2018年3月1日木曜日

足助城(愛知県豊田市足助町 真弓山)

足助城(あすけじょう)

●所在地 愛知県豊田市足助町 真弓山
●別名 真弓山城、松山城
●高さ 301m(比高170m)
●築城期 室町時代
●築城者 鈴木氏
●城主 鈴木氏
●遺構 郭・堀切・井戸・高櫓・厩等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 足助城は三河国に所在する城郭である。同国の城郭を紹介するのは足助城が初めてである。当城については、2007年に登城した美濃の苗木城跡・岐阜県中津川市苗木を探訪した折、その存在を知ったのだが、その経緯についてはほとんど記憶がない。ただ、「足助」という変わった名前だけは脳裏に残っていた。
【写真左】足助城
 ご覧のように城跡公園として大変綺麗に整備され、散策しやすくなっている。








現地の説明板より

“足助城
 足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。
 真弓山は、足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。

 足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
 なお、足助城は、元亀2年(1571)武田信玄に攻略され、天正元年(1573)まで、武田方の城代が在番しました。”
【写真左】縄張図
 現地に設置されているものだが、一般的な縄張図の描き方とは少し違って、デフォルメされた図である。

 中央部に本丸があり、その左に西ノ丸、右下に南の丸が図示されている。斜線で区画された箇所が城域だが、公園として整備されているのは中央の点線で囲った箇所になる。
【写真左】本丸・南の丸・西の丸配置図
 上記の縄張図では分かりにくいため、本丸など主要な箇所のみを示した要図が設置されていたので、併せて掲載しておく。

足助街道

 足助は古来より「塩の道」として有名な三州街道の宿場町・足助宿として栄えた。

 江戸期の足助街道の始点は、岡崎城下を走る東海道の能見口(能見町)から枝分かれする地点で、最初に5キロほど北上する県道56号線を進み、そのまま県道39号線となっていくルートがほぼ当時の足助街道と重なる。
【左図】足助城・飯盛山城を中心とした支城と当時の街道を示した図
 現地に設置されていたもので、文字などが擦れていたため、管理人によって修正を加えたもの。


 途中から矢作川の支流巴川と並行して北東方向に進み、足助の手前で西から伸びる飯田街道(国道153号線)と合流し、足助街道はここで終点となるが、そのまま飯田街道を上っていくと、信州に入り(三州街道)、伊那の飯田に繋がる。
【写真左】公園入口
 手前に駐車場があり、そこから坂を登っていくと左側に事務所があり、そこで入場料を払って入る。







足助氏鈴木氏

 足助城の築城者及び城主は下段の説明板にもあるように、鈴木氏といわれている。鈴木氏が当地を支配する前に居たとされるのが、平安時代末期に足助城の隣にあった飯盛山城を本拠とした足助氏である。

 足助城を訪れた際、飯盛山城にも登城しようと試みたが、この日は近くにある景勝地・香嵐渓(こうらんけい)に多くの観光客が訪れていたため、駐車場の確保が困難であったことから断念した。

 前述したように、足助氏は飯盛山城を居城とし、その周辺に6ヶ所の支城を配置している(上図参照)。この支城の一つが本稿の足助城(真弓山城)である。因みに、他の5ヵ所は、臼木ヶ峯城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城で、本城・飯盛山城と併せて、「足助七城」と呼ばれた(上図参照)。
【写真左】南の丸を見上げる。
 登城コースは、南の丸の下から西に向かうようになっている。南の丸の切崖はかなり険しく、崩落したのだろう斜面が改修されている。

 なお、この南の丸から下に繋がる尾根筋には、腰郭が2段構成されている。



“鈴木氏

 鈴木氏は、戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族です。そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は、15世紀後半の人といわれます。

 16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7年(1564)以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげます。そして、天正18年(1590)康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ、浪人となりました。

 なお、飯盛城の居館(現香積寺(こうじゃくじ)付近)なども、使用したと思われますが、よくわかりません。”
【写真左】井戸
 南の丸腰郭から西ノ丸へ向かう途中にあるもので、石積跡が残る。








  “発掘調査

 平成2年度から4年度まで、足助城の発掘調査を行いました。室町時代から戦国時代の山城の発掘調査は、全国的にも珍しいものです。

 山城は、戦いの時の砦とも考えられますが、足助城では、どの曲輪からも建物跡の柱穴がみられ、多くの日用雑貨や茶道具・文房具・白磁などの渡来品(輸入品)も出土したことから、生活の場であったともいえましょう。

 明確な建物跡がわかったのは、本丸・南の丸・北腰曲輪1・同2・西物見台で、いずれも、掘立柱の建物です。本丸腰曲輪3からは、建物の礎石が見つかっています。また、本丸と南物見台を結ぶ橋・井戸・堀切などもわかりました。”
【写真左】西の丸と、西ノ丸腰郭の分岐点
 右に上ると西ノ丸に直接つながるが、先ずそのまままっすぐ腰郭の方へ向かう。







“整備

 足助城は、400年の歳月を経て、再び姿をあらわしました。変転極まりない戦国時代を生きた足助城は、ふるさと足助の一つの姿です。

 足助町は、愛知のふるさとづくり事業、町制施行100周年記念事業として、足助城を再現しました。工事は発掘調査の結果をもとに、忠実い施工したものです。戦国時代の山城跡の本格的な復元は全国でも初めての試みです。足助城を通して戦国の世を生きた人々の心に、思いを寄せていただけることを願います。”
【写真左】西ノ丸腰郭1
 西ノ丸の下に構築された郭で、半円形のもの。
【写真左】西の丸を見上げる。
 西の丸腰郭1から見上げたもので、高低差は7~8m位か。
 このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
 東西に長軸をとる形状で、15m前後の奥行がある。
【写真左】西の丸から西物見台と本丸を見上げる。
 西の丸の東側には茅葺の西物見台の建物が建っている。
 その右奥に本丸が見える。
 このあと、右側の通路を通って、先ず南の丸に向かい、その後本丸に向かう。
【写真左】南の丸へ向かう。
 西物見台から左手に本丸を見ながら、先ず南の丸へ向かう。
 奥に南の丸の建物が見える。
【写真左】南の丸・その1
【写真左】南の丸・その2
 南の丸には当時二つの建物が建っていたことが分かっている。

 具体的には厨(くりや)などがあるが、いずれも平時の生活が当城で営まれた可能性が高い。
【写真左】物見台
 南の丸と上にある本丸の中間点に設けられたもので、南の丸の段からは確認できない視界を、より高い位置にあるこの物見台で補完していたものだろう。
【写真左】本丸を遠望する。
 南の丸の東側に回り込むと、奥に本丸が見える。
【写真左】本丸に向かう。
 手前に橋が架けられているが、これは物見台に繋がる段の間に堀切があるためである。
【写真左】本丸
 本丸には櫓があったことが知られており、現地には復元された建物が建つ。
【写真左】本丸東面
 本丸の東側にも北郭1、2と二つの腰郭が配置されている。手前の階段を左に降りていくと北腰郭1に繋がり、その下には腰郭2がある。

【写真左】飯盛山城と足助の街並み
 足助城の西麓を流れる巴川は支流足助川と合流しているが、その東岸には飯盛山城が見える。
 また眼下には足助の街並みが見える。
【写真左】足助城遠望
 足助の街並みから見たもので、手前には巴川が流れる。

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