2017年1月27日金曜日

陶氏館(山口県山口市陶・正護寺)

陶氏館(すえしやかた)

●所在地 山口県山口市陶・正護寺
●高さ 標高26m
●形態 平城
●築城期 延文年中(1356~60年)頃
●築城者 陶弘政か
●城主 陶氏
●遺構 土塁等
●備考 正護寺
●登城日 2015年8月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第14巻』等)
  陶氏館は山口県の旧吉敷郡陶村にあって、現在の山口市陶に建立されている正護寺がその跡地である。因みに、ここから600m程北西の方に進むと、平安時代初期に操業されていたという須恵器を焼いた窯跡である陶陶釜跡がある。
【写真左】陶氏館
 正面に見えるのが正護寺で、当院を含めその前方にある田圃や周囲の墓地などを含めたエリアが陶氏館跡といわれている。

 多少の段差はあるものの、いわゆる山城形態のものでなく、城館として築城されたようだ。


現地の説明板より

“臨済宗東福寺派 萬松山
 正護寺

 山号を萬松山といい禅宗で本尊は釈迦牟尼佛、脇佛文殊菩薩、普賢菩薩の三尊佛である。
 防長風土注進案によれば、「北朝後光厳院延文年中陶越前守弘政建立」とあるので、創建は今から610余年前になる。
【写真左】正護寺本堂
 この日参拝したとき、数人の方々が本堂内におられた。どうやら施餓鬼嚴修のようだった。





 陶氏が居城を構えた頃、城内に祈願所としてこの寺を建立し、寺門も栄えたが、大内氏滅亡とともに廃寺同様の悲運に見舞われた。毛利氏により再興されたが、大内輝弘の乱で兵火にかかり、今の地「陶の館」の跡に移転建立された。
 本尊三尊佛と、開山傑山寂雄大和尚木像は、創建当時のものである。

 寺内にある薬師如来坐像は、山口県指定有形文化財で、平安初期、今から千年前の作品である。本堂正面の門は、小郡代官所の正門を北側清助代官の配慮により移設されたものである。
 
 陶弘政、晴賢の墓、富永有隣の先祖の墓、代官北川清助の墓などあり、大内氏、陶氏とのかかわりや、村の歴史を実証する数々の史跡がある。”
【写真左】司家跡に向かう。
 正護寺の東側には「司家跡」と表示された案内板があったので、そちらに向かう。






陶弘政

 陶氏については、これまで同氏の代表的な山城周防・若山城(山口県周防市福川)で触れているが、今稿の陶氏館は同氏初期の城館跡である。
 陶氏は大内氏の分流右田氏から分かれたとされる。すなわち、大内盛房の弟・盛長が平安時代後期、佐波郡右田(現 防府市)を領し右田氏を名乗り、その子孫弘賢が冒頭で紹介した吉敷郡陶村を根拠地とし、陶氏を名乗ったといわれている。
【写真左】土塁・その1
 司家方面に向かったものの、そレらしき個所を表示するものがなかったが、途中で土塁跡が出てきた。

 おそらく、陶氏館時代のものと思われ、南北に長く構築されていたものだろう。


 上掲した正護寺の説明板に下線で引いた「陶越前守弘政」は、弘賢の子で、北朝後光厳院延文年中とあることから、1356~60年頃、当地に陶氏館並びに正護寺が建立されたことになる。

 なお、弘政はその後当地から東方32キロの周南市大字下上字武井の館(陶氏館)に移った。
【写真左】土塁・その2
 横から見たもので、現在は高さ1.5m程度だが、当時は2m以上はあったものだろう。
【写真左】東側から見る。
 中央の白い屋根が正護寺で、その南側は現在田圃や畑地となっている。

 おそらく館があったのはこの田圃・畑地付近であったものと思われる。
【写真左】中側から東を見る
 ご覧の通り田圃と畔があるが、その奥が先ほどの土塁が残る個所で、屋敷そのものはおそらくこの田圃側に多く建っていたのだろう。
【写真左】陶晴賢分骨塔及び正護寺ゆかりの墓

 境内一角の墓地には、厳島で自刃した陶晴賢の分骨塔や、当院歴代の住職等の墓が建立されている。

 右側の宝篋印塔が陶晴賢の分骨塔


現地説明板より

“正護寺ゆかりの墓

 参道右手のこれより並ぶ墓は、正護寺歴代の住職等の墓である。
 一番手前の宝篋印塔は、陶晴賢の分骨塔であり、中ほどに並ぶ宝篋印塔手前の「開山塔」とあるのは、正護寺の開山である長府功山寺開山と同人である傑山寂雄(けっさんじゃくゆう)大和尚のものである。

 その横に『正護寺殿』とあるのは、正護寺を建立した陶氏二代目弘政の墓である。そしていま一つ『当山中興二世大円恵満禅師』とあるは、大内輝弘の乱で兵火にかかり焼失した寺を嘆き、これを再建したいわば中興の祖である大円恵満禅師の墓である。
【写真左】陶弘政の墓
 二つ並んだ宝篋印塔のうち、左側のものが弘政の墓。









 参道左手に『三界万霊』と刻し塔石の上に安置地蔵を載せた塚は、陶晴賢250年忌に際して陶の住民が奉って供養のため建立した供養塔といわれている。
 その奥の『ぼう(虫片に方の文字)虫墳(ぼうちゅうふん)』と刻された塚は、多くの虫の死を悼みこれを供養したときの供養塚と伝えられている。”


幕末期から明治初期にかけての史跡

 正護寺には、陶氏関連の史跡のほか、江戸時代最後の郡役所で代官を務めた北川代官墓所や、維新の志士といわれた富永有隣の墓もある。
【写真左】北川清助の墓












現地説明板より

“北川代官墓所

 小郡宰判(さいばん)(江戸時代の郡役所)の最後の代官、北川清助の墓がこの後にある。北川代官の屋敷跡は西陶にある。
 当時の代官の家は、三階建の桧造りのりっぱな建物で、長い石垣をめぐらして、見晴らしもよかったと伝えられている。
 今ではただ石垣と井戸だけが残っている。

 北川清助は、文政9年(1862)に大島郡で生まれ、天保9年に陶の士族の北川半右衛門の養子になった。
 幼児から学問や、武芸に励み、当時は珍しかった西洋の砲術にもすぐれていた。慶応元年(1865)から明治2年までの5年間、小郡宰判の代官として、幕末から明治維新にかけての動乱の時代に大変りっぱな政治をして、人々のために働いた。
 その功績により、毛利公から陣羽織や、おほめの沙汰書をたまわった。陣羽織や沙汰書は正護寺に保存されている。”
【写真左】富永家の墓

 富永家の墓は正護寺のほぼ真南に独立して建立されている。








現地説明板より

“維新の志士
 富永有隣

 文政4年(1821)毛利藩士富永七郎右衛門の嫡男として陶に生まれ、名を徳、字を有隣、号を履斎・陶峯といい、9歳で萩の明倫館に学び、自他ともに許す国学者で、漢学・易学にも長じていた。

 嘉永2年罪なくして見島に流され、野山嶽に囚われた。獄中で吉田松陰と巡り会い、後に松下村塾で松陰と共に幾多の俊才を育てた。
 安政6年、松下村塾を去り、秋穂二島の戒定院(かいじょういん)に定基塾を開き、四境の役では鋭部隊を率いて幕軍の心胆を寒からしめ、戊辰の役では「長州の富永東海道を上る」と幕府軍に恐れられた。
【写真左】富永家墓地から西方を見る。
 正護寺の西側から南にかけて墓地が集まっているが、陶氏館があった南北朝期ごろは、この付近も土塁が構築されていた雰囲気が感じられる。




 明治2年の兵制改革にさいしては、脱退騒動の陣頭に立ち、敗れて土佐に渡り、8年間土佐の勤王の同志の間を往来して国事を画策したが、捕えられて東京石川島監獄に投じられたが、のち許されて田布施で塾を開き、名声が高く、文豪国木田独歩も有隣の人物に心を引かれ、小説「富岡先生」は、当時の有隣を主人公として書いたものである。
 有隣は、勤王と学問追求の志が固く「我が道を行く」隠遁と牢獄と波乱の生涯を明治33年12月20日終えた。享年80歳。
 正護寺は、富永家の菩提寺であって、有隣は同寺に般若心経の大幅を奉納している。”

2017年1月24日火曜日

洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)

洞雲寺(とううんじ)

●所在地 広島県廿日市市佐方1071番地1
●創建 長享元年(1478)
●開祖 金岡用兼(きんこう ようけん
●宗派 曹洞宗
●県指定文化財 洞雲寺文書、絹本著色金岡用兼師像等
●墓地 陶晴賢の墓、友田興藤の墓、桂元澄夫妻の墓、毛利(穂田)元清の墓
●参拝日 2015年5月10日

◆解説
 前稿安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)から600m余り北西に向かった佐方地区に曹洞宗の寺院洞雲寺が建立されている。寺伝は下記の説明板にもある通り、桜尾城主兼厳島神社神主藤原教親・宗親父子が長享元年に菩提寺として創建したものという。
【写真左】洞雲寺遠望
 南東側の道路から見たもの。最近周辺の道路が整備され、それに併せて当院の山門周囲も綺麗にされたようだ。



 また、当院墓地には桜尾城に関わる武将すなわち、藤原(友田)興藤、桂元澄、毛利元清夫妻の墓及び、陶晴賢の首塚の墓が祀られている。

現地の説明板

洞雲寺

 応龍山洞雲寺は、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼(きんこうようけん)を開祖とし、桜尾城主であった厳島神社藤原教親・宗親親子により、長享元年(1487)その菩提寺として創建された曹洞宗の禅院である。

 金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また、阿波国(徳島県)守護大名細川成之(しげゆき)の帰依を受け、同国の丈六寺と桂林寺も管轄していた。
 現在、洞雲寺に所蔵されている「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」(県重文)は、禅師みずからがこの桂林寺において書写したものである。
【写真左】陶晴賢、藤原興藤、桂元澄夫妻、穂田元清夫妻の墓の位置を示す。
 中央が本堂で、左右の墓地にそれぞれ建立されている。



 藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与え、その死亡後も代わって大内氏がこれらの寺領を認め、さらに毛利氏の時代には、重臣の桂元澄、ついで元就の四男元清が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。

 また、寺内には、藤原興藤、桂元澄、毛利元清夫妻の墓や、陶晴賢の首塚(いずれも市重文)などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。
 これらを含め、同寺には現在、県重要文化財7点、市重要文化財7点がある。

     昭和63年3月

               廿日市市教育委員会”




陶晴賢の墓

【写真左】陶晴賢の墓 
 墓石の隣には、「尾張守 陶晴賢入道全姜公之墓」と記銘された石碑が建つ。






 説明板より

“陶晴賢の墓 (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)

 陶晴賢は戦国時代の武将で、陶興房の二男である。大内氏の重臣として活躍していたが、天文20年(1551)8月、大内義隆父子を襲い自刃させ、大内氏の領国を制圧した。
 弘治元年(1555)10月の「厳島合戦」で、水軍に勝る毛利元就の奇襲戦に敗れ、厳島で自刃し、桜尾城において首実検の後、この洞雲寺に葬られた。
【写真左】後ろ側から見たもの
 なお、その左側にも小型の宝篋印塔が建立されている。殉死した者たちかもしれない。






 陶晴賢の墓は最初は首塚であったが、後に現在のような宝篋印塔を墓石としている。
 墓石は三段の花崗岩と安山岩製の基壇の上に立ち、印塔自体は軟質な安山岩製である。
 総高129cmで、この宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が厚くなるなど、各部に形式の退化したところや、また風化した跡が認められる。歴史上著名な武将の墓として貴重である。
   平成12年3月 廿日市市教育委員会”




友田(藤原)興藤の墓

【写真左】友田興藤の墓・その1













 説明板より

“友田(藤原)興藤の墓
  (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)

 友田興藤は、厳島神主の藤原神主家の一族である。永正15年(1518)、大内義隆が神領を直接支配したことに反抗し、実力で神主になり、度々、桜尾城を中心に攻防を繰り返した。
 天文10年(1541)、大内氏の攻撃に抗しきれず、城に火を懸け自刃した。
【写真左】友田興藤の墓・その2
 傍らにも小型の宝篋印塔が隣接しているが、殉死していった者たちのものだろう。






 友田興藤の墓は、総高199.5cmの花崗岩製の宝篋印塔である。塔身部の正面格狭間(こうざま)の中に「興藤」、その横に「天文九年庚子(かのえね)八月日」と刻んでいる。

 興藤の没年は天文10年4月6日といわれるので、この印塔は興藤が在世中に造立した逆修塔であろう。造りに無骨さが感じられるが、力量感のある宝篋印塔である。紀年銘もあり、室町時代末期の標準的な宝篋印塔として重要である。”



桂元澄の墓

【写真左】桂 元澄の墓
 












 説明板より

“桂 元澄墓

 元澄は毛利家の重臣なり。厳島合戦の前夜より、桜尾城主として所在に君臨すること16年、永禄12年卒す。後裔桂太郎城址を町に贈り、以て桂公園としてのこす。



毛利元清夫妻の墓

【写真左】毛利元清夫妻の墓













説明板より

“毛利元清夫妻墓

 元就の四男元清は長府毛利家の遠祖なり。初め備中猿懸城主穂田氏を嗣ぎ、後毛利氏に復す。
 元澄のあとを承け桜尾城主となり、経営すること29年、慶長2年卒す。
 法名を洞雲寺笑山と号す。

  廿日市市教育委員会”

 説明板の下線を引いた備中猿懸城とは、以前紹介した備中・猿掛城・その2(岡山県小田郡矢掛町横谷)とのことで、近くにある曹洞宗の禅寺・洞松寺にも毛利元清の宝篋印塔が建立されている。従って、洞松寺にある宝篋印塔は供養塔となる。




洞雲寺金岡用兼

 洞雲寺の開祖は、金岡用兼(きんこうようけん)といわれている。
 永享10年(1438)、讃岐国那珂郡(現在の丸亀市・坂出市・善通寺市区域)で生れているが、没年は不明。

 文安5年(1449)出家し、周防国の龍文寺大庵須益(だいあんすやき)に師事し、その後安芸国に渡り、長享元年に当時厳島神社神主であった藤原教親の開基によって、洞雲寺を創建する。永平寺の諸伽藍復興や、阿波国の守護細川成之との出会いはその後である。
【写真左】洞雲寺
 規模はさほど大きくはないが、落ち着いた佇まいを見せる。
【写真左】洞雲寺から桜尾城方面を見る。
 写真の奥に桜尾城が控えているが、都市計画工事によって周辺部が大幅に変わり、この位置からは桜尾城を見ることは出来ない。

 なお、この辺りが「城内」と呼ばれている箇所で、おそらく厳島合戦後、当地を治めた桂元澄や、毛利元清時代に城下町として整備された際、当地名が付けられたのだろう。


大庵須益龍文寺及び大寧寺

 金岡用兼の師・大庵須益が営んだ龍文寺は、現在の山口県周南市長穂門前に所在し、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である。

 陶氏第5代盛政によって永享2年(1430)(又は1429)に建立されているが、須益が周防の龍文寺に来る前にいたのが、戦国期、大内義隆が自刃した長門の大寧寺で、当院(大寧寺)の第6代に当たる。
【写真左】大寧寺
 所在地:山口県長門市深川湯本
 参拝日 2007年3月14日








 安芸・桜尾城の稿で、天文10年に大内氏が桜尾城を攻略し、一時重臣の鷲頭氏を城番として入れているが、これはおそらく桜尾城に近接していた洞雲寺が、長門大寧寺の大庵須益を通じて鷲頭氏がかかわったことから大内氏が任命したものだろう。
【写真左】龍文寺の山門
 所在地:山口県周南市大字長穂門前
 参拝日 2017年1月21日

 西吉祥山の山号を受け、西の永平寺ともいわれている。
 当院についてはいずれ別稿で取り上げたい。

2017年1月17日火曜日

安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)

安芸・桜尾城(あき・さくらおじょう)

●所在地 広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園
●高さ 標高15m(比高8m)
●形態 海城
●築城期 鎌倉期
●築城者 吉見氏か
●城主 藤原氏、桂元澄、穂田元清
●指定 廿日市市指定史跡
●遺構 殆ど消滅
●備考 桜尾公園
●登城日 2015年5月10日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』、HP「いにしえのロマンの郷 はつかいち」等)
 桜尾城は、広島湾西方の廿日市桜尾本町に所在する平城である。当城については、以前取り上げた能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)、及び宮尾城(広島県廿日市市宮島町)の稿でも少し触れているが、戦国期厳島神社と深くかかわった城砦である。
【写真左】「桜尾城址 桂公園」と刻銘された石碑
 現在桂公園となっているところで、この坂を登っていくと公園(城址)にたどり着く。
 この日はグランドゴルフ大会のようなものがあったため、駐車場は満車で、坂の途中に車を停め、歩いて向かう。


周防前司(藤原)親実

 桜尾城が築かれたのは鎌倉時代といわれ、築城したのは吉見氏とされる。ただ、『神主職根本之次第』によれば、藤原親実が承久3年(1221)に厳島神社の神主になっていることを論拠として、桜尾城を根拠城としている可能性があるとし、その後320年余にわたって子孫が本城を中心に活動していたと推論している(『日本城郭体系 第13巻』)。
【写真左】桂公園碑
 公園の入口付近には「桂公園碑」と刻銘された石碑が建つ。

 大勲位公爵 桂太郎書とされ、大正元年11月、衆議院 勲四等荒川五郎撰、廿日市町長 正八位勲等 石田久雄書と付記されている。

 後段でも示すように、厳島合戦ののち、当城には桂元澄が入ることになるが、その末裔である元陸軍大臣で、のちに内閣総理大臣を務めた桂太郎が、この土地(島)を買収し、当時の廿日市町に寄附した。その後公園としてこの年(大正元年)桂公園として開園している。


安芸・武田氏桜尾城攻略

 桜尾城から北東に15キロ離れた安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)主・武田大膳太夫信賢(のぶかた)は、室町幕府から厳島の神領であった佐伯郡を賜ったとして、永享12年(1440)、当地に侵入してきた。これに対し、厳島神社の禰宜佐伯左近将監親春をはじめとする厳島の社官や神領衆たちが桜尾城に立て籠もり、武田氏の侵入を防いだ。
【写真左】厳島神社
 厳島神社(宮島)から桜尾城までは、直線距離で6キロほどになる。

 今稿の桜尾城や、以前とりあげた仁保城(広島県広島市南区黄金山町)などが絡む戦さは殆ど船戦さの形態だったと思われる。



 しかし、それから16年後の康正3年(1457)、再び武田氏が将軍足利義政から再度賜ったとして、義政の命を受けて加勢した備後・安芸の国人領主らを引連れ、桜尾城を包囲した。これに対し、周防の大内左京大夫教弘が大軍を率いて桜尾城を支援したため、武田氏は再び敗退したという。

 安芸武田氏による執拗なまでの桜尾城及び厳島神社に対する干渉があった背景には、おそらく厳島神社という特殊な神領地に対しても、武田氏にとって、鎌倉時代から続く安芸守護職としての権限を周知さ、服従させる意味もあったのだろう。
【写真左】桂公園内のグランド
 南東側から見たもので、ごらんのように現在はかなり大きな運動場が中央にできている。
 ちなみに、周囲の樹木も含めた公園の現在の大きさは、南北150m×東西180mの変形した五角形の形を残している。

 資料によれば、桜尾城の最高所は30m余りで、現在その半分の高さ(15m前後)となっていることから、主郭を中心として大規模に掘削されたことになる。



神主家断絶友田氏、小方氏対立

 大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)の稿でも述べたが、永正4年(1507)の暮れ、山口の大内義興は足利義稙を奉じて入京を図った。このとき、厳島神社の主家藤原興親は翌年、畿内において病死した。興親という名でもわかるように、興親は義興から偏諱を受けたものと思われる。

 興親討死によって藤原神主家は断絶することになる。そして、同家に仕えていた二人の重鎮、小方加賀守と友田上野介興藤との間で相続を巡り対立が勃発、桜尾城の地元では友田氏に味方した宍戸治部少輔は当城に立て籠もり、対する小方側では新里若狭守は藤掛尾城(串度城)に拠って長期の戦いが繰り広げられた。なお、藤掛尾城は現在遺構はないが、今の国道2号線と247号線が交わる串度付近で、ここから北東へ約1.5キロ向かった位置に桜尾城がある。

 永正15年(1518)8月、10年もの長い間在京していた大内義興が帰国した。友田氏と小方氏による相続争いに業を煮やしたのだろう、義興は両氏どちらの相続も認めず、新たに桜尾城には島田越中守を城番として置き、のちには大藤加賀守、毛利下野守を入れた。
【写真左】東端部・その1
 この辺りの斜面は北から南にかけて凡そ100mにわたって削られており、当時は東側に突出した丘陵部があったものと思われる。
 下の駐車場との比高差は10mある。



大内氏する友田氏抵抗

 この処置に激怒したのが友田興藤である。興藤は永享年間には敵対していた安芸銀山城の武田光和と手を結び、大永3年(1523)閏4月、大内氏に反旗を翻し、佐伯郡内の諸城を攻め落とし、桜尾城に拠った。こうして一時は神主家の跡を継ぐ形を取った。

 これに対し、大内氏は陶興房と弘中武長を大将として派遣し、猛攻撃を開始、戦いは膠着状態が続き、その結果翌4年10月、大内氏の家臣吉見頼興が仲介し、友田興藤が大内氏に臣従することで一先ず収拾した。
【写真左】東端部・その2
 柵から身を乗り出して斜面を撮ったもので、このあたりにある住宅などは当時は海浜だったものと思われる。





尼子氏安芸攻

 しかし、友田興藤の大内氏に対する臣従は表向きで、面従腹背の姿勢を持っていた。能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)でも述べたように、天文9年から翌10年にかけて、尼子氏は安芸吉田郡山城及び、銀山城を攻撃するが、その直前友田興藤は尼子氏と盟約を結んでいる。しかし、この時の尼子軍による吉田城攻めは周知の通り大敗を喫した。

 大内氏は天文10年正月から桜尾城の攻撃を開始している。このころ友田興藤は伊予能島村上水軍の警固船を味方につけ、厳島を占有していたが、尼子氏敗退の報を耳にした興藤の家臣達は戦意を喪失し、4月5日の夜半逃亡し、残った興藤は桜尾城とともに落城・自刃したした。
【写真左】北東部
 桂公園の外周部のうち、東から北にかけては樹木が生い茂っており、上段の箇所にあるような造成工事の痕跡は少ない。
 このため、この区域は唯一遺構の痕跡を残している箇所と思われる。


厳島合戦その後

 このあと、大内氏は桜尾城に重臣鷲頭氏(長門・亀山城(山口県長門市東深川)参照)を城番として入れたが、天文20年(1551)9月、陶晴賢が主君大内義隆を自刃に追い込むに及んで、鷲頭氏は本城を明け渡し、代わりに新里式部、毛利与三が入った。

 その後、陶晴賢と毛利氏は敵対し、天文23年(1554)の5月、いわゆる「防芸引分」の決断を毛利氏が行い、厳島合戦へと向かうことになっていくが、その前段で元就が先手を打ったのが、陶氏の手薄な諸城の接収である。具体的には、銀山城(安佐南区)、己斐城(西区)、草津城(西区)、そして桜尾城である。桜尾城には直臣の桂元澄(星ヶ城(広島県安芸高田市吉田町桂・高野)参照)を入れた。

 なお、桜尾城主・桂元澄はその後永禄12年(1569)7月に亡くなるが、このころは九州の大友宗麟と烈しい戦いを行っていたため、直ぐに元澄亡きあと、元就四男の穂田元清(佐井田城(岡山県真庭市下中津井)参照)を城主としていれている。
【写真左】切崖
 先ほどの箇所からさらに北に向かったところで、このあたりはあまり改変されていないようだ。
 このあと、ぐるっと反時計回りに回り西側に向かう。
【写真左】傾斜のついた段
 西側には中段部で傾斜のついた段がある。当時のものか近代になって加工されものか分からないが、当城が海城であったことを考えると、外周部の一角には船着き場のような低い削平地があったと考えられるので、この箇所もそれに付随したものかもしれない。
【写真左】西方に見える小丘
 桜尾城から西へ200mほどの位置にあたり、現在この小丘には正蓮寺、荘覺院、蓮教寺といった寺院が建っている。

 このため、丘の半分以上が墓地として造成されているが、最高所が25m前後で、桜尾城時代の標高とほぼ同じである。

 桜尾城が当時海城であったことを考えると、干潮時にはこの小丘を結んで浜ができており、この附近が船溜まりとして利用されていた可能性もある。
 また、この写真の右側(北側)を300mほど進むと、「城内」という地区(広島宮島線と山陽本線に挟まれた箇所)がある。このことから、後半期には桜尾城の中心地は山側のほうへ移っていったのかもしれない。
 このあと、西側に坂道があったので、この道を下る。
【写真左】西側の段
 西側の斜面にはご覧の歩道があり、そこを下がっていくと、左側に削平地がある。

 以前建物があったような痕跡があるが、当初からこの段はあったものかもしれない。
【写真左】西側の段
 手前には太陽光発電の設備があり、その奥には竹林が見える。
【写真左】妙見社・その1
 坂道を下っていくと、途中に社が見える。

 これは妙見社といわれ、藤原氏時代つながりの深かった大内氏が、氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀し、桜尾城の守護神として勧請したものといわれている。
【写真左】妙見社・その2
 この中にある本尊妙見菩薩像は、右手に宝剣を持って亀甲の上に立ち、足元には白蛇がどくろを巻いている姿だというが、外からは暗くてよく見えない。

2017年1月11日水曜日

吉良城(高知県高知市春野町大谷)

吉良城(きらじょう)

●所在地 高知県高知市春野町大谷
●指定 高知市指定史跡
●別名 弘岡城
●高さ 116m(比高110m)
●築城期 不明
●築城者 不明(吉良氏か)
●城主 吉良氏、本山氏、吉良(長宗我部)親貞
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●登城日 2015年5月6日

◆解説(参考文献 『吉良城跡発掘調査 概要報告』昭和59年度 春野町教育委員会編、『春野 歴史の百景』宅間一之著等)
 土佐・吉良城は、土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)でも述べたように、高知市の春野町にあって、朝倉城から南西方向におよそ4.5kmの位置に当たる。
【写真左】吉良城遠望
 吉良城の西側にある大谷という地区から撮ったもので、吉良城からさらに尾根伝いに北に進むと、東西に伸びる吉良ヶ峰(最高所H:249.5m)に繋がる。


現地の説明板より
“春野町史跡 吉良城跡

 土佐戦国の世、吉良氏は三千貫を領した「土佐の七守護」の一人でした。しかし、1500年頃から吾南をめぐる戦国の風雲は激しくなり、1540(天文9)年頃にはすでに北からの本山氏に滅ぼされています。しかし、その本山氏も1563(永禄6)年には長宗我部元親の軍勢に追われます。城の支配は、吉良、本山、そして長宗我部氏と変わっていきます。
【写真左】登り口付近
 大谷集落の東側に進むと、柿の木畑のようなところがあり、そこに案内板が設置されているので、ここから入っていく。



 城跡は、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心とする北曲輪群と、111.5mの南ノ段(南嶺)を中心とする南曲輪群にわかれます。厳しい切崖に囲まれた詰からは、掘立柱建物跡や、周縁部に柵列も発掘されています。南北両曲輪の周辺には多くの曲輪群や、何条もの雄大な堀切群、それに畝状竪堀や竪堀群の遺構がそのままに中世城郭の姿を伝えています。
 山下にはニノ構や三ノ構などの地名を残す土居跡や、家臣団の邸跡、寺院跡もある数少ない貴重な中世の史跡です。
      春野町教育委員会”
【写真左】ここから尾根に取り付く
 途中まで谷間を進み、右手に近道の案内標識もあるが、かなり急峻なので、少し谷間をあがったところに「吉良城↗」の標識がある地点から登る。



春野

 吉良城が所在する春野町は、2008年に現在の高知市と合併する前までは、吾川郡内の弘岡上ノ村・弘岡中ノ村・弘岡下ノ村・仁西村・森山村・西分村・平和村が合併してできた同郡春野村が前身である。

 天平勝宝7年(755)、土佐国吾川郡桑原郷野夜恵が調として絁(あしぎぬ:古代日本にあった絹織物の一種)を献上したとき、国史上初めて吾川郡の名が記録されている。
 当時、吾川郡の大野郷が東大寺の封戸(ふこ)で、この地が出す租の半分と調(ちょう)、庸(よう)の全部を東大寺に支給する義務を負っていた。東大寺の大仏造立開始が天平19年(747)といわれ、大仏鋳造終了後、大仏殿の建設が竣工したのはそれから11年後の天平宝字2年(758)であるので、まさに東大寺建設中に貢がれた記録である。
【写真左】「チリいれ」と書かれたドラム缶
 尾根にたどり着くと、いきなり青いドラム缶が目に入った。

“すみよい町づくりは あなたの手から  チリいれ  寄贈 歴史公園建設期成同盟会 1977、2,13”

 と記されている。凡そ40年前の昭和52年に設置されたということになる。このドラム缶を見ると、当時の地元住民の思いが伝わってくる。


吉良氏

 吉良氏については、以前紹介した源希義墓所(高知県高知市介良)でも述べたように、源頼朝のの実弟希義の末裔といわれ、希義の子・希望が父亡き後、介良から西へ15キロほど向かった仁淀川東岸の春野弘岡の地で基盤を固めたとされる。なお、希義が拠った介良(けら)は、元々「気良(きら)」といい、これが転じて吉良氏を称したのに始まる。
【写真左】尾根を直登
 「チリ入れ ドラム缶」から上を見上げると、ほぼ直線の尾根が見える。ここを直登する。






 ところで、以前紹介した大津・天竺城(高知県高知市大津)の中で、
 「土佐の天竺・吉良(介良)、三河の天竹(天竺)・吉良とほぼ同じ地名が隣接して所在していることになる。これは単なる偶然ではないだろう。明らかに両国当該地との密接な関連があったものと考えられるが、残念ながら詳細は分からない。」 と記していた。

 その後調べてみると、凡そつぎのような経緯であったことが分かった。
 すなわち、建久5年(1194)、希義の遺児・希望が、希義の旧友夜須行宗(七郎)に伴われて、鎌倉幕府将軍頼朝に拝謁した。これにより、頼朝は最終的に希望が甥(希義の子)であることを認め、土佐国吾川郡に数千貫を与え、さらに三河国吉良荘(現:愛知県西尾市)に馬の飼場三百余貫を下賜したという。このことから、土佐と三河両国に同名の地名「吉良」が残ったものと思われる。
【写真左】小郭段
 単調な尾根を登っていくと、やがて小郭で構成された段が出てくる。
 下段でも述べているように、この位置が南郭群の最初の箇所で、この位置に3段の郭が構成されている。


 さて、戦国期における吉良氏の動向は、土佐・朝倉城の稿でも述べているが、土佐・七雄の一人に数えられ、特に吉良宣経は文武両道の善政を施す名君と讃えられた。

 しかし、その子宣直の代となる天正9年(1581)、北から進出してきた本山氏の攻略によって滅ぶことになる。吉良氏を滅ぼした本山氏ではあったが、そのあとすぐに長宗我部氏の軍門に降り、本山氏も倒された。長宗我部元親はその後、実弟の親貞を養子として吉良城に入れ、宣直の女を妻として、吉良親貞と名乗らせた。
【写真左】尾根分岐点
 登城口から登ってきた道は西側に伸びる尾根だが、この位置で、東へ50m程伸びる尾根と、北曲輪群へ向かう尾根とに分かれる。
【写真左】犬走り
 登ってきた尾根の分岐点北側斜面を見ると、犬走りが確認できる。どのあたりから始まっているのか分からないが、おそらく下段の小郭が設置された箇所あたりだろう。

 このあと、先ず南東に伸びる郭群に向かう。



遺構

 吉良城の発掘調査は、昭和35年に当時の春野町時代に町の史跡として指定され、その後昭和59年から5カ年計画で国・県の補助を受けて学術調査などが行われている。しかし、その後復元整備等も含めた保存整備構想も設定されたが、具体化に至らないまま今日に及んでいるという。
【写真左】東の尾根
 南郭群の東に伸びる箇所で、尾根幅は大分狭まり、写真の左側斜面は絶壁に近い切崖である。





 残念ながら昭和59年度に春野町教育委員会によって作成された『吉良城跡発掘調査 概要報告』書でも、縄張図が作成されていないため、詳細な遺構は詳らかでないが、説明板にもあるように、概要として、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心とする北曲輪群と、111.5mの南ノ段(南嶺)を中心とする南曲輪群に分けられる。

 南曲輪群に向かう西方斜面には5条の竪堀があり、そのうちの一つが現在の登城道となっている。そこから更に上に向かって3段ほどの曲輪が続き、南曲輪群の南端部から城下となる春野の集落が俯瞰できる。
【写真左】巨大な穴
 少し進むと突然巨大な穴に遭遇。一瞬井戸跡かと思ったが、この場所では山の構造上水脈はないと思われるので、狼煙台か、又は近年掘られた塵溜め用のものかもしれない。



 北曲輪群へ向かう尾根の途中には、当城の最大の見どころである大堀切が仕切られ、南郭群からの侵入を断ち切る。

 詰の曲輪は北曲輪群の方に設定され、東西20m×南北40m規模の楕円形のものとなっている。

 また特筆されることは、この北曲輪群の主郭付近までは、標高が111m(又は116m)という低い山城でありながら、尾根上に構築された郭群の縁周囲は、極めて急峻な切崖で構成されていることである。そして、吉良城の北方に聳える吉良ヶ峰から伸びてきた尾根筋上にもかなり大きな竪堀や堀切があり、北からの攻めにも対応している。
【写真左】南東端部
 先端部に小さな祠が祀られている。この辺りになると尾根幅は大分狭く、3~4m程度となっている。
【写真左】春野の田園と仁淀川を見る
 この東端部から南方を俯瞰すると、春野の田園が広がり、その奥には蛇行した仁淀川が見て取れる。

 因みに仁淀川対岸は土佐市になるが、以前取り上げた土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)は、吉良城から徒歩で6キロ余りと予想以上に近い位置になる。
【写真左】井戸跡か
 先ほどの位置から再び戻り、北曲輪群に向かう。軸線が北に変わる地点で尾根は人為的に削られたように4~5m位低くなり、その始点ではご覧の様な大きな窪みがある。先述した「巨大な穴」とは違い、井戸跡らしき遺構である。
【写真左】堀切・その1
 吉良城の見どころの一つ、巨大な堀切である。

 この写真でも分かるように、尾根幅も丁度狭まった位置で設置されている。
【写真左】堀切・その2
 下から見たもので、高さは7m以上あるだろう。竹を使った橋が設置されているが、大分年数が経っていたため、渡るのを躊躇したが、なんとか未だ使えた。
【写真左】本丸の東側
 堀切を抜けさらに北の尾根を進むと、やがて東面に石垣が見える。本丸である。

 吉良城に残る石垣や石積遺構は主としてこの本丸を囲繞する箇所に多く残っており、このほかにも小規模ながら点在しているが、この石垣はその中でも特に顕著なもの。
【写真左】本丸の土壇
 前述したように、本丸(北曲輪群・詰曲輪)は東西20m×南北40m規模の楕円形をなし、南側にはこの土壇が設置されている。長さは尾根幅の制約もあって短いが、土塁の機能を有している。
【写真左】土壇から本丸を見る
  発掘調査された跡のためか、予想以上に整理されている。

 参考までに、本丸付近で以前行われた調査で出土した遺物としては概ね次のようなものが報告されている。

土師質土器  402
青磁        9
白磁          31
染付          40
備前          6
瀬戸天目         1
  計     489(量・片)
【写真左】北側から本丸を見る
 平滑に仕上がっている。
 このあと、右(東)側に犬走りが見えたので、そこに向かう。
【写真左】本丸北の郭
 犬走りを降りて北に向かうと、本丸を取り囲むように郭がある。
 大分竹が繁茂しているため奥の方までは向かっていないが、規模はかなりあるようだ。
【写真左】西側から本丸を見上げる。
 このあと、この西側付近から更に西を見ると、別の箇所に3条の堀切が見えたので、そちらに向かう。
【写真左】一条目の堀切
 下山してから分かったのだが、この尾根が北の吉良ヶ峰から伸びてきたもので、この箇所に3条の堀切を設けている。
【写真左】二条目の堀切
【写真左】三条目の堀切
 3か所の堀切とも良好に残っている。

 このあと下山し、登城口まで戻り、屋敷跡・菩提寺跡といわれるところに向かう。
【写真左】屋敷跡付近
 吉良城の西麓全体に屋敷や菩提寺など吉良氏関係の建物があったとされているが、現在は畑や民家などが点在し、当時の面影は消えている。



その他の城砦

 春野町には吉良城以外に残る城砦としては次のものがある。

  1. 芳原城 … 虎口をはじめ掘立柱跡。出土品として、銅碗・硯・土師質土器・備前瀬戸物・白磁・赤絵の碗・下駄・ヒシャク並びに明応2年(1493)記銘の札(護符)等。
  2. 木塚城 … 城主木塚左衛門(伝承)、堀切・竪堀など、南北朝期の山城
  3. 西の城 … 吉良城の西方谷を挟んだ位置にあり、弘岡上城八幡を祀る。標高50m
  4. 森山城と森山南城 … JAはるの森山支所の裏山が森山城。土豪森山氏居城、のちに吉良氏となり、その後一条氏、弘治3年に本山氏、永禄3年には長宗我部氏の居城となる。森山南城は別名「シロトコ」と呼ばれ、直径20mの詰を持ち、二ノ段及び大規模な堀切あり。
  5. その他