2017年6月7日水曜日

美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)・その2

美作・矢筈城(みまさか・やはずじょう)・その2


●所在地 岡山県津山市加茂町山下矢筈山
●別名 高山城、高山南城、草刈城
●高さ 756m
●築城期 天文元年(1532)~2年(1533)
●築城者 草刈衡継
●城主 草刈衡継、景継
●指定 岡山県指定史跡
●遺構 郭・土塁・堀切・石垣等
●登城日 2014年9月20日、2016年3月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)

東郭群(古城)

 前稿に続いて、矢筈城を取り上げるが、今稿では古城といわれる東郭群を中心に紹介したい。東郭群の特徴として最初に挙げられるものは、本丸の東に大きな切込みを介し、小筈といわれる峰で形を成す矢筈の姿だが、遺構の面から言えば、巨大な竪堀と北の尾根に配置された長大な馬場跡なども特筆される。
【写真左】矢筈城遠望
 北側からみたもので、この方向からは主として東郭群が見える。

【写真左】東郭群(古城)縄張図
 矢筈城の全体図のうち、東郭群のみ抜粋したもので、前稿の西郭群から東に向かって行くと、この東郭群がある。

 主だったものとしては、東端部の本丸をはじめとして、二の丸、三の丸があり、北に伸びる尾根筋には長大な馬場がある。

 そして、二の丸の東側には170m前後に伸びる巨大な竪堀がある。
【写真左】4,5回の尾根のアップダウンが続く。
 西郭群の堀切を抜けると、暫く尾根伝いに進むが、全体に尾根の標高は両城(新城・古城)に比べ30m前後低い位置となる。
【写真左】細尾根
 途中でかなり狭まった尾根がある。見方によっては中規模な「土橋」にも見える。
 前方右後方に古城(東郭群)の姿が見える。
【写真左】三の丸手前の郭
 東郭群の城域に入った。この郭には特記されたものはないが、幅は狭いものの、長径は三の丸と同規模のもの。
【写真左】土塁
 上掲した郭の西南側には小規模な土塁が残る。
【写真左】いよいよ三の丸に向かって登る。
 三の丸へ向かうこの始点から再び傾斜のついた登り坂となる。
【写真左】三の丸・その1
 長径20~30mほどのもので、幅は最大で10m弱の規模。
【写真左】三の丸・その2 L字型石塁
 三の丸の南側に構築されたもの。
 おそらくこの位置に大きな岩塊があり、それを加工したものと思われる。
 このあと、さらに上にある二の丸を目指す。
【写真左】二ノ丸
 三の丸から二ノ丸までの距離は、少し長く、長い登り勾配の尾根を進む。
 奥行50m×幅20m前後の規模を持つもので、三の丸や後段の本丸よりも規模が大きい。
【写真左】巨大な竪堀
 二ノ丸の北端部に切り込まれているもので、わずか1本だが、管理人がこれまで登城した800か所余の山城の中でも最大・最長の竪堀といえる。長さは170m前後はあるだろう。

 しかもこの竪堀側斜面は急峻であり、幅、深さとも大きく、上から見ると、ほぼ垂直に見える。
 なお、この竪堀の左(西側)には、少し降りた位置に土蔵郭など小規模な郭を介して、さらに北に伸びる尾根に、長大な馬場が控えている。残念ながら、こちらの方に下りると、再び元に戻る体力に自信がなかったため、探訪していない。

【写真左】南側の腰郭
 二ノ丸の南側には幅4m前後で二の丸と並行して伸びる腰郭がある。

 なお、この位置に岡山県自然保護条例に基づき指定された「矢筈山郷土自然保護地域」の看板が設置されている。
 広葉樹や針葉樹など天然林が良好に保存され、特に小筈側にはゲンカイツツジが自生しており、日本では生息の東限であるといわれ、植物学的にも貴重なものとされている。
【写真左】本丸へ向かう。
 二の丸を一通り見たあと、いよいよ最後の直登で本丸に向かう。

 冒頭の北側から遠望した写真でもわかるように、距離は短いものの、厳しい傾斜角である。
【写真左】本丸・その1
 休憩もとらず一気に登ると、ご覧の展望。
【写真左】本丸・その2
 本丸の一画には「高山(矢筈)城跡 昭和44年3月31日指定」と筆耕された石碑が建っている。





 また、現地には以下の内容の説明板が設置してある。

“岡山県指定記念物(史跡)

 矢筈城跡(高山城跡)

 ここは、標高756mの矢筈山の山頂にある矢筈城(高山城)の本丸跡です。
 津山藩士の正木輝雄は、その著書『東作誌』の中で、本丸について「東西15間、南北6間、矢筈山の嶺に在り、古(いにしえ)は四方へ掛作り有りと云う」と記しています。

【上図】矢筈城想像図
 現地に設置されているもので、遺構部分のみ残し、他はカットして転載している。


 ここに建っていた建造物は、山頂の部分から周囲がはみ出して、四方へ掛作りをしなければならないような大規模なものであったと伝えられています。
 本丸のあった場所は「大筈」、そのすぐ東側にある谷をはさんで向いあう一段低い場所が「小筈」と呼ばれています。
 山麓から眺めると、頂上がV字型に窪み、矢の末端の弓の弦(つる)にかける部分の形に似ているところから「矢筈城」と呼ばれています。
   平成20年3月
     津山市教育委員会”
【写真左】本丸から北東方面を眺望する。
 中央の谷を流れるのが加茂川で、この川に沿って登っていくと因幡国(鳥取県)に繋がる。
【写真左】JR美作河井駅付近
 冒頭の案内図でも紹介したように、本丸の北側直下には因美線が走り、美作河井駅がある。また、この写真の中央右には後段で紹介する草刈景継墓所がある。
【写真左】西方を見る。
 ほぼ中央に平らな山が見えるが、おそらく鏡野町の奥津ゴルフ倶楽部だろう。
【写真左】西麓側を見る。
 矢筈城の北麓から西麓にかけては、JR因美線や県道6号線などが走っている。
【写真左】南麓側を見る。
 本丸の南側は雑木などに覆われ視界は良くないが、谷側に林道が見えた。

 なお、小筈の方へ向かう道もあるようだが、殆ど垂直に近い崖のようなので断念した。もっとも、本丸に辿りついてから左足のふくらはぎに違和感を覚えていたのもその理由で、案の定下山途中の新城(西郭群)附近で、こむら返りを起こしてまい、登城口に戻るまで随分と難儀した。



草刈景継墓所

前記したように矢筈城の北麓には城主草刈景継の墓所がある。

 現地説明板より
“岡山県指定史跡 矢筈城跡(高山城跡)

附伝 草刈景継墓所

 矢筈城(高山城)の本丸を真正面にのぞむ、津山市加茂町山下の葵谷にある矢筈城第2代城主の草刈景継の墓所です。
 現在の墓碑は、江戸時代の寛政年間(1789~1801)に山下の小原氏一族によって建立されたもので、それまでは現在の墓碑の背後にある自然石が墓碑として用いられていました。
 寛政年間に建てられた現在の墓碑には、理相院殿前矢筈城主天心智觀大居士という景継の法名と、天正3年4月27日の日付、そして草刈三郎左衛門尉藤原景継の俗名が刻まれています。
【写真左】矢筈城案内図
 この案内図は矢筈城のもう一つの登城口である北麓側に設置されているもので、同図下方が北を示す。

 因みに、こちらの登城口はちょうどJR因美線の美作河合駅南にあり、川の北岸には後段で紹介する草刈景継墓所や、少し下ると草刈氏居館跡といわれる「内構え」などがある。


 この墓碑銘は、河井の福善寺の住職であった紋龍上人の筆に成り、これを和泉国(現在の大阪府南部)の住人であった長久という者が刻んだと伝えられています。
 天正12年(1584)に、第3代城主の草刈重継が矢筈城を退城した後も、この草刈景継墓所は、小原氏をはじめとする地元の人々によって、現在に至るまで大切に守り伝えられています。
     津山市教育委員会”
【写真左】草刈景継の墓碑
 参拝日 2014年9月20日
【写真左】小原九郎兵衛の墓
 景継の墓碑隣には小原氏の墓も建立されている。

 小原氏の出自は不明だが、おそらく元は草刈氏の家臣だったのかもしれない。




内構(うちがまえ)

 草刈氏が麓で居館としていた場所で、上掲した案内図にもあるように、矢筈城の西郭群の中にある成興寺丸側郭段を下りた位置にある。
【写真左】内構と奥に矢筈城を遠望する。
 内構跡の右側(西側)は砕砂置き場になっている。
【写真左】内構の看板
 当時この居館から成興寺丸の方に向かう登城道が整備され、城主をはじめ家臣達が往来していたものと思われる。
【写真左】石垣の段
 麓側から加茂川方面を見たもので、右側に石垣の段が残る。その奥は竹林に覆われているが、区画された中小の段が残るので、それぞれ建物が建っていたものと思われる。