2011年11月12日土曜日

田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)

田尾城(たおじょう)

●所在地 徳島県三好市山城町岩戸●別名 多尾城、白地山城
●築城期 久安6年(1150)ごろ、または南北朝期(興国元年ごろ)
●高さ 標高500m(比高300m)
●指定 三好市市指定史跡
●築城者 脇屋義助・小笠原頼清
●城主 近藤(大西)京帝、大西覚用・頼信等
●遺構 郭・堀・土塁等
●登城日 2011年11月9日

◆解説(参考文献『城郭放浪記』等)
 前稿川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)で少し触れたように、南北朝期南朝方新田義貞の弟・脇屋義助が関わった山城である。
【写真左】田尾城遠望
 西側からみたもので、左(北)に向かうと吉野川の支流・銅山川につながる。







 川之江城から当城に向かうルートとして考えられるのは、国道11号線から国道192号線(阿波街道)にいったん入り、県道5号線(川之江大豊線)に向かい、「堀切トンネル」をくぐって、銅山川水系の新宮ダム付近に出て、そこから同川と並行して走る国道319号線を下り、三好市の山城町黒川まで来ると当城の麓にたどり着く。

 おそらくこのルートは南北朝期の河野氏細川氏の争い、また戦国期には、長宗我部氏の四国制覇の際度々利用された経路と考えられ、阿波国と伊予国の境目でもあったことから、時の支配者にとっては最も重要な経路だったと考えられる。
【写真左】田尾城配置図
 現地(山城町)の黒川谷川付近に設置された「グリーンツーリズム体感マップ」という地図に示されている。
 この図では左側が北を示す。
 管理人が登城したこの日は、引地というところから登り、登城後反対側の「現在地(黒川)」へ降りた。


 ただ、引地というところからは向かうコースは、とんでもなく急坂・急カーブ、そして道が狭く、運転に未熟な人にはお勧めできない。ほとんどガードレールがない道で、一つ間違うと谷底へ車ごと落ちてしまうスリル満点?のコースである。



 ちなみに、前述した愛媛県側の「堀切トンネル」が開通する前は、江戸時代初期、土佐藩が参勤交代の際、西方にある「堀切峠」を使っていたといわれている。

 現在では、徳島自動車道を使って、井川池田ICから国道32号線を南下し、そこから319号線に入れば短時間でたどり着ける。
【写真左】長宗我部元親の指揮所跡
 田尾城登城口と反対側に建立された場所で、写真中央に石碑が祀られている。


この場所は田尾城の現在の登城口と近接しており、違和感を感じるが、当時の田尾城の大手門登城口は別のところにあったようだ。



現地の説明版より

“山城町指定 田尾城址


 田尾城は中世の山城で、南城と北城がある。南北朝時代の山城の特色は、石垣のない空堀で、城の配置にも特色がある。
 当時は北城が正面・戦国時代南城が改修され正面に変わる。


戦史
1、南北朝時代
 平地より侵攻してきた北朝方の細川頼春に対し、池田城小笠原義盛は、南朝方に味方して西暦1337年、挙兵し戦ったが戦い利あらず和を結んだ。長男頼清は、節を曲げず、讃岐に侵攻してきた南朝方の山岳武士集団の脇屋義助と呼応して、田尾城を築き、八石城と連携した阿波山岳武士の拠点である。
【写真左】田尾城登城口付近
 駐車場は、この手前3,40m付近に確保されていて、そこから歩いていく。

 写真右側に設置されているものが、転載している説明版で、平成15年に整備されたようだ。




2、戦国時代
 土佐の長宗我部元親は、四国制覇の野望を抱き、約三千の兵を従え、天正5年春1578年侵攻してきた。白地城大西覚用は、砦の田尾城を改修し、弟頼信13歳を城主とし、守将の寺野源左衛門武次に兵300を与え、猛反撃を繰り返したので、力攻めでは落とせないと見た元親は、夜陰に乗じ山に火を放った。火攻めにあい落城したので、白米伝説がある。


備考  
 1150年 近藤京帝 白地城を築く 大西と改姓
 1221年 小笠原長清 池田大西城築く
      勝瑞城に移り三好と改姓


   平成15年8月31日
     山城町教育委員会”
【写真左】登城道
 全体に傾斜のある直進の坂道だが、簡易舗装など大変に整備が行き届いており、歩きやすい。
 ただ、この箇所の道は当時のものでなく、近年新たに作られた道のようだ。





脇屋義助

 説明板にある池田城の小笠原義盛が、北朝方の細川頼春と和議を結んだ西暦1337年とは、延元2年(建武4年)のことである。

 金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)でも紹介したように、この年正月、高師泰が越前国金ケ崎城を攻撃し、3月6日、当城は陥落し、恒良親王は捉えられ、新田義貞の長男・義顕は自害する。

 脇屋義助は兄・新田義貞とともに、越前国でその後も戦うが、翌延元3年(1338)に義貞が戦死すると、兄に代わって同国の宮方総大将として戦うことになる。しかし、戦況は次第に不利となり、越前国から退いた。
【写真左】虎落(もがり)のサンプル
 登城途中にはこうした戦の際使用されたサンプルを設置している箇所がある。





 義助が中四国の南朝方の総大将として西国にやってきたのは、病死する康永元年(興国3年:1342)とされている。したがって、田尾城を築いたのはこの年ということになるが、この年以前にはすでに当地に赴いていた可能性が高い。

 というのも、脇屋義助が関わった城砦としては、この田尾城の他に、説明版にもあるように三好市の東方井川町井内にある「八石城(H780m)」や、東みよし町東山の「東山城(H401m)」は、脇屋義助が山岳武士の拠点としたところで、これら複数の城砦を短期間に築城することは、現実的には無理があるからである。

◎関連投稿
 脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)
【写真左】堀切
 堀切の箇所で、両側に石積を行い橋をかけているが、これは田尾城の歴史から考えると、ありえない。


 また、この箇所からさらに上に行くと、途中に近世城郭の「狭間」などが設置されているが、これもあり得ない。



戦国期

 戦国期においては説明版にもあるように、長宗我部元親の侵攻が記録されている。当時、この地域一帯は大西氏が支配していたが、阿波細川氏から実権を奪取した三好氏に服属していった。こうした中、土佐の長宗我部氏が四国支配の最重要拠点として、伊予街道と徳島街道の合流点にあたる位置に築かれた白地城(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)を攻略した。天正4年(1576)のことである。

 そして、翌天正5年、白地城の支城であった田尾城を攻め落とすことになる。

 なお、説明版に天正5年春1578年とあるが、天正5年は1577年である。
【写真左】本丸跡・その1
 登城道を直進していくと本丸にたどり着く。
ほぼ円形の形を成している。規模は下記の通り。
南北21m、東西18m。
土塁 高さ 1~1.6m、幅 3~4m
本丸北側には、毛抜堀、片薬研堀、畝堀、竪堀があり、搦め手となっていた。



大西覚用

 大西覚養、または角養とも記す。
 大西氏は、説明板には書かれていないが、鎌倉時代京都から荘官として派遣されていた近藤氏が当地に土着し、大西氏と改姓したことに始まる。そして小笠原氏とは緊密な関係を保ち、南北朝時代には南朝方として戦った。(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)

 しかし、小笠原氏と一旦、袂を分かつきっかけとなったのが、説明板にもあるように、小笠原義盛が細川方と和議を結んだことからである。しかし、のちに小笠原氏はこの場所から東方に移住し、三好氏と改姓していく。戦国期に至ると、覚用の父・頼武は三好長慶の妹を娶り、息子の覚用自身も三好家の女を娶っている。

 三好氏は長慶の時代になって、本国阿波から畿内に上り一時は畿内を制圧するほどの勢力を誇った。ただ、阿波国西部における三好氏の支配が弱くなり、大西氏に限定されたことが、のちには長宗我部氏の台頭を誘引したともいえる。
【写真左】本丸跡・その2
 本丸から北側に進もうとしたが、整備されておらず、写真に撮っていないが、毛抜堀は確認できた。
【写真左】天神社殿
 本丸奥の中央部に祀られている。


 なお、この場所では時々地元の方々によっていろいろなイベントが行われているようだ。
【写真左】土塁
 全周囲にわたって土塁が張り巡らされている。
 保存状態は良好である。
【写真左】田尾城付近から北麓を見下ろす。
 改めてこの位置から眺めると、田尾城の険峻さに驚く。
【写真左】田尾城遠望・その2
 下山途中から田尾城を遠望する。


【写真左】下山した黒川谷川付近から上流部を見上げる。
 写真右下の道(黒川林道)を登っていくと、愛媛県との県境にある「塩塚高原」につながる。

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