2017年10月5日木曜日

播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷)

播磨・河内城(はりま・こうちじょう)

●所在地 兵庫県加西市河内町西谷
●別名 別所城・佐谷城
●高さ 280m(比高150m)
●築城期 永暦元年(1160)か
●築城者 別所刑部六輔頼清又は在田則盛
●城主 別所氏
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2015年9月23日

◆解説
 播磨・河内城(以下「河内城」とする)は、前稿の播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)から北東方向へ凡そ4キロ余り向かった河内町西谷に築かれた山城である。
【写真左】播磨・河内城遠望
 南東麓から遠望したもので、右側の峰は後段で紹介する展望台が設置された箇所。






現地説明板より

“河内城跡

 河内城は室町時代(1400年代)に赤松氏の一族別所頼清によって築城されました。
 敷地面積は約300坪。
 ここより南方に高い山はなく、晴れた日には遠く淡路島を望むことができます。”


※下線、管理人による。
【写真左】概要図
 現地に設置されたもので、中央部の郭を挟んで、東西に堀切を介して、中規模の郭を配置し、これらを帯郭が囲繞した形態となっている。





別所氏(赤松氏)在田氏

 築城期及び築城者については諸説あり、確定していないようだ。築城期については、冒頭でも記しているように、永暦元年(1160)としている。因みに、この前年(平治元年)源義朝及び、藤原信頼らが院の御所を襲い、上皇を内裏に移して天皇とともに幽閉した「平治の乱」が起こり、これを鎮圧した平清盛は、翌永暦元年義朝の嫡男頼朝を伊豆に、実弟希義を土佐にそれぞれ配流している。
【写真左】六処神社
 南麓に鎮座する社で、創建期等不明であるが、『播磨國大小明神記』に「鎌倉明神」と記されているのが当社といわれ、元々河内城の峰から北へ2キロほど上った鎌倉山に鎮座していた鎌倉明神を基としている。天正年間に兵火に罹り、後に池田輝政が再建したとされる。


 上掲した現地の説明板に、「河内城は室町時代(1400年代)に赤松氏の一族別所頼清によって築城された」とある。しかし、この別所頼清は室町時代の武将ではなく、この平治の乱時代、即ち平安末期の人物で、村上源氏赤松季則次男といわれ、この年(永暦元年)、当地加西郡在田荘別所村に下向し、当地名から別所氏を名乗り、河内城(別名:別所城)を築いたとされる。

 ところで、河内城の所在する地は河内町だが、その南隣には別所町があり、その西には現在上野町と呼ばれる地区が接している。この町の東端部には養老元年(717)に建立されたといわれる石部(いそべ)神社があり、この辺りは当時『播磨国風土記』に記された賀茂郡(加茂郡)の鴨里という地区(里)でもあった。
【写真左】石部神社
所在地 加西市上野町
 当社裏山には6世紀前半に築造された皇塚古墳があるが、伝承ではこの社(石部神社)創建と同じ養老元年ごろに、元正天皇皇女の墓として語り継がれている。


 そして、この中心部を流れるのが加古川の支流万願寺川である。北から南下するこの川を現在中国自動車道が横断しているが、この道路を境とする北のエリアには、殿原町・上野町などといった町名が見える。詳細な年代は不明だが、中世にはこの付近は「在田(ありた)」と呼んでいた。

 在田氏は、赤松円心の長男で、同氏5代・美作守範資(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)の次男朝範(朝則)がこの地に下向し、在田氏の祖といわれている。このことから、在田氏(朝則)が別所頼清の時代から凡そ100年後の南北朝期、当城の城主となったと考えられる。

 在田氏は嘉吉の乱(鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)参照)後、赤松政則を支援し、赤松氏再興の立役者の一人となったが、その後政則と確執を生じ、文明12年両者は激突し、同氏は敗れたという。
【写真左】河内ふれあいの森 散策マップ
 六処神社の奥に向かうと、ご覧の看板が設置してある。ハイキングコースとして整備されたもので、左図の左上に「城跡展望広場」と図示された箇所が河内城跡である。
 なお、「一日コース」を選択すれば、前述した鎌倉山へも向かうことができる。

 先ずあずまや展望広場をめざし進む。
【写真左】満久城遠望
 獣除けゲートから登城道を登っていき、しばらくすると視界が開け、南側にはタカガワオーセントゴルフ場が見えてくる。このゴルフ場内には満久城(まくじょう)が見える。
 文明4年(1472)内藤左京進盛次築城といわれ、のちに在田氏に従軍したとされる。
【写真左】あずまや展望広場
 満久城を展望できる位置に設けられた展望台で、登城コースの最初のピークに当たる。
 目立った遺構はないものの、当時この場所は物見櫓として利用された可能性もある。
【写真左】河内城を遠望する。
 上記展望広場からみたもので、ここから河内城までは凡そ490m。
【写真左】削平地
 展望広場を抜けると、一旦鞍部となった箇所が出てくる。かなり広い削平地があり、この場所に屋敷跡があったとしても不思議でない。なお、この箇所には分岐点があり、もう一つの谷に向かう道もある。
 ここを過ぎて再び登り勾配の道となり、本丸までは凡そ340m。
【写真左】あずまや展望広場遠望
 登っていき、途中で振り返ると先ほど立寄った展望広場の東屋が中央に見える。
【写真左】分岐点
 尾根にたどり着くと、分岐点の標識がある。
 右に行くと、鎌倉山。既に河内城の城域に入っていると思われるが、左方向へ50mで本丸に辿りつく。
【写真左】本丸へ向かう急な階段
 距離は短いものの、結構きつい。
【写真左】腰郭と上段の郭
 この日の登城コースは、北側の東郭側から向かっているので、最初に見えてくるのは、「東1.2,3,4,5」の各郭となる。
【写真左】奥に向かう。
 東郭群から中央部に向かうが、現地は冒頭で紹介した概要図のような整然とした状況ではなく、大分劣化した遺構が多いようだ。
【写真左】堀切
 中央部の郭を挟んで東西にそれぞれ堀切が配列されているが、この堀切はそのうち西側のもの。
【写真左】西郭から中央郭を見る。
 堀切底部から見上げたもので、この箇所の堀切深さは大分ある。
【写真左】再び堀切
 西郭群側のもの。
【写真左】さらに西の尾根に向かう。
 この付近も数段の郭があるが、進むにつれて明瞭でなくなる。
【写真左】奥に竪堀
 西郭群の西方に向かう尾根の北斜面に見えたもので、当時はもう少し深く、また長かったものと思われる。
【写真左】中道子山城を遠望する。
 河内城は前稿の小谷城とさほど離れていないこともあり、ここからも中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)が見える。

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