2014年10月14日火曜日

近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)

近江・横山城(おうみ・よこやまじょう)

●所在地 滋賀県長浜市堀部町・石田町
●築城期 室町期~永禄4年(1561)
●築城者 京極氏・浅井長政
●城主 京極氏・浅井井演
●高さ 312m(比高170m)
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・井戸等
●備考 臥龍山
●登城日 2014年9月10日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)
 横山城は前稿までとりあげてきた近江・小谷城の城主・浅井亮政が永正14年(1517)、時の城主京極氏を当城に攻めたあと、三代目・長政が本格的に改修したといわれている山城である。
【写真左】横山城(臥竜山)遠望
 南東麓米原市の朝日地区から遠望したもので、この位置からは北城は見えないようだ。





 現地の説明板より

“横山城跡
 横山丘陵の最高峰(約312m)を中心とする頂部一帯に築かれたのが横山城です。当初、北近江の守護大名京極氏の支城として築かれたと考えられています。その後、浅井氏の南進拠点として、永禄4年(1561)、浅井長政によって本格的に改修されたようです。
【写真左】横山城縄張図
 この図でいえば、この日の登城口観音寺は、現在地(南城)と書かれた右側にあり、左側の北城から左方向の尾根伝いに進むと、臥龍山全体の城砦群が控える。





 元亀元年(1570)、姉川合戦で勝利した信長は、羽柴秀吉らを城番に入れ、小谷城が落城する天正元年(1573)まで、北近江の拠点としての役割を担います。

 城の遺構は、最高点を北城、そこから派生する南尾根上に南城が築かれた「別城一郭」の構造です。横山城からの眺望は素晴らしく、東は伊吹山や北国脇往還、西は長浜平野、北は小谷城を一望でき、北近江の押さえとしては絶好の位置にあります。
   米原市教育委員会
             平成23年度埋蔵文化財活用事業
【写真左】観音寺に向かう。
 手前に観音寺専用の駐車場があり、そこから真っ直ぐな参道が観音寺まで繋がっている。

 横山城の案内標識として目立つものはないが、丁度この近くで畑仕事しておられたお婆さんがおられたので、尋ねたところ、つい最近鐘楼を新しくしたところなので、是非お参り下さい、とお勧め頂いた。


臥竜山周辺

 横山城は、前稿の近江・小谷城から麓の国道365号線を約11キロ余り南に下った位置にある。当城を含むこの丘陵地は南北に約2キロ余り伸び、別名臥竜山(がりゅうさん)と呼ばれている。

 尾根筋はほどんど長浜市と米原市との境界になっており、本稿では所在地を長浜市としているが、実際は両市を跨ぐ位置になる。そして、同山には横山城をはじめ、戦国期に築城された他の城砦も記録されている。南側から北に向かって、順に列記すると次のようになる。
  1. 横山城・南城(H:300m)
  2. 横山城・北城(H:312m)
  3. 梶原砦
  4. 北平砦
  5. 坂南砦
  6. 総山砦(H:234m)
  7. 龍ヶ鼻砦(H:180m)(信長軍の最前線基地:長浜市)
 いずれも長い尾根上のピークに築城されたもので、この日の登城もできればすべて縦走したいところだったが、時間的に余裕がなく、結局横山城の南城のみとなった。
 説明板にもあるように、当城は「別城一郭」構造である。北城が単調な構造であるのに対し、南城には多くの遺構がのこることから、それぞれの築城時期にずれがあったとされている。

 特に、信長亡き後の賤ヶ岳合戦の天正11年(1583)12月、秀吉が宇喜多秀家に宛てた書状の中に、「江州北郡表人数打出、(略)横山城を相拵、人数丈夫に入置候、(云々)」とあり、このとき大幅な改修がなされたとされている。
【写真左】観音寺本堂
 登城口の脇に古刹・観音寺が建立されている。

 本山にたどり着く前、参道の脇には本坊等の建物もあったので、鎌倉・南北朝期はかなりの規模のものだったと思われる。


 “重要文化財
 観音寺本堂
    所在地 坂田郡山東町朝日
    平成5年4月20日指定

 桁行5間、一重、入母屋造、向拝1間、背面張出附属、桟瓦葺  江戸時代

 観音寺は、弥高・大平・長尾の三ヶ寺とともに伊吹山四ヶ寺の一つであったが、正元年間(1259~60)現在地に移ったという。伊富貴山観音護国寺といい、千手観音を本尊とする天台宗の寺院である。
【写真左】四ツ目結の台
 本堂前の左右には、四ツ目結の家紋が記された台がある。寺院なのでこの台の上には灯篭があったと思われるが、神社の雰囲気も感じられるので、ひょっとして狛犬があった可能性もある。

 この家紋からも当院が当時北近江を支配していた京極氏との関係がうかがえる。


 本堂の再建は再興記録に詳しく、正徳5年(1715)上棟、地元の大工棟梁宮部太兵衛、京都の彫刻師が造営に携わったことなどが知られる。
 入母屋造の屋根は、当初葭葺(よしぶき)であったが、明治元年(1868)に桟瓦葺に改められている。
 内陣の雲龍彫刻など細部意匠に優れ、彫刻の豪華さは県下の近世社寺建築を代表する遺構である。
  平成8年3月 滋賀県教育委員会”


石田三成出生地

 ところで、横山城の南西麓にある石田町は、石田三成の出生地といわれている。登山口の一つが石田日吉神社のある石田町だが、この日は下調べも十分でなく、南東側にあたる米原市側の大原観音寺から登ったため、当地を訪れていない。

 上掲した観音寺は、当時寺の小僧であった石田三成が、鷹狩で立ち寄った豊臣秀吉に茶を献じ、その縁で三成が秀吉に仕えていったといわれている。
【写真左】登城口
 当院の右側に「至 横山城跡⇒ ハイキングコース 観音寺山を愛する会」とかかれた標識があり、この階段から登っていく。
【写真左】登城道
 前半はややきつい坂道があるものの、最初の尾根にたどり着くと大分緩やかになる。道中要所に西国三十三番観音巡拝とされた地蔵が建つ。
【写真左】南城・主郭の下
 南東部から回り込んできた尾根にたどり着くと、右手に主郭が見えてくる。
【写真左】南城・主郭
 主郭は長径15m×短径10m程度の小規模なものだが、新しい鐘楼が建っている。
【写真左】鐘楼
 「奉上棟 平成26年9月吉日…」と書かれているので、管理人が登城する数日前に上棟されたようだ。
【写真左】土塁
 主郭の南北側には高さはあまりないものの、土塁が残る。
【写真左】井戸跡
 主郭から北側に進むと、北城方面に繋がるが、主郭北の少し下がった段には井戸が残る。
 穴の大きさはあまりないようだが、深いとみえて柵が施してある。

 このあと北の尾根を進む。
【写真左】虎口
 主郭北端部に設置されているもので、少し南に向きを変えている。
【写真左】長い郭群
 虎口を降りると、尾根沿いに4,5段の郭群が続く。
 ここから北城の手前まではおよそ150m余ある。
【写真左】竪堀
 南城の中では最大のもので、北側に設けられている。
【写真左】郭段
 尾根沿いに伸びているもので、次第に下がっていく。
 幅は最大で20m前後か。このまま先を進む。
【写真左】鉄塔
 ここにきて途端に明るくなるのだが、ご覧の藪と雑草の繁茂。この日は結構湿度が高く、相当藪蚊に噛まれていた。この先を行けば北城に行けるのだが、連合いの拒否に従い、Uターンする。後で知ったのだが、北城の主郭は整備が整い、眺望がすこぶる良いようだ。
【写真左】堀切
 再び南城にもどり、今度は登城してきた尾根とは別の南方向に伸びる尾根を進む。
 主郭の真下には堀切が残る。
【写真左】展望所
 南城主郭から南西方向に伸びる尾根を進むと、途端に解放された眺望のよい場所があらわれた。
 ここも「横山ピクニック道」の一つとされている。
【写真左】展望所から北城方面を見る
 写真右側のピーク辺りが北城のピークと思われる。そのまま左に続く尾根伝いに長い郭や、二重堀切があるという。

 冒頭で紹介した信長軍の最前線基地:龍ヶ鼻砦(H:180m)は、この写真でいえばこの正面奥に連なる尾根を進むことになる。
【写真左】西方に長浜の田園地帯を俯瞰する。
 この日は大分靄がかかっていて明瞭でないが、視界がいいときは琵琶湖などが見える。
【写真左】観音寺下山道
 還りはこの南西尾根の途中から下山できる最短距離のコースがある。
 ただ、傾斜がきつく道が崩れていたりしていたため、かなり足元には注意が必要だ。

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