2017年3月17日金曜日

芥川山城(大阪府高槻市大字原)

芥川山城(あくたがわさんじょう)

●所在地 大阪府高槻市大字原城山(三好山) 
●高さ 180m(比高70m)
●築城期 永正12年(1515)
●築城者 能勢頼則(細川高国)
●城主 能勢氏、細川晴元、三好長慶、和田惟政、高山友照等
●廃城年 元亀4年(1573)
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●備考 三好山
●登城日 2015年6月7日

◆解説(参考文献 『日本の山城 100名城』洋泉社発行、HP『城郭放浪記』、高槻市HP等)

 芥川山城は旧摂津国にあって、淀川に注ぐ支流芥川の河口から凡そ9キロほど遡った三好山に築かれた山城である。
 三好山の西から北にかけて芥川が囲むように流れ、特に西側は摂津峡という切り立つ溪谷があり、天然の要害を持つ場所である。
【写真左】芥川山城遠望
 登城途中に東麓から見たもの。
当方から見ると、なだらかな山にみえるが、西側には摂津峡があり、急峻となっている。



当城については、地元高槻市のHPに次のように紹介されている。

“芥川山城
 夫婦岩・八丈畳などと称される奇岩や断崖が続く摂津峡は、摂津の耶馬溪ともいわれ、大阪府の名勝にも指定されている景勝地。そのすぐ東側の三好山に天然の要害をもつ芥川山城跡があります。三方を芥川に囲まれ、残る一方は断崖となっており、山そのものが難攻不落の砦となっています。

 ここは、三島平野、遠くは生駒山系を臨み、眼下には、西国街道や芥川宿を見通すことができる位置にあり、かつ、亀岡へと続く間道がありました。また、芥川を下ると水上交通の要、淀川に至る立地など、政治上・戦略上において重要な場所でもありました。
芥川山城の遺構は主郭・副郭・土塁・堀切という中世山城の要素を備えており、その様子が今も残っています。
【写真左】登城口
 この辺りは道が狭く、駐車スペースもほとんどないため苦労した。確実なのは南麓にある摂津峡公園の駐車場に停めていくのがいいだろう。
 因みにここから「三好山へ40分 (三好長慶 1553年入城) 三好芥川城の会」という看板が設置されている。



   芥川山城は、永正13年(1516)連歌師柴屋軒宗長が芥川の能勢因幡守頼則の築いた新城に祝いの気持ちを込めてつくった冒頭の句から、この時期に完成したものと考えられています。

 天文2年(1533)には、細川晴元が入城し、京に移った後、芥川氏が入り、幾度かの城主の入れ替わりののち、天文16年(1547)三好長慶(ながよし)が城を支配。家臣、芥川孫十郎が城主となります。
 天文22年(1553)長慶は入京を果たしました。しかし、孫十郎が謀反したため、三好山に隣接する帯仕山に陣を構え、開城させて、孫十郎を阿波へ追放して長慶が入りました。
【写真左】本丸まで25分の位置
 芥川山城は①東方曲輪群、②出丸曲輪群、③主郭曲輪群で構成されている。
 写真はそのうち、最初に見えてくる①東方曲輪群で、このあたりから中小の郭群が確認できる。


 以後、7年間、長慶は山城に在城し、その間、真上・郡家の水争いや、芥川流域の灌漑用水を整備するなど、領地支配にも力を注いだほか、著名な歌人らを招いて連歌の宴を催すなど、文芸を愛した様子もうかがえます。この頃がこの山城の最も華やかで生き生きとした時代であったといえるでしょう。
 永禄3年(1560)長慶は、飯盛城(四條畷市)に移り、息子義興が城主となりますが、永禄6年(1563)22歳の若さで没します。讃岐石の墓石が建つその墓は、霊松寺(天神町二丁目)にあって「三好のカンカン石」とよばれています。
【写真左】石垣・その1
 これも①の東曲輪群で、孟宗竹が繁茂しているが、石垣が残る。







 その後、永禄11年(1568)織田信長の側近、和田惟政(これまさ)が入城、翌年惟政は高槻城も与えられ、2城の主となりました。惟政自身は高槻城へ入り、家臣の高山飛騨守が城主として芥川山城に入ります。以後、政治の拠点はしだいに高槻城へと移っていきます。

 多くの武将が入城し、単に北摂の一山城であるということに留まらず、時に最高権力者の拠るところとなり、一時は近畿一円を勢力下とした芥川山城。 やがて、高槻城の発展とともに、歴史の表舞台から姿を消していきました。” 
【写真左】石垣・その2
 前記のものと同じく石積が施されている。おそらくこの郭にも建物があったのだろう。


 




 
三好長慶

 芥川山城の城主は上掲したように、目まぐるしく変わっていくが、その中でも三好長慶が深くかかわっている。彼については、これまで勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)の稿などで述べてきているが、長慶も含めた三好一族がもっとも活躍していった地域は芥川山城を含めた畿内であった。
【写真左】上ノ口と三好山方面との分岐点
 東方曲輪群の西端部だったと記憶しているが、この位置で北に向かう道(上ノ口)と分岐する。

 なお、写真の平坦部も郭と思われる。



 因みに、長慶が畿内で活躍した際、関わった城砦としては、時系列で列記すると次のようになる。
勝瑞館の稿でも少し述べているが、長慶が畿内をほぼ手中に収めていた時期は、この芥川山城時代である。彼はこの時期、本来ならば在京して、将軍を補佐するいわゆる管領職になってもおかしくないが、このころ京都は極めて不安定な政情であったため、あえて主君であった細川氏のような在京志向を持たず、なおかつ自ら管領職を望まず、むしろ京から少し距離をおいた摂津の山中に居城を営み、いわば政庁機能を当城に置き、政務を執り行ったとされている。
【写真左】土塁
 ①の東曲輪群を過ぎて少し西進すると②の出丸曲輪群に至る。

 このエリアは、①東曲輪群と③主郭曲輪群の間に介在するところで、中心部に出丸を設け、そこから南に凡そ50m程降った尾根筋に曲輪群を配置している。
 当時はこの出丸側の西方に大手道が設けられていた。


 室町幕府の体制が次第に瓦解し、代わって専制体制をとりつつあった細川氏の下にあって、幕政を支えていく立場であった長慶である。しかし、管領職の細川氏自体が将軍家と同じく一族内において対立が深まっていった。
 こうしたことから、在京することはむしろリスクが高まると予想したのだろう。芥川山城にこだわった長慶の思惑がみてとれる。
【写真左】虎口
 出丸の西隣にある土塁上に設けられているもので、ここを下りると先ほどの大手道に繋がる。




【写真左】主郭曲輪群に向かう。
 出丸曲輪群を過ぎると、5m前後の切崖を構えて低くなるが、そこから西に向かう道が付けられている。また、途中には土橋が介在している。

 この写真では左側(南)に大手道があったものと思われる。
【写真左】堀切
 しばらく歩いていくと堀切が見える。
 写真では高低差が感じられないが、出丸曲輪群と主郭曲輪群の境にあたることから設けられたものと思われる。
【写真左】石碑
 このあたりから主郭曲輪群の区域に入っているが、中小の細長い郭が繋がり、両端部の切崖も傾斜が険しくなっていく。

 写真は「史蹟 城山城跡」と筆耕された石碑。
【写真左】主郭曲輪群を見上げる。
 このあたりから中心部に当たる主郭を取り巻く郭段が西側上方に見え始める。
【写真左】主郭曲輪群
 次第に登り坂となり、左右に郭段が見え始める。右側の坂を進む。
【写真左】高槻市街地を望む。
 登城途中は殆ど孟宗竹などに覆われ、城下の町並みは見ることは出来ないが、主郭南側のこの位置に来ると、木立の間から南に高槻の市街地が視界に入る。
【写真左】主郭南直下の郭付近
 登城したこの日、この付近だけは伐採作業されていたため、明るくなっていた。

 写真中央の坂を上ると主郭に繋がる。
【写真左】主郭に向かう。
 主郭の手前には南北に長い2段の郭が控え、その入り口には虎口のような遺構が見える。
【写真左】やっと主郭が見えてきた。
 手前の郭段の右側に道があり、この道を北に向かうと主郭に繋がる。
【写真左】主郭へ向かう。
 南端部に登り口があり、そこから向かう。
【写真左】主郭南端部
 登りきると、予想以上の広さの郭となっている。
 写真は南側を見たもの。
【写真左】主郭・その1
 主郭の手前の郭から凡そ1m程度高くなった段が中央部の郭で、幅20m×奥行50m前後の規模。
【写真左】帯郭
 主郭の西側下には南側から回り込んで帯郭が付随している。現在その箇所には果樹が植えてある。
 右奥の山には摂津峡公園がある。
【写真左】祠「水の神」
 長慶は芥川山城にあったとき、地元芥川にかかわる水利権問題を適切に処理していた(「裁許状」)ことから、後に彼を「水の神」として祀ったとしている。

 戦国時代といえば、武士による戦さのみが強調されがちだが、室町期から戦国初期にかけて、地元の領主たちは食糧確保のため、積極的に水の管理をしていた。特に、新たに堰を設ける際、どの位置に設定し、どのように配水していくか、地元名主たちの意見を聞き入れながら、管理運営していた。
【写真左】本丸中央部の石碑
 現在は草木で埋もれているが、近年発掘調査が行われた際、多くの礎石建物跡が発見されている。

 往時、京都の公家や僧侶が度々当城に赴き、歓待を受け宿泊もしたというから、主だった郭には相当数の建物があったと思われる。
 特に初期の細川高国のころは、彼の趣味であった庭園なども造成されていたのかもしれない。
【写真左】主郭北東部の郭
 主郭の東面から北西に伸びる尾根筋上にもかなり大きな郭が配置されているが、これらの郭は主郭から5~10m程度の高低差を持つ。
【写真左】芥川山城から南方を俯瞰する。
 本丸跡から南を見ると、生駒山系から北東に延びる稜線が見える。

 手前の雑木などがないと、長慶が後に移ることになる河内・飯盛山城が見えると思われる。

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