瀬城・新山城)落城の際、一族が二手に分かれた処置をとったものと考えられる。

太尾山城・その4

太尾山城・その4

◆解説(参考文献「米原町史」等) 本稿では、前稿「湯谷神社」の隣に創建された「青岸寺」について取り上げる。
【写真左】青岸寺入口付近













青岸寺

 現地に当寺及び庭園について、下記の内容の説明板がある。

青岸寺
 青岸寺は、近江守護職であった佐々木京極導誉が書写した法華経八巻のうち、最後の一軸を納め、祈願所としたところです。

 永正年間(1504~21)の兵火で、堂宇は焼失しましたが、慶安3年(1650)に要津守三和尚が入山して現在の寺観に再興しました。

 庭園(国指定名勝)
 青岸寺三世興欣和尚が、井伊家の家臣で彦根の玄宮園、楽々園を造園した香取氏に命じて造らせた庭園です。
 太尾山山麓の地形を巧みに利用した回遊式枯山水庭園で、山水画を思わせるような深山幽谷の美を出現させています。
 江戸時代前期の近江を代表する名庭園です。
【写真左】青岸寺庭園説明板
 残念ながら、この日は登城のみで、庭園は観賞していない。











 本尊木造聖観音菩薩坐像(米原市指定文化財)

 永和元年(1375)、佐々木六角氏頼が、荒れていた青岸寺を修復再興し、翌2年に金剛仏師讃岐法眼堯尊に刻ませたのが、この木造聖観音菩薩坐像です。

 像底部の墨書きから仏師堯尊は、三条門弟とあり、京仏師の流れをくむ仏師と考えられます。室町時代前期の仏像彫刻の優品です。


 木造十一面観音菩薩立像(米原市指定文化財)

 像高56cmの小さな仏像ですが、腰のくびれや全体のスタイルは美しく、天衣・裳は流れるように華麗です。作風から平安時代末期の彫刻と見られ、青岸寺諸仏中最古のものです。
 一木造り、彫眼で、素地に仕上げられています。

また、庭園についての説明板は次の通り。

青岸寺庭園
 青岸寺は、600余年前佐々木導誉によって創建され、江戸のはじめに井伊家より再興され、禅刹(曹洞宗)となりました。
 山麓を利用した回遊式枯山水の庭園は、国指定の名勝であり、水流をあらわす白砂のかわりに杉苔が石組の間を流れるように埋め尽くされています。
 特に雨上がりには、しっとりと露を含んだ庭一面の苔が一層の趣きで見る人の心を打ちます。”
【写真左】湯谷神社参道から米原市街・琵琶湖方面を見る。
 青岸寺は、この写真の右側にある。











 青岸寺は、「湯谷神社文書」によると、以前は「米泉寺」と呼んでいたようで、米原氏が居たころ、同氏が当寺の再興にも尽くしたという。

 説明板にもあるように、青岸寺の創建者が佐々木導誉であることから、前稿「太尾山城・その3」でも記したように、太尾山城との関係がうかがわれる。

 すなわち、導誉(佐々木氏)を太尾山城の築城者とすると、築城期を正和5年(1316)とする説も強ち否定できないだろう。

2011年2月14日月曜日

太尾山城・その3

太尾山城・その3

◆解説
 今稿は太尾山城の麓に創建されている「湯谷神社」を取り上げる。
【写真左】濱田口
 太尾山城の南城を下って、湯谷神社に向かう途中のところにある。

 現地には何も表示がなかったが、下山途中に数段の削平地跡らしきものが見えたので、このあたりに屋敷跡があったかもしれない。


湯谷神社

 現地に設置された縁起より

湯谷神社由緒
       脇祭神 保食神 豊受大神 宇迦之御塊神
 祭神   主祭神 大巳貴神 出雲の国造りされて大国主命
       脇祭神 水門神 宗像神 速秋津日神

由来
 古へは六所権現社と称せり。上古雲之国人諸国を巡視して此の山谷に至り。里人をして地を穿ためにしに、霊泉忽ち涌出せり。されば、蘆荻雑草の叢生せる荒地を拓き、五穀の種を植へしに美稲豊熟す。是れ祖神大巳貴神の霊験なりと大いに歓喜し、山谷の岩上(岩倉)に祠を建て奉斎す。
 温泉滾々として湧出して、病者一度浴すれば、諸病忽ち快癒せしと称し、今に尊敬者多し、後保食神、水門神を合祀す。
【写真左】湯谷神社

興地志略に
 湯谷は昔此の池に温泉ありて、諸病を治す、或る日、葦毛の子を此の湯坪に洗ひしより此の湯かるる。当地は奈良朝の頃より、富永十六・十七條の荘と称し、来り桓武天皇の御宇大膳職御厨所の管する所なりしが、御三条天皇、延久二年二月(1071年 903年前)其の厨所停止せられ、後白河天皇より山門日吉の供料に寄附あらせられて、寿永二年閏三月(1183年 791年前)日吉の社領となる。当社を以て土地鎮護の神とせらる依って一つに山王権現社とも称す。

曳山狂言由来
 後桜町天皇(女帝)即位を慶して明和七年(1771年 203年前)三輌の曳山を造り、児童をして狂言芝居を演せしむ。

祭礼
 太古は毎年卯月(4月)五日と定められるも、其の後卯月中の申の日を以て祭礼を定められ、明治五年(1873年 101年前)十月十日定めらる。それより後今日に及ぶ。
 春 祈年祭三月一日 春例大祭五月 日、秋例大祭十月の祝日 新嘗祭十一月二十三日


【写真左】湯谷神社から太尾山城を遠望する。

末社祭神
 春川稲荷神社  
 前光稲荷神社  豊受大神 宇迦之御塊神(伊勢外宮)
 金比羅神社 大山昨神 金山彦神併祀
  六所神社  天照大神 熊野大神(熊野権現) 三輪大神(三輪明神)
         住吉大神 鹿島大神(鹿島神宮) 市杵島大神(厳島神社)

 牛頭天王社 素盞之命 津島神社

本殿並拝殿建立
 本殿造営 文明四年(1473) 今井備中守藤原秀遠建立
        元亀三年(1573) 浅井長政の兵火に罹災焼す
 再興    享保十七年(1733) 井伊直惟の家臣藤原朝臣再建
 拝殿建立 天保四年(1834) 

 昭和四十九年五月吉日”

 縁起は以上の通りだが、「上古雲之国人諸国を巡視して此の山谷に至り…」とある。

 上古という時期は奈良時代、もしくは飛鳥時代までさかのぼった昔と思われるが、この時代にすでに出雲国に住む人が当地を訪れていたというのも興味深い。


今井備中守藤原秀遠 (東軍)
 さて、この縁起の中で、本殿造営の記録に、文明4年(1473)今井備中守藤原秀遠という武将が建立したと記されている。
 今井氏は、京極氏の家臣といわれ、備中守の父・美濃守高遠のとき、応仁の乱の際は京極持清に従って活躍している。子の備中守も父と同じく京極持清に従い、細川方(東軍)に属した。

 京極持清が文明2年(1470)に亡くなると、京極氏の重臣多賀氏の間で内訌が起こり、備中守は多賀高忠に与し、翌3年(1471)、当城・太尾山城の合戦で、一族の岩脇近俊ら多くの戦死者を出したという。

 この記録は、「太尾山城・その1」で紹介した現地説明板にある
  「妙意物語」によると、文明3年(1471)美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦のあった…」
 と書かれている事項と符合する。

 参考までに、このころ太尾山城の戦いで関わった主な武将を挙げておきたい。

多賀高忠(東軍)
 京極持清・政経に仕え、官位は豊後守、通称新左衛門。主君であった持清とは従兄にあたる。応仁の乱においては、細川勝元らの東軍に属し、西軍の六角高頼を倒し山城国に如意岳城を築く。

 文明元年(1469)には、六角氏本城の観音寺城を奪取するも、翌年主君持清が亡くなり、嫡子・政経を擁するも文明4年(1472)に敗走、政経と越前に逃れる。

 3年後の文明7年(1475)、出雲国の国人領主を催促して、六角高頼に一時勝利するも、土岐成頼や斯波義廉が高頼についたため敗北。三沢氏(「三沢城・その1」2009年5月23日投稿 参照)ら主だった武将が討死する。

斎藤妙椿(西軍)
 斎藤妙椿(みょうちん)は、美濃斎藤氏の一族で、応仁の乱では西軍(山名宗全)に属し、文明元年(1469)ごろより、近江国へ侵攻、当時六角氏の西軍方は高頼であったため、彼を支援する。

 太尾山城の戦いのあったこの年(文明3年)、及び、翌年にわたって、東軍方京極氏の守護代多賀高忠軍を攻め立てたという。


 以上のことから、今井備中守は、応仁の乱において東軍方に属し、太尾山城での戦い(文明3年)が行われた翌年、湯谷神社の本殿造営を行ったということになる。


 本殿造営(再興)の目的は、おそらく家臣の岩坂某をはじめとする多くの家臣を失ったことからくる慰霊・忠魂の意味が大きかったと思われる。

太尾山城の築城期について(補記)
 湯谷神社脇には、当城の説明板としてもう一つのものがある。
 ここに書かれている内容は「太尾山城・その1」で記した内容と大分違うので、参考までに掲載しておく。
【写真左】もうひとつの説明板

みどりと戦国ロマンの里山
   史跡 太尾山城址について

 南北朝時代、源頼朝が平家を滅ぼすや、佐々木氏は戦功により近江の守護職に任ぜられて、この地が京都に通じる北陸道及び中仙道の要路のため、ここに小城を築き警戒にあった。

 山城は、痩せた尾根を堀切って、左右の絶壁から敵の攻撃を不可能にする地形を選んで、山全体を利用して築かれた。

 北条高時の時代(1316)、京極高氏の支城となり、その後京極氏と六角氏の勢力争いが繰り返された境目の城で、永禄4年6月(1561)、浅井長政は、六角方の吉田安芸守が守備していたのを攻め落とさんとしたが能わず、引き返した。元亀3年1月(1573)、織田信長の兵2万が佐和山城を攻め、ついで朝妻・太尾の両城を攻撃し、太尾城は灰□に帰した。

 この太尾山城は、北と南に主郭があり、別城一郭といわれ、今も見事に堀切や土塁・曲輪跡が残されている。
 頂上の城跡からは、琵琶湖や湖北・湖東・西江州が展望できる絶景の里山である。
 太尾山城跡は、平成13年9月19日、米原町の史跡に指定された。”

 この中で、「北条高時の時代(1316)、京極高氏の支城となり、」とある。京極高氏とは、佐々木導誉のことである。
 1316年は正和5年になるが、このとき導誉は21歳である。導誉は嘉元2年(1304)に外祖父・佐々木宗綱の跡を継いで家督を継承し、19歳の正和3年の12月、左衛門尉に任じられている。
 21歳の時、導誉が近江の国に在住していたか、実ははっきりしない。幼年期・少年期には鎌倉にあったことが知られるので、このあたりが何とも言えない。

 ただ、次稿に予定している同じく当城麓にある「青岸寺」の創建者も、導誉といわれているので、まったく根拠がないともいえない。
 

 ところで、この説明板の冒頭「南北朝時代、源頼朝が平家を滅ぼすや」とあるが、南北朝時代でなく、平安後期だろう。
 

2011年2月13日日曜日

太尾山城・その2

太尾山城・その2

●形式 山城(別城一郭)
●遺構 郭・土塁・堀切、礎石建物
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年3月19日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪 滋賀県教育委員会編」「戦国の山城 全国山城サミット連絡協議会編」その他)

 太尾山城は米原市にあるが、この地域は西に琵琶湖を望み、東には鈴鹿山脈が湖岸まで迫るところである。
 当時の街道としては、東山道と北国街道が交わり、大量の物資は西に向けては、琵琶湖を使った水運が盛んに使われたという。
【写真上】太尾山城遊歩道案内図
 図示したように、太尾山城は「北城」と「南城」の二つからなる「別城一郭」という形式の山城である。
 米原市街地から東方に向かって狭い道を進むと、麓に「湯谷神社」と「青岸寺」という寺社がある。

 登城コースは上記の二カ所から向かうことができるが、この日は左側(青岸寺)から登って行った。

境目の城

 太尾山城の本丸付近から眺望すると、この場所に山城を築いた理由が即座に理解できる。

 この位置は東の鈴鹿山脈を越えると、美濃の国につながり、南東に向かえば、伊勢の国となり、北の湖北を越えると、若狭の国に至る。

 このことから、この地域は国境の地、すなわち「境目」の山城として必要不可欠の城砦であることが分かる。このため、この付近には、太尾山城の外に多くの山城が密集している。
 当城からおよそ2キロ四方の範囲で設置された山城には、下記の6カ所がある。
  1. 福島城    太尾山城の南西1キロ付近
  2. 菖蒲嶽城   〃            の南方1キロ付近で名神高速の北側
  3. キトラ谷城  菖蒲城の南方500m余の名神高速の東側
  4. 鎌刃城    太尾山城より南東2キロの山中に入った位置
  5. 番場城    鎌刃城を降りたところ
  6. 地頭山城   太尾山城の北東1キロの位置
 この中で、管理人は登城していないが、4.の鎌刃城は、太尾山城と同じく六角・京極氏の抗争の場となった山城で、興味深い遺構が多く残り、国指定史跡なっている。
【写真左】登城途中から青岸寺を見る。
 登城路は整備され、比較的登りやすい。
 写真下に見えるのは青岸寺で、太尾山城は左側になる。しばらく尾根伝いを進む。

【写真左】分岐点
 最初のピーク地点で、左に向かうと八田山や米原高校のある場所に出る。
 太尾山城へはこの写真をまっすぐ進む。
 このあたりから右側斜面が険しくなっている。

【写真左】盗人岩
 盗人がこの岩陰に隠れていて、村人を脅かしたといわれる。
 太尾山城で眺望が最もいい場所は、この盗人岩付近で、特に琵琶湖方面がよく見える。
【写真左】盗人岩から米原市街・琵琶湖を見る。
 登城した時刻が9時過ぎであったこともあり、全体に霧がかかり、琵琶湖方面ははっきりしない。
 中世のころはおそらく写真にみえる平地はなく、琵琶湖の湖岸は現在の米原駅付近まで入江になっていたと思われる。
【写真左】北城・その1
 北城側は大小合わせて6,7カ所の郭が尾根を利用して南北に連続している。
 この写真はその中で最大の郭で、30m四方といったところか。
【写真左】北城・その2
 鉄塔が建っているが、その奥に土塁が見える。
 太尾山城の土塁は、全体に西側と北側に多くみられる。このことは、東側の琵琶湖側からの攻めより、西側、すなわち美濃や伊勢方面を意識しているということになる。
【写真左】堀切
 北城から南に尾根伝いに向かうと、南城に至るが、その直前に堀切がある。

 現在では大分埋まっているようだが、この位置から南城主郭までは距離が短いので、当時はかなりの深さがあったものと思われる。

 なお、規模の大きい堀切としては、この外に南城の末端(西端)にも構築されている。

【写真左】南城その1
 南城は北城に比べて城域長さは短い。写真は4,5段続く郭段で、尾根が西に屈曲していることもあり、東から南側に対する防御が意識されているためか、このライン上に土塁が連続している。
【写真左】南城その2
 説明板が設置されている。

太尾山城【南城跡】

 太尾山城の南城跡は、標高242.4mの山頂に築かれています。方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削平して曲輪を配し、南北端の尾根筋には巨大な堀切を設けています。

 発掘調査の結果、主郭の中心に設けられた方形の土壇上からは、2間×3間の礎石建物が検出され櫓台だったようです。

 また、主郭からは4間×4間以上の礎石建物が検出されました。この礎石建物からは多くの土師器や擂鉢(すりばち)、中国製白磁皿などが出土しており、恒常的な居住施設が山上に設けられていたことが判明しました。”
【写真左】南城から北城を見る。
 南城主郭から北城のそれまでは、約400m程度ある。
 また標高は、南城が242m、北城が254mとなるから、10m余り北城が高いものの、ほぼ同程度の高さであったことから、当時はお互いの動きが確認できたと思われる。

【写真左】南城から南西方面を見る
 この写真の中に入っているかどうか不明だが、鎌刃城がある。

  



2011年2月12日土曜日

太尾山城(滋賀県米原市米原)その1

太尾山城(ふとおやまじょう)その1

●所在地 滋賀県米原市米原(旧坂田郡米原町米原)
●築城期 不明(文明3年:1471年前)
●城主 京極氏・六角氏・浅井氏・織田氏等
●標高 254m
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年3月19日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く 滋賀県教育委員会編」「城格放浪記」等)
【写真左】太尾山城遠望
 麓の青岸寺からみたもの。










 前稿まで出雲国の斐川・高瀬城に関わった出城を紹介してきた。
 今稿は高瀬城の城主「出雲米原氏」の祖といわれる「近江米原氏」及び、同氏が築城したといわれる近江(滋賀県)の山城・太尾山城をとりあげたい。

 現地の説明板より

米原市指定史跡 太尾山城跡

 太尾山城の築城年代は明確ではありませんが、「近江国坂田郡志」によると、地元の土豪・米原氏が築いたと記しています。
 「妙意物語」によると、文明3年(1471)美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦のあったことが記されており、このころ築かれたものと考えられます。

 戦国時代には、湖南の守護・六角氏の城となっていたようで、天文21年(1552)には、京極高広が太尾山城の攻略を今井氏に命じますが、失敗に終わっています。

 永禄4年(1561)には、浅井長政によって攻略され、長政は浅井郡の土豪・中嶋宗左衛門を城番に入れ置きます。
 元亀2年(1571)、織田信長によって佐和山城が攻められると、宗左衛門も太尾山城から退き、以後廃城となりました。

 太尾山城は、北城部分と南城部分の二つの城郭から構成されています。ここ北城跡は、標高254.3mの山頂に築かれています。その構造は、北辺に土塁を巡らせた主郭と、南方の3段の曲輪からなり、その先端は堀切によって尾根筋を切断しています。

 また、主郭北側の急斜面直下に位置する土塁に囲まれた小曲輪からは、敷地全域を総柱とした礎石建物が検出されており、櫓もしくは倉庫であったと考えられます。
 この礎石建物からは、土師器皿をはじめ、中国製の青花(せいか)と呼ばれる染付磁器、白磁などが出土しており、16世紀後半に築かれたものであることが分かりました。

 なお、「大原観音寺文書」には「太尾門矢蔵之用、上野より材木三本召寄候」とあり、検出された建物には、伊吹の上野の材木が用いられたようです”
【写真左】説明板
 太尾山城麓に設置されている。縄張図や当城の登城ルートなど分かりやすい。








 上記の説明板にもあるように、築城期については、「文明3年(1471)美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦…」とあり、これ以前ということだろう。

 参考までに、これとは別に、明徳の乱(1391)のとき、米原平五が、また応仁元年(1467)の応仁・文明の乱に、米原平内四郎がそれぞれ在城した(★)、という記録もある。これが事実とすれば、明徳元年(1390)以前、すなわち室町幕府第3代将軍・足利義満のころとも考えられる。

米原氏

 ここで、近江・米原氏の出自について検証してみたい。
 米原氏は、近江六角氏(佐々木氏嫡流)の流れで、下記の系譜と考えられる。
  1. 六角氏 初代  泰綱   建保元年(1213)~建治2年(1276)
  2.      2代  頼綱   生誕不明    ~ 死没不明
  3.      3代  時信   徳治元年(1306)~興国7年(1346)
  4.      4代  氏頼   嘉暦元年(1326)~正平25年(1370)
  5.      5代  満高   正平20年(1365ごろ)~応永23年(1416)
  6.      6代  満綱   応永8年(1401)  ~文安2年(1445)
  7.      7代  久頼   生誕不明     ~康正2年(1456)
  8.      8代  高頼   生誕不明(1445又は1455とも)~永正17年(1520)
  9.      9代  定頼   明応4年(1495) ~天文21年(1552)
そして、米原氏については、六角氏第9代・定頼のとき、甥であった治綱養子となり近江国米原郷を領し、米原氏名乗たといわれている。
 
 しかし、上掲の(★マーク)・下線で示した記録が事実とすれば、六角氏5代・満高の代に、「米原平五」がいたことになり、さらには、8代・高頼の代にも、「米原平内四郎」なるものがいたことになる。
 この記録の出典が不明なため、判断がつかないが、現地の説明板にあるように、
  1. 太尾山城の築城者が米原氏であること。
  2. 文明3年(1471)に、美濃守守護代・斎藤妙椿と米原山で合戦。
  3. 戦国時代には、湖南の守護・六角氏の城となっていた。
という説を見ると、必ずしも六角氏第9代・定頼に養子に入った治綱を、米原氏初代とする説を有力とすることはできないだろう。
 
近江米原氏の出雲国移住時期

 ところで、近江米原氏については当地名と同じく、「まいばら」と読み、出雲国・高瀬城の米原氏については、「よねはら」と呼称する。
【写真左】出雲・高瀬城(島根県)遠望
 南方の登城ルートからみたもの。
 高瀬城の南方には、南北朝期築城とされる「城平山城(2009年2月投稿・参照)」があり、両城は尾根伝いに迂回しながら歩くルートが設置され往来できる。



 さて、これまで出雲国・高瀬城主米原氏については、度々紹介してきたように、この近江米原氏が、戦国期出雲国に来住し、特に綱広の代になって尼子氏の被官となったと一般的にいわれている。

 では、近江米原氏がいつごろ出雲国に来住したのか。これまでのところ明確に示した史料が見えないため、はっきりしない。
 さらに、混乱させる他の伝聞では、
  1. この治綱が尼子経久に仕えて軍功を立てた。
  2. 別の説では、「米原宗勝入道」が、尼子清定(経久の父)のころ、出雲に来住した。
というのもある。

 1.の説でいくと、米原氏初代であった治綱が、尼子経久の元(出雲国)にすでに赴いていることになる。
 2.の伝聞については、尼子清定(1410~87)のころになるが、六角氏でいえば、6代・満綱から8代・高頼のころとなる。米原宗勝入道なる人物については、全くわからない。

 経久は、長禄2年(1458)に生まれ、天文10年(1541)没している。83歳という当時としては大変な長寿を全うした武将である。
 六角定頼の生存期と、尼子経久の生存期はほぼ同時期である。このことは、時系列で考えると、定頼のもとへ養子に入ったとされる治綱が、尼子経久のもとへ赴くことは可能である。しかし、地元出雲国において、治綱がいたという記録は見えない。
 
 定頼が治綱を養子として迎えた当初は、おそらく彼を六角治綱と命名したのであろう。
 天文7年(1538)の北近江侵攻後、太尾山城はその後「六角氏」の所有となっている。ところが、近江米原初代となった治綱がこの段階で、当城の城主となっていたかは明確でない。
【写真左】六角氏の居城・観音寺城遠望
  近江湖東地区(滋賀県近江八幡市安土町)にあり、その西には安土城がある。

 国の指定史跡で、近江国ではもっとも規模が大きい。いずれ当城も取り上げたい。



 しかも、六角氏が支配下に置いた当城は、その後境目の城であったこともあり、湖北の京極・浅井氏とその後も度々攻防が繰り返されている。

 元亀2年(1571)の信長による浅井氏攻めにいたるまで、度々当城の争奪戦が繰り広げられた割には、その間米原氏の記録が全く見えない。

 こうしてみると、六角治綱(米原治綱)は、定頼の元に養子に入った直後、六角氏から離れていったとみるしかない。治綱が、米原氏を称したものの、六角氏(定頼)と袂を分かつ何らかの事由が生じたとしか思えない。

 その事由を補完するのが、出雲米原氏の尼子氏被官である。尼子氏は、実は六角氏と敵対する京極氏である。
 近江米原氏が当地(太尾山城)を離れる動機が、六角氏と京極氏との間の紛争が根底にあったことは、後の尼子氏に被官したことで想像できる。つまり、米原氏が六角氏から京極氏へ移ったということであり、当時の当事者は、六角氏においては定頼であり、京極氏においては高清(1460~1538)のころと思われる。

 室町時代後期のできごとについては余りにも変化が激しく、京極・六角氏との抗争はもちろんだが、両氏それぞれの家督相続における内紛がさらに拍車をかけ、その中にあって、一介の土豪領主であった米原氏の痕跡の糸を紡ぐのは容易ではない。

 出雲米原氏が初見されるのは、天文元年(1532)8月の尼子経久で塩冶氏に養子に行った興久の反乱の際、米原綱広(綱寛の父)の名が記録されている。

 次稿では、現地太尾山城を紹介したい。

◎関連投稿
紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)