2017年12月18日月曜日

越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)

越前・疋壇城(えちぜん・ひきたじょう)

●所在地 福井県敦賀市疋田
●別名 疋田城
●史跡 福井県指定史跡
●高さ 90m(比高20m)
●形態 丘城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 疋田久保
●城主 疋田氏
●登城日 2015年10月24日

◆解説
 越前・疋壇城は別名疋田城とも呼ばれ、現在の敦賀市を南北に流れる笙の川(しょうのかわ)中流沿いに築かれた丘城である。
【写真左】疋壇城
 主郭跡に設置された石碑
 近年まで「西愛発小学校」が建っていた場所の一角に残る郭跡で、現地には「天守台跡」の標柱も設置されている。

 

現地の説明板より

“史跡 疋壇城跡
    昭和29年12月3日 福井県指定

 疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保によって築かれた。
 疋田の地は、柳ケ瀬越・塩津越・梅津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防御拠点としての役割を果たした。また、古文書からは、本城の東・南・西の三方にそれぞれ出城が設けられていたこともうかがわれる。

【写真左】疋壇城配置図
 国道8号線と161号線が交わる個所に設置された「愛発の歴史散歩」というタイトルの案内図だが、大分色が劣化していたため、管理人によって加筆修正している。

 疋壇城は北陸本線と国道161号線に挟まれた箇所にある。この図では中央に疋壇城があり、その東麓には国道161号線と8号線が交わり、北(上)に行くと敦賀市街へ、161号線を南に行くと滋賀県高島市へ、また8号線を右に行くと、途中で東方へは柳ケ瀬街道(140号線)、8号幹線を南下すると滋賀県長浜市に繋がる。因みに、柳ケ瀬街道をさらに分岐して南に向かうと、柴田勝家が拠った
玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)がある。


 元亀元年(1570)の織田信長による越前攻めの際に、天筒山城・金ケ崎城と共に疋壇城も落城した。信長軍が撤収した後に一旦は修復されたらしく、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣した。
 しかし、天正元年(1573)8月に再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、城も破却された。
 それからここに400有余年、今も石塁や濠跡が名残りをとどめ、周辺にのこる城郭関連の小字名と共に往時を物語っている。
   平成26年11月25日 
      敦賀市教育委員会”
【写真左】「疋壇城跡」の案内標識
 R161号線から枝分かれした旧道(西近江路)を南下していくと、右側にこの案内板がある。

 おそらくこの辺りから下段で紹介している「愛発関」があったものと思われる。


愛発関あらちのせき

 疋田城すぐ近くには、往古愛発関(あらちのせき)といわれる関所があった。これは奈良時代から平安時代初期に設置された古代三関(さんげん又は、さんかん)の一つで、因みに他は東海道の鈴鹿関、及び東山道の美濃不破関である。

 このうち、不破関は最も有名なもので、岐阜県不破郡関ヶ原町松尾にあり、比定地も確定し、敷地一角には「不破関資料館」なども建っている。もう一つの鈴鹿関については近年まで比定地が確定していなかったが、三重県亀山市関町新所の観音寺公園で北辺の城壁と見られる遺構が発見されたらしく、ほぼ確定しつつあるという。
【写真左】階段を上がる。
 以前は「西愛発小学校」という学校が建っていたようで、この階段も当時の通用門の一つだったかもしれない。

 ここからおよそ10m程登ったところに学校(疋壇城)がある。


 これに対し、越前の愛発関については、今のところ比定地は完全に確定していない。しかし、越前と近江を結ぶ古代から中世にかけての街道である三本の街道、即ち現在の「西近江路」(R161)、「塩津街道」(R8 )並びに福井県道・滋賀県道140号線(敦賀柳ケ瀬線)の三本が最終的に合流するこの疋田がもっともその候補地として絞られ、具体的にはこの位置(疋壇城東麓部周辺)とされている。
【写真左】北側の段を見る。
 階段の途中から左側(北側)を見たもので、学校などが建っていたことや、周囲には植林された木立があるため、当時の遺構は把握しにくいが、この付近も郭段らしきものがあったものと思われる。


恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)

 古代の関所とされるこの三関で、最も有名な事件として知られるのが、奈良時代におきた藤原仲麻呂の乱、通称「恵美押勝の乱」である。

 詳細は省くが、天平宝字2年(764)9月、太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)が、ときの女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)及び道鏡と対立し、軍事力を以て政権を奪い取ろうとした事件で、押勝は近江で捕えられ敗死した。この乱で、愛発関で官軍(天皇方)と押勝方との激しい戦いが繰り広げられた。
【写真左】説明板
 階段を登りきるとご覧の説明板が設置されている。平成26年の日付があるので、最近設置されたようだ。






疋壇城

 さて、文明年間に築城されたとされる今稿の疋壇城付近は、既述したように、こうした古代から越前と近江両国を結ぶ重要な交通の要衝であったことは、中世に至っても変わらなかった。

 当城は、朝倉氏の将・疋壇対馬守久保が文明年間に築城したという。丁度応仁の乱のころで、主君は朝倉孝景のときと考えられる。一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)でも述べているが、文明3年(1471)5月21日、孝景は東軍方に降り、越前守護職を補任されているので、ほぼ同時期に越前の南の押さえとして、疋壇対馬守久保が築城したものと思われる。
【写真左】広場(旧校庭)
 現在ゲートボール場のような広場となっているが、当時の校庭だったと思われる。

 奥にはJR北陸本線が走っている。左方向が滋賀県長浜市に、右方向は敦賀市へ向かう。
 おそらくこの辺りも城域だったと考えられる。
【写真左】天守台登り口
 広場の西側に登り口の一つがある。写真の右上付近が主郭(本丸)があったとされる箇所。
【写真左】天守台
 長径(東西)30m×短径(南北)15mほどの規模で、この箇所は整備されている。
【写真左】畑地
 現在主郭付近にはご覧の様な畑地が広がる。
【写真左】石垣
 天守台(主郭)付近から北に向けて2,3段の高低差があり、段の境目にはこうした石垣が残っている。

 当時のものか断定はできないが、野面積みで、中には大きな石も使用されている。
【写真左】北側から見る。
 奥に見えるのが天守台の高台で、手前に畑が伸びているが、この辺りにも屋敷などがあったのかもしれない。
【写真左】空堀・その1
 天守台の西側には南北に伸びる空堀跡と思われる箇所が確認できる。
 現在底部は畑となっており、その右(西)に大きな土塁が残り、その西をJR北陸本線が走っている。
【写真左】空堀・その2
 上の箇所からさらに南に向かった位置
【写真左】西端部
 左側にJR北陸本線が走り、田圃を介して右に疋壇城(空堀)が控える。

 写真奥に向かうと敦賀市街に繋がる。
【写真左】西側から見る。
 鉄道側から見たもので、手前の田圃の先には空堀があり、その奥に天守台が配置されている。
【写真左】「南城 踏切 1」の標識
 鉄道の南側にはご覧の様な標識が掛けられている。

 おそらくこの辺りに出城の一つ「南城」があったものと思われる。
【写真左】広場から天守台を見る。
 旧西愛発小学校グランドから北に天守台を見たもので、現在は削平されているが、天守台(主郭)を防御する郭段などの遺構があったものと思われる。




その他の史跡

 冒頭の配置図にも書かれているが、この付近には、疋壇城に関係したといわれる史跡が点在している。
 一つは、「戦国時代武将の墓」といわれているもので、国道8号線と161号線が交差する手前の、8号線の北側斜面に五輪塔が数点残る。
 もう一つは、そこから北に向かった谷の奥野という地区にある宗昌寺にも宝篋印塔形式のものが祀られている。残念ながら、疋壇城を登城したこの日は、件の箇所を訪れていないが、他のサイトで紹介されているので、ご覧いただきたい。

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