2017年3月7日火曜日

手城山城(広島県福山市手城町字古城)

手城山城(てしろやまじょう)

●所在地 広島県福山市手城町字古城
●別名 天神山城、手嶋の城
●築城期 室町時代か
●築城者 不明
●城主 小早川氏一族・渡辺越中守兼・茂野左近盛久・倉田孫次郎・藤井大郎左衛門等
●形態 平城(水軍城)
●遺構 郭・土塁等
●備考 天當神社
●登城日 2015年5月25日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 手城山城は福山市の南端部にあって、福山湾湖岸に築かれた海城といわれている。かつてこの手城山があった場所は海に浮かぶ小島で、その東方は引野町と呼ばれる丘陵地があるが、その間には瀬戸があったものと思われる。
【写真左】手城山城跡に建つ天當神社
 下段に示すように、近年(平成)になって、天當神社三百年記念に併せ境内社殿などの大改修が図られ、遺構部も大分消滅しているようだが、本殿が祀られた箇所が主郭だったと思われる。
【写真左】手城山要図
 現地に設置されていた「急傾斜地崩壊危険区域」図を基に、管理人によって描写したもので、手城山城の頂部にある「荒神社」及び「天當神社」の境内区域が城域となる。

 なお、南側(下方)が急傾斜地となっていることから、当時の船溜まりは裏側(上方)付近だったと推測される。


天當神社

 現在当地には天當神社が祀られている。

現地の碑文より

“天當神社三百年祭記念碑

 福山・手城山天當大明神は、元禄7年(1694)水野藩の発起により建立され、以来、たび重なる旱魃や洪水に見舞われる田畑の守護神として尊敬され、氏子は幾世代にわたって、五穀豊穣を祈願してきた。
 一方では、景勝の瀬戸内海を一望できる地の利を生かし、福山港における要塞としても、地域の安寧と発展を見守り続けてきた由緒正しき神社として鎮座され、三百年余を経て現在に至る。

【写真左】鳥居
 西側から参道が繋がり、東に向かうようなっている。なお、これとは別に北側にも2か所階段を登って向かう道が設置されている。




 昭和から平成の時代となり、地域はかつての黄金の波打つ穀倉地帯から、近代的な工業地帯・振興住宅地と変貌を遂げ、往時の面影を残す所は、この天當神社一帯のみとなってきた。

 時代の流れは変わるとも、地域に根ざした氏子の願いは変わらず、未来繁栄に向けての心のよりどころとして、本神社に対する崇拝信仰は絶えるものではなく、その節目として、その長き歴史にわたる御加護に感謝の意を表して、盛大に三百年祭を執り行うこととなった。

 時は平成4年4月29日、総代並びに氏子一同参集の下、神官の祝詞奏上に始まり、宮司の打ち鳴らす太鼓の音が天當山にこだまする中、厳かに式は進行し、玉串奏上をもって三百年祭は無事滞りなく終了した。本祭礼の開催を長く後世に残すため、ここに三百年祭記念碑を建立する。
【写真左】岩塊
 鳥居をくぐり坂道を登っていくと、途中で岩塊が露出している箇所が見える。
 この斜面は急峻な自然地形のもので、切崖としての効果があったのかもしれない。




 附記するに、境内社殿の改築、参道の拡充及び大鳥居の建設等、神社の改修も昭和52年に完成し、海と手城の町並みを一望できる憩いの場としても市民に利用される貴重な空間が整備された。 

 一方、地域の水の要所として、周辺の水害を未然に防ぐ手城排水機場もすでに供用され、さらに手城川の全面的な改修について、東樋門の設置等をはじめとして広島県により、総額約120億円にもおよぶ事業費を投入する大工事が平成3年に着工され、同14年の完成に向けて、現在、着々と進捗しているところとなっている。 

【写真左】土塁
 『城郭体系』に「岩盤を削りだした土塁云々」という記述があるが、おそらくこのことだろう。
 城(島)全体が岩の塊であったことから、多くの石工たちが築城に従事したのだろう。




 最後に、百年の大計を立てて天當神社の安泰と、今日まで天當神社を守り続けてこられた関係各位ならびに先人・役員・氏子一同に対し、敬意を表すとともに、将来の増々の御多幸と郷土の繁栄を祈念し、あわせて平成の河川大改修を記し、ここに記念碑を建立する。

  平成8年5月吉日

    第11代福山市長  三好 章 撰書”

【写真左】岩にへばりつく古木
 草木も生えぬような岩盤なのだが、ときどきこうした景観をみることがある。
 何という樹木か分からないが、すごい生命力である。なお、この下はほぼ垂直な斜面になっている。


概要歴史

 長径(南西~北東方向)150m×短径(南東~北西方向)90mという規模を持つもので、頂部には4つの郭が配され、南北に平坦部をもっている。現在その頂部には天當神社が建ち、周辺部は公園となっている。

 当城の築城期については確定したものがないが、天文年間と天正年間に諸族が在城していたことが知られている。
 天文年間(1532~55)、大内氏が神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)攻撃をした際、小早川氏の一族が周辺部に城を築いて対応していたことが記録にあり、特に沼隈半島を本拠としていた渡辺越中守兼(一乗山城(広島県福山市熊野町上山田・黒木谷)参照)が在陣していたという。

 下って天正年間(1573~92)には、茂野左近盛久・倉田孫次郎・藤井太郎左衛門などが在城していたことが『備後古城記』に記されている。
【写真左】境内側から南を俯瞰する。
 登っていくと、直ぐに右手に福山港が見える。
手前の建物は、神戸税関福山税関支署・広島検疫所福山出張所・第六管区海上保安本部尾道海上保安部福山海上保安署などの建物。

 当時はこれらの建物や、周辺部の埋め立て地などはなく、特に西方にある芦田川河口に直接船で往来できたことから、神辺城以外の周辺部諸城なども、この海城である手城山城に度々停泊していたのではないかと考えられる。
【写真左】南斜面
 冒頭の要図で紹介した「急傾斜地崩壊危険区域」に当たる個所で、殆ど垂直である。
【写真左】海抜15mの表示
 主郭を含む境内の最高所で、海抜15m程になるが、建物などがなければかなり視界が開けるだろう。
【写真左】境内
 主郭付近で、当時4から5ヵ所の郭で構成されていたというが、現在は削平されてほぼ一画にまとめられている。
 奥に見えるのが荒神社。
【写真左】天當社社殿
 東側に建立されている。

 このあと、下に降りて周囲を散策する。
【写真左】南麓から見上げる。
 南麓部はほとんど海上保安本部関連の施設となっている。
 中央に天當社の屋根が少し見える。
【写真左】西側の斜面
 この辺りも岩肌が露出している。
【写真左】西側の樋門
 手城山を挟んで西側と東側にも樋門が設置されている。
【写真左】西方を遠望する。
 奥に見えるのは入江大橋で、左側に向かうと、福山港や瀬戸内海に繋がる。

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