2017年5月31日水曜日

美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)・その1

美作・矢筈城(みまさか・やはずじょう)・その1

●所在地 岡山県津山市加茂町山下矢筈山
●別名 高山城、高山南城、草刈城
●高さ 756m
●築城期 天文元年(1532)~2年(1533)
●築城者 草刈衡継
●城主 草刈衡継、景継
●指定 岡山県指定史跡
●遺構 郭・土塁・堀切・石垣等
●登城日 2014年9月20日、2016年3月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 美作・矢筈城の存在を知ったのは10数年前で、紹介された資料やHPなどを見て、いずれは登城したいと思っていた。ただ標高750m余りで、比高も400mを超え、城域が東西1.5キロ、南北500mという桁違いの規模に圧倒され、二の足を踏んでいた。このため、先ず2014年9月に、登城せずに下見のみということで麓を散策、その折城主草刈景継墓所を訪れた。このとき、麓から見上げた矢筈城の独特な山容と壮大さに感動を覚えた。
【写真左】矢筈城遠望・その1
 北麓の河井西付近から見たもので、この位置からは古城といわれている東郭群がよく見える。

 最高所の左側には、右の本丸(大筈)と左の小筈の間に険しい切込みが見え、文字通り「矢筈」の景観を成す。


 出雲に在住する管理人にとって、中国5県内の主だった山城は、道路事情もよくなって、ほとんど日帰りで可能となったが、矢筈城の場合は麓から頂上まで相当時間がかかることを覚悟し、結局2年近くも過ぎたこの日(2016年3月21日)いつもより早めに家を出た。
【写真左】矢筈城縄張図
 登城口付近に置かれていたパンフレットに載っていたもの。

 矢筈城はご覧の通り、二つの区域に分けられ、左側(西)が西郭群(新城)、右側が東郭群(古城)とされている。



現地説明板

“矢筈城跡(高山城跡)
     岡山県指定史跡
     平成18年3月17日指定

 矢筈城跡は、標高756mの矢筈山に、天文元年(1532)から翌2年にかけて当時、美作国と因幡国に勢力を有した国人領主の草刈衡継(ひらつぐ)によって築かれた東西1600m、南北500mの壮大な規模を誇る県下最大の中世の山城跡です。
 また、全国でも屈指の高地にある山城で、山頂に「本丸」を置き、その北方に続く尾根上に「土蔵郭」「馬場」を、西方に続く尾根上には「二の丸」「三の丸」「石垣段」「腰郭」「成興寺丸(じょうこうじまる)」等、数多くの曲輪を配した典型的な連郭式山城で、石垣や礎石をはじめ、土塁、石塁、堀切、狼煙場等の遺構がよく残っています。
【写真左】矢筈神社と千磐神社
 登城口の一つで、西麓に祀られているもの。矢筈神社は草刈氏の守護神として城内に奉祀されていたもので、その後現在地に移転された。
 千磐神社は王時権現と称し矢筈城主の信仰が厚かった神社である。



 矢筈山の北西山麓に位置する大ヶ原(だいがはら)には「内構(うちがまえ)」と呼ばれる、城主草刈氏の大規模な居館跡が、また城跡の北東にあたる山下(さんげ)には、第2代城主景継の墓所があり、北から西に流れる加茂川は、矢筈城の堀の役目を果たしていました。

 第3代城主重継は、毛利氏に属したため、矢筈城は宇喜多氏や織田方の羽柴秀吉等の軍勢からたびたび攻撃を受けましたが、その都度撃退し、「本能寺の変」の後、毛利輝元らの要請によって天正12年(1584)に重継が退城するまで、矢筈城は築城以来、一度も落城することのなかった難攻不落の堅城として知られています。
     矢筈城跡保存会”
【写真左】「本丸まで2,300m」の看板
千磐神社側から登城し、少し行くと「本丸まで2,300m」の看板が設置してある。
 これまで登城した中で本丸までが2キロを超える城郭は殆どなく、しかも急勾配の多い山城である、いつも以上に気を引き締めた。


草刈氏

 城主とされる草刈氏についは、以前岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1で紹介しているが、『萩藩閥閲録』等によれば、その出自は本姓は藤原氏から発して藤原秀郷の後、9代を経て氏家基近に至り、寛元年間(1243~47)に陸奥国斯波郡草刈郷(現在の岩手県紫波郡紫波町草刈付近)の地頭職となって、はじめて草刈氏と称したとされる。そして、南北朝期の暦応年間(1338~42)、足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられて移り住んだといわれるから、北軍として活躍したことになる。
【写真左】堀切
 尾根筋にたどり着くと、さっそく堀切が現れた。ここからしばらく尾根筋を辿るコースとなる。






 戦国期、同氏11代衡継に至って、天文元年(1532)から翌2年にかけて美作に矢筈城を築城、それまでの居城であった因幡淀山城(鳥取県智頭町)から移ったという。
 ただ、鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)の稿で紹介したように、『因幡民談記』によれば、天正6年8月の山名豊国による武田高信謀殺の際、智頭の草刈伊豆守追い打ちを理由に、河原町の大義寺に本陣を置いていることから、天文元年前後の草刈氏移住は、一部は因幡(淀山城)に残り、主だったものが美作(矢筈城)に移ったのではないかと推察できる。
【写真左】「大岩まで450m、本丸まで1,900m」の地点
 尾根筋を伝って直登するコースで、予想通り次第に傾斜がきつくなっていく。





尼子氏の部将

 ところで、『日本城郭体系第13巻』(以下『城郭体系』とする)によれば、尼子氏の部将草刈衡継が天文元年に築城した、と記されている。因みに、現地の説明板では衡継を「ひらつぐ」と呼称しているが、『城郭体系』では、「もとつぐ」とルビしている。

 以前にも述べたが、『江北記』によれば、天文5年(1536)暮、尼子経久は近江の浅井亮政(近江・小谷城・その3参照)に対し、備中・美作の戦況を報告している。尼子氏が最初に侵入したのは永正17年(1520)ごろといわれている。

 これは当時美作国に強力な支配者がいなかったこともあり、尼子氏の他、赤松氏(置塩城参照)や浦上氏(三石城参照)なども先を争うように同国に触手を伸ばした。そのなかでも最も有名なのが、三浦氏の居城であった美作・高田城(岡山県真庭市勝山)であるが、ここを基点に尼子氏は東方へも進出、天文元年(1532)ごろには美作の中央部から東部をほぼ制圧したとされる。草刈衡継はこのとき尼子氏に帰順したものと思われる。
【写真左】急登
 九十九折れでないコースのため、適当な休憩場がない。このため、腰を下ろすようなところがなく、立ったままで呼吸を整える。




毛利氏に忠節

 永禄2年(1559)衡継は草刈城を嫡男景継に譲った。景継はそれまでの主君であった尼子氏を離れ、毛利氏についた。このころ尼子氏は晴久の代であったが、毛利元就の台頭には著しいものがあった。

 しかし、天正2年(1574)播磨・但馬に進出をし始めた織田信長の勢力を怖れた景継は、秀吉の誘いもあって密かに織田方についた。これを小早川隆景に知られることになり、追い詰められた景継は責めを負い矢筈城内で自刃した。景継亡き後、矢筈城の主は弟の重継が継ぎ、改めて毛利氏への忠節を誓った。
【写真左】武者隠し
 大岩を過ぎて、しばらく行くと中規模な腰郭がある。そのあと、やや傾斜は緩やかになり、「武者隠し」と呼ばれる郭が出てくる。
 「隠れる」ような死角があると思ったが、特に際立つものは見えない。




 もちろん、これによって織田方が諦めたわけではなく、その後の天正6年(1578)から翌年にかけてしばしば重継に織田方に帰順するよう勧誘されたが、重継はその都度断った。
 織田方による直接の交渉が不首尾になった途端、備前で急激に力をつけてきた宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)が毛利氏を離れ、織田方につくと、直家は天正7年4月、新免宗貞(竹山城(岡山県美作市下町)参照)に矢筈城の攻略を命じた。この戦いでは、黒岩吉弘、山口太郎右衛門など草刈氏の豪勇たちの働きで新免氏(宇喜多氏)らを退けた。
【写真左】成興寺丸
 「武者隠し」を過ぎると、再び急坂となるが、次第に眼下に麓の景色が見えてくる。

 登ってきた尾根ともう一つ北西側からの尾根が合流する箇所に開けた段が出てくる。先端部が「成興寺丸」といわれる郭段で、この郭から北西側の尾根に数段中小の郭が連続し、そのまま下がっていくと、草刈氏が居館としていた「内構え」に繋がっていた。


草刈氏一族の退城

 その後、備中・高松城攻め(備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)参照)のあと、毛利氏と秀吉による和議によって、矢筈城は秀吉側に明渡すことが決まったが、美作国にあって毛利氏側に属していた草刈氏をはじめとする国人衆らはこれを不服として反発、それぞれの領主たちは猶も抵抗を続けていった。このときの備中国も含めた主だった面々は以下の通りである。
  1. 矢筈城(高山城):草刈重継
  2. 竹山城(岡山県美作市下町:新免弥太郎
  3. 岩屋城(岡山県津山市中北上):中村則宗
  4. 備中・丸山城(岡山県高梁市宇治町穴田):赤木忠房
  5. その他
 彼らの抵抗によって毛利氏と秀吉側の和議が終結しないまま、しばらく矢筈城においては宇喜多氏と戦いが続いたが、説明板にもあるように天正12年(1584)、秀吉(宇喜多氏)側の説得により、重継ら草刈氏一族は退城し、矢筈城はここに52年の幕を閉じた。
【写真左】長い郭
 冒頭の図でいえば、西尾根曲輪(西郭群)の西方に位置する箇所で、『東作誌』では「腰郭」と命名されている。
 幅は10m余りだが、東西100mの長さを持ち、中間部で少し東側が高くなっている。
 登城口から1,200mの位置に当たり、ここから本丸(古城)までは、さらに1,200mあるので、丁度中間地点となる。
【写真左】虎口
 上掲の腰郭の東側部分に設置されているもので、北側にあるため、おそらく成興寺丸側からの出入口として使われたものだろう。
【写真左】狼煙場に向かう
  腰郭を過ぎると再び急坂となり、しかも尾根幅は狭まる。
【写真左】狼煙場跡
 少し窪みが残っている。
【写真左】櫓台
 この箇所は少し高くなっており、天端から振り返って見たもの。
【写真左】次の郭
 櫓台を過ぎてさらに東に向かうと、再び長大な郭が続く。このあたりから予想を越えた桁外れの規模に、もはや感動を通り越し、言葉を失った。まさに驚愕とはこの事をいうのだろう。

 連合いも同じテンションで、いつしか驚きと嬉しさが混ざったような、笑いがこみ上げてきた。
【写真左】西郭群中心部が見えてきた。
 さきほどの郭を進み、一旦アップした後、見えてきたのは西郭群(新城)の中心部である。

 先ず、北側(左)の医王寺跡に向かう。
【写真左】医王寺跡・その1
 東西に伸びる尾根軸に対し、北側に設けられたもので、全長約80m×奥行30mの規模。
 このうち、東側には「城主居館」といわれる御殿が建ち、その南側には「磐座(いわくら)」や、祭壇などが設置されていた。

 おそらく定期的に居館周辺で祭事がおこなわれていたのだろう。
 なお、医王寺そのものに「客殿」があったとされるので、医王寺跡全体が麓の内構えとは別に平時の生活の場としても使われたと考えられる。
 写真は西側から見たもので、奥には少し高くなった城主居館の段が見える。
【写真左】医王寺跡・その2
 北側から見たもので、苔むした中小の石が散在しているが、おそらくこれらは奥の郭段を構成していた石垣の一部や、医王寺の建物につかわれた礎石なども含まれていたと考えられる。
【写真左】御殿(城主居館)
 医王寺跡のエリアにあって、東側に配置されている。写真は上(南側)から見たもので、御殿の郭は少し高くなっている。
【写真左】御殿の土塁
 北側に設置されたもので、東西に長く配置されている。
【写真左】磐座・その1
 東側から見たもので、右側が居館跡で、左側の切崖状の側面には大きな磐が正対している。おそらくこの磐や、後段で紹介する祭壇において、当時の矢筈神社の神石(千磐神社か)として祀り、祭事が行われていたものだろう。
【写真左】磐座・その2
 正面から見たもので、左側に大きな石があり、右側など周囲は石垣が積まれている。
【写真左】祭壇
 西側の郭(尾根筋)から見たもの。
 磐座の上が祭壇となる。かなりの石が周辺部に散乱しているので、当時は殆ど石積によって構築されていたものと思われる。
 この祭壇を後にさらに東に進む。
【写真左】再び郭段
 祭壇から更に東に向かうと、長さ50m程度の郭があり、その先に一段高くなった郭がある。
【写真左】石垣段
 上記の一段高くなった郭で、現地には「石垣段」という標柱が置いてある。

 この郭が西郭群(新城)の東端部に当たる。
【写真左】東方に古城(東郭群)の姿が見えてきた。
 長大かつ濃密な遺構を誇る西郭群(新城)で充分堪能したのだが、この先にさらに東郭群が待っている。
 ただ、この位置(石垣段)から古城の本丸まで水平直線距離では600mほどだが、高低差の激しい尾根伝いなので、歩行距離は1キロを超えるだろう。
 ここで体力の回復を図るべく20分程休憩をとる。
【写真左】急直下の堀切へ降りる。
 急傾斜の尾根を下りていく。階段があるからなんとか降りられるが、無かったら滑り落ちてしまうだろう。
 ここから、三重堀切となっている。
【写真左】堀切
 写真は一条目の堀切だが、他の2本も見ごたえのある堀切である。










※次稿に続く
 今稿はここまでとし、次稿で「東郭群」(古城)、及び「内構え」など残りの史跡を紹介したいと思う。

2017年5月15日月曜日

長見山城(広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見)

長見山城(ながみやまじょう)

●所在地 広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見
●築城期 南北朝
●築城者 渡辺氏
●城主 渡辺次郎左衛門等
●指定 安芸高田市指定史跡
●高さ H:241m(比高46m)
●規模 500m×100m
●形態 山城
●遺構 郭・空堀等
●登城日 2014年11月14日

◆解説(参考文献『安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド編者安芸高田市歴史民俗博物館、『日本城郭体系 第13巻』、『知将 毛利元就』池亨著等)
 中国地方最大の河川江の川は、別名中国太郎とも呼ばれ、多くの支流を持つが、そのうち広島県内に流れる主流を別名可愛川(えのかわ)とも呼んでいる。

 毛利氏居城の吉田郡山城の東麓を国道54号線と並行して流れている水系がそれに当たるが、この川はそこから少し下った位置となる甲田町下小原付近で、南側から流れてきた戸島川と合流する。この戸島川を2キロほど遡ると西岸に長い小丘陵の小山が見える。これが長見山城である。
【写真左】長見山城遠望
 長見山城の北東部内長見という地区から見たもの。
 北側から緩やかな棚田となって下がるが、この長見山城の小丘陵のみが独立して東西に伸びている。


現地碑文より

“長見山城址由緒
 延文2年中村澄晴築城、康暦元年孫元定高原庄に移る 後毛利家臣渡辺氏入城 大永四年城主次郎左衛門元就の意に逆い 郡山に於いて殺されその家族七人亦内長見山土居に於いて殺され 男太郎左衛門遁れて比婆山内氏に走り 後許されて飯城大いに軍功あり 其子飛騨守慶長五年毛利氏防長移封の際従い 之に移り余後廃墟と化す

昭和四十六年四月吉日
渡辺媛夫氏夫妻の特志により建立”

【写真左】北側の段
 正式な登城口が南側にあることを知らず、たまたま北側をウロウロしていたら登城できそうなコースが見つかったので、ここから向かった。

 少し広くなった段には墓地があった。近世のものだろう。
 小郭段のようだ。


渡辺氏

 吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)でも述べたように、毛利氏が当地安芸高田に根を下ろしたのは建武3年(1336)、時親のときで、このとき随従してきたのが渡辺氏をはじめとする諸氏である(『高田郡史』)。
  1. 渡辺太郎左衛門勝
  2. 赤川美作守忠政
  3. 同筑前守義重
  4. 粟屋掃部親義
  5. 粟屋某
  6. 飯田左衛門佐師貞
  7. 市川源太兵衛武延
  8. 三戸孫三郎頼顕
  9. 三代久弥
  10. 児玉某
  11. 佐藤某
  12. 山縣某
  13. 多田中務大夫義政
  14. 高 右衛門尉師次
  15. 横見太郎右衛門某
 なお、これら随従者の家筋については諸説があり、市川系譜、反古袋巻末付紙には渡辺氏の名が見えるが、反古袋並びに江家秘録集には渡辺氏の名が見えない。
【写真左】郭段
 北側の斜面を歩きやすいコースをみつけながら登っていくと、ご覧の段差のついた郭群がでてきた。

 長見山城は尾根幅がせまいこともあって、郭の幅も殆ど尾根幅いっぱいに使われている箇所が多い。



 さて、戦国期に至り元就が毛利氏の家督を相続したのは、大永3年(1523)の8月である。幸松丸の死去に伴い、郡山城内において急きょ宿老間で次の後継者を決める合議が行われ、その間元就は多治比猿掛城で結果を待っていた。
【写真左】南側から回り込む。
 右上が本丸天端にあたり、南側の帯郭付近から上を目指しながら回り込む。






 ところで、この合議の前、元就を推薦し本人の同意を促す役目をしていたのが、長見山城を本拠としていた渡辺勝などである。

 最終的に元就が毛利氏の家督を相続し、吉田郡山城の城主となるが、元就は、これら宿老たちに対し、連署による要請状を書かせている。元就らしい慎重さである。この要請状に名を連ねた宿老の面々は次の15人である。

(1)一族
  1. 志道広良
  2. 福原広俊
  3. 桂 元澄
  4. 坂 広秀 ⇒ のちに殺害される
(2)譜代家臣
  1. 渡辺 勝  ⇒ のちに郡山城にて殺害される
  2. 粟屋元秀
  3. 赤川元助
  4. 赤川就秀
  5. 飯田元親
(3)国人領主
  1. 中村元明
  2. 井上就在
  3. 井上元盛 元就の多治比・猿掛城時代、領地を奪い取っている。
  4. 井上元貞
  5. 井上元吉
  6. 井上元兼
※ 井上一族は後の天文19年(1550)元就によって誅滅される(阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)参照)。
【写真左】本丸・その1
 この箇所のみ綺麗に維持されている。中央部には観音堂が祀られている。
 なお本丸は東西へ凡そ30m程伸びた部分と、西側で尾根の形状に合わせ少し南側に折れた部分とで構成されている。


渡辺・坂一派の誅滅

 元就が毛利氏の家督を相続して間もなく、連署状に名を連ねていた渡辺勝・坂広秀らが実は、元就とは別に元就の異母弟・相合元綱を擁立しようと画策していたことが判明した。その裏では尼子氏の重臣亀井秀綱と二人が気脈を通じていたといわれる。これを知った元就は二人を含む一派の誅滅を断行した。
 このことについては、現地長見山城の麓にある「渡邊(わたなべ)七人塚」にその経緯が掲示されている。
【写真左】長見山城の石碑
 観音堂の前には石碑が建立されている。

 寄付者(寄贈者)名として、5人の渡辺氏の名が筆耕されている。末孫の方々のものだろう。
 昭和43年とあるから半世紀近く前に建立されている。


“渡邊七人塚

 毛利元就の本家相続後、元就の弟の相合元綱を擁立しようとした坂・渡邊一派は、密かに尼子の老臣亀井秀綱などと通じて機をみて元就を除こうとした。元就は早くもこの陰謀を探知し、元綱を殺すとともに、その一味を自殺させ、渡邊長門守勝については、郡山城において殺害。内長見に居住していた渡邊氏一門7人を殺害させた。
 七人塚は、その一門を葬ったといい、石塔4基、桜1本、榎2本を植えて墓標とした。
【写真左】「渡邊七人塚」の標識
 この写真は、10年前の2007年7月に探訪したもので、現在もこの標識があるのか分からないが、件の塚は私有地にあるため、所有者の方に許可を得て参拝した。


 このとき、渡邊勝の長男虎市は、家臣に守られ備後山内家に保護され、成人の後許されて毛利家に帰参し、渡邊太郎左衛門通(とおる)と名乗り家名を再興した。
 現在は石塔1基が移設され、5基となっている。それぞれの墓標の詳細については不明。また、桜・榎は現在枯死している。
    甲田町教育委員会”
【写真左】「渡邊七人塚」
 説明板にもあるように、現在は2基無くなり、5基となっている。いずれも小さな五輪塔形式のもの。

 武功を挙げた武将なら立派な墓なのだろうが、元就を裏切った者たちなので、誅殺されたあと、地元内長屋の民が慮ってあえて目立たない墓石として建立したのだろう。


遺構等

 比高40m余りの丘城であることもあって、特筆されるめぼしい遺構はあまりない。長見山城は中央部に最高所の本丸(長見山観音堂を祀る)を置き、ここから少し離れた尾根伝いの西側に3,4段の郭が構成され、東側は本丸東端部に小規模な堀切を介して、細長い郭状の平坦地を構成している。

 礎石の有無は不明だが、形態を考えると尾根筋上に何棟かの建物が建つ館があったものと推察される。
【写真左】本丸・その2
 本丸部分は綺麗に保持されている。定期的に清掃作業がされているのだろう。
【写真左】帯郭
 本丸の東西には小規模な腰郭や帯郭などが付随している。

 このあと、尾根伝いに西側に向かう。
【写真左】薬研堀か
 本丸の西側へ尾根伝いに凡そ70m程向かうと、底面がフラットになった小規模な薬研堀のような堀切がある。

 この左側には切崖状の段が控えている。
【写真左】切崖
 高低差は5,6m程度のものだが、人為的に手が加えられた切崖がある。ここを先ず登ってみる。
【写真左】土塁
 登ると、東端部側には幅1m、長さ10mほどの土塁が設置されている。
【写真左】郭段
 土塁が設置されている郭(約20m四方)を頂部とし、さらに西に向かって3,4段の郭が連続する。
【写真左】石碑
 変わった書体で書かれている。読めない。
  このあと、再び本丸方向へ戻り、東側の尾根に向かう。
【写真左】竪堀か
 本丸側郭群の東端部北側斜面に見えたもので、かなり崩れているため残存度はいま一つだが、深さは十分にある。
【写真左】東郭群
 東に進むと次第に尾根は狭まり、先端部は突起形状となる。

 写真はその尾根北側を見たもので、たまたまこの面のみが伐採されていて、見晴らしはすこぶる良かった。
【写真左】長見山城登山口
 探索していたら、南側にご覧の標柱がみつかった。本来はここから登城すべきだったが、この場所が分かりにくい。
【写真左】山田川
 長見山城の南麓を流れる川で、戸島川と合流している。右側が長見山城。

 なお、北側にも小川が流れており、両川とも濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】遠望
 今度は南側から東端部方面を見たもの。南麓部には数軒の民家が建っている。

2017年5月10日水曜日

多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)

多治比・猿掛城(たじひ・さるかけじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町多治比
●指定 国指定史跡
●別名 猿掛城・多治比城
●高さ 432m(物見櫓)(186m)
●築城期 不明(明応年間か)
●築城主 毛利弘元か
●城主 毛利弘元
●遺構 郭、堀切、土塁等
●登城日 2014年11月14日

◆解説(参考資料 『知将 毛利元就』池亨著、HP『城郭放浪記』等)
 多治比・猿掛城(以下「猿掛城」とする)は、毛利元就が居城とした吉田郡山城から、多治比川沿いに西へ徒歩でおよそ5キロほど向かった多治比に所在する。
【写真左】猿掛城遠望
 西側から見たもので、出丸の左(北)麓は多治比川が流れている。
 また、本丸の西麓には現在教善寺という寺院が建っている。


 
現地説明板
“多治比 猿掛城跡

  名称 毛利氏城跡多治比猿掛城跡
  指定年月日 昭和63年2月16日

 多治比猿掛城は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4km上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。築城から廃城までの歴史的な経過は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。

 元就は4歳のとき、明応9年(1500)家督を長子興元い譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3年(1523)27歳の時に、甥の幸松丸夭折のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居た。

 遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなる。中心部曲輪群を置き、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀も見られ、谷をはさんで出丸がある。
 山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。

 城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す貴重な城跡である。

    平成元年3月
     吉田町教育委員会”
【写真左】登城口付近
 当城の西麓付近で、左側に「猿掛城」、右側には麓に創建されている「猿掛山 教善寺」の石碑が建っている。




元就の青少年期

 説明板にもあるように、多治比・猿掛城は元就が青少年期を過ごした城である。筆まめであった元就が晩年、嫡子隆元へ送った手紙の中でこの猿掛城時代のことを記している。

 この手紙を送った動機は、当時弱音を吐く、愚痴っぽい嫡男隆元へ叱咤激励の意味も込めたもので、父である元就が自らの経験を踏まえて書いたものといわれている。そういう経緯から書かれた父子間の手紙であるので、少し誇張も混じっているが、当時の元就が置かれた立場が理解できる。
【写真左】毛利弘元の墓所に向かう。
 登城口正面の奥には元就の父・弘元と母の墓が建立されている。
 なお、この周辺部は元々弘元の菩提寺であった悦叟院(えそういん)跡でもある。



 これによると、元就は5歳で母(福原広俊娘)を亡くし、10歳で父(弘元)にも死に別れ、翌年には兄興元が京都に出陣(永正4年:1507年・明応の政変)し、孤児同然になった。その姿を不憫に思った父の側室・大方(おおかた)殿が、多治比に残って自分を育ててくれた。

 その間、父から譲り受けた多治比の土地を後見人であった井上元盛が奪い取ってしまったが、幸い元盛が亡くなったあと、同族の井上俊久・俊秀らが尽力してくれたおかげで取り戻してくれた。しかし、京から帰ってきた兄・興元は、自分が19歳のとき早逝してしまった。それ以後、自分は親・兄弟・伯父・甥を一人も持たず一人で頑張ってきた。それに比べ、お前は頼りになる親・兄弟がいるではないか等と書いている。

 しかし、実際には弘元と正室(福原家)の間にできた男子は、興元と元就の二人だが、これとは別の異母弟として相合(あいおう)元綱がおり、女子では、長女・宮姫が武田某室、次女が御調郡八幡城主渋川兵部義正室、三女が井上右衛門大夫元光室、以下四女、五女等々がいた。

 ところで、愚痴っぽい性格だったとされ嫡男隆元は、ある面では父元就の性格の一面を受け継いでいたのかもしれない。元就の別の手紙の中では「当家のことをよかれと思うものは、他国はもちろん、自国にも誰もいない」と記している。猿掛城時代に培った経験、すなわち簡単に他人を信用しないこと、常に状況を冷静に見定め警戒するすることなどは、こうした被害妄想や愚痴をこぼす性癖から生じた結果かもしれない。元就が少年期に猿掛城ですごした経験は、後に戦国大名として飛躍する上で重要なものとなったといえるだろう。
【写真左】毛利弘元と夫人の墓
 弘元は応仁2年(1468)に生まれ、9歳で毛利家を相続し郡山城主となった。明応9年(1500)長男興元に家督を譲り、当時4歳だった次男元就を連れ多治比猿掛城に隠居した。その6年後の永正3年(1506)39歳で急逝する。

 夫人は鈴尾城主福原広俊の娘で、弘元が亡くなる5年前の文亀元年(1501)、福原城内で34歳の若さで亡くなった。夫人の墓がこの地に移葬されたのは近世のことで、大正10年(1921)とされている。


概要

 猿掛城は、元就の居城であった吉田郡山城に比べれば、コンパクトなものだが、山城としての要件をすべて具備したものといえるだろう。
 下図にも示すように、
  1. 出丸
  2. 寺屋敷郭群
  3. 本丸
  4. 物見丸
の4区分に分けられる。
【左図】猿掛城配置図
 現地に設置されていた図で、色が大分劣化していたため、管理人によって修正したもの。

 猿掛城の北麓から奈良谷川沿いに石見に繋がる県道6号線があり、この道を北に進むと、以前紹介した高橋氏の居城の一つ生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)に繋がる。この居城から元就の兄・興元へ正室として雪の方が嫁いでいる。

 さらに、北に進むと、同じく高橋氏の居城であった松尾城(未投稿)があり、天下墓(広島県美土里町)を超えると、石見国(島根県)に入る。
【左図】出丸跡
 上図配置図にも示されているが、北西端には出丸が設けられている。
【写真左】出丸に向かう。
 

【写真左】出丸
 猿掛城の主郭部分から完全に離れた位置に配置されているもので、2から3段の郭で構成されている。
 なお、出丸頂部は標高292m(比高40m)で、主郭に比べればかなり低いが、東・北・西方面の様子がよく分かる位置である。


【写真左】寺屋敷曲輪群
 寺屋敷曲輪群は上図で示したように、主郭に至るまでの中間地点に設けられたもので、麓側に建立されている教善寺も含めた範囲が曲輪群の区域に当初から入っていたとされる。

 上段の曲輪(寺屋敷)は860㎡を中心に北方に4段、帯曲輪が8段、上方に3段、計15段から構成されている。
【写真左】本丸を目指す。
 寺屋敷曲輪群付近の傾斜はさほどないが、途中から急坂道となる。特に本丸直下の付近ではかなり足元をすくわれる。雨天直後は先ず無理だろう。
【写真左】本丸・その1
 南北に長軸を取り、長さ40m×幅10m前後の規模を持つ削平地を中心に、東・北西・南西端にそれぞれ小規模な腰郭を備える。
【写真左】本丸・その2 土壇
 北端部には人工的に盛り上げた土壇がある。北方を中心とした物見櫓として利用されたものだろう。

 なお、本丸から更に尾根を南に上がっていくと、「物見丸」という当城の最高所(H:432m)にあたる郭群があるが、この日は連合い共々ここまでで疲れ切ってしまい、登るのを断念した。
【写真左】本丸から吉田郡山城を遠望する。
 本丸から東方に元就が後に居城する吉田郡山城が見える。
【写真左】堀切
 本丸から物見丸に向かう途中の尾根には大きな堀切が50mほどの間隔をあけて2か所設置され、その間には小規模な連続堀切・竪堀などが配置されている。
【写真左】連続堀切
【写真左】教善寺
 先ほどの寺屋敷曲輪群の最下段曲輪の位置とされる箇所に建てられている。
 出丸側から見たもので、樹齢400年の見事な銀杏が色を添える。

 本堂峰瓦に「四ツ目結」の寺紋が見えたので驚いた。尼子氏との関わりがあったのだろうか。
 天文5年(1536)天台宗より浄土真宗に改宗され、永禄7年(1564)本願寺より寺號許可されたという。

 天文5年といえば、本願寺の光教が尼子氏(経久)らと極めて強い関係を持ったころだが、これより先立つ享禄4年(1531)に、尼子詮久(のち晴久)が元就の希望を受け入れ「兄弟」の契を結んでいるので、このとき建てられたものかもしれない。